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第二章

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 しかし、蓮の思い通りに物事は進まない。
 宇筑が丸に向かって、景之亮に他に女を作れと言え、と話していたのを聞いてから半年が経ったが、蓮の体に変化はない。
 景之亮は変わることなく、蓮の傍にいて、愛してくれているが。
 丸は景之亮に宇筑の提案を伝えただろうか。また、宇筑自身から景之亮に話をしただろうか。
 景之亮にその話が伝わったような様子はない。たとえ話を聞いても景之亮はそのことをおくびにも出さないだろうけれど。
 蓮は、体の変化がないことに落ち込む気持ちを立て直そうと、写本に没頭しようとした。しかし、部屋に座っていたら、子ができない自分を呪い、なぜ、という果てしない問答に支配されそうになる。
 蓮は庭に下りて歩いて回った。五条の邸の庭とは比べものにならないが、みんなで草を抜いて、落ち葉を拾いと手入れをした思い入れのある庭だ。季節ごとに咲く花が途切れないようにしていて、蓮はその時期に咲く花を見つけて歩くのが好きである。
 五条の離れの庭では走りまわる淳奈の姿があった。少し遠くに行っては、階の一番下に座る母の元に帰って来る。満面の笑顔で母の差し出す手の中に走り込んでくる。
 蓮は階の上からその様子を見つめていた。
 きっといつか自分もこの庭を駆け回る我が子と追いかけっこやかくれんぼをするはずだ。
 蓮は庭の奥にそびえる大木の楠の元にしゃがんで、まだ叶わない思いを夢想する。
 ひとときをその場で過ごしたが、肌寒い風が吹いて、空はいまにも雨が降り出しそうな暗い色に変わっている。
 蓮は立ち上がって部屋に戻る途中、台所から男の声がした。
 宇筑叔父上だわ……。
 その声はすぐにわかった。丸を訪ねて来たのだ。
 宇筑が丸を訪ねて来たということは、景之亮の例の件について聞きに来たのだろう。
 蓮は二人の会話を聴くために立ち止まった。
「丸……景之亮は何か言っていたか?」
「何をでございますか?」
「わしは宮廷であいつをつかまえて、壁際に連れて行って話したのだ。……岩城の娘が来て、二年も経ったというのに、子が生せないのはなぜかと。他に情を交わす女を作ってもいいのではないか。一人の女と添い遂げるなど、そんな男は稀である。他に女がいることは何も罪なことではない、とな」
「旦那様は何とおっしゃったのですか?」
「……何も、何も言わなかった。それはわしの話を受け入れたわけではないが、否定したわけでもない」
 丸はあえて反論はしないが、景之亮が恩義のある叔父の言葉は大っぴらに否定してはいけないと思って何も言わなかっただけで、その心は蓮以外の女人など少しも考えていないとわかる。
「……黙っていたということは、旦那様は他の女人のことなどお考えではないですよ。宇筑様、どうかそっと見守っていていただけないでしょうか」
蓮は宇筑と丸の声を聞き取ろうと、台所の方へと近づき、自分の身を隠してくれる低い木が立ち並んだ柵の元にしゃがんだ。枝の間から丸が台所から庭の方へ出て来て、宇筑と二人で話をしている姿が見える。
「それは違う。最初から口やかましくなど言っていない。わしは見守って来た。そして二年が経った。わしはもう我慢ができない。景之亮が岩城家を気にして新しい女人を迎えられないのであれば、そこは叔父のわしが何とでも言ってやる、矢面に立つから気にすることはないのだ」
 蓮は耳を澄ます。
「どうかできないものか……あいつは優しい男だからな、間違いでも通じてしまったら、その女を無碍にはできないであろう。何か……何か策はないか」
 蓮は息をのんで、宇筑の話を聞いていた。景之亮は騙されて女人と通じてしまったら……宇筑の言うように一度の間違いにはできないかもしれない……。
 蓮は宇筑の計画を聞いて、気持ちの高ぶりを抑えるために目の前の枝を掴んだ。
 ぽきっという音がして、丸は目の前の宇筑から後ろの庭へと視線を移した。目の前には人の背丈ほどの木が連なって台所と庭の目隠しをしている。何もないように見えたが、丸は邸の使用人の誰かが聞いているかもしれないと思い、念のため宇筑の傍を通って木に近づいた。口さがない侍女や婢が少なからずいるのだ。
「……れ……」
 その名を呼びそうになって、口をつぐんだ。
「……なんだ?丸?」
 丸の驚いた声に、宇筑が反応した。
 丸はこの木の向こうに人がいることを宇筑に知られないように引き返して、何もなかったことにしようとした。
 今の話を聞いていただろう蓮を宇筑の前に出してはいけない。
「い・……いいえ」
 丸は踵を返して、宇筑に振り向いた時、枝が揺れる音がした。振り返ると、隠れていた蓮が枝につかまって立ち上がり姿を現していた。
 丸は蓮の姿を見て、すぐに後ろの宇筑に振り返った。
 宇筑も木の後ろから姿を現した蓮を目を見開いて見ている。
「……蓮様……」
 丸は蓮にどのような言葉をかけたらいいかわからない。
「……旦那様は……」
 丸は蓮と子を授かれないことを話したことはなかったが、その気持ちは推して量れるものだった。邸には使用人夫婦の子供がいるが、外で遊んで泥だらけになったところに、自分の衣服が汚れるのも厭わず、その手足を洗って、古着を縫い直して作った服を着せて、と。母親に成り代わったような様子に、子供が好きなことがよくわかった。
 今、何と言ってこの場を収めることができるだろうか。
「いいのよ、丸。……景之亮様のことを景之亮様の次にわかっているのは私。だから、景之亮様が宇筑殿のお話を本気で考えたりしないとわかるわ。……それより、宇筑殿、陰で丸にいろいろと言って困らせないでください。丸が可哀そうです。申し訳ないですが叔父上は少しばかり口をつぐんで見まもってくださいな」
 きっと心持ち吊り上がった目が真正面から宇筑を見据えて蓮は言った。
 勝気な性格が蓮の口をつぐませない。気持ちの高ぶりが手を震えさせて、それを抑えるために右手で左手の甲を上から握った。
 蓮の登場にバツが悪そうな顔を見せた宇筑だったが、次第にふてぶてしい表情に変化し口を開いた。
「言葉を返すが……子がいなければ一族は途絶える。わしの兄が亡くなっても幼い景之亮がいたから、わしは景之亮を支えて、手を尽くして鷹取を守ることができた。わしはわしが支え守ってきたものが永劫続くことを望んでいる。岩城の娘と言っても、その願いを叶えられないのであれば、ありがたくもない。景之亮は岩城の娘の夫になり箔が着いただろうが、それだけだ。あなたも努めを果たせないのであれば、景之亮の子ができるように、景之亮に他の女を勧めてみるものだ。または、自分の身をわきまえて、身を引いたらどうだ。それでなくても景之亮と夫婦になる前、あなたは馬に乗って大王に謁見する行列を蹴散らし、男のところに向かったという噂を聞いたことがある。その男とは叶わぬ仲であったとか。その後、別れた男の手垢にまみれたあなたを王子のところには嫁がせられないと岩城殿は景之亮に押しつけた。あれは、妬み嫉みの虚言と思っていたが、あながち嘘ではなかったということか。前の男との間に人には言えない業を背負って、子ができないのではないか?」
「宇筑様!何をおっしゃいますか!」
 宇筑の言葉に、丸は悲鳴を上げて割って入った。
「……私は……私は……」
 蓮は何か反論したいが、気持ちが言葉にならなかった。
「蓮様、お部屋に行きましょう。宇筑様、どうか、今日はお帰りくださいまし」
 蓮は丸に支えられて、部屋の前の階を登った。庇の間を通って、奥の部屋に入る。机の前に座って、その上に突っ伏した。水の中から水面に上がって来て、急に息ができるようになったように、咳き込んだ。
「蓮様、大丈夫ですか?」
 丸は後ろに回って、蓮の背中をさすった。侍女の曜も部屋に入って来て、肩をそびえさせて苦しんでいる蓮の傍に駆けつけた。
 外では静かに雨が降り始めた。蓮の気持ちを表しているようである。
 侍女二人に背中をさすってもらっていると、蓮は次第に落ち着いて来た。
「……大丈夫……もう大丈夫よ」
 蓮が言うと、曜は傍に置いていた水差しから椀に水を注いで蓮へと手渡した。
「どうぞ、蓮様、お飲みください」
 蓮は一口水を含んで、飲み込むと、椀を曜に返した。
「……ありがとう、二人とも。少し横になって休みたいわ。疲れちゃったみたい」
 丸と曜が左右から蓮を支えて、褥の上へと運んだ。
 蓮は帯を緩めて、横になる。丸と曜が立ち上がって部屋を下がろうとするとき、蓮は丸を呼んだ。丸が跪いて、蓮に耳を近づけた。
「景之亮様には言わないで……私は大丈夫よ」
 丸は心配そうな表情を見せたが、蓮の勝気な性格が出て、ぐっと丸を睨むように見た。
「……わかりました」
 丸は言うと立ち上がり、庇の間で待っていた曜と一緒に部屋を出て行った。
 蓮は目を閉じた。
 思ってもみないことを宇筑から言われた。
 まだ自分が子どもだったころ、初恋の相手が留学生として異国に旅立つことを知って、滞在している束蕗原に馬で追いかけて行ったことが、世間にはすでに男と通じた不埒な娘のように噂されていたことを初めて知った。初恋の相手とは、蓮はそれを望んだが結局何もなかった。これから異国へと旅たち、生きて帰ってこられる確証もないからと、蓮の気持ちを受け入れることはなかったのだ。
 宇筑が言った噂話を景之亮も知っているのだろうか。知っていたのなら、これまで私のことをどう思っていたのかしら……。
 蓮は少しばかりまどろんだ。
 どれくらい経ったのだろうか……。
 目が覚めて、ゆっくりと目を開けると、枕元に景之亮が座って蓮の顔を心配そうにのぞき込んでいた。
「景之亮様!」
 蓮は慌てて起き上がろうとしたが、景之亮が肩を押さえて止めた。
「曜から聞いたよ……。急に気分が悪くなったんだって?」
 蓮は頷き、今度はゆっくりと体を起こした。
「はい……。でも、横になっていたら良くなったわ」
「そうか……。無理をしてはいけないよ」
 部屋の中は暗がりが広がっている。陽が沈みかけているのだ。
「どれくらい私を見ていたの?起こしてくださればよかったのに」
「どれくらいかな……蓮の体が大事だ……私の世話や、五条のお邸からの頼み事など忙しかったのだろう。ゆっくり休めばいいよ」
 蓮の右手を握って微笑んだ。
 その夜、いつものように蓮は景之亮の腕の中で眠る。景之亮は追加して何も聞かないが蓮のこと気遣っているのがわかる。蓮は景之亮の胸に埋めた顔を上げて言った。
「私はあなたの期待に応えたいわ」
「ん……何を?……何を言っているの……蓮がこうして傍にいてくれるだけで私は満足しているよ」
「ううん。なんでもないわ」
 蓮は目をつむって、ゆっくりと眠りに落ちて行った。
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