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螺良 羅辣羅

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第四章

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「あー、おいしかったですね」
 井は言って、自分のお腹をさすった。
 食堂は食事が終わった後、少しの間おしゃべりをしている者が多くてにぎわっていたが、それぞれの時間を過ごすために一人、二人と食堂を出て行く者がいた。
 これからは各自の自由時間で、部屋に戻って休んだり、庭を歩いたり、勉強熱心な者は写本をしたり、薬草園に行ったりする。
 食堂から出て行く者を目で追っていた井は、出入口の扉が開いて、その前を横切る人影が見えた。
「あ……」
 井の声で、鮎が扉の方を振り向いた。蓮は何?と井に顔を向けた。
「鮎さん……外に」
 それだけの言葉で鮎は何が言いたいのか分かったようだ。
「それでは私は先に行くわね」
 鮎は目の前の膳を持ち上げて、食器を下げると外へと出て行った。
「鮎さん……嬉しそうでしたね」
 蓮は束蕗原に来たばかりの新参者で、井の方が鮎や牧、他の仲間たちのことをよく知っている。
 今も、鮎のことだが、蓮には井が何のことを言っているのかわからない。
 怪訝な顔していると井は声をひそめて言った。
「鮎さんは、蕾和(らいわ)先生のところにも通われている見習いの厚巳(あつみ)さんと親しいのですよ。今、厚巳さんが食堂を覗いている姿が見えました。きっと今日は夕餉の後に会う約束でもしていたのですよ」
 蕾和先生というのは、束蕗原の近くに住む男医師である。
 鮎は蓮より年上ですでに結婚していてもおかしくない。井の情報によると、その、厚巳という医師見習いの男と近々結婚するのではないかということだ。
 蓮は心なしか頬の緩んだ嬉しそうな顔の鮎を思い出していた。
 愛する人と一緒に過ごす時間は、何物にも代えがたい至福の時だ。
「いいなぁ……」
 井は鮎が消えて行った扉を見つめて呟いた。
 蓮はそんな井の様子を感じ取ってはいたが、視線を向けたり声をかけたりはせず、食器を重ねて立ち上がった。井も慌てて食器を重ねて蓮の後を追った。
 食器をおさめて、食堂を出たところで井が蓮の隣に並んで控えめに言った。
「……蓮さんは……立ち入ったことをお聞きしますが、その……都で好きな人はいたのですか?」
 とても直接な質問に蓮は戸惑ったが、嘘をつくこと、隠すこともないかと思い、息を吐き出すと言った。
「ええ……夫がいたのよ。でも、別れてしまって」
「!」
 井は自ら訊いたものの、夫がいたとは思っていなかったようで、息をのんだ驚いた顔のまま固まってしまった。
「夫との思い出がある都を出て、ゆかりのあるこの束蕗原にお世話になることにしたのよ」
 蓮が言うと、井はやっと口を開いた。
「蓮さん!……お辛かったでしょう」
 井からそんな慰めの言葉をもらえると思っていなかったから、蓮は少し驚いた。
「恥ずかしいですけど……私、好きな男の人がいたことないのです……だから、鮎さんや……蓮さんのような年上のお姉さんの好きな人のお話は興味があります……」
 素直な井である。
「そうなのね」
 蓮はそう相槌を打って黙って歩いた。その沈黙に堪えられなくなった井が口を開いた。
「蓮さん!私、酷いことを言ってしまって」
「いいえ、そんなことないわ。……あなた、私を慰めてくれた……。嬉しかったわ」
 そう言って蓮は住居の建物に向かう廊下を歩いた。
 井は黙って蓮の後ろをついて来る。
「井さん……」
 蓮は立ち止り、後ろの井を振り返った。急だったため蓮と井はぶつかりそうになった。二人で同時にきゃあという声を小さく漏らし、体の前に出たお互いの手を握り合った。
 驚きが収まったところで、再び蓮は言った。
「井さん……。きっと好きな人ができるわ。どこかで井さんの優しさを見ていて、あなたに声をかけたいと思っている男の人がいるわ。だから、これからを楽しみにしていたらいい」
 蓮の唐突な言葉に井はあっけに取られた顔で。
「……はい」
 と返事するのがやっとだった。
 二人は住居に辿り着くと、夜の挨拶を交わして、井は手前の部屋に入った。蓮は一番奥の部屋に向かって歩いて行った。扉を開けると相部屋の二人が部屋の隅でおしゃべりをしていた。蓮がはいると、振り返ってその姿を見たがすぐに話しの続きに戻った。
 部屋に配られたその夜の灯りが油皿の中で大分小さくなっている。それが消える頃には寝る時間がきたか、と皆が褥に横たわる。
 蓮が寝る用意を始めると二人も話しをやめて、それぞれの褥に横になった。他の部屋に行っていた後の二人も部屋に戻って来た。
 心もとなく揺れる部屋の灯りの中で、それぞれが黙って寝る前のひととき、一日を振り返っている。
 灯台の灯が消えると皆自然と目を閉じ、眠りに落ちて行った。あちこちから静かな寝息がきこえてきた。
 一人、暗闇の中で目を見開いたのは蓮だった。
 いつもなら、誰よりも早く眠りに落ちて、人の寝息など聞くことはないのに、今夜は眠れない。
 どうしたのかしら?
 鮎と牧の言い争いに、思わぬ形で加わってあれやこれやと話をしたことが、自分の心をざわつかせているのかしら。出過ぎたことはしないと、決めていたのに。……それとも……去様と一緒に歩いていた男の人のことが気になっているのかしら……。とても懐かしい人に似ていた。
 蓮はもう一度目を瞑ったが、眠気は訪れず、しばらくして一度体を起こすことにした。幸い、出入口近くにいるので、人を跨いだりしなくても部屋の外に出られた。
 蓮は月を眺めようとゆっくりと扉を開け、簀子縁へと出た。
 半月を覆った雲が風に流されて、月明かりが外の景色を仄暗く浮かび上がらせた。
 蓮は簀子縁に座って膝を抱えた。
 春めいて来たとは言え、まだ肌寒い。
 蓮は襟元を立てて、寒さが首から入って来ないようにした。
 女の見習い人たちの住居の前には薬草園があり、その間には杉の大木が立ち並んで目隠しのような役割をしている。
その木立の中へと入って行く影が見えた。獣かと思って身構えたが、その影は獣よりも背が高い。普通に考えれば、それは人だ。もう寝る時間だが、蓮のように眠れなくて部屋から抜け出す者もいる。
 一つに見えていた影が二つに分かれた。人は二人いるのだ。
 月の光が影を人の姿に浮かび上がらせた。一人は男の姿で、もう一人は女だ。
 去の館では多くの女人たちが去について学んでいるが、鮎と仲がいいという厚巳のように男たちもいるし、邸や領地を維持していくためにたくさんの男たちを雇っているし、病気や怪我をした人たちはいつでもこの館に来ていいことになっているから、住人たちの往来も多い。医術見習いとして忙しく立ち働いている女人たちは、合間に信頼できる人と出会って、密かに思いを通じさせているのだった。
 二人の背中が見えていたが、小さな体が横を向いたのでその横顔が見えた。
 あれは……牧さん。
 牧が思い人と会っていることが意外だった。自分勝手で、気が強くて気に入らないと食ってかかる牧に同じ見習いの女人たちは距離を取っていて親しい人はいない。しかし、そんな牧にも気が合い、親しくなる男がいるのだ。
 信頼できる男と親しくなるのは素晴らしいことだ。自分を安心させてくれる。
 蓮はここに来て四月も経ち、だいぶ都の生活を思い出さなくなっていたが、少し肌寒いのと牧と男の逢瀬を見て、あの人の温もりを思い出してしまった。毎日、同じ衾を被ってその胸の中に抱かれて眠っていた。あそこほど安心できる場所はなかった。
 一人寝には慣れたが、時々寂しいと思うことがある。それは、今のように誰かが思い人と一緒にいるのを見た時だ。
 羨ましい……。
 都で暮らしていたら、他人の恋を今以上に羨望、いや、嫉妬し、その感情に支配されるかもしれなかった。そんな自分は嫌だから、束蕗原に来て、仲間の女人に頼れる男がいることを知って、少し羨ましく思うくらいの今が丁度良いと思った。
 蓮は牧とその隣を歩く男が杉の木の陰に消えたところで、空を見上げた。
どこにいても、同じ月を見ている。都にいる人も空を見上げたらこの明るい半月を見られるはずだ。
 そう思うと、蓮はあの人は月を見上げているかしら……と思った。
 結婚生活では月を見ながら、あの人の隣に座って遅い夕餉を一緒に摂り、酒を杯に注いで月見酒をした。色々な話をしたし、言葉を発せずとも二人で月を見上げ、時に視線を合わせて見つめ合った。
 それはもう二度と叶わないことではあるが、あの人も同じ月を見ていると思うと、別れても秘かにその健康や幸せを願っていることが通じるのではないかと思うのだった。
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