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第三章

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 束蕗原に来た礼、蓮、芹たちは毎日、精力的に活動した。去の活動の手伝い、山に入ってその幸の収穫をし、その間に温泉に入って寛いだ。充実した日々はあっという間に過ぎ去り、二月が経ち、五日後には都に帰る日が来た。明日は実言が束蕗原に来ることになっていて、皆が旅立つ前日には、実津瀬も来て去に世話になったお礼をして、大人数で賑やかに都に帰る予定だ。
 蓮は隣で横になっている珊が眠ったことを確かめると、起き上がって月明かりを頼りに、去と母の礼がいる部屋へと向かった。
 芹と淳奈の部屋、礼と蓮、珊の部屋が用意してあるが、母の礼は毎夜、去の部屋に入り浸って、そのままその部屋で朝を迎えることもあった。
 礼にとって、去は母の姉であるので叔母になるが、自分に薬草の知識を教えてくれた師であり、実言との結婚生活を助け支えてくれた母であり、一時期、実津瀬と蓮を自分の代わりに育ててくれた二人にとっての祖母のような大切な人だった。礼が歳をとったように去も歳を取ったが、腰が曲がることもなく、話す声も張りがあってよく通り矍鑠としている。しかし、寄る年波には勝てず、体は小さくなり、ひょんなことから寝込んだりすることがある。そんな様子はすぐに都の礼のところに知らせが走ることになっている。礼は知らせを受けてもすぐに束蕗原に行けないため、去の回復を祈るのだったが、こうして会いに来た時は片時も傍を離れずに世話をした。
「去様、お母さま、少しよろしいでしょうか。お話があります」
 妻戸を開けて、奥の部屋に向かって蓮は言った。
 奥の部屋はしんと静かだったが、すぐに。
「どうぞ。入っていらっしゃい」
 と去の声が答えた。
「失礼します」
 蓮は部屋の中を進み、几帳の中へと入っていた。
 奥の部屋にはこちらを向いた去がいて、その斜向かいに背中が見える母の礼が座っていた。
 礼が一つ円座を自分の隣に置いた。そこに座れということだ。蓮は黙ってそこに座った。
「蓮、どうしたの?」
 隣にいる母が訊ねた。
 蓮は母から去に視線を移して言った。
「去様……お話というのは……私をこのままこの束蕗原に置いていただきたいのです。……ここで、去様のお伝いしたいです。お願いします。お母さま、お願いします」
 蓮は母の礼の方に体を半分向けて頭を下げた。
「……明日、お父さまがここにいらっしゃったら、私の気持ちをお話して、お許しいただこうと思います。でも、その前に去様にお許しいただかないことには、私の思いは始まらないから。こうして今夜、お願いをしに来ました」
 蓮は再び去りに向かって頭を下げる。
 礼は娘の頭から視線を去へと移した。去は表情を変えることなく、蓮を見ている。
 蓮が夫と別れたことは蓮自身が束蕗原に来た夜に去に話した。別れた理由も包み隠すことなく言った。
「……景之亮様の子が欲しかった……。でも、授かることができませんでした」
 祖母のような立場で、小さな頃から厳しく躾られたがかわいがってもくれた去と母である礼がいるだけの空間だと、今まで隠してきた本心を言葉にできた。
「まだ生さないと決まったわけではないだろう……」
 去が言った。
「はい……悩む私を景之亮様もそう言って慰め、待とうと言ってくださいました。でも、いつまで待てばいいのか……それは誰にもわからない……。妻のまま景之亮様が他の女人のところに通うことが耐えられません。それに景之亮様も私がいながら他の女人のところに通うことはしないお方です。だから、この時に身を引くことに決めました。……景之亮様が私とは分かち合えなかった幸せを受けられることを願っています」
 そう言って、蓮は静かに涙を流した。去は蓮の左手を握って引き寄せ、その頭や頬を撫でた。
 その時から蓮の気持ちは都ではなく、束蕗原に向いていたのかもしれない。今の蓮には都は帰るべき場所に思えなくなったのだ。
「……蓮、その申し出はありがたいね。……私も歳を取って、傍に蓮がいてくれたら心強い。しかし、蓮。もし、ここに住むというなら、今のようなお客様のような生活はできないよ。離れの一室に寝起きし、そこで写本をしたらいいというわけにはいかない。ここに住むなら、皆と同じように役割を担わないと。部屋はここで働く者たちと一緒、写本も仕事の一つだけど、写本だけしていたらいいというわけにはいかない。皆と一緒に薬草作りや、畑の仕事、病人の世話の仕事をする必要がある。それでも、ここで生活したいというのであれば、その申し出を受け入れよう」
 去は、礼を見た。
「礼……どうだい?」
「はい……。去様のおっしゃる通りと思います」
「うん。蓮、私の言ったことに今、答えを出せなんて言わない。明日、実言殿が来る。そして、ここを発つのは五日後だ。その間にじっくりと考えたらよい。考え抜いた結果、気持ちが変わらないというなら、実言殿にお許しをもらっておくれ」
 蓮はしばらく、呆然とした表情で去を見ていたが。我に返って、頭を下げた。
「はい。寛大なお心に感謝します。……いただいた時間の間に考えます」
 それから、蓮は礼と一緒に去の部屋を出た。礼は今日は珊が寝ている部屋に戻って蓮と三人で眠るつもりのようだ。
 離れの部屋まで、長い簀子縁を歩いて行く。二人は月の光を頼りに黙って歩いていた。
「蓮、少し月でも見ましょうか」
 離れの渡殿を超えたところで、急に蓮を振り返って礼は言った。
「はい……」
 束蕗原で与えられている離れの部屋の前の庭に下りる階の一番上に二人は座った。部屋の中に入ったら、珊を起こしてしまうかもしれないからだ。そんなこと心配ないくらい珊はぐっすりと眠っているのだが。
「月がきれいね……」
 礼の言葉に蓮は頷いた。
「……蓮がここに留まってくれるなら、私も心強いわ。去様はまだまだお元気だけど、歳が歳だけに心配なの。……でもね、去様が言うように、ここにいるなら今のような生活はできないわ。一人自由気ままに、好きなことだけできるわけではない。だから、無理することはないのよ。一緒に五条のお邸に戻ることも考えて。榧や珊はあなたと一緒にいたいと思うわ。もし、五条が嫌なら、都の外れにはいくつか別邸があるから、そこに住んでもいいわ」
都に帰って五条の邸で暮らしていれば、気にしていなくても、景之亮の様子が聞こえてくるだろう。景之亮が他の 女人を妻にしたと聞けば、蓮がそれを望んだことでも、苦しい気持ちになる。
 だから、母は都の外れにある岩城の別邸でひっそりと暮らすこともできると、提案してくれたのだ。
「はい……よく考えます。でも、お母さま……そんな軽い気持ちで去様にお願いしたわけではないの。だから、一人の見習いとして生活することも私は厭わないわ。でも、都に帰るまでまだたくさん時間があるもの。私も心の中を自分でもよく覗いてみるわ」
 それから二人は部屋に入って、珊の左右に横になった。
 蓮は目を瞑ったが、頭の中は静かにならなかった。この心の苦しさを持ち続けるくらいなら、束蕗原でいち見習いとして忙しくしていた方がいいはずだ。この苦しさを感じる暇もないくらいに去様やこの束蕗原のために働きたい、と思うのだった。
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