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第1部あなた
第二章26
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眠りから覚めた実津瀬が最初に見たのは、母の顔だった。左目に眼帯をした顔が見えた。眼帯で顔の半分は見えないが、とても心配そうな顔をして覗き込んでいるのが分かった。
「実津瀬……」
実津瀬は急いで起き上がったら、今まで痛みなど感じていなかった肩から胸にかけての剣の傷が痛んだ。動きが止まったところを、母とは反対側に座っていた蓮が手を貸して起きるのを手伝ってくれた。
「傷が痛むの?」
私に傷などありません、と啖呵を切ったことが頭をよぎり、また母に心配を掛けたくなくて、実津瀬は首を横に振った。
「……いいえ、痛くはないです」
実津瀬の両脇に座っている女人二人は嘘だとわかっていても、それに突っ込むことはせず、世話を続けた。
母は水の入った椀を実津瀬に握らせた。それを飲んでいる間に、粥の支度が整い、侍女が粥の入った椀を盆に載せて現れた。
「ほら、実津瀬、お腹が空いているはずよ。しっかり食べなさい」
水の入った椀を母が受け取ると、蓮が衾の上から粥の入った盆を膝の上に置いた。
実津瀬はじっと粥を見ていると、母や蓮にも聞こえるほどの音で腹の虫が泣いた。
女人二人は袖で口を押えて、くすくすと笑った。
「まあ、大きな音ね」
「お腹が空いていることはいいことだわ。たくさん食べて」
実津瀬は匙を取って、一口、一口と噛みしめて食べた。
蓮がもう一杯食べろと強引に勧めるので、もう一杯の粥を食べ終わると、父が一人で部屋に入って来た。女人二人は、水差しと椀だけおいて、食器を片付けると静かに部屋から出て行った。
父は母のいた場所に座り、実津瀬を見ている。
「胸の傷は大丈夫かい?蓮は深くないと言っていたが、侮ってはいけない。うちのお医者の言うことをよく聞くんだよ」
と言って、黙った。うちのお医者とは母の礼である。
母には傷のことを正しく告げられない。後ろめたさがあるから。
実言は、実津瀬からは何も聞かず、岩城が掴んでいた、敵対勢力のこととそれを辿って行くと雪に繋がったことを淡々と説明した。実津瀬は口を挟むことなく黙って聞いている。
父が自分を餌にして、敵対勢力に一撃を与えようとした企てに、一族を守るためにはこのような判断がいるのか、と思った。そんなことを自分はできるだろうか。身内の一人を犠牲にして、その他大勢の将来を生かすことを。
「宴が終わったあの夜、お前が再び夫沢施の館に行く姿を蓮が見ていたのだ…」
「蓮が?」
実津瀬はその時だけは声が出た。
実言は蓮から聞いた実津瀬を追って行った話を淡々と話した。
「……全てを見通して、出来る限りのことをし、不測の事態があればそれは覚悟していたつもりだが、蓮があの場にいるのは全くの想定外だった。もしものことがあったら私は自分を許せなかっただろう。運が良かった」
とつぶやくように言った。
「……実津瀬、すまなかったな」
父は真剣な眼差しを向けて、そして頭を下げた。
実津瀬はしばらく返答を考えて、言葉を絞り出した。
「……いいえ、私が未熟なだけです……」
「先ほど言ったとおりだ。傷を大事にして。数日は安静にして」
父はそう言い置いて、部屋を出て行った。
実津瀬は、褥の上に仰向けに身を横たえた。じっと天井を見ているだけなのに、自然と涙がこぼれた。
日が暮れた頃、夕餉を持って母の礼が一人で部屋へと入って来た。
実津瀬は寝かせていた体を半分起こすと、礼は慌てて実津瀬の隣まで走って、粥の載った盆を置いて、実津瀬が起き上がるのに手を貸した。
「無理に体を動かしてはだめよ。傷口が開いてはいけないわ」
礼は言うと、実津瀬の傷のない方の胸に手を置いて、じっと実津瀬を見つめた。
侍女が水差しなどを持って入って来ると、礼は粥の入った盆を実津瀬の前に置いた。
「まずは食べることが大事よ。しっかりと食べなさい」
実津瀬は匙を取ってゆっくりと粥を口の中に入れた。
実津瀬が食べている間、礼は侍女の澪と今日の小さな子供たちの様子を話していた。
いつものように宗清が庭を駆けまわって、それを珊が追い、その後ろを子守たちが追った。宗清が蛙をつかまえて子守の少女の顔の前に突き出したので、少女たちは叫び声を上げて逃げ、どうしたのかと榧がやってくると、榧にも蛙を押し付けたので榧が叫んだ。それを聞きつけた従者や侍女が庭に集まって来て大騒ぎになったというのだ。
宗清らしいな、と思って実津瀬もくすくす笑っている侍女の澪につられて笑ってしまい、胸の傷に響いた。
とっさに匙を置いて、右手を胸に置いた。
「まあ、実津瀬、痛い?」
「実津瀬様、大丈夫ですか?」
女人二人は声を掛けた。
「大丈夫です。宗清が面白いから笑ってしまっただけ」
「皆が驚いてね、邸中から悲鳴が次々に上がって、大騒ぎよ。宗清は旦那様にしっかりとお説教をしてもらいました」
礼も笑って、話した。
粥を食べ終わると、侍女の澪が片付けをして、代わりに医者の佐田祢が入って来た。
「実津瀬様、胸の傷を見せていただきますよ」
母が直接見ればいいのに、診ないのか……。実津瀬は思った。
礼は実津瀬の後ろに回って、下着を脱がせるのを手伝う。
「きれいに手当をされていますね。これは蓮様がなされたものですよね。少し動きましたね。出血が少しありますね」
佐田祢は後ろに置いてある盥を引き寄せて、浸した白布で傷口を丹念に優しく拭いた。
「確かに、深くはないですね……。あれ、傷が途切れている。また、ここから傷が、不思議ですね」
佐田祢は少し首を傾げた。
実津瀬は黙って天井を見ている。
誰もが思うことのようだ。
実津瀬が何も言わないので、佐田祢はそれ以上、不思議な傷跡のことは言わず軟膏を塗り、白布を置いてその白布を留めるための布を体に巻いた。
「苦しくない?」
母に訊かれて、実津瀬は頷いた。
「では、これを飲んで、また眠りなさい」
母から椀を受け取り、半分ほど飲んで返した。
母と佐田祢に助けられて、褥の上に横になった。礼は実津瀬の長い髪が背中に挟まっているのを肩の上に上げてやり、その時に実津瀬の肩から胸へと手を滑らせた。
「もう一晩眠れば、もっと元気になるわ」
温かな手のぬくもりが、薄い下着の上からじんわりと伝わってくる。
「母上……心配を掛けました」
母は実津瀬の腕を優しく掴み、「いいのよ」というように揺すり、部屋を出て行った。
実津瀬は目を瞑って考え事をしようと思っていたのに、すぐに眠りに落ちた。
朝が来た。
実津瀬は目を覚ますと、いつも見上げている天井が見えた。
変わらぬ朝が来たのだと、思って左胸に手を当てた。
すると、衣擦れの音がして、几帳の陰から声がした。
「実津瀬、起きた?」
蓮の声だった。
「うん……」
「お腹は空いているかしら?」
実津瀬が答える前に、腹の虫がぐーと鳴いて返事した。
「あら、正直な体。実津瀬の体はいつも正直」
蓮は澄んだ声で笑って、粥の載った膳を持って、実津瀬の隣に座った。
実津瀬が食べ終わるまで、蓮は昨晩母と侍女の澪が話していた、弟の宗清が蛙を女人たちの顔に近づけて悲鳴を上げさせた話をしていた。
「お父さまにこってりと叱ってもらったはずだけど、けろっとした顔でまた庭に取って走って行く姿が見えたから、私が追いかけて行って何をする気かと、後ろから聞くと、振り向いて蛙を掴んだ両手を私の顔の前に掲げるの!それで、こんなことを小さな女の子にしてはだめ!と、怒ったのだけど、笑って逃げて行ったわ。もう!実津瀬も宗清を見たら、説教してちょうだい」
実津瀬は宗清らしいと思うとともに蓮との様子を想像して笑った。
食べ終わった椀を膳ごと受け取って、蓮は自分の後ろに置いた。
黙って座っている蓮に、実津瀬はどうしたものかと、下から蓮の顔を覗き込んで言った。
「なに?私は何か心配を掛けている?」
蓮は実津瀬と目が合うと、息を吸って吐いてから言った。
「……雪……という人」
「えっ!」
「雪という人の……指をどうするの?」
実津瀬は、蓮にそのようなことを言われるとは思わなくて驚いたが、それと同時に実津瀬が昼夜考えていたことを蓮も考えていたのかと思った。
「……うん……」
「……どこかに埋めなくてはいけないでしょう。実津瀬がいつでも会いに行ける場所に、埋めるのがいいわ」
「……え」
「実津瀬を守ってくれた人なのでしょう。実津瀬の左胸を守ってくれた指……。大事に葬らなければいけないわ……」
「そうだな……」
「この広い庭のどこかなら、実津瀬はすぐに会いに行けるけど、逆にもっと広い場所から実津瀬を見てもらった方がいいと思うわ。だから、前に実津瀬が連れて行ってくれた丘がいいのではないかしら。都が一望できるわ。どう?」
蓮がそんなことまで考えてくれていたとは思わなかったが、嬉しかった。実津瀬は、しばらく黙って考えていたが。
「そうだな……あの人は……雪は宮廷の女官だったのだ。あの丘なら宮廷が見えるし、いいかもしれない」
「いつ行く……。私も一緒に行きたいわ」
実津瀬は胸に手を入れて、白布を取り出した。蓮がこの上に置いてと言って、包んでくれたものだ。あれから一人の時はいつも左胸に抱いていた。
布を開くと、手から離れた四つの指先が現れた。その持ち主の生前の姿のままの真っ白なままとはいかず、変色して黒ずんでいる。
蓮はそれを怖いとも気持ち悪いとも言葉にも態度にも出すことなく、むしろ、実津瀬と同じで大切な愛しむものを見るように見つめている。
「実津瀬は寝てばかりだから、少し庭を歩いて体力を戻さないといけないわ。胸の傷に障るから馬で行くのもやめましょう」
実津瀬は頷いて、雪の指を再び左胸に収めた。
「今日は気分もよい。これから少し体を慣らして、明日には行きたいな」
蓮は頷いて、実津瀬の膝に掛かっている衾を引きはがし、庇の間に敷いた円座に座れと言った。
実津瀬は立ち上がるのに少しふらつきながら、庇の間まで出て円座に座った。蓮は食べ終わった粥の膳を持って行ってしまった。
夏の盛りの暑さを感じて、この二日間は夢だったのではないかと思った。
実津瀬がぼんやりと庭の方を眺めていると、遠くから簀子縁をこちらに向かって来る足音が聞こえた。それは一人ではない。複数人だ。
誰だろうと、考える前に元気な声が聞こえた。
「兄様!」
宗清の元気な声。その後に、宗清を真似て少女の声が「兄様!」と続いた。
蓮の差し金だな。
ぼんやりしている長兄のところに、小さな人たちを送り込んで元気づけようという魂胆だろう。
簀子縁から庇の間に座っている兄を見て、宗清は下げた御簾を頭を低くして潜り抜けて入って来た。
「兄様、宴で舞を舞った後、お怪我をしたとか?姉様からもう起き上がれるようになったから会えると聞いて来ました」
実津瀬の前に正座して言う宗清。遅れて珊が宗清の隣に座って、実津瀬を見上げた。
「そう、よく来てくれたね」
「兄様、元気になった?」
珊がそう訊いてきたので、実津瀬は珊の頭に手を載せて頷いた。
「元気になったよ」
そうしていると、庇の間に影が差して、そちらに視線をやるとゆっくりと榧が入って来るところだった。
珊の隣に座った榧は、会話が聞こえていたようで。
「兄様のお怪我は良くなったのですね。寝てばかりだから、少しお疲れの顔」
「そう?粥もたくさん食べたし、これから少し庭を歩いて、寝てばかりの体を動かすところだよ」
三人は安心したように、にこにこと笑顔を見せた。
「そうだ、宗清。蛙をつかまえて女の子の顔に近づけたそうじゃないか。皆が悲鳴を上げて、大騒ぎだったと聞いたよ」
「そうそう、私も悲鳴が聞こえて庭に下りて行ったら、宗清が背中に隠していた蛙をいきなり突き出して大きな声を上げてしまいました」
「父上にも叱られただろうに、蓮にもまた同じことをしたそうじゃないか」
「えへへ、でも、蓮姉さまは怖がりもせずに、蛙を持った私の手首を握ったままお説教をされました」
「あはは、蓮は少女ではないかね。蛙ごときで驚いたりしないさ。女の子たちをびっくりさせてはいけないよ。相手が嫌がることをしてはいけない。相手のことを考えて。相手には思いやりを持たなくてはいけない」
実津瀬は宗清にそう言って行いを正そうとしたが、言っている傍から自問した。
私はあの人のことを考えていたとは言えない。思いやりではなく、自分のわがままを流されるままに通したのだ……。
実津瀬は潤む目を隠すために、立ち上がった。びっくりした三人も一斉に立ち上がった。ふらつく体を宗清と榧が両側から肩を貸して、腕を取った。小さな珊は実津瀬の太腿に両手を回して、支えようとした。
「ああ、大丈夫だよ、珊」
実津瀬は三人の優しさに触れて、雪を思う感情を少し抑えることができた。
「庭に行きたいな。寝てばかりいたから、外の様子が見たい」
「今から暑くなります」
榧が言うと。
「少しだけ……。庭の前の朝露に濡れた草花を見るだけだから」
榧はそれなら、と言って兄の手を取って、一緒に階を下りた。宗清が持って来た沓を履いて実津瀬は二日ぶりに庭に出た。
「実津瀬……」
実津瀬は急いで起き上がったら、今まで痛みなど感じていなかった肩から胸にかけての剣の傷が痛んだ。動きが止まったところを、母とは反対側に座っていた蓮が手を貸して起きるのを手伝ってくれた。
「傷が痛むの?」
私に傷などありません、と啖呵を切ったことが頭をよぎり、また母に心配を掛けたくなくて、実津瀬は首を横に振った。
「……いいえ、痛くはないです」
実津瀬の両脇に座っている女人二人は嘘だとわかっていても、それに突っ込むことはせず、世話を続けた。
母は水の入った椀を実津瀬に握らせた。それを飲んでいる間に、粥の支度が整い、侍女が粥の入った椀を盆に載せて現れた。
「ほら、実津瀬、お腹が空いているはずよ。しっかり食べなさい」
水の入った椀を母が受け取ると、蓮が衾の上から粥の入った盆を膝の上に置いた。
実津瀬はじっと粥を見ていると、母や蓮にも聞こえるほどの音で腹の虫が泣いた。
女人二人は袖で口を押えて、くすくすと笑った。
「まあ、大きな音ね」
「お腹が空いていることはいいことだわ。たくさん食べて」
実津瀬は匙を取って、一口、一口と噛みしめて食べた。
蓮がもう一杯食べろと強引に勧めるので、もう一杯の粥を食べ終わると、父が一人で部屋に入って来た。女人二人は、水差しと椀だけおいて、食器を片付けると静かに部屋から出て行った。
父は母のいた場所に座り、実津瀬を見ている。
「胸の傷は大丈夫かい?蓮は深くないと言っていたが、侮ってはいけない。うちのお医者の言うことをよく聞くんだよ」
と言って、黙った。うちのお医者とは母の礼である。
母には傷のことを正しく告げられない。後ろめたさがあるから。
実言は、実津瀬からは何も聞かず、岩城が掴んでいた、敵対勢力のこととそれを辿って行くと雪に繋がったことを淡々と説明した。実津瀬は口を挟むことなく黙って聞いている。
父が自分を餌にして、敵対勢力に一撃を与えようとした企てに、一族を守るためにはこのような判断がいるのか、と思った。そんなことを自分はできるだろうか。身内の一人を犠牲にして、その他大勢の将来を生かすことを。
「宴が終わったあの夜、お前が再び夫沢施の館に行く姿を蓮が見ていたのだ…」
「蓮が?」
実津瀬はその時だけは声が出た。
実言は蓮から聞いた実津瀬を追って行った話を淡々と話した。
「……全てを見通して、出来る限りのことをし、不測の事態があればそれは覚悟していたつもりだが、蓮があの場にいるのは全くの想定外だった。もしものことがあったら私は自分を許せなかっただろう。運が良かった」
とつぶやくように言った。
「……実津瀬、すまなかったな」
父は真剣な眼差しを向けて、そして頭を下げた。
実津瀬はしばらく返答を考えて、言葉を絞り出した。
「……いいえ、私が未熟なだけです……」
「先ほど言ったとおりだ。傷を大事にして。数日は安静にして」
父はそう言い置いて、部屋を出て行った。
実津瀬は、褥の上に仰向けに身を横たえた。じっと天井を見ているだけなのに、自然と涙がこぼれた。
日が暮れた頃、夕餉を持って母の礼が一人で部屋へと入って来た。
実津瀬は寝かせていた体を半分起こすと、礼は慌てて実津瀬の隣まで走って、粥の載った盆を置いて、実津瀬が起き上がるのに手を貸した。
「無理に体を動かしてはだめよ。傷口が開いてはいけないわ」
礼は言うと、実津瀬の傷のない方の胸に手を置いて、じっと実津瀬を見つめた。
侍女が水差しなどを持って入って来ると、礼は粥の入った盆を実津瀬の前に置いた。
「まずは食べることが大事よ。しっかりと食べなさい」
実津瀬は匙を取ってゆっくりと粥を口の中に入れた。
実津瀬が食べている間、礼は侍女の澪と今日の小さな子供たちの様子を話していた。
いつものように宗清が庭を駆けまわって、それを珊が追い、その後ろを子守たちが追った。宗清が蛙をつかまえて子守の少女の顔の前に突き出したので、少女たちは叫び声を上げて逃げ、どうしたのかと榧がやってくると、榧にも蛙を押し付けたので榧が叫んだ。それを聞きつけた従者や侍女が庭に集まって来て大騒ぎになったというのだ。
宗清らしいな、と思って実津瀬もくすくす笑っている侍女の澪につられて笑ってしまい、胸の傷に響いた。
とっさに匙を置いて、右手を胸に置いた。
「まあ、実津瀬、痛い?」
「実津瀬様、大丈夫ですか?」
女人二人は声を掛けた。
「大丈夫です。宗清が面白いから笑ってしまっただけ」
「皆が驚いてね、邸中から悲鳴が次々に上がって、大騒ぎよ。宗清は旦那様にしっかりとお説教をしてもらいました」
礼も笑って、話した。
粥を食べ終わると、侍女の澪が片付けをして、代わりに医者の佐田祢が入って来た。
「実津瀬様、胸の傷を見せていただきますよ」
母が直接見ればいいのに、診ないのか……。実津瀬は思った。
礼は実津瀬の後ろに回って、下着を脱がせるのを手伝う。
「きれいに手当をされていますね。これは蓮様がなされたものですよね。少し動きましたね。出血が少しありますね」
佐田祢は後ろに置いてある盥を引き寄せて、浸した白布で傷口を丹念に優しく拭いた。
「確かに、深くはないですね……。あれ、傷が途切れている。また、ここから傷が、不思議ですね」
佐田祢は少し首を傾げた。
実津瀬は黙って天井を見ている。
誰もが思うことのようだ。
実津瀬が何も言わないので、佐田祢はそれ以上、不思議な傷跡のことは言わず軟膏を塗り、白布を置いてその白布を留めるための布を体に巻いた。
「苦しくない?」
母に訊かれて、実津瀬は頷いた。
「では、これを飲んで、また眠りなさい」
母から椀を受け取り、半分ほど飲んで返した。
母と佐田祢に助けられて、褥の上に横になった。礼は実津瀬の長い髪が背中に挟まっているのを肩の上に上げてやり、その時に実津瀬の肩から胸へと手を滑らせた。
「もう一晩眠れば、もっと元気になるわ」
温かな手のぬくもりが、薄い下着の上からじんわりと伝わってくる。
「母上……心配を掛けました」
母は実津瀬の腕を優しく掴み、「いいのよ」というように揺すり、部屋を出て行った。
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朝が来た。
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変わらぬ朝が来たのだと、思って左胸に手を当てた。
すると、衣擦れの音がして、几帳の陰から声がした。
「実津瀬、起きた?」
蓮の声だった。
「うん……」
「お腹は空いているかしら?」
実津瀬が答える前に、腹の虫がぐーと鳴いて返事した。
「あら、正直な体。実津瀬の体はいつも正直」
蓮は澄んだ声で笑って、粥の載った膳を持って、実津瀬の隣に座った。
実津瀬が食べ終わるまで、蓮は昨晩母と侍女の澪が話していた、弟の宗清が蛙を女人たちの顔に近づけて悲鳴を上げさせた話をしていた。
「お父さまにこってりと叱ってもらったはずだけど、けろっとした顔でまた庭に取って走って行く姿が見えたから、私が追いかけて行って何をする気かと、後ろから聞くと、振り向いて蛙を掴んだ両手を私の顔の前に掲げるの!それで、こんなことを小さな女の子にしてはだめ!と、怒ったのだけど、笑って逃げて行ったわ。もう!実津瀬も宗清を見たら、説教してちょうだい」
実津瀬は宗清らしいと思うとともに蓮との様子を想像して笑った。
食べ終わった椀を膳ごと受け取って、蓮は自分の後ろに置いた。
黙って座っている蓮に、実津瀬はどうしたものかと、下から蓮の顔を覗き込んで言った。
「なに?私は何か心配を掛けている?」
蓮は実津瀬と目が合うと、息を吸って吐いてから言った。
「……雪……という人」
「えっ!」
「雪という人の……指をどうするの?」
実津瀬は、蓮にそのようなことを言われるとは思わなくて驚いたが、それと同時に実津瀬が昼夜考えていたことを蓮も考えていたのかと思った。
「……うん……」
「……どこかに埋めなくてはいけないでしょう。実津瀬がいつでも会いに行ける場所に、埋めるのがいいわ」
「……え」
「実津瀬を守ってくれた人なのでしょう。実津瀬の左胸を守ってくれた指……。大事に葬らなければいけないわ……」
「そうだな……」
「この広い庭のどこかなら、実津瀬はすぐに会いに行けるけど、逆にもっと広い場所から実津瀬を見てもらった方がいいと思うわ。だから、前に実津瀬が連れて行ってくれた丘がいいのではないかしら。都が一望できるわ。どう?」
蓮がそんなことまで考えてくれていたとは思わなかったが、嬉しかった。実津瀬は、しばらく黙って考えていたが。
「そうだな……あの人は……雪は宮廷の女官だったのだ。あの丘なら宮廷が見えるし、いいかもしれない」
「いつ行く……。私も一緒に行きたいわ」
実津瀬は胸に手を入れて、白布を取り出した。蓮がこの上に置いてと言って、包んでくれたものだ。あれから一人の時はいつも左胸に抱いていた。
布を開くと、手から離れた四つの指先が現れた。その持ち主の生前の姿のままの真っ白なままとはいかず、変色して黒ずんでいる。
蓮はそれを怖いとも気持ち悪いとも言葉にも態度にも出すことなく、むしろ、実津瀬と同じで大切な愛しむものを見るように見つめている。
「実津瀬は寝てばかりだから、少し庭を歩いて体力を戻さないといけないわ。胸の傷に障るから馬で行くのもやめましょう」
実津瀬は頷いて、雪の指を再び左胸に収めた。
「今日は気分もよい。これから少し体を慣らして、明日には行きたいな」
蓮は頷いて、実津瀬の膝に掛かっている衾を引きはがし、庇の間に敷いた円座に座れと言った。
実津瀬は立ち上がるのに少しふらつきながら、庇の間まで出て円座に座った。蓮は食べ終わった粥の膳を持って行ってしまった。
夏の盛りの暑さを感じて、この二日間は夢だったのではないかと思った。
実津瀬がぼんやりと庭の方を眺めていると、遠くから簀子縁をこちらに向かって来る足音が聞こえた。それは一人ではない。複数人だ。
誰だろうと、考える前に元気な声が聞こえた。
「兄様!」
宗清の元気な声。その後に、宗清を真似て少女の声が「兄様!」と続いた。
蓮の差し金だな。
ぼんやりしている長兄のところに、小さな人たちを送り込んで元気づけようという魂胆だろう。
簀子縁から庇の間に座っている兄を見て、宗清は下げた御簾を頭を低くして潜り抜けて入って来た。
「兄様、宴で舞を舞った後、お怪我をしたとか?姉様からもう起き上がれるようになったから会えると聞いて来ました」
実津瀬の前に正座して言う宗清。遅れて珊が宗清の隣に座って、実津瀬を見上げた。
「そう、よく来てくれたね」
「兄様、元気になった?」
珊がそう訊いてきたので、実津瀬は珊の頭に手を載せて頷いた。
「元気になったよ」
そうしていると、庇の間に影が差して、そちらに視線をやるとゆっくりと榧が入って来るところだった。
珊の隣に座った榧は、会話が聞こえていたようで。
「兄様のお怪我は良くなったのですね。寝てばかりだから、少しお疲れの顔」
「そう?粥もたくさん食べたし、これから少し庭を歩いて、寝てばかりの体を動かすところだよ」
三人は安心したように、にこにこと笑顔を見せた。
「そうだ、宗清。蛙をつかまえて女の子の顔に近づけたそうじゃないか。皆が悲鳴を上げて、大騒ぎだったと聞いたよ」
「そうそう、私も悲鳴が聞こえて庭に下りて行ったら、宗清が背中に隠していた蛙をいきなり突き出して大きな声を上げてしまいました」
「父上にも叱られただろうに、蓮にもまた同じことをしたそうじゃないか」
「えへへ、でも、蓮姉さまは怖がりもせずに、蛙を持った私の手首を握ったままお説教をされました」
「あはは、蓮は少女ではないかね。蛙ごときで驚いたりしないさ。女の子たちをびっくりさせてはいけないよ。相手が嫌がることをしてはいけない。相手のことを考えて。相手には思いやりを持たなくてはいけない」
実津瀬は宗清にそう言って行いを正そうとしたが、言っている傍から自問した。
私はあの人のことを考えていたとは言えない。思いやりではなく、自分のわがままを流されるままに通したのだ……。
実津瀬は潤む目を隠すために、立ち上がった。びっくりした三人も一斉に立ち上がった。ふらつく体を宗清と榧が両側から肩を貸して、腕を取った。小さな珊は実津瀬の太腿に両手を回して、支えようとした。
「ああ、大丈夫だよ、珊」
実津瀬は三人の優しさに触れて、雪を思う感情を少し抑えることができた。
「庭に行きたいな。寝てばかりいたから、外の様子が見たい」
「今から暑くなります」
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「少しだけ……。庭の前の朝露に濡れた草花を見るだけだから」
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拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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