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第1部あなた
第三章1
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「蓮!」
呼ばれて蓮は声の方へ顔を向けた。
父が庇の間に入って来たところだが、その後ろには隠れようもないほど体の大きな男の姿が見えた。
その男は律儀なもので、蓮に会うのが目的なのに必ず主人にまず会いに行く。主人の実言が不在であれば妻の礼に会って丁寧な挨拶をしてから、舎人の渡道に案内してもらって蓮の部屋に来るのが常である。勝手に蓮の部屋の前の庭から階を上がっても誰も咎めやしないのに。
今日は実言がいたものだから、少し話をして一緒にこの部屋に来たというところだ。
「景之亮様」
蓮はすぐに父の後ろから庇の間に入って来た景之亮に声を掛けた。
「いらしていたのですね」
「宮廷から下がったところを寄ってくれたよ。私と少し話をしてね、早々にここに連れてきたわけだ。景之亮も蓮に会いに来ているのだから、すぐにここに通ってくれて構わないのになぁ」
「いいえ、実言様にお話したいことがあったもので」
「そういつもいつも私と話すことなんてあるものか。そう義理立ててくれなくてもいいと言っているのに」
実言は笑って言うと、すぐに部屋から出て行った。
三人で話をしても、無粋なだけだ。当の二人は早く二人きりになりたいとうずうずしているというのに。だから、実言が自分の部屋へ戻るのと同時に、蓮の傍にいた侍女二人も蓮の部屋から出て行った。
「……お父さま……ああは言うけど、景之亮様とお話するのは楽しみなのよ」
「あはは。私が話したいからお訪ねしているだけなのだが。礼様ともいつも楽しくお話させてもらっているよ」
実言がいないときは妻である礼に挨拶をしてしばらく歓談をするが、その時は蓮も呼ばれて三人で話をすることもある。景之亮は武道に長けているだけでなく、教養があり異国の書物のこともよく知っていた。だから異国から学ぶ薬草のことも、全くわからないことはない。話が盛り上がって、二人だけで過ごす時間が少なくなるくらいだ。
「来てくださって嬉しいわ」
蓮は立っている景之亮の傍に寄った。
「毎日でも蓮に会いたい。しかし、最近は仕事が忙しくてなかなかこちらを訪れられない」
そう言って蓮の手を握った。蓮も握り返して、二人は部屋の奥へと入って行った。
あれは、二人が互いの気持ちを確かめあった日から数えて四日目のことだった。確かめ合った日の翌日、景之亮は仕事で蓮に会いには来られなかった。それは、別れる時に蓮に告げてある。
「明日は朝も夜も仕事のために会うことはできないが、明後日にはまたあなたを訪ねてきますよ。それまでのしばしのお別れです」
という。蓮はその言葉に嬉しさを感じたが、会えないことには寂しさを感じた。でも、それをすぐに言葉にするほどの素直さがなくて、蓮は。
「そうね。明後日には会えます」
と返事した。そして、その広い背中を見送ったのだが、それからが長くて横になっても起き上がっても景之亮が来ないことはわかっているのに、景之亮の影でも現れるのではないかと思った。誰かが部屋に入って来ようものなら、すぐに顔を上げて思った人でなれば落胆した顔をする。
実津瀬が来た時も、実津瀬か……という顔をして蓮は写本の続きに戻った。
「今日、景之亮殿は来られないとおっしゃったそうじゃないか。なのに、蓮が来る者来る者顔を上げ景之亮殿ではないかと確認して、違うと知るとつまらなそうな顔をすると聞いて、来てみたのだ。本当にそんな顔をしているんだね」
と言われた。
「もう、ほおっておいて!」
蓮は頬を膨らませて怒る。
みんなして、私を陰でからかっているわ。景之亮様はああは言ったものの、仕事の都合がついて突然現れることだってないことではない。
蓮は淡い期待を妄想して、みんなに迷惑がられた。
翌日の昼に景之亮は訪れた。
それから続けて三日ほど景之亮は来てくれた。二人で広い庭を散策したり、蓮が写した本を見せたりした。それはそれは毎日楽しかった。
三日目に景之亮が来て、蓮の部屋で話をしていた時に、申し訳なさそうに景之亮が話し始めた。
「実は……明日から仕事で都の外へと行くことになったのです。大原に泊まりで。五日くらいの予定ですが、少し伸びる可能性も。しかし、大原は都からそんなに離れていません。終われば当日に帰って来られるでしょう」
まだ丁寧なしゃべりが抜けない景之亮は、そう言って蓮の気持ちを慰めた。
「そう……毎日会えていたから、五日も、もしかしたらもっと会えないとなるととても寂しい……」
蓮はそう言って、景之亮の袖を握った。
「大原に行ってしまう前に私に傷の手当をさせて」
これまで夫沢施の館で蓮を庇って作った腕の傷は束蕗原から来ている男医師の佐田祢が手当をし、景之亮が自分の邸に戻っても二日に一度訪ねて傷を診てきた。
蓮は丁寧に景之亮の左袖をまくり上げて、白布に巻かれた部分を出した。ゆっくりと白布を解いて、覆われていた腕を見た。
「傷口は塞がっているように見えるけど、激しい動きはだめです。また開いてしまったら、初めからやり直しになってしまう」
蓮は盥を引き寄せて、水から絞った白布で傷の周りを拭い、乾いた布で水気を取った。それから塗り薬を取って、傷の上に薬を塗り込んだ。
景之亮は蓮の一連の動作、手つきをじっくりと見つめていた。その間に蓮は景之亮に痛いか、痒いかと問いかけ、景之亮はその問いに、「いいや」と答えるのだった。
清潔な白布を取り出し、再び腕に巻いて行く。布がずり落ちないようにゆっくりと慎重に力を込めて巻いた。
「どうかしら?傷の上に力が加わらないように巻いたのだけど」
「ああ、痛くない。腕も動かしやすい」
蓮は景之亮の左手のまくり上げた袖を元に戻して、両手でその左手を握って、しばらく景之亮の手の平や指を触っていた。
そうしていると、景之亮の大きな体が傾いてきた。蓮は顔を上げると、景之亮の顔が近くて驚いた。でも、景之亮の体の傾きは止まらない。景之亮の顔が自分にぶつかると思った時、蓮は反射的に後ろに顔を引いてしまった。
景之亮が右手を突いて、なおも蓮に顔を近づけた時に、蓮はわかった。
何を逃げているのだろう。だめね……。これも、欲しくて欲しくてたまらなかった親愛の証。それを逃げるなんて!
蓮は体を硬くして待った。景之亮の顔がぶつかると思った時に、蓮は目を瞑った。
そこで、ふっと唇が触れあった。だが、触れたことに恐れたようにすぐに離れた。
蓮は目を開けると、すぐ傍に戸惑った景之亮の顔があった。
蓮が逃げたことで景之亮は自分のしたことに恥じているようだった。
「景之亮様……いや」
蓮は小さな声で景之亮に言うと、景之亮の唇に自分のそれを押し付けた。
景之亮は「いや」と言われて、拒否されたのかと思ったがそれは違ったのだと分かった。蓮はこれだけでは「いや」だという気持ちなのだ。
景之亮は蓮の唇を強く吸った。それと同時に、蓮の腰に手を伸ばして引き寄せた。体がより近く密着して、景之亮の体の温かさや力強さを感じた。
唇がなくなってしまうのではないか、と景之亮の激しい口づけに蓮は夢中な気持ちの中で心配した。
初めての接吻は、伊緒理を追いかけて大王の謁見の行列を馬で蹴散らしてまで束蕗原に行き、いきなり伊緒理に迫って、自分の唇を伊緒理に押し付けただけだった。驚いた伊緒理がすぐに蓮の体を遠ざけて、蓮の気持ちは受け入れられないと言われた。惨めな気持ちになって、泣いたのだ。
あの時に比べると、今はこうして何度も求められて……。夢の中かしら?
景之亮が唇を離した。
蓮は目を開けると、今度は真面目な顔の景之亮がいた。
「……蓮」
景之亮の呼びかけに、蓮は吐息で返事をした。先ほどまで強く吸われていて、息をすることを忘れてしまった。
「蓮……私もあなたとしばらく会えないのは寂しい……。こうして傷の手当てをしてくれたこと、あなたの優しさが嬉しくて、私は気持ちが抑えられなかった。許して……可愛い人」
「景之亮様」
蓮ははにかんだ笑顔を向けて返事をした。
「許すなんて。私も長く景之亮様と離れてしまうのは寂しいもの。こうして手の感触や、胸の広さや……唇の温かさを覚えさせてくれた。景之亮様も私を忘れないで」
その言葉が耳に届くや否や、景之亮は蓮の体を持ち上げて自分の膝の上に横抱きにして載せた。
「忘れないよ。一日でも早く仕事を終わらせて、帰って来る。そうしたら、またあなたをこうして抱きたい」
蓮は景之亮の目を見つめて頷いた。
景之亮は目尻を下げて、たくさんのしわを作った。そして、腕の中に蓮の小さな体を深く包み込んだ。
蓮が夢見てきた好きな人とやりたいことは次々と叶えられている。会えない日も、景之亮のことを思い、次に会った時には何を話そう、どんなことをしてあげようかと思いをはせる。
こんな楽しい毎日はない。
景之亮を伴って部屋の奥に行くと、二人は向かい合って座った。蓮は景之亮の膝の上に載った手をそれぞれの手で握って、その顔を見上げる。
「何をしていたの?あなたの仕事の途中ではなかったのかな」
景之亮は蓮の真っすぐな視線を受け止めた。
「ええ、途中でもいいの。いつもの写本ですもの。急ぎではないから」
蓮は昨日景之亮と別れてから今まであったことを話し、景之亮の仕事のことや邸に帰ってからのことを聞いた。変哲のないことだが、蓮は自分のことを聞いてくれる景之亮、自分のことを話してくれる景之亮のことが好きなのだ。
今も、景之亮が自邸の年老いた侍女の丸のことを話していた。蓮は頷き聞いていると、庇の間に置いている几帳が不自然に揺れている。蓮が先に気づいて、蓮の様子で景之亮が気付いた。二人で几帳の方を見ていると、陰からひょっこりと小さな女の子の顔がのぞいた。
珊だ。
「こら、覗いちゃだめだろう、珊」
と囁く声が聞こえた。これは宗清である。
景之亮が蓮の部屋に来たら、侍女たちは皆自分の部屋に戻って、誰も近づかないことをいいことに、小さな子達が庭から庇の間までこっそり入って来ていたのだ。
姉が男の人と仲良さそうにしているのを覗き見る。見てはいけないと言われると見たくなるのは大人も子供も同じだろう。興味津々の二人のうち、より幼い珊がつい顔を出してしまったのだ。
蓮と景之亮は目を見合わせた後、吹き出して笑った。
「こちらにいらっしゃい、二人とも」
宗清に頭を引っ込めろと言われても言うことを聞かず、珊は蓮が景之亮と手をつないでいる姿をじっと見ていた。蓮の声で、宗清が珊を押し出して二人が飛び出してきた。
「二人とも覗き見なんて、だめよ。悪い子たちね」
そう怒られても二人は優しい姉であることをわかっている。蓮の元に走り寄って座った。
「景之亮様!」
「景之亮しゃま!」
宗清と朔は声を合わせて景之亮を呼んだ。珊は「様」がうまく言えなくて「しゃま」になった。
聞けば景之亮の周りには小さな女の子はいないらしく、戸惑いながらも珊と接している。
双六で景之亮対宗清と珊で遊んだ。蓮は珊を助けて、駒を動かしてやる。景之亮がいい塩梅に手加減してやるので、宗清も珊も自分達が勝てると必死である。
そこに、新たな声が掛かった。
「二人とも、姉様や景之亮様の邪魔をしてはだめじゃないの」
榧が一人で入って来た。
小さな二人がいないと方々を探し回ったが姿が見えず、もしかしてと、榧が遣わされたと思われた。
「いいのよ、榧」
蓮は本心を言ったが、榧は宗清を立たせ珊の手を引いた。
「兄様が二人を呼んでいるのです。だから、連れて行きますね」
とにっこり笑って去って行った。
蓮と景之亮は顔を見合わせて笑った。
「まあ、皆に気を遣わせてしまったわね」
蓮は三人が去っていた方を見ていた顔を景之亮に戻すと、景之亮から蓮の手を握って来た。
「景之亮様には小さな子達の相手は、少し退屈だったかしら。でも、相手をしてくれてあの子たちはとても楽しそうでした」
「退屈なんて、そんなことはない。身近に小さな子どもがいないから、どのように相手をしたらいいかわからなくてね。いい遊び相手になっているのかわからない」
「景之亮様はよい遊び相手です」
蓮はそう返事をして。
「でも」
「でも」
二人の言葉が被った。それも、同じ言葉を発したのだ。蓮は続きを話すことを景之亮に譲った。
「私は蓮とこうして二人でいるのも好きなんだ」
その言葉を聞いて蓮は頷き。
「私も決してあの子たちを邪魔とは思わないけれども、景之亮様とこうして二人きりでお話するのが好きです」
と言った。
二人は声を出さずに笑い合った。やはりお互い、二人きりになりたかったのだと知った。
景之亮は蓮の握った手を引くと、蓮はそれを合図と取って景之亮に近づきその膝に乗った。
呼ばれて蓮は声の方へ顔を向けた。
父が庇の間に入って来たところだが、その後ろには隠れようもないほど体の大きな男の姿が見えた。
その男は律儀なもので、蓮に会うのが目的なのに必ず主人にまず会いに行く。主人の実言が不在であれば妻の礼に会って丁寧な挨拶をしてから、舎人の渡道に案内してもらって蓮の部屋に来るのが常である。勝手に蓮の部屋の前の庭から階を上がっても誰も咎めやしないのに。
今日は実言がいたものだから、少し話をして一緒にこの部屋に来たというところだ。
「景之亮様」
蓮はすぐに父の後ろから庇の間に入って来た景之亮に声を掛けた。
「いらしていたのですね」
「宮廷から下がったところを寄ってくれたよ。私と少し話をしてね、早々にここに連れてきたわけだ。景之亮も蓮に会いに来ているのだから、すぐにここに通ってくれて構わないのになぁ」
「いいえ、実言様にお話したいことがあったもので」
「そういつもいつも私と話すことなんてあるものか。そう義理立ててくれなくてもいいと言っているのに」
実言は笑って言うと、すぐに部屋から出て行った。
三人で話をしても、無粋なだけだ。当の二人は早く二人きりになりたいとうずうずしているというのに。だから、実言が自分の部屋へ戻るのと同時に、蓮の傍にいた侍女二人も蓮の部屋から出て行った。
「……お父さま……ああは言うけど、景之亮様とお話するのは楽しみなのよ」
「あはは。私が話したいからお訪ねしているだけなのだが。礼様ともいつも楽しくお話させてもらっているよ」
実言がいないときは妻である礼に挨拶をしてしばらく歓談をするが、その時は蓮も呼ばれて三人で話をすることもある。景之亮は武道に長けているだけでなく、教養があり異国の書物のこともよく知っていた。だから異国から学ぶ薬草のことも、全くわからないことはない。話が盛り上がって、二人だけで過ごす時間が少なくなるくらいだ。
「来てくださって嬉しいわ」
蓮は立っている景之亮の傍に寄った。
「毎日でも蓮に会いたい。しかし、最近は仕事が忙しくてなかなかこちらを訪れられない」
そう言って蓮の手を握った。蓮も握り返して、二人は部屋の奥へと入って行った。
あれは、二人が互いの気持ちを確かめあった日から数えて四日目のことだった。確かめ合った日の翌日、景之亮は仕事で蓮に会いには来られなかった。それは、別れる時に蓮に告げてある。
「明日は朝も夜も仕事のために会うことはできないが、明後日にはまたあなたを訪ねてきますよ。それまでのしばしのお別れです」
という。蓮はその言葉に嬉しさを感じたが、会えないことには寂しさを感じた。でも、それをすぐに言葉にするほどの素直さがなくて、蓮は。
「そうね。明後日には会えます」
と返事した。そして、その広い背中を見送ったのだが、それからが長くて横になっても起き上がっても景之亮が来ないことはわかっているのに、景之亮の影でも現れるのではないかと思った。誰かが部屋に入って来ようものなら、すぐに顔を上げて思った人でなれば落胆した顔をする。
実津瀬が来た時も、実津瀬か……という顔をして蓮は写本の続きに戻った。
「今日、景之亮殿は来られないとおっしゃったそうじゃないか。なのに、蓮が来る者来る者顔を上げ景之亮殿ではないかと確認して、違うと知るとつまらなそうな顔をすると聞いて、来てみたのだ。本当にそんな顔をしているんだね」
と言われた。
「もう、ほおっておいて!」
蓮は頬を膨らませて怒る。
みんなして、私を陰でからかっているわ。景之亮様はああは言ったものの、仕事の都合がついて突然現れることだってないことではない。
蓮は淡い期待を妄想して、みんなに迷惑がられた。
翌日の昼に景之亮は訪れた。
それから続けて三日ほど景之亮は来てくれた。二人で広い庭を散策したり、蓮が写した本を見せたりした。それはそれは毎日楽しかった。
三日目に景之亮が来て、蓮の部屋で話をしていた時に、申し訳なさそうに景之亮が話し始めた。
「実は……明日から仕事で都の外へと行くことになったのです。大原に泊まりで。五日くらいの予定ですが、少し伸びる可能性も。しかし、大原は都からそんなに離れていません。終われば当日に帰って来られるでしょう」
まだ丁寧なしゃべりが抜けない景之亮は、そう言って蓮の気持ちを慰めた。
「そう……毎日会えていたから、五日も、もしかしたらもっと会えないとなるととても寂しい……」
蓮はそう言って、景之亮の袖を握った。
「大原に行ってしまう前に私に傷の手当をさせて」
これまで夫沢施の館で蓮を庇って作った腕の傷は束蕗原から来ている男医師の佐田祢が手当をし、景之亮が自分の邸に戻っても二日に一度訪ねて傷を診てきた。
蓮は丁寧に景之亮の左袖をまくり上げて、白布に巻かれた部分を出した。ゆっくりと白布を解いて、覆われていた腕を見た。
「傷口は塞がっているように見えるけど、激しい動きはだめです。また開いてしまったら、初めからやり直しになってしまう」
蓮は盥を引き寄せて、水から絞った白布で傷の周りを拭い、乾いた布で水気を取った。それから塗り薬を取って、傷の上に薬を塗り込んだ。
景之亮は蓮の一連の動作、手つきをじっくりと見つめていた。その間に蓮は景之亮に痛いか、痒いかと問いかけ、景之亮はその問いに、「いいや」と答えるのだった。
清潔な白布を取り出し、再び腕に巻いて行く。布がずり落ちないようにゆっくりと慎重に力を込めて巻いた。
「どうかしら?傷の上に力が加わらないように巻いたのだけど」
「ああ、痛くない。腕も動かしやすい」
蓮は景之亮の左手のまくり上げた袖を元に戻して、両手でその左手を握って、しばらく景之亮の手の平や指を触っていた。
そうしていると、景之亮の大きな体が傾いてきた。蓮は顔を上げると、景之亮の顔が近くて驚いた。でも、景之亮の体の傾きは止まらない。景之亮の顔が自分にぶつかると思った時、蓮は反射的に後ろに顔を引いてしまった。
景之亮が右手を突いて、なおも蓮に顔を近づけた時に、蓮はわかった。
何を逃げているのだろう。だめね……。これも、欲しくて欲しくてたまらなかった親愛の証。それを逃げるなんて!
蓮は体を硬くして待った。景之亮の顔がぶつかると思った時に、蓮は目を瞑った。
そこで、ふっと唇が触れあった。だが、触れたことに恐れたようにすぐに離れた。
蓮は目を開けると、すぐ傍に戸惑った景之亮の顔があった。
蓮が逃げたことで景之亮は自分のしたことに恥じているようだった。
「景之亮様……いや」
蓮は小さな声で景之亮に言うと、景之亮の唇に自分のそれを押し付けた。
景之亮は「いや」と言われて、拒否されたのかと思ったがそれは違ったのだと分かった。蓮はこれだけでは「いや」だという気持ちなのだ。
景之亮は蓮の唇を強く吸った。それと同時に、蓮の腰に手を伸ばして引き寄せた。体がより近く密着して、景之亮の体の温かさや力強さを感じた。
唇がなくなってしまうのではないか、と景之亮の激しい口づけに蓮は夢中な気持ちの中で心配した。
初めての接吻は、伊緒理を追いかけて大王の謁見の行列を馬で蹴散らしてまで束蕗原に行き、いきなり伊緒理に迫って、自分の唇を伊緒理に押し付けただけだった。驚いた伊緒理がすぐに蓮の体を遠ざけて、蓮の気持ちは受け入れられないと言われた。惨めな気持ちになって、泣いたのだ。
あの時に比べると、今はこうして何度も求められて……。夢の中かしら?
景之亮が唇を離した。
蓮は目を開けると、今度は真面目な顔の景之亮がいた。
「……蓮」
景之亮の呼びかけに、蓮は吐息で返事をした。先ほどまで強く吸われていて、息をすることを忘れてしまった。
「蓮……私もあなたとしばらく会えないのは寂しい……。こうして傷の手当てをしてくれたこと、あなたの優しさが嬉しくて、私は気持ちが抑えられなかった。許して……可愛い人」
「景之亮様」
蓮ははにかんだ笑顔を向けて返事をした。
「許すなんて。私も長く景之亮様と離れてしまうのは寂しいもの。こうして手の感触や、胸の広さや……唇の温かさを覚えさせてくれた。景之亮様も私を忘れないで」
その言葉が耳に届くや否や、景之亮は蓮の体を持ち上げて自分の膝の上に横抱きにして載せた。
「忘れないよ。一日でも早く仕事を終わらせて、帰って来る。そうしたら、またあなたをこうして抱きたい」
蓮は景之亮の目を見つめて頷いた。
景之亮は目尻を下げて、たくさんのしわを作った。そして、腕の中に蓮の小さな体を深く包み込んだ。
蓮が夢見てきた好きな人とやりたいことは次々と叶えられている。会えない日も、景之亮のことを思い、次に会った時には何を話そう、どんなことをしてあげようかと思いをはせる。
こんな楽しい毎日はない。
景之亮を伴って部屋の奥に行くと、二人は向かい合って座った。蓮は景之亮の膝の上に載った手をそれぞれの手で握って、その顔を見上げる。
「何をしていたの?あなたの仕事の途中ではなかったのかな」
景之亮は蓮の真っすぐな視線を受け止めた。
「ええ、途中でもいいの。いつもの写本ですもの。急ぎではないから」
蓮は昨日景之亮と別れてから今まであったことを話し、景之亮の仕事のことや邸に帰ってからのことを聞いた。変哲のないことだが、蓮は自分のことを聞いてくれる景之亮、自分のことを話してくれる景之亮のことが好きなのだ。
今も、景之亮が自邸の年老いた侍女の丸のことを話していた。蓮は頷き聞いていると、庇の間に置いている几帳が不自然に揺れている。蓮が先に気づいて、蓮の様子で景之亮が気付いた。二人で几帳の方を見ていると、陰からひょっこりと小さな女の子の顔がのぞいた。
珊だ。
「こら、覗いちゃだめだろう、珊」
と囁く声が聞こえた。これは宗清である。
景之亮が蓮の部屋に来たら、侍女たちは皆自分の部屋に戻って、誰も近づかないことをいいことに、小さな子達が庭から庇の間までこっそり入って来ていたのだ。
姉が男の人と仲良さそうにしているのを覗き見る。見てはいけないと言われると見たくなるのは大人も子供も同じだろう。興味津々の二人のうち、より幼い珊がつい顔を出してしまったのだ。
蓮と景之亮は目を見合わせた後、吹き出して笑った。
「こちらにいらっしゃい、二人とも」
宗清に頭を引っ込めろと言われても言うことを聞かず、珊は蓮が景之亮と手をつないでいる姿をじっと見ていた。蓮の声で、宗清が珊を押し出して二人が飛び出してきた。
「二人とも覗き見なんて、だめよ。悪い子たちね」
そう怒られても二人は優しい姉であることをわかっている。蓮の元に走り寄って座った。
「景之亮様!」
「景之亮しゃま!」
宗清と朔は声を合わせて景之亮を呼んだ。珊は「様」がうまく言えなくて「しゃま」になった。
聞けば景之亮の周りには小さな女の子はいないらしく、戸惑いながらも珊と接している。
双六で景之亮対宗清と珊で遊んだ。蓮は珊を助けて、駒を動かしてやる。景之亮がいい塩梅に手加減してやるので、宗清も珊も自分達が勝てると必死である。
そこに、新たな声が掛かった。
「二人とも、姉様や景之亮様の邪魔をしてはだめじゃないの」
榧が一人で入って来た。
小さな二人がいないと方々を探し回ったが姿が見えず、もしかしてと、榧が遣わされたと思われた。
「いいのよ、榧」
蓮は本心を言ったが、榧は宗清を立たせ珊の手を引いた。
「兄様が二人を呼んでいるのです。だから、連れて行きますね」
とにっこり笑って去って行った。
蓮と景之亮は顔を見合わせて笑った。
「まあ、皆に気を遣わせてしまったわね」
蓮は三人が去っていた方を見ていた顔を景之亮に戻すと、景之亮から蓮の手を握って来た。
「景之亮様には小さな子達の相手は、少し退屈だったかしら。でも、相手をしてくれてあの子たちはとても楽しそうでした」
「退屈なんて、そんなことはない。身近に小さな子どもがいないから、どのように相手をしたらいいかわからなくてね。いい遊び相手になっているのかわからない」
「景之亮様はよい遊び相手です」
蓮はそう返事をして。
「でも」
「でも」
二人の言葉が被った。それも、同じ言葉を発したのだ。蓮は続きを話すことを景之亮に譲った。
「私は蓮とこうして二人でいるのも好きなんだ」
その言葉を聞いて蓮は頷き。
「私も決してあの子たちを邪魔とは思わないけれども、景之亮様とこうして二人きりでお話するのが好きです」
と言った。
二人は声を出さずに笑い合った。やはりお互い、二人きりになりたかったのだと知った。
景之亮は蓮の握った手を引くと、蓮はそれを合図と取って景之亮に近づきその膝に乗った。
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