上 下
35 / 88
第三章

7

しおりを挟む
去は最近の都の様子を聞きたがり、実言が新嘗祭の様子やその準備の時に大路で起こった喧嘩の話を聞かせた。逆に実言は去が生涯をかけて研究している薬の話を訊ねて、芹は薬草園の話をした。しかし、話はお互いの最近の生活のことに移って行った。去は、娘同然の姪の礼が実言という最高の伴侶を得て、四人の子供を生し、去から見れば孫である四人が成長していく様を見聞きするのはこの上ない幸せであった。特に、実津瀬と蓮はこの束蕗原で生まれて育った。乳飲み子の時を、去が親代わりになって育てたこともあり、この二人への思いはまた格別だった。二人がこうして束蕗原を訪ねてくれることが嬉しく有難い。
最後は、ここに残ることに決めた蓮との定めのない別れを惜しむ話になった。
「去様、どうかよろしくお願いしますね」
 母の礼が今にも泣きそうな顔で言う。
 娘が再び傍から離れることに寂寥の気持ちが込み上げているのだろう。結婚で邸を出た時は、いつでも会える距離だったし、現にたびたび母の手伝いをしに五条に来ていたのだから。しかし、束蕗原となるとおいそれと会いには来られない。
「大丈夫だよ。厳しくするときもあるかもしれない。しかし、蓮の気持ちに応えて、お前と同じように立派な医師にしよう。そうして、再び都に帰ってお前の右腕になるよ」
 去の言葉に、礼はたまらず涙をこぼした。隣に座っている蓮がとっさに膝の上の母の手を握った。礼は蓮に顔を向けて、さらに涙をこぼした。
 宴の間、簀子縁には、太鼓、笙、笛を演奏する者を準備していて心地よい音楽が奏でられた。湿っぽくなった雰囲気を少し変えようと実津瀬も懐に入れている笛を出して吹いた。軽快な旋律に皆が手拍子をした。皆で音を合わせて手拍子することに必死になり、楽しさと笑いが上がった。大人たちの大きな笑い声が客人の部屋になっていた離れにも聞こえたのか、小さな人が部屋へと入って来た。
 淳奈が目覚めて宴の広間に入って来たのだった。一目散に母の胸へと飛び込んだ。
「淳奈、お腹が空いたかい。淳奈に粥を持って来てやって」
 去の言葉に、束蕗原の侍女が急いで台所に走って行った。
 淳奈は父と母の間に座って、母のすくう匙からお粥を食べた。
「実津瀬、お前の舞は都でたいそう評判だそうじゃないか」
 去は淳奈のおいしそうに食べる様子に目を細めて、隣で同じように息子を見る実津瀬に向かって言った。
「そうなのですよ。大王の前で、何度も舞ってお褒めの言葉も頂いているのです」
 隣の実言が自慢の息子の名声を話す。
「ほう。それはそれは素晴らしい舞なのだろうね」
「よければ、去様、ここで少し舞ってもよろしいですか?」
 実津瀬が言った。
「いいのかい?私は見てみたいよ」
「はい。私も見ていただきたいです。また、蓮も私の舞を当分見られないと思うので、見てほしいと思います」
「そうだねぇ」
 去は言って、蓮を見た。蓮は嬉しそうに目を輝かせて兄を見ている。
 簀子縁には楽器の演奏者たちが座っている。その中には、芹と淳奈の護衛をしている天彦もいる。天彦は五条の邸で、実津瀬から笛の手ほどきを受けていた。
 束蕗原に楽器を演奏できるものがいるのは、都の北東に位置する鄙びた場所ではあるが、都から来た去が音楽や舞のような楽しみを好んでいて、このような田舎でも音楽が演奏できるように、村の者たちに楽器を与え、都から教える者を招いていたことや、礼が嫁いだことによって縁ができた岩城五条の邸に束蕗原の住人が仕えて、天彦のように音楽を習って、束蕗原に帰ってくる者がいて、その者がまたこの領地の中で音楽を教えて、と楽器を演奏できるものがいるためだ。
 実津瀬は立ち上がって、簀子縁に座る演奏者たちのところに行った。
話し声だけで、広間にいる者たちには何を言っているのかわからないが、舞の曲の確認をしているようだ。
 陽が落ちると、庭には篝火が焚かれて、部屋の明かりと相まって幽玄な雰囲気の中、実津瀬は一人庇の間に立った。
 篝火でほの暗く浮かび上がる庭を背景に、簀子縁に座る演奏者たちのかしこまった姿の前に立つ実津瀬の姿は堂々としたものだ。
 笙の音が始まって、太鼓の力強い音が所々で加わる。笛の音も加わって、実津瀬の脇にだらりと自然に下ろしていた両手が上がり、舞が始まった。手の動きから、右足を踏み出して、足の移動が加わり、舞の形を丁寧に見せていった。
 大王の前で舞う二人舞のような激しいものではないが、これまで磨き上げてきた美しい舞の形を一人で見せていった。
 音楽が終わると、実津瀬の舞も終わった。庇の間に立った時と同じように、手を横に垂らしてお辞儀をした。
 舞が終わってすぐに反応したのは、一番幼い淳奈だ。小さな手を前で合わせて、音を出した。
「淳奈はお父さまの舞が好きなのです。久しぶりに見られて嬉しいのね」
 芹が言った、
「なんと美しい舞だったことか。見ることができてうれしいよ、実津瀬。ありがとう」
「去様、どうか都で私の舞を見てください。母上、どうかそのような機会を作ってください」
「そうね。去様、随分と都にはいらっしゃっていないですから、どうかいらして。旦那様、去様が都に来られたら、実津瀬の舞をもっと見ていただきましょう」
 礼は去と隣の座っている夫に言った。
「そうだね。去様、ぜひ我々の邸にいらしてください。いつにしましょうか」
「気の早いことだね。確かに都には随分といっていないね。……私ももう歳だ。ここと都を往復する力があるか心配だ」
「去様はまだまだお元気です」
「礼はいつもそういうけど、自分はよくわかっている。昔ほどの力はない。だから、蓮が傍にいてくれるのはとても嬉しい」
 実津瀬が席に戻ると、淳奈がすぐにその膝に座った。
「実津瀬、素晴らしい舞だった。喉が渇いただろう。潤しておくれ」
 去の言葉に、芹は酒の入った徳利を持ち上げた。実津瀬は膳の上に杯を持ち上げて、酒を注いでもらい飲んだ。
 別れの夜の宴は、小さな子達を眠らせて、大人たちだけでしばらく続いた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

大嫌いな歯科医は変態ドS眼鏡!

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
……歯が痛い。 でも、歯医者は嫌いで痛み止めを飲んで我慢してた。 けれど虫歯は歯医者に行かなきゃ治らない。 同僚の勧めで痛みの少ない治療をすると評判の歯科医に行ったけれど……。 そこにいたのは変態ドS眼鏡の歯科医だった!?

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

Infinity 

螺良 羅辣羅
歴史・時代
大王が治める世。少女礼は姉と慕う従姉妹の朔の許婚である実言と結婚することになる。 それは許されることではないと、葛藤しそれを乗り越えるていく物語です。 この話は三部作で、第二部以降は結婚した礼と実言を中心に宮廷の権力に巻き込まれながら幸せを確立していく物語です。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

『帝国の破壊』−枢軸国の戦勝した世界−

皇徳❀twitter
歴史・時代
この世界の欧州は、支配者大ゲルマン帝国[戦勝国ナチスドイツ]が支配しており欧州は闇と包まれていた。 二人の特殊工作員[スパイ]は大ゲルマン帝国総統アドルフ・ヒトラーの暗殺を実行する。

浅井長政は織田信長に忠誠を誓う

ピコサイクス
歴史・時代
1570年5月24日、織田信長は朝倉義景を攻めるため越後に侵攻した。その時浅井長政は婚姻関係の織田家か古くから関係ある朝倉家どちらの味方をするか迷っていた。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

処理中です...