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第三章
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「淳奈、いらっしゃい」
五条岩城実言邸の離れの庭の前にある階の前で芹が淳奈に手招きした。
淳奈は弾けんばかりの笑顔で母の元に走って来た。芹はしゃがんで両手を広げ、淳奈を受け止めた。
池に投げられるという事件は、幸いにも幼い淳奈の記憶に残ることはなく、毎日元気に過ごしている。
無邪気な淳奈の笑い声だが、芹は少し心配だ。淳奈の体をきつく抱き締める。芹と淳奈の傍には、従者の天彦がぴったりとついている。
実津瀬はちょうど母屋から離れに渡ってきたところで、簀子縁から庭で遊ぶ妻と息子の様子を眺めていた。
芹は流産したことを気に病んで、塞ぎがちで食も細くなっている。
芹には弟を野盗に殺された過去がある。一緒に逃げた自分が弟の綾戸を助けられたのではないか、と自分を責めていた芹だから、どんなに実津瀬が言葉を尽くして流産したことに芹は悪くないと言っても自分に落ち度があったと責めて、自分に罰を与えなくてはいけないと考えそうになる。
それは母の礼も心配をして、実津瀬を呼んで芹のために一つ提案が示された。
それは、束蕗原に行くことだった。束蕗原は礼の叔母が住み、医者として活動している土地だ。礼も若いころに、そこで過ごして薬草の勉強をした。叔母は母親同然の人で、年に一、二度、束蕗原に行って一緒に過ごし、その元で薬草のさらなる勉強をするのが目的だ。
束蕗原は豊かな土地で食べる物が豊富で温泉もあり、体を休めるにはいいところだ。気持ちが塞がっている芹の心と体を癒すのに良い場所と思った。
「芹、淳奈」
二人が抱き合って笑い合っているのを見ると、実津瀬は逃げた男が性急なことをせず、二人を離してくれたことを幸運に思った。
簀子縁に立つ実津瀬を二人が笑顔で振り向き、手を繋いで階を上がって来た。
階を登り切ったら、淳奈は母の手を放して、父のところに一直線に走って来た。
「淳奈は本当に元気な子だ」
実津瀬は淳奈を抱き上げて言った。芹はゆっくりと実津瀬に近づいて来た。
「お帰りになっていたの」
芹が訊ねた。
「母上に呼ばれてね、話していた。今こちらに来たところだ」
実津瀬は芹と一緒に部屋の奥へと入って行った。
「母上がね、今度、束蕗原に行くそうだ。それで、芹も一緒にどうかと言われてね。ほら、一緒に住み始めてすぐに行っただろう。小高い丘の上に邸があって、そこから見える美しい景色。温泉があって、二人で入って温まった。あそこは、体を休めるのはいい場所だから、淳奈と一緒に行ってみてはどうかな。私も一緒に行って、数日過ごそうと思うんだ」
話し終わると実津瀬は侍女の槻が用意した円座の上に座った。芹もその前に座って、考えている。
「おかあしゃま」
淳奈は実津瀬の腕から、芹の膝へと移動した。芹は淳奈の手を取って、自分の膝の上に実津瀬の方へ顔を向けて座らせる。
「束蕗原……とても良いところだった。そこへ……私と淳奈と」
「そう。少し気分を変えるんだ。あなたに元気になってもらいたいからね」
芹は頷いた。
「行ってみたいわ」
「よかった。では、準備を始めようか。母上は二月くらい行くつもりらしいからね」
「まあ、それほど……実津瀬と離れ離れになってしまうのね」
「大丈夫だよ。あそこは馬で行けば半日でいける。何度も会いに行くさ」
芹の手を握ろうと手を伸ばしたら、間にいた淳奈が自分の小さな手を差し出した。芹もその手は淳奈を抱えている自分の手を握るために差し出されたと分かったが、かわいい淳奈が奪ってしまった。実津瀬は淳奈の手を握って、芹と目を合わせて笑い合った。
その夜。
一つの衾の中で寝る実津瀬と芹ではあるが、実津瀬はあの事件以来、芹を抱けていない。流産した芹の体の回復を待つのは当たり前だが、体はもう心配ないとなっても、芹の心、気持ちの回復に時間がかかっている。今も、芹は心の中に暗い思いを抱えている。実津瀬の腕が伸びて抱き寄せると、その中へと飛び込むが、帯を解かれることは拒む様子が見える。実津瀬は感じ取って無理やりなことはしない。
芹を腕の中に抱くと、芹も両手を実津瀬の脇から背中に回して、少しのことでは離れないという意思表示のように、きつく抱きついて来る。
今の芹ができる精一杯の実津瀬への愛情表現だとわかるから、実津瀬も抱き返して、自分の顔に近づいた額に唇を押し当てた。
この三年あまりを同じ屋根の下で暮らしてきた妻とは様々なことを一緒に経験してきた。その中で、お互いの知らない一面を見て驚き、理解し、一部は愛着へと変わった。育んできた愛情があるから、実津瀬は芹の気持ちが上向くのを待つことができる。芹と離れるなんてことは思い浮かぶこともない。芹は束蕗原に行って、自分の心を見つめて、都にはない解放感や人との交流で辛い気持ちがふっ切れるはずだ。
それにしても、蓮は……。
実津瀬は蓮がどんな思いを持って、五条に帰って来たのかはわかっている。
しかし、あんなにお互いのことを思い合っている蓮と景之亮殿が離れ離れになるなんて、考えも及ばなかったことだ。蓮は大きな声で景之亮殿を好きじゃなくなった、なんてことを言っていたが、そんなこと誰も信じる者はいない。
蓮も景之亮殿も今でも心の中はこれでよかったのか、と思い悩んでいるのではないか。
原因が子どもとは。
芹にすぐに子供ができたから、我々には蓮たちのような悩みを抱えることはなかった。
これは幸運なことなのだろう。
そして、その幸運が再び……二人目の子を身籠った芹は、その命が守れなかったことを悔やんでいる。同じ過ちが起こるのが怖くて、実津瀬の情欲を受け入れることを恐れている。その反面、実津瀬を愛する気持ちは溢れている。
今だって、実津瀬が押し当てた唇を離したら、芹は顔を上げて実津瀬の顔を見た。恥ずかしそうな嬉しそうな表情を見せたかと思うと、首を伸ばして実津瀬の唇に自分のそれをそっと重ねた。実津瀬は一瞬強く吸ってすぐに離し、芹の背中を何度もさする。
近いうちに芹は恐れを乗り越えて、私を愛してくれるだろう。
と実津瀬はその時を待つことにしている。
五条岩城実言邸の離れの庭の前にある階の前で芹が淳奈に手招きした。
淳奈は弾けんばかりの笑顔で母の元に走って来た。芹はしゃがんで両手を広げ、淳奈を受け止めた。
池に投げられるという事件は、幸いにも幼い淳奈の記憶に残ることはなく、毎日元気に過ごしている。
無邪気な淳奈の笑い声だが、芹は少し心配だ。淳奈の体をきつく抱き締める。芹と淳奈の傍には、従者の天彦がぴったりとついている。
実津瀬はちょうど母屋から離れに渡ってきたところで、簀子縁から庭で遊ぶ妻と息子の様子を眺めていた。
芹は流産したことを気に病んで、塞ぎがちで食も細くなっている。
芹には弟を野盗に殺された過去がある。一緒に逃げた自分が弟の綾戸を助けられたのではないか、と自分を責めていた芹だから、どんなに実津瀬が言葉を尽くして流産したことに芹は悪くないと言っても自分に落ち度があったと責めて、自分に罰を与えなくてはいけないと考えそうになる。
それは母の礼も心配をして、実津瀬を呼んで芹のために一つ提案が示された。
それは、束蕗原に行くことだった。束蕗原は礼の叔母が住み、医者として活動している土地だ。礼も若いころに、そこで過ごして薬草の勉強をした。叔母は母親同然の人で、年に一、二度、束蕗原に行って一緒に過ごし、その元で薬草のさらなる勉強をするのが目的だ。
束蕗原は豊かな土地で食べる物が豊富で温泉もあり、体を休めるにはいいところだ。気持ちが塞がっている芹の心と体を癒すのに良い場所と思った。
「芹、淳奈」
二人が抱き合って笑い合っているのを見ると、実津瀬は逃げた男が性急なことをせず、二人を離してくれたことを幸運に思った。
簀子縁に立つ実津瀬を二人が笑顔で振り向き、手を繋いで階を上がって来た。
階を登り切ったら、淳奈は母の手を放して、父のところに一直線に走って来た。
「淳奈は本当に元気な子だ」
実津瀬は淳奈を抱き上げて言った。芹はゆっくりと実津瀬に近づいて来た。
「お帰りになっていたの」
芹が訊ねた。
「母上に呼ばれてね、話していた。今こちらに来たところだ」
実津瀬は芹と一緒に部屋の奥へと入って行った。
「母上がね、今度、束蕗原に行くそうだ。それで、芹も一緒にどうかと言われてね。ほら、一緒に住み始めてすぐに行っただろう。小高い丘の上に邸があって、そこから見える美しい景色。温泉があって、二人で入って温まった。あそこは、体を休めるのはいい場所だから、淳奈と一緒に行ってみてはどうかな。私も一緒に行って、数日過ごそうと思うんだ」
話し終わると実津瀬は侍女の槻が用意した円座の上に座った。芹もその前に座って、考えている。
「おかあしゃま」
淳奈は実津瀬の腕から、芹の膝へと移動した。芹は淳奈の手を取って、自分の膝の上に実津瀬の方へ顔を向けて座らせる。
「束蕗原……とても良いところだった。そこへ……私と淳奈と」
「そう。少し気分を変えるんだ。あなたに元気になってもらいたいからね」
芹は頷いた。
「行ってみたいわ」
「よかった。では、準備を始めようか。母上は二月くらい行くつもりらしいからね」
「まあ、それほど……実津瀬と離れ離れになってしまうのね」
「大丈夫だよ。あそこは馬で行けば半日でいける。何度も会いに行くさ」
芹の手を握ろうと手を伸ばしたら、間にいた淳奈が自分の小さな手を差し出した。芹もその手は淳奈を抱えている自分の手を握るために差し出されたと分かったが、かわいい淳奈が奪ってしまった。実津瀬は淳奈の手を握って、芹と目を合わせて笑い合った。
その夜。
一つの衾の中で寝る実津瀬と芹ではあるが、実津瀬はあの事件以来、芹を抱けていない。流産した芹の体の回復を待つのは当たり前だが、体はもう心配ないとなっても、芹の心、気持ちの回復に時間がかかっている。今も、芹は心の中に暗い思いを抱えている。実津瀬の腕が伸びて抱き寄せると、その中へと飛び込むが、帯を解かれることは拒む様子が見える。実津瀬は感じ取って無理やりなことはしない。
芹を腕の中に抱くと、芹も両手を実津瀬の脇から背中に回して、少しのことでは離れないという意思表示のように、きつく抱きついて来る。
今の芹ができる精一杯の実津瀬への愛情表現だとわかるから、実津瀬も抱き返して、自分の顔に近づいた額に唇を押し当てた。
この三年あまりを同じ屋根の下で暮らしてきた妻とは様々なことを一緒に経験してきた。その中で、お互いの知らない一面を見て驚き、理解し、一部は愛着へと変わった。育んできた愛情があるから、実津瀬は芹の気持ちが上向くのを待つことができる。芹と離れるなんてことは思い浮かぶこともない。芹は束蕗原に行って、自分の心を見つめて、都にはない解放感や人との交流で辛い気持ちがふっ切れるはずだ。
それにしても、蓮は……。
実津瀬は蓮がどんな思いを持って、五条に帰って来たのかはわかっている。
しかし、あんなにお互いのことを思い合っている蓮と景之亮殿が離れ離れになるなんて、考えも及ばなかったことだ。蓮は大きな声で景之亮殿を好きじゃなくなった、なんてことを言っていたが、そんなこと誰も信じる者はいない。
蓮も景之亮殿も今でも心の中はこれでよかったのか、と思い悩んでいるのではないか。
原因が子どもとは。
芹にすぐに子供ができたから、我々には蓮たちのような悩みを抱えることはなかった。
これは幸運なことなのだろう。
そして、その幸運が再び……二人目の子を身籠った芹は、その命が守れなかったことを悔やんでいる。同じ過ちが起こるのが怖くて、実津瀬の情欲を受け入れることを恐れている。その反面、実津瀬を愛する気持ちは溢れている。
今だって、実津瀬が押し当てた唇を離したら、芹は顔を上げて実津瀬の顔を見た。恥ずかしそうな嬉しそうな表情を見せたかと思うと、首を伸ばして実津瀬の唇に自分のそれをそっと重ねた。実津瀬は一瞬強く吸ってすぐに離し、芹の背中を何度もさする。
近いうちに芹は恐れを乗り越えて、私を愛してくれるだろう。
と実津瀬はその時を待つことにしている。
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