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第二章

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 五条の邸に来た蓮が、一泊した後も一向に鷹取の邸に帰らない。迎えが来るでもなく、夕方になる。夫である景之亮が宿直で邸を空ける時、泊まることはあるから不思議なことはないが、景之亮の傍が自分の居場所と、一晩泊まればすぐに帰って行くのが常なのに。
 母の礼や妹弟たちは、考えた。景之亮が忙しく、蓮はもう一泊していくつもりか……それとも。
「姉さまは景之亮様と喧嘩でもしたのかしら?」
 妹の榧が言うと、弟の宗清が返事をした。
「そんなことはないよ。二人が喧嘩したなんて聞いたことないんだから。今更どんな理由で喧嘩をするんだよ」
 写した本を届けに来て、兄弟たちと話をして過ごしていると、宮廷から下がった景之亮がこの五条に迎えに来る。一緒に寝て、朝別れただけだろうに、長い間離れ離れだったように、再会を喜び、仲良く肩を並べて鷹取の邸に帰って行く。喧嘩しても、邸に戻らないほどのひどいことにはならないはずだ。
「では、どうして姉さまはあんなに寂しそうな顔をしているの……」
 宗清は黙って、庇の間に座ってぼんやりと庭を眺める蓮の姿を、簀子縁から見つめた。
 それは誰にも分らなかった。
 蓮が何を考えてここにいるのか。なぜ、今にも泣き出しそうな顔をしているのか。
「姉さま、お母さまがこの薬草を分けておいてというの。一緒にお願い」
「いいわよ。やりましょう」
 榧は宗清と別れて、医者見習いの女二人と山盛りに薬草が入った大きなざるを持って庇の間に入った。
 蓮と榧が横に並び、その向かいに見習いの女二人が並んで二人が薬草を一定の量に分けて、書き損じた紙、破れた紙を再利用して、その紙に載せていく。この邸にいた時から蓮はよくこの作業をしていたから、手慣れたものだ。このくらいの量とわかっていて、干した薬草を手に取っては紙の上に載せた。榧はそれを包んで箱の中に収めていく。その作業が終わると、見習いの女たちはざるや箱を持って部屋から出て行った。
 部屋に残った榧は言った。
「姉さま、体の調子が悪いの……」
「……そんなことはないわ。どうして?」
「ならいいのだけど……姉さまらしくないもの」
 榧の言葉を聞いて蓮が視線を落とした時に、玄関から蓮を呼ぶ声がした。
 蓮は顔を上げ、立ち上がると後づ去りした。
「姉さま!景之亮様よ!」
 榧は逃げるように奥の部屋に行く姉に言った。姉が好きで好きでしかたのない夫が迎えに来たのだから当然喜ぶはずなのに、蓮は顔を引きつらせて几帳の陰に身を置いた。
「蓮!」
 景之亮が庭から蓮が使っている部屋の前に現れた。
「蓮!」
 急いで来たらしく景之亮は息を切らし、額から汗を幾筋も垂らしていた。
「蓮、迎えに来たよ。一緒に帰ろう!」
 景之亮は叫んだ。それに対して姉の言った言葉に、榧は驚いた。
「いいえ。帰りません!……私は、景之亮様の元にはもう帰らないと決めたの!」
「何を言うんだ。冗談は……」
「冗談でこんなことを言ったりしないわ。本気です!もう景之亮様とは暮らさない……」
「宇筑叔父上のことだね。叔父上があなたにひどいことを言ったのだろう。悪かった。叔父上が蓮にひどいことを言っていたなんて知らなくて。情けないことだ。叔父上には二度と言わせない。蓮を叔父上から守る。もう一度私にその機会をおくれ!」
「宇筑殿のことは関係ないわ。私が……私が自分で考えて決めたことよ」
 宇筑が関係ないというのは、突き詰めれば嘘になる。しかし、蓮はそれを認めたくなかった。あの人によって決められたことではない。自分が決めたことだ。
 蓮のこれから、景之亮のこれから、幾通りの道を考えた。思い通りにこれからが進むわけではないが、こうなりたい、こうしたいというこれからを叶えるための最善の道を選ぶことにした。
「蓮……子供のことかい……子供ができないことを気に病んでいるのか。まだ、子供ができないと決まったわけではないだろう。それに、もし、子供ができなかったならば、親戚から子供を迎えて育てよう。私はそれでいい。私は蓮と一緒にいたいんだよ」
 景之亮は階を上がり、庇の間に入って、蓮が隠れている几帳に向かって話し続けた。
 榧は景之亮の後ろに座って、二人の言葉を聞いていた。
その時には、この騒ぎを聞きつけた母の礼が道を隔てた診療所から帰って来て、簀子縁でこの様子を見ていた。
「いいえ、違うわ。私はもう、景之亮様と一緒にいたくないの!」
 蓮は大きな声で言い放った。
 子供ができないから、と言えば必ず景之亮は子供はいらないということはわかっている。それなら両家の親戚の子供をもらって育てようということもわかっている。蓮は子供を生せないから、身を引くなんてことは口が裂けても言いたくない。景之亮が発する引き止める言葉を失くすためにはこの一つを唱えるしかなかった。
「景之亮様のこと、もう、好きではないの」
しかし、一回言うことに、蓮は身を切られる思いだ。蓮にだけ見える傷口からどくどくと血が流れる。耐え難い痛みを伴って。
「蓮……どうしたというのだ……なんでも私に話してくれていたはずじゃないのか……そんな様子は何も見せず」
 宿直に行く前の夜。蓮の様子に何の変化もなかった。今、こんなことを言い出すような予兆はおくびにも見せていなかった。褥に寝そべり、蓮の体を抱いて性愛の行為に耽った。蓮は拒むことなく、いつもの通りだった。眠りにつく前に景之亮の頬に手を当て、じっくりとその瞳を見つめている。真っ暗の中、光を集めた蓮の瞳が揺れている。景之亮も見つめ返した。
声にしなくても、景之亮の耳には聞こえるのだった。
 愛している
 という蓮の声が。
 宿直に送り出すときも、着替えを一つ一つ手伝ってくれた。下着をつけ、上着を着て、帯を結んでもらうところまで阿吽の呼吸で蓮と一緒にやった。無事に帰って来て、と言って見送ってくれた。
 蓮の言う言葉は嘘だと分かっているのに、その言葉を嘘だと覆せない。
「いくらでも嘘はつけます。その気になれば、景之亮様を騙すこともできるわ」
「何を言うんだ。あなたはそんな人ではない。嘘なんてつける人ではないよ」
 景之亮は思った。心と態度を違うようにできるはずはない。どこまでも自分の心が現れた態度をとるのが蓮なのだから。
「一緒に帰ろう……蓮」
 景之亮は膝で進み、几帳へと近づく。
「やめて!来ないで!」
 蓮は床が鳴って、景之亮が近づいていることが分かった。
「それ以上近づいたら、私は自分で自分を刺します」
 蓮は懐に入れていた小刀を取り出し、急いで包んでいた布をはぎ取ると、几帳の端から手だけを突き出して見せた。
 景之亮に本当に刀を持っていることを知らせるためだ。
「蓮!そんなものを持って!」
 景之亮は驚いて声を荒げた。
 蓮は鷹取の邸の机の上に景之亮への決別の手紙を置いた時に、これを見つけて読んだ景之亮がここにすっ飛んでくることを想像した。何もしなければ、力づくで鷹取の邸に連れ戻されてしまうと思ったから、小刀を忍ばせていた。本来なら、景之亮の見つけられない場所に身を隠すべきなのだろうが、そんな場所は見つけられなかった。仕方なく、実家に戻って、こんな刃物を振りまわすことになった。
「私は本気よ!」
 蓮は几帳の端からもう一方の手を突き出し、小刀の刃を腕に当てた。蓮も興奮して刀を持った手がぐらぐらと揺れていて、誤って本当に自分の腕を傷つけてしまいそうになった。
「やめろ!刀を下ろすんだ」
「では、景之亮様も離れて!」
「蓮!」
「離れてくださらないなら、刺します」
 今度は小刀を持ち替えて、柄を両手に持って刃を自分に向けた。その様子が几帳に影となって映り、景之亮は青くなった。
「わかった、わかった」
 景之亮は三歩ほど後づ去りした。
 蓮は景之亮の気配が遠ざかったことを感じて、小刀を下ろした。
「景之亮様、私はこんな勝手な女なの!関わり合わない方がいいわ。もうこれまでよ」
「蓮!」
 嘘ばかり言わないでくれ!
 景之亮は蓮の名を呼ぶ声に思いを込めた。
 その時には、この騒ぎが五条の邸全体に広がって、離れから実津瀬が渡殿を渡って、簀子縁の立ちすくんでいる母の後ろまで来ていた。夫婦の部屋からは父の実言が出て来て、礼と実津瀬がいる反対側の簀子縁に立っていた。
「帰って……私の気持ちが変わらない」
「私は蓮のことを思う気持ちは変わらないよ……この邸であなたに初めて会った時から、好きだ。我が邸に迎えたのは、どんなことがあろうとも一緒にいたいと思ったからだ」
「何を言われても無駄……私は決めたの!」
「蓮!」
 景之亮のひときわ大きな声に、蓮は心を揺さぶられる。
 景之亮への愛慕の気持ちが湧き上がる。それを断ち切るために蓮は、自分を傷づけなくてはいけないと思った。
 下ろした小刀を握り、振り上げる。
「わかった、蓮!よせ。自分を傷つけてはいけない」
 景之亮は立ち上がった。
「帰るよ」
 そう言った景之亮の声は、今までの蓮を翻意させるための熱のこもった声とは対照的で、ひどく冷めたように聞こえた。
 景之亮は庇の間でこのやり取りを見ていた榧に向いて頭を下げた。
「恐い思いをさせたね、榧。すまない」
 そうして、簀子縁に出た。そこには蓮の父母と兄が立っていた。
「実言様、礼様、お騒がせして申し訳ありません。今日は帰ります。明日、また参ります」
 実言も礼も頷くだけで言葉なく、景之亮を見送った。
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