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第1部あなた
第三章16
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珍しく実津瀬は机について書物を読んでいた。
新年を迎えたら、正式に宮廷に出仕すると言われている。今はより心して勉学に励む時だと、真面目に取り組んでいた。そこに、静かに簀子縁を歩いてくる音がする。
実津瀬は身が入らないせいか、すぐに気づいて顔を上げた。すると、庇の間に父の実言が一人で入って来るところだった。
「あれ、すぐに気づいた。集中が足りないね」
実言は、几帳の陰から実津瀬の机の上を見て行った。
「父上、どうしたのですか?」
父がここに来たのは、きっと芹のことだろう。昨日、使者を送ってくれたから、その返事が早速届いたのかもしれないと思った。
「須原の娘のことだけど」
やっぱり、と実津瀬は思い、円座を用意して、その上に父を招いた。
「須原正美自身が先ほどわざわざこの邸を訪れたものだから、何事かと思ったらね。お前が気に入っている娘は、どうもこの縁談を嫌だと言っているらしい。あの娘には妹がいるのだろう。強情な娘で手を焼いているだのなんだのと、言っていたけど要は代わりに妹はどうだと言うわけだ。姉妹は同じ母親らしいので、顔もよく似ているのだと。そうなの?」
そう訊かれて、実津瀬は妹の顔を思い出そうとした。寂しそうに笑う芹の顔はすぐに思い浮かぶのに、妹のことはよく思い出せない。
「どう?実津瀬。明日の約束はこのままでいいかい。来る相手は違うけど」
実津瀬は考えた。
芹の心はそこまで頑ななのか。前回、素直に左手を取らせてくれたことで、少しは心境の変化があるかと思ったが、そう簡単なものではなかったようだ。
「……私は、姉がいいので、妹が来るなら明日はなかったことにしてください」
「うん。そう言うと思ったよ」
実言は目を細めて言った。
結局、実津瀬は父が須原家に届け物を頼んだことは、芹または妹と自分を会わせるために仕組んだことなのか聞けていなかった。でも、父のことだからさも偶然で本当は仕組んだのだと思う。選ぶのは姉妹のどちらでもいいと思っているのかもしれないが、実津瀬が気になるのは断然姉であることは承知のことだろう。わざわざ、こうして訊くのもどうかと思う。
「それにしても嫌われたものだね……。何を言ったの?何をしたの?もしかして、事を急いて押し倒したりしたのかい」
冗談とわかっていても、実津瀬は慌てて否定した。
「まあ、そんな乱暴なことはしないとわかっているけど、どうしたものかね。女人にはことさら優しい男のはずなのに。その姉にはお前は好みじゃないのかね」
首を傾げて実言は言った。
実津瀬には芹が拒んでいる理由はわかっている。芹の心を縛っているものを解き放つ自信があったのだが、前回の話だけでは芹の心は変わらなかったということだ。自分の力だけでは、芹を助けることはできないのかもしれない。または、芹が本当にそれを望んでいないということだ。
芹との縁はなかったと、ここで断ち切るしかないのか。
「じゃあ、須原家に使いを出そう。残念だが、この話は終わりだとね」
立ち上がって部屋を出て行く父を簀子縁まで一緒に出て見送った後、階の下まで降りて、頭上に広がる秋の清々しい青空を見上げて、大きく伸びをした。
すると、そこへ蓮が庭を歩いてきた。
「あら、実津瀬、浮かない顔ね」
「ん?悪いかい」
「実津瀬の思い人の邸から人が来たらしいけど、実津瀬の思うようにはいかないようね」
「どうして知っている?」
「私にも間者がいるのよ」
と蓮は言った。
きっと、父に近い仲良しの侍女からでも聞いたのだろう。
「でも、残念。妹の私がいうのもなんだけど、実津瀬は優しい人なのに断るなんてね。うっかり何か嫌われるようなことを言ったの?」
父といい、この妹といい、褒めながらもけなしてくるのだから。
「失恋の後はいいことあるかもよ。落ち込まないで」
失恋の先輩だ、と自負しているのか蓮は実津瀬を元気づけるように言った。
「これからどこかに行くの?」
「ええ、景之亮様と馬に乗って、少し遠出をしようと言う話になったの」
「景之亮殿は?」
実津瀬はきょろきょろとあたりを見まわした。
「お父さまのところに行ったわ。来客が終わったら、実津瀬のところに行ったと聞いて、実津瀬との話が終わるまで待っていたの。律儀な方だから、お父さまがいるときは会わないと気が済まないのよ」
そう言っていると、庭に景之亮が現れた。
「ああ、待たせたね。どうしても実言様と話がしたかったのだ」
景之亮は言って、蓮の前にいる実津瀬に気づいた。
「実津瀬殿!」
と言って、少し憐れむような表情をした。
実津瀬は景之亮も父から聞いたのだと察した。
「聞きましたよ。どうしてあなたの良さがわからないのか……もしかして……何か気に障ることでもしたの?」
景之亮にも冗談半分に落とされて、実津瀬は吹き出した。
「もう、みんなして私を笑いものにして」
「実津瀬、帰ってきたら話しましょう!ね!」
蓮もつられて笑いながら景之亮の腕を取り、二人は実津瀬の前から去って行った。
実津瀬は、みんなに本当に笑われているなんて思っていない。雪のことから早くも立ち直り、新しい恋を見つけた自分を応援してくれているのだと思っている。
でも、その恋は破れたのだ。
実津瀬は秋空をもう一度見上げて、部屋の中へと入って行った。
新年を迎えたら、正式に宮廷に出仕すると言われている。今はより心して勉学に励む時だと、真面目に取り組んでいた。そこに、静かに簀子縁を歩いてくる音がする。
実津瀬は身が入らないせいか、すぐに気づいて顔を上げた。すると、庇の間に父の実言が一人で入って来るところだった。
「あれ、すぐに気づいた。集中が足りないね」
実言は、几帳の陰から実津瀬の机の上を見て行った。
「父上、どうしたのですか?」
父がここに来たのは、きっと芹のことだろう。昨日、使者を送ってくれたから、その返事が早速届いたのかもしれないと思った。
「須原の娘のことだけど」
やっぱり、と実津瀬は思い、円座を用意して、その上に父を招いた。
「須原正美自身が先ほどわざわざこの邸を訪れたものだから、何事かと思ったらね。お前が気に入っている娘は、どうもこの縁談を嫌だと言っているらしい。あの娘には妹がいるのだろう。強情な娘で手を焼いているだのなんだのと、言っていたけど要は代わりに妹はどうだと言うわけだ。姉妹は同じ母親らしいので、顔もよく似ているのだと。そうなの?」
そう訊かれて、実津瀬は妹の顔を思い出そうとした。寂しそうに笑う芹の顔はすぐに思い浮かぶのに、妹のことはよく思い出せない。
「どう?実津瀬。明日の約束はこのままでいいかい。来る相手は違うけど」
実津瀬は考えた。
芹の心はそこまで頑ななのか。前回、素直に左手を取らせてくれたことで、少しは心境の変化があるかと思ったが、そう簡単なものではなかったようだ。
「……私は、姉がいいので、妹が来るなら明日はなかったことにしてください」
「うん。そう言うと思ったよ」
実言は目を細めて言った。
結局、実津瀬は父が須原家に届け物を頼んだことは、芹または妹と自分を会わせるために仕組んだことなのか聞けていなかった。でも、父のことだからさも偶然で本当は仕組んだのだと思う。選ぶのは姉妹のどちらでもいいと思っているのかもしれないが、実津瀬が気になるのは断然姉であることは承知のことだろう。わざわざ、こうして訊くのもどうかと思う。
「それにしても嫌われたものだね……。何を言ったの?何をしたの?もしかして、事を急いて押し倒したりしたのかい」
冗談とわかっていても、実津瀬は慌てて否定した。
「まあ、そんな乱暴なことはしないとわかっているけど、どうしたものかね。女人にはことさら優しい男のはずなのに。その姉にはお前は好みじゃないのかね」
首を傾げて実言は言った。
実津瀬には芹が拒んでいる理由はわかっている。芹の心を縛っているものを解き放つ自信があったのだが、前回の話だけでは芹の心は変わらなかったということだ。自分の力だけでは、芹を助けることはできないのかもしれない。または、芹が本当にそれを望んでいないということだ。
芹との縁はなかったと、ここで断ち切るしかないのか。
「じゃあ、須原家に使いを出そう。残念だが、この話は終わりだとね」
立ち上がって部屋を出て行く父を簀子縁まで一緒に出て見送った後、階の下まで降りて、頭上に広がる秋の清々しい青空を見上げて、大きく伸びをした。
すると、そこへ蓮が庭を歩いてきた。
「あら、実津瀬、浮かない顔ね」
「ん?悪いかい」
「実津瀬の思い人の邸から人が来たらしいけど、実津瀬の思うようにはいかないようね」
「どうして知っている?」
「私にも間者がいるのよ」
と蓮は言った。
きっと、父に近い仲良しの侍女からでも聞いたのだろう。
「でも、残念。妹の私がいうのもなんだけど、実津瀬は優しい人なのに断るなんてね。うっかり何か嫌われるようなことを言ったの?」
父といい、この妹といい、褒めながらもけなしてくるのだから。
「失恋の後はいいことあるかもよ。落ち込まないで」
失恋の先輩だ、と自負しているのか蓮は実津瀬を元気づけるように言った。
「これからどこかに行くの?」
「ええ、景之亮様と馬に乗って、少し遠出をしようと言う話になったの」
「景之亮殿は?」
実津瀬はきょろきょろとあたりを見まわした。
「お父さまのところに行ったわ。来客が終わったら、実津瀬のところに行ったと聞いて、実津瀬との話が終わるまで待っていたの。律儀な方だから、お父さまがいるときは会わないと気が済まないのよ」
そう言っていると、庭に景之亮が現れた。
「ああ、待たせたね。どうしても実言様と話がしたかったのだ」
景之亮は言って、蓮の前にいる実津瀬に気づいた。
「実津瀬殿!」
と言って、少し憐れむような表情をした。
実津瀬は景之亮も父から聞いたのだと察した。
「聞きましたよ。どうしてあなたの良さがわからないのか……もしかして……何か気に障ることでもしたの?」
景之亮にも冗談半分に落とされて、実津瀬は吹き出した。
「もう、みんなして私を笑いものにして」
「実津瀬、帰ってきたら話しましょう!ね!」
蓮もつられて笑いながら景之亮の腕を取り、二人は実津瀬の前から去って行った。
実津瀬は、みんなに本当に笑われているなんて思っていない。雪のことから早くも立ち直り、新しい恋を見つけた自分を応援してくれているのだと思っている。
でも、その恋は破れたのだ。
実津瀬は秋空をもう一度見上げて、部屋の中へと入って行った。
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