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第三章
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蓮は夜明けとともに起きた。
父の実言が束蕗原に来る前は、蓮は母と珊と同じ部屋で寝ていた。父が来てからは、芹と淳奈の部屋に几帳を立て珊と一緒に寝た。昨日、実津瀬が来たので、昨夜は母屋の一室に褥を設えて珊と一緒に寝たのだった。
起きると侍女の曜が来てくれた。
「蓮様、お目覚めですか?」
「起きたわ」
隣に横になっている珊はまだ眠っている。蓮が静かに寝床から抜け出して庇の間に行くと、曜が朝の洗面の準備をしてくれた。
曜は蓮と一緒にこの束蕗原に残ることになっている。蓮が自分の気持ちを最初に打ち明けたのは、曜だった。自分が束蕗原に残るとなると、曜はどうするのか選択が必要になるからだった。
「私は蓮様と一緒にいます」
と、曜はすぐに言った。
少し年上の曜は小さな頃から蓮を妹のようにいろいろと世話をしてくれて、見守ってくれていた。景之亮との結婚でも、一緒に鷹取家について来てくれた。曜が即座に蓮と一緒に残ると言ってくれた嬉しかった。
支度が済むと、皆は広間に集まって食事をした。朝餉を食べ終わったら、すぐに出発する。
実言と実津瀬たちは馬に、礼や芹は車に乗り、その前後には徒歩の者たちが着く。また、束蕗原の若者を五条の邸で働いてもらうために連れて帰るので、それは大きな集団になる。
まずは、実津瀬、芹と淳奈が去の前に出て、長い滞在のお礼と別れの挨拶をして、部屋を出て行った。
その後の部屋の中には、去と蓮、実言と礼が残った。
礼は言葉にはしないが、蓮が束蕗原に残ることを寂しく思っている。今も、表情は暗い。
「礼、そんな顔をしていたら、蓮が悲しむよ」
実言に言われて、礼は頷いたが、行動とは反対に涙が出た。
「お母さま、心配しないで。私もお母さまのように、ここで勉強をして、将来、お母さまのお手伝いができるようになります」
「心配なんてしていないわ。あなたはきっとやり遂げるでしょう。ただ、今まで会いたいと思えばいつでも会えていたのに、会えなくなることが寂しいのよ。それだけ。私があなたと離れるのが辛いだけよ」
「待っていてね。また会う日まで」
蓮は母の手を取って言った。
二人とも握り合った手を放し難く、動かないでいるところに実言が言った。
「礼、行こう。去様、長い逗留をお許しいただきありがとうございました。芹はこちらで、安心した日々を送れたのでしょう。明るい表情をしていた。都での苦しい記憶がここでの温かく、穏やかな暮らしで薄らいだのでしょう。それが私が一番に嬉しく思っていることです。実津瀬も同じ思いでしょう。そして、蓮に滞在をお許しいただき、ありがとうございます。これは、予想もしていないことでした。だから、礼はいつまでも寂しがっているのでしょう。しかし、蓮」
と、実言は蓮に顔を向けた。
「蓮にとってはこの束蕗原で生活することはいいことかもしれないね。お前のやりたいことを思う存分やったらいい。ここには、たくさんの書物もあるし、うちよりも大きな薬草園もある。体だけは気を付けて、去様をお助けしておくれ」
去へのお礼と別れの挨拶だったが、最後は娘への別れの言葉になった。
「はい」
蓮は返事をして、自分から母の手を放した。
「実言殿、お元気で」
「ご相談したいこともありますので、また参ります。それまで、去様もお元気で」
「去様、蓮のことをよろしくお頼み申します」
礼は涙を拭って車に乗った。御簾は下ろさずに、簀子縁に立っている去と蓮の姿が見えなくなるまで見つめていた。
実言も連れて来た馬の背に乗って、蓮に笑顔を向けた。蓮も思わずにっこりと笑った。その様子に安心して、実言は礼の車の後を追った。
蓮を除いた一行は束蕗原を発ち、無事に日が沈む前に五条の邸に戻った。
子供と思っていた榧も宗清も、今は十五と十三。母が二月いなくても、自分の生活を送っていたが、帰ってくれば懐かしい、恋しいという気持ちが先立って、一行が着いたと聞くと、出迎えに部屋を飛び出した。
実言と礼が普段使っている部屋の前に行くと、先頭に父の実言が立っていた。父とは数日の別れで、その後ろで珊と一緒に歩いて来る母の礼に向かって一目散に走って行った。
「お母さま」
「珊!」
二人に近づいた榧と宗清、礼と珊は抱き合わんばかりの勢いで互いの手を取って再会を喜び合った。
実言はそんな四人の姿を振り返って見ている。
四人が手を取り合って再会を喜んでいる後ろでは、実津瀬、芹、実津瀬に抱かれた淳奈が賑やかな様子を見ている。
「淳奈!」
榧が淳奈の元に走り寄った。淳奈は久しぶりに会う優しい小さい叔母のほうへ両手を伸ばして、抱き上げられに行った。
「榧、淳奈は重くなっているわよ」
束蕗原でたくさん食べて遊んだ淳奈は少し重たくなっているのを心配して、芹が言ったのだ。
「うん、大丈夫。淳奈、元気ね。会いたかったわ」
淳奈は榧の首に両手を回して、その首の下に頭を寄せた。
「あれ?姉さまは?姉さまがいない」
久しぶりの再会を喜び合う中に、蓮の姿がないことに気づいた宗清が言った。その声に、榧もあたりを見回す。芹の後ろからひょっこり姿を現すのではないか、と思ったが、芹の後ろからは一緒について行った侍女たちがぞろぞろと入って来た。
「蓮は束蕗原に残ったよ」
先頭にいる実言がきょろきょろとあたりを見回している宗清に言った。
「いつまで?新年を迎える前には戻ってきますか?」
榧が父に向かって訊ねた。
「いつまで、とは決めていない」
「そんな!では、姉さまとはいつ会えるの?」
「束蕗原に行けば会えるよ。その話はまた後でしよう」
実言の言葉で、帰ってきた者たちは自分の部屋へと落ち着き、迎えた者たちは一緒に入って行って向こうでの生活の様子を訊いた。
翌日は、長い束蕗原滞在で空けていた間を取り戻すように、礼は診療所や薬草園に赴いた。礼がいなくても、去から教育を受けた束蕗原出身の者たちが万事をうまく差配してくれていたから、何も困ったことは起こっていなかった。
そのことを確認して早々に部屋に戻ると、午後からは蓮が使っていた部屋で束蕗原に届ける物の選別を始めた。
父の実言が束蕗原に来る前は、蓮は母と珊と同じ部屋で寝ていた。父が来てからは、芹と淳奈の部屋に几帳を立て珊と一緒に寝た。昨日、実津瀬が来たので、昨夜は母屋の一室に褥を設えて珊と一緒に寝たのだった。
起きると侍女の曜が来てくれた。
「蓮様、お目覚めですか?」
「起きたわ」
隣に横になっている珊はまだ眠っている。蓮が静かに寝床から抜け出して庇の間に行くと、曜が朝の洗面の準備をしてくれた。
曜は蓮と一緒にこの束蕗原に残ることになっている。蓮が自分の気持ちを最初に打ち明けたのは、曜だった。自分が束蕗原に残るとなると、曜はどうするのか選択が必要になるからだった。
「私は蓮様と一緒にいます」
と、曜はすぐに言った。
少し年上の曜は小さな頃から蓮を妹のようにいろいろと世話をしてくれて、見守ってくれていた。景之亮との結婚でも、一緒に鷹取家について来てくれた。曜が即座に蓮と一緒に残ると言ってくれた嬉しかった。
支度が済むと、皆は広間に集まって食事をした。朝餉を食べ終わったら、すぐに出発する。
実言と実津瀬たちは馬に、礼や芹は車に乗り、その前後には徒歩の者たちが着く。また、束蕗原の若者を五条の邸で働いてもらうために連れて帰るので、それは大きな集団になる。
まずは、実津瀬、芹と淳奈が去の前に出て、長い滞在のお礼と別れの挨拶をして、部屋を出て行った。
その後の部屋の中には、去と蓮、実言と礼が残った。
礼は言葉にはしないが、蓮が束蕗原に残ることを寂しく思っている。今も、表情は暗い。
「礼、そんな顔をしていたら、蓮が悲しむよ」
実言に言われて、礼は頷いたが、行動とは反対に涙が出た。
「お母さま、心配しないで。私もお母さまのように、ここで勉強をして、将来、お母さまのお手伝いができるようになります」
「心配なんてしていないわ。あなたはきっとやり遂げるでしょう。ただ、今まで会いたいと思えばいつでも会えていたのに、会えなくなることが寂しいのよ。それだけ。私があなたと離れるのが辛いだけよ」
「待っていてね。また会う日まで」
蓮は母の手を取って言った。
二人とも握り合った手を放し難く、動かないでいるところに実言が言った。
「礼、行こう。去様、長い逗留をお許しいただきありがとうございました。芹はこちらで、安心した日々を送れたのでしょう。明るい表情をしていた。都での苦しい記憶がここでの温かく、穏やかな暮らしで薄らいだのでしょう。それが私が一番に嬉しく思っていることです。実津瀬も同じ思いでしょう。そして、蓮に滞在をお許しいただき、ありがとうございます。これは、予想もしていないことでした。だから、礼はいつまでも寂しがっているのでしょう。しかし、蓮」
と、実言は蓮に顔を向けた。
「蓮にとってはこの束蕗原で生活することはいいことかもしれないね。お前のやりたいことを思う存分やったらいい。ここには、たくさんの書物もあるし、うちよりも大きな薬草園もある。体だけは気を付けて、去様をお助けしておくれ」
去へのお礼と別れの挨拶だったが、最後は娘への別れの言葉になった。
「はい」
蓮は返事をして、自分から母の手を放した。
「実言殿、お元気で」
「ご相談したいこともありますので、また参ります。それまで、去様もお元気で」
「去様、蓮のことをよろしくお頼み申します」
礼は涙を拭って車に乗った。御簾は下ろさずに、簀子縁に立っている去と蓮の姿が見えなくなるまで見つめていた。
実言も連れて来た馬の背に乗って、蓮に笑顔を向けた。蓮も思わずにっこりと笑った。その様子に安心して、実言は礼の車の後を追った。
蓮を除いた一行は束蕗原を発ち、無事に日が沈む前に五条の邸に戻った。
子供と思っていた榧も宗清も、今は十五と十三。母が二月いなくても、自分の生活を送っていたが、帰ってくれば懐かしい、恋しいという気持ちが先立って、一行が着いたと聞くと、出迎えに部屋を飛び出した。
実言と礼が普段使っている部屋の前に行くと、先頭に父の実言が立っていた。父とは数日の別れで、その後ろで珊と一緒に歩いて来る母の礼に向かって一目散に走って行った。
「お母さま」
「珊!」
二人に近づいた榧と宗清、礼と珊は抱き合わんばかりの勢いで互いの手を取って再会を喜び合った。
実言はそんな四人の姿を振り返って見ている。
四人が手を取り合って再会を喜んでいる後ろでは、実津瀬、芹、実津瀬に抱かれた淳奈が賑やかな様子を見ている。
「淳奈!」
榧が淳奈の元に走り寄った。淳奈は久しぶりに会う優しい小さい叔母のほうへ両手を伸ばして、抱き上げられに行った。
「榧、淳奈は重くなっているわよ」
束蕗原でたくさん食べて遊んだ淳奈は少し重たくなっているのを心配して、芹が言ったのだ。
「うん、大丈夫。淳奈、元気ね。会いたかったわ」
淳奈は榧の首に両手を回して、その首の下に頭を寄せた。
「あれ?姉さまは?姉さまがいない」
久しぶりの再会を喜び合う中に、蓮の姿がないことに気づいた宗清が言った。その声に、榧もあたりを見回す。芹の後ろからひょっこり姿を現すのではないか、と思ったが、芹の後ろからは一緒について行った侍女たちがぞろぞろと入って来た。
「蓮は束蕗原に残ったよ」
先頭にいる実言がきょろきょろとあたりを見回している宗清に言った。
「いつまで?新年を迎える前には戻ってきますか?」
榧が父に向かって訊ねた。
「いつまで、とは決めていない」
「そんな!では、姉さまとはいつ会えるの?」
「束蕗原に行けば会えるよ。その話はまた後でしよう」
実言の言葉で、帰ってきた者たちは自分の部屋へと落ち着き、迎えた者たちは一緒に入って行って向こうでの生活の様子を訊いた。
翌日は、長い束蕗原滞在で空けていた間を取り戻すように、礼は診療所や薬草園に赴いた。礼がいなくても、去から教育を受けた束蕗原出身の者たちが万事をうまく差配してくれていたから、何も困ったことは起こっていなかった。
そのことを確認して早々に部屋に戻ると、午後からは蓮が使っていた部屋で束蕗原に届ける物の選別を始めた。
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