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第五章

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 蓮は誰にも見つからないようにと、去の屋敷の森の中へと入って行った。
 森の中は夏の暑い日差しを避けるのにはよかったが、風が通らず空気がこもっている。すこし額に汗が浮き出てきたのだが、今はそんなことは気にならなかった。
 なぜならこれから、都から届いた手紙を読むからだ。
 蓮と去との繋がりは秘密なので、蓮が一人でいるところに去の傍に仕えている侍女が来て、昨日届いたという兄の実津瀬からの手紙を渡された。紙なんて貴重なものを好き勝手に使えないので、紙に書かれたものを部屋で読んでいたら、同部屋の者たちは訝しむから一人になれる場所として森に入った。
 春に届いた手紙には、月の宴で舞うことが書かれていた。きっと、その後の出来事を知らせてくれているはずだ。
 蓮はどのようなことが書かれているのかと逸る気持ち押さえて、手紙を開いた。
 久しぶりの実津瀬の文字だわ……。
 書き出しは、蓮の生活を気遣ってくれている。見習いの一人としての生活で辛いことは起こっていないか、といろいろ想像して書かれていた。
 同僚との共同生活、見習いとしての毎日の仕事、食事。都にいたら、何不自由ないはずだが、束蕗原の見習いはそうはいかないだろうと。
 母のお腹にいた時から一緒にいた自分達がこんなに離れて生活することは初めてだ。最初は寂しくて仕方なかった。自分の思ったことを誰かに聞いてもらいたいと思った時にすぐに浮かぶ顔は実津瀬だが、都と束蕗原ではどうしようもできなくて、悲しい涙が出た時もあった。
 そして、手紙は次に実津瀬自身のことが書かれている。
 月の宴は、雅楽寮にいる若い舞手との対決をすることになっている。各々の見せ場である一人舞うところに、どのような舞をしようかと試行錯誤した。芹と淳奈に助けられて何とか形になったので、後はそれを舞台で再現するだけだ、と書かれていた。
 実津瀬の舞……。
 梅見の宴を一族総出で観に行った時のことを思い出した。結婚したてのころで、景之亮と一緒に、榧と実由羅王子を見守って、一緒に実津瀬の舞を観た。
 実津瀬は妻の芹に自分の良いところを見せたいと力のこもった美しい舞を舞って、蓮もとても感動したことを思い出した。
 対決というのだから、きっと今回の月の宴は大掛かりなものなのだろう。四年前の梅見の宴の時のように皆が観に行くはずだ。束蕗原に行くと決めたのは自分だから、当然このような催しにも参加できないことは仕方ないと思うのだが……。
 実津瀬の舞をまた観ることはできるかしら……。
 と、蓮は思った。
 そして、手紙の最後に付け足したように書かれている一文に目が留まった。
 宮中で、景之亮殿と会うことがあり、近況を聞いた。妻との間に男児が生まれたとのこと。大変喜ばしい。
 景之亮様……の妻に男児……。
 蓮はどういう意味なのか、すぐには解らなかった。
 暫くして、景之亮は新しい妻を娶り、その妻が男児を産んだのだと理解した。
 景之亮様……景之亮様……
 蓮は自分の頬に涙が伝っていることに気づいた。
 景之亮様……
 この涙は嬉し泣きだと、蓮は思った。決しては、他の感情ではないはずだ。だって、景之亮様が子供を持ったのだから。

「蓮さん!見つけた!」
 食堂の前に立っていた井は、薬草園を囲う垣に沿って森から帰って来た蓮の姿を見て駆け寄って来た。
 蓮は森の中で自然と流れた涙を拭って出てきたが、目が赤くなっていないか気になったが、目の前に立った井はそのまま話し始めた。
「どこに行っていたのですか?」
「庭の森の中を散歩していたの」
「まあ、暑かったのではないですか?」
「そうね、だから、戻って来たわ。それより、私を探していたの?」
 井は頷いた。
「また牧さんが!」
「牧さんがどこかに行っちゃったの?困ったものね」
「先ほど、厚巳さんが言っていたのですが……」
「厚巳さん?また、厚巳さんと親しくなろうとしているの?」
「いいえ、違います。今日は去様のところに都からお客さまがいらしていて、その方のところに牧さんが現れたと言っていたんです。何か騒ぎを起こさなければいいのですが」
 もう、牧が男の前に現れたら何か騒ぎが起こると言わんばかりである。
「都からのお客さま……」
 蓮はすぐに伊緒理の顔が浮かんだ。
「都からのお客さまって、どんな方?」
「陶国に留学されていた方です。去様が特に気に入っておられる」
 それは伊緒理だ。伊緒理がまたこの束蕗原に来ているのだ。
 蓮の心は波立った。
 そして驚いたのは、伊緒理のことを牧が気に入っているらしいというのだ。
 厚巳を初め、男たちが隙を作ってしまうのは牧に色気を感じてしまうからだった。伊緒理は、そんなことはないと思うが、万が一のことが起こったらと思うと蓮は内心、穏やかではなかった。
 蓮の知っている伊緒理は女人に迫られても隙を見せることはなかった。留学する前に蓮は伊緒理に迫ったが、真面目で責任感の強い伊緒理は蓮に手を出すことはしなかった。牧に対しても、その色仕掛けに騙されることはないと思いたい。しかし、今の伊緒理は、あの頃の伊緒理とは変わってしまっただろうか。
 牧は怖ろしい人で、欲しいと思ったら簡単には諦めない、と聞いた。厚巳や他の男たちも長い間つけ狙っていたらしい。
 伊緒理は……大丈夫かしら……。
「あれは……牧さん?」
 井の声で、蓮は井が見ているほうを向いた。
 髪をきれいに結い上げた牧が去の館からこちらに歩いてくるところだった。
「牧さん、どこにいたのですか?」
 井が訊ねた。
「私がどこにいようと、あなたには関係ないでしょう。今日はあなたと同じ組になっていないから、迷惑は掛けていないはずよ」
 牧は挑戦的な言葉を言って、井の前を通り過ぎていく。
「去様のところに行っていたの?」
 蓮がこちらに向かって来る牧に言った。
「ええ。必要な薬草を倉から出してお持ちしたの。お客さまとお話されていて、必要になったそうよ。倉の整理をしていたら、薬草を取りに来た医師が、たくさんの種類の薬草を持っていくのに難儀していたから手伝っただけ」
「そうなのね。それはご苦労さま」
 蓮は目の前を顎を上げて歩いて行く牧を見送った。
 牧は詳細を言わなかったから、去のところに来たお客さまが、伊緒理かどうかわからない。でも、きっと伊緒理なのだ。
 牧が伊緒理に目をつけるなんて、困ったわ。
 蓮は心配に思いながら、自分も、一目でもいいから伊緒理の姿を見たいと思った。
 そして、伊緒理にも自分の今の姿を見てもらいたかった。別れた時と同じように写本をし、薬草について勉強している姿を。
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