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第四章

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 春の訪れは留まることなく、桜が散った後も次々と別の花が咲き誇り、緑は目に眩しい。
 朱鷺世は相変わらず一人ぼっちである。それは今年の月の宴で名門貴族の一員である岩城実津瀬と対決という形で舞を披露することを楽団員達が知らされたからだ。皆、朱鷺世を腫れもののように遠巻きに見ている。
 しかし、朱鷺世はそんなことを気にする暇もなく、舞の師である楽団長の麻奈見と先輩舞手の淡路の二人に付きっ切りで練習を見てもらっている。
 宴の舞台は、雅楽寮が舞の構成、音楽、演出など一切を取り仕切る。
しかし、次の月の宴の実津瀬と朱鷺世が舞う舞については、桂王女の希望を取り入れて、二人で同じ振りを合わせて舞う部分と、一人一人が自分の思うように舞う見せ場の部分で構成することになった。
 貴族の息子と雅楽寮の一舞人とが舞で対決することを、どのようにして実現させるのだろうか、と実津瀬と麻奈見は考えていた。
 私に任せておけ、というからには桂には何か策があるものと考えていたが、桂は大王に直接自分の考えを話して、了解を得たという。
 香奈益大王は幼少の頃から体が弱く、父王が亡くなった後、大王の位について、勤めを全うするも体力に不安があり、皇太子時代と同じように王宮の奥の部屋で伏せていることが多かった。傍には妻とその間にできた姫が付き添っている。
 そこに桂は時を見て大王を訪問している。
 大王にとって、桂は父王が娘のようにかわいがって世話をしていた姫なので、妹のような存在である。生来の気の強さで、生意気なところもあるが明るく裏表のない性格で、好きなものへの情熱は並外れている。
 その桂が一番に情熱を傾けている舞と管弦を大王に語り、時には麻奈見たちを連れて大王の前で演じさせた。それが功を奏したのか、大王にとって舞と管弦は数少ない楽しみとなった。だから、桂がまだまだ先である月の宴のことを話しに来ても、こうしなければならないと反対する気は全くなかった。
「桂はいろいろなことを考えつくものだな。感心するよ」
 大王は言った。
「大王に楽しんでいただきたいのです」
「桂が私のことを考えてくれていることはわかっているが……私を楽しませる前に、自分自身の楽しみが一番だろう」
「あはは!大王、申し訳ありません。違いますとは言えない私がいます。しかし、大王に楽しんでいただきたい、という気持ちはあるのですよ。大王が見たことがない舞を見せたいのです。大王が見たことがないものは私も見たことがないのですから。それを見られるとは心が躍る気持ちです」
「桂は本当に舞が好きだな……。桂が見たこともないものを私も見てみたい。お前を信頼しているから、月の宴の舞については、桂の好きにするとよい。面白いものを見せておくれ」
 大王と桂の間でそのような会話があり、桂は麻奈見それから実津瀬、朱鷺世に話をしに来たのだった。
 朱鷺世は決まった型を舞うことはできるが、一人で自由に舞う部分には大きな不安がある。
 自由に舞うなんてことはやったことがないし、自分の思うような舞を舞うということがわからなかった。
 自分が舞いたい舞なんてものはないのだから。
 口減らしのために田舎から宮廷の下働きをするために出て来た。本来は庭の掃除や、邸の普請のための人夫として働いているのだ。
 それを、盗み見た稽古場での舞や音楽に魅了されて、押し掛けて来て舞をやるようになった。
 舞は好きだが、創造的なものを求められると、朱鷺世は途端に自分が何をしたらいいのかわからなくなる。
 そのため、人にお願いをするなんてことは苦手ではあるが、麻奈見や淡路に頭を下げて自分の舞をどうしたらいいか教えてもらっているところだった。
「朱鷺世は思い切りがいいのだから、あれこれ細かい動きを考えるよりも、体を大きく使って舞うのはどうだろうか?二人で舞う時は振りを合わせるのに、細かな動きが多いが、朱鷺世が一人で舞う時は違うものがいいのではないだろうか」
 淡路の意見に、麻奈見も頷いた。
「背は高いし、体も大きくなったから一人人で舞っても見栄えが良い。昨年の月の宴の時よりも技術も上がっている。桂様もおっしゃっていたが、実津瀬殿とは違う舞をやろう」
「よし、俺が振りを考えてみる。実津瀬殿とは違う朱鷺世の良さが出るものを試行しよう」
 淡路が言った。
「朱鷺世も自分の思うものを考えておいで」
 麻奈見の言葉でその日の稽古は終了した。
 朱鷺世は一人残って、稽古場の片づけをしていると、開け放たれた扉に影が差した。
 こんな時間に岩城実津瀬が現れたのかと、顔を上げると、ひょっこりと顔を半分覗かせているのは露だった。
 朱鷺世は黙って扉のところまで歩く。
「朱鷺世……来てはだめだった?」
 朱鷺世は首を横に振る。
「ほんと‼よかった。ちょうど近くまで用事があったから、朱鷺世がいたらと思って覗きに来たの。……一人?」
「稽古が終わって、後片づけをしているところだ」
「そうなの?残念……朱鷺世が舞っているところを見てみたかったわ」
 露は肩を落として、心底残念そうな顔をした。あわよくば朱鷺世の舞を観られる、と思ったのにと、落胆した。
 露の上に影が差して、下を向いた自分の顔に向かって手が伸びた。頤に指が掛けられて、露は上を向かせられた。
 朱鷺世の顔があった。
「……見てくれよ……」
 言葉を発する気持ちがあるのかわからないほどに小さな声で朱鷺世が言った。
 露はこくこくと二度ほど頷いた。その様子を見た朱鷺世は口元を綻ばせた。
「……音楽はない」
「構わないわ!」
 露は嬉しそうに、しかし囁き声で返した。
 稽古場の中央に立った朱鷺世に、露は扉の前にしゃがんで無音の拍手を送った。
 朱鷺世は露の手が止まったのを見ると、息を吸って吐いてをした後に、右手を上げた。
 それは淡路とも、岩城実津瀬とも舞っている型だ。二人で舞って、ぴたりと合った動きが見ている者の心を動かすところがあるため、一人で舞ってはその魅力は半減してしまうかもしれないが、朱鷺世は隣にいる影のような者の動きを気にすることもなく、怒声も感嘆もない中で自分の中に流れる音楽に沿って自分の力の限りに舞う。誤魔化しようのない大きな動き、見ているものを圧倒するほどの力強さ。何百回と舞ってきた型だったが、一人で音もない中で舞うのはそれまでとは全く違う、新しいものを自分で作っているような気持ちだった。
 露は通常の舞がどんなものなのか、全く知らないから、音楽がない中で朱鷺世が一人舞うことに何の違和感もなかった。それよりも、無音の中で舞う朱鷺世の姿が神々しく見えた。
 舞い終わっても、朱鷺世は自分の舞の余韻に浸っていた。
 動かない朱鷺世に、露はやっと舞は終わったのだとわかって手を叩いて称えた。
「朱鷺世!すごいねぇ」
 露は立ち上がって、手を叩く。
 近寄って来ない露に、朱鷺世の方から扉の前まで近づいて行った。
「初めて見たわ……。これを大王や王族、えらい方たちにお見せしているのね……」
 露は目を輝かせている。
「笛や太鼓が加わってその音と一緒に朱鷺世がさっきの舞をするのね。その場面も見てみたいわ」
「……今日みたいに見に来たらいい。いつも扉は開いているはずだから」
「本当?また、近くに来ることがあったら、寄らせてもらうわ」
 にっこりと笑う露の顔は、いつも薄暗闇の中で会うのとは違い、その隅々まで光が当たっていて新鮮だった。
 まだ、お互い幼い頃に一緒に都に来て、一時、小間使いの仕事で忙しく、会うこともままならなかった時期もあったが、こうして大人に一歩近づいた青年、乙女の時期に再び頻繁に会えるようになった。
 朱鷺世が腹を空かせて、余る飯を分けて欲しいという欲望が始まりではあったが。自分に優しくしてくれる露を好きじゃないわけはない。
 この前、自分の欲望のままに露を押し倒して、抱いてしまった。一度ならず幾度も。露が嫌だと言わないことをいいことに、会うたびに押し倒している。露が嫌な素振りを見せないのは、少なからず、自分のことを嫌いじゃないのだと思いたい。
 もちろん、露の体が欲しいだけ……なんてことはない。
 でも、自分の欲望を抑えられない。
 朱鷺世は稽古場の中から露の体に手を伸ばした。
 露は朱鷺世の伸びて来た手を握った。
「どうしたの?」
 露の小さな言葉を無視して、朱鷺世は露を稽古場の中に引き入れた。開け放していた扉を後ろ手に閉めて、稽古場は暗くなった。そのまま手を引いて露の体を稽古場の奥へと連れていく。
「……朱鷺世?」
 無言の朱鷺世に露は重ねて訊いたが、朱鷺世は黙ったまま奥の壁の前まで行くと、そこに背を預けて露の体を引き寄せて抱いた。
 露は朱鷺世の胸に顔を伏せた後、ゆっくりと顔を上げた。
 朱鷺世と目が合った。
 大きな手が露の顔に近づいて来て、右頬を覆った。
 露は朱鷺世がこれから何をしたいのかを悟った。
 まだ日も高くて、閉め切っているとはいえ、高いところにある窓から陽が入って来て明るい。今までこんな明るい中で、朱鷺世に抱かれたことはなかったから恥ずかしい。
 だから、見つめ合っている視線を解いて、顔を背けたのに、朱鷺世の手がそれを許さなかった。
朱鷺世は横を向こうとする露の顔を掌で止めて、自分の顔を近づけていった。
「……ん…うん……」
 きつく唇を吸われて、露は息ができなくなった。鼻で吸えばいいことだが、朱鷺世の激しさに普通のことがわからなくなった。
「とっ……き……よ」
 露は吐息の間に朱鷺世の名を呼んだ。
 体は稽古場の床に押し倒されて、真上からじっと朱鷺世に見下ろされた。怖々と露も朱鷺世を見上げた。
 なんという表情なのかしら。悲しいの、辛いの、苦しいの……それとも嬉しいの?
 露は朱鷺世が今どのような気持ちなのかを読み取ろうとしたが、それは、どうにでも取れるような表情で、朱鷺世が何を考えているのか、何を思っているのかわからなかった。
 何か言葉をくれたらいいのに。
 朱鷺世は無口で、本当に言葉を言わない。しかし、寂しい時に一緒にいてくれるし、寒さに震える時は抱き寄せて温めてくれる。いつも私の話に耳を傾けてくれる。何も言ってはくれないけど、聞いてくれるだけで心が軽くなる。
 そして、こうして体を重ねることは、きっと朱鷺世も私のことを少なからず好いてくれているはず。露はそう思うのだった。
 朱鷺世は、露の帯に手を掛けた。裳の中に手を入れて、露の足を外側から内側へと撫でた。
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