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第1部あなた
第二章6
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気が進まないといいつつも、その日が来ると蓮はそわそわして朝から落ち着かない。朝餉の粥も半分しか喉を通らなかった。
父から会わせたい男がいると言われてから、蓮は毎日衣装を入れた箱の前に座って、開けては中を出して並べ、再び入れたりしている。昨日は、有馬王子の宴に着ていった衣装を取り出して、他の上着や帯を並べてみているところに、母と榧がやってきて三人でわいわいと上着、裳、背子、帯の組み合わせを話した。着るものの話は楽しくて、結婚相手に会う緊張よりも、どのような組み合わせが自分の好みか、蓮に似合っているか、美しく見えるかを好き勝手に言い合った。
今朝、昨日姦しく騒いでやっと決めた衣装の前に蓮は座っていた。
下着姿になって、上着を着た。侍女の曜が傍で手伝ってくれている。帯を巻いているところで、母がやってきた。
「明るい碧がとても似合っているわ、朱色もいいわね」
上着は織が美しい碧である。裳は目にも鮮やかな朱色だ。
「これを着けなさい。おばあ様が大事にされていた琥珀の耳飾りと首飾りよ」
髪を何度も梳いて、一つにまとめると高く結い上げて櫛を指した。次は化粧だ。母の礼に昔から付いている侍女の澪と蓮の侍女の曜の二人がかりで蓮の肌を少しばかり白く塗り、丸い目の周りを縁取って、ほんのりと赤と白を混ぜた桃色を目尻に乗せた。鮮やかな紅を唇に載せてなじませると、それは年ごろの娘がおめかしした姿になった。
有馬王子のところに行くのでも、蓮はこれほどにはめかし込まなかった。
母と二人の侍女は「まあ、きれい」「かわいらしいわ」と口々に蓮の姿を褒めた。そう言われると蓮は嬉しいよりも恥ずかしいが先に立って、下を向いた。
そこに大人しい榧が、庇の間に入って来た。昨日、姉の衣装を母と一緒にあれだこれだという中にいたので、姉の姿が気になったのだ。
「榧、いらっしゃい」
榧に気づいた母の礼が手招きした。榧は母の隣に立って、部屋の真ん中で皆から注目されている姉の姿を見た。
「……姉さま……」
そう言ったまま、ほけっと姉を見つめている。
「なに?榧!どこかおかしなところがあるかしら?あるなら言ってちょうだい」
「……きれい…かわいいな」
そう呟いて、恥ずかしそうに母の腕にすがった。
「……え、そう?」
「きれいよ、蓮」
蓮はまたしてもどのような態度を取っていいかわからず、両手で頬を覆って下を向いた。
庭を介して反対の部屋から女人たちの騒がしい声がする。
実津瀬は、蓮の支度で母たちが話しているのだと察した。何を着ようかと、随分騒がしく話していたからその結果の姿にまた騒いでいるのかもしれない。
その様子を簀子縁に出て窺っていると、父の側近である渡道が呼びに来たので、実津瀬はそのまま父の部屋に向かった。
蓮は母、妹の榧、支度を手伝ってくれた侍女たちと尽きない衣装の組み合わせの話をしているところに、渡道が呼びに来た。
母が立たないので、蓮は驚いた。
「お母さまは行かないの?」
「ええ、私は行かないわよ。あなた一人で会うのよ。相手も一人だもの」
蓮はぎょっとした。渡道も。
「蓮様おひとりでどうぞ。実言様もそのつもりですよ」
蓮は一人で渡道の後をついて父の部屋に行った。
途中で、実津瀬とすれ違う。
「実津瀬!」
「やあ、蓮。きれいにしてもらっているじゃないか。でも、顔が怖いよ。緊張しているの?」
からかうような実津瀬の言葉に蓮は頬を膨らませた。
「実津瀬は、お父さまのところに行っていたの?」
「そうだよ。会ってきたよ」
「どのような」
「今から会うんじゃないか、すぐにわかることだよ」
実津瀬はそう言って、手を上げて自室へと帰って行った。
蓮は庇の間まで渡道の後ろをついて行き、庇の間で渡道が脇に避けたので、蓮の目の前には父とそして、父と正対している男の背中が見えた。
大きな背中……。
蓮は最初に思ったことを心の中で呟いて部屋の中に入って行った。
「蓮、ここに座って」
蓮は父の隣に置いてある円座にくるりと男の方へ向いて座った。まだ、目を伏せたままで、男の顔を見ないようにしていた。
「景之亮殿、これが娘の蓮だ。蓮、この方がお前に会わせたいと言っていた男だよ」
蓮は一度お辞儀をして、顔を上げた。相手も、同じように一度頭を下げたようで、顔を上げるのが同時になった。目が合った蓮は、びっくりした様子を悟られないように目を伏せた。
お父さまったら、どうしてこの人を選んだのかしら。
蓮は心の中で、父に向かって悪態をついた。
お父さまも決して体小さいほうではないけど、この人はそれよりも背も高くて体も大きくて、怖いくらい。そして、そのお顔は私の好きな……伊緒理のような……優しそうな顔が好みなのに……。色も黒くて、毛も濃い、頬は髭が覆っていて、全く好きではない顔だ。着ている物も、色あせて多くのしわが寄っていて古びている。私はこんなに着飾っているのに。そして、この人は私よりもとても年上に見える。伊緒理よりも年上……。
「鷹取景之亮と申します。どうぞ、よろしくお願いします」
鷹取景之亮は、名乗ってもう一度頭を下げた。
その容姿は蓮の好みではないが、初めて聞いた声音は低い声だが、温かみがあり心地よく感じた。どこをとっても気に入らないということはなさそうだ。
「景之亮、この子が私の自慢の娘の蓮だよ。今日はあなたに会うから一段と着飾ってきれいにしているけど、私が言うのもなんだけど可愛らしい子だよ。性格ははっきりしていて気が強い。自分の思ったことはやらないと気が済まず、後先考えずに行動してしまって、周りの者をびっくりさせるところが難点かな。でもね、優しい子なんだ。誰にでも手を差し伸べて助けることができる、優しい素直な子なんだよ。いずれ知ることになるとは思うけど、そこは売り込んでおくよ」
と笑いながら父は言った。
蓮は、父が自分を褒めたと思ったら欠点を告げ口して、その後にまた褒めてきたので、頬を膨らませたり、恥ずかしそうに下を向いたりと気持ちが忙しい。
「どうしたの?違うかい?」
そんな蓮の様子を見て、父が話し掛けてきた。
「酷いわ…お父さま。私の悪いところをすぐに言ってしまうのですもの」
「ああ、それは、お前も認めるところなんだね。景之亮、私だけの意見ではないよ。娘もその自覚があるらしい。いいことばかり言ってもね。人はいいところばかりじゃないからね。欠点も持ち合わせているのが人というものさ」
実言は高らかに笑った。
父の飾らない物言いが、自分のことをいわれているのにおかしくて、蓮は袖で口元を隠して笑った。ひとり、景之亮だけがこの場で笑っていいものかどうか思案しかねて、歪んだ変な顔で頬を指でかいた。
浅黒い顔の上で鼻と口が左右にねじれたようになって、蓮はその顔を盗み見て、変な顔、と思った。
お父さまは私が伊緒理を好きなことは知っているのに。伊緒理の全てが好きだが、顔は特に好きなのだ。もう少し、蓮の好みの顔の人を連れてきてもいいのではないか、と思った。
「景之亮は左近衛府に勤めている。武術の腕の立つとても優秀な男だ。私はその優秀さに目をつけていてね。前からお近づきになりたいと思っていたのだ。これからは、たびたびこの邸にお招きして、私の話し相手になってもらいたいと思っている。相談したいこともあるしね。その時に、蓮とも会って話をしてみてよ。私は何も性急にことをすすめたいなんて思っていなくてね。すぐに分かり合えることもあれば、時間をかけてその人の好さを知ることもあるから」
と言う。
「私なんてね、最初、妻にはそっぽを向かれていたものだけど、時間を掛けて私のことをわかってもらったくちだから、最初から思い合うなんてうまくいきすぎだと思うよ」
と自分のことを語り出した。
蓮にはこの話は何回目か、いや何十回目かである。また始まったと、少々呆れた顔をした。
「ま、こんな話も追々聞いていただこうかな…お嫌でなければね」
実言は言って、この日の蓮と景之亮の対面は終わった。蓮が来る前に父は景之亮とじっくりと話をしたので、景之亮は退出するため立ち上がった。
立ち上がった景之亮は横に渡る柱に頭が当たってしまうほど大きくて、蓮は驚いた顔を見せてしまった。
「あはは、景之亮は大きいだろう。見た通りの力持ちだが、こう見えても俊敏だ。乗馬の技術も随一だ。まあ、そんなことは蓮も追々知れることだよ」
蓮は父と一緒に簀子縁まで出て、渡道に案内されて去っていく景之亮の後ろ姿を見送った。
「どうだった?」
父は簀子縁に立ったまま蓮に向かって、にやにやと笑いながら話し掛けてきた。それは、自分の目に狂いはないとの自信の表れのようだった。
蓮は素直な自分の今の気持ちを言っていいものかと迷っていると、答えを待たずに父は続けた。
「あの男には、今日お前と会うことは言っていなかったのだよ。気に入った男だから、前からうちに呼びたかったのだけど、忙しい男でね。日に焼けていただろう?外を走りまわっているのだ。ようやく、今日来ることになったのだけど、仕事の帰りでいいからここに寄れと言って、格好など気にしないといったから、まあ、少々みすぼらしい姿のまま来た。庭先で済む話と思ったらしく、邸の中に上がろうとしないし、この部屋まで連れて来るのに苦労したよ。まあ、それでいろいろと話をして、実津瀬とも会わせてね、話は弾んだよ。武術に秀でているが、学問にも明るくてね。実津瀬が塾で習っていることの話を何でも知っていた。それでね、これから私の娘と会わせたいというと、あの黒い顔が白くなってね。それは、どういう、どうして、としどろもどろさ。それまでは歯切れよく話していた男なのに、おかしくてね。娘に会わせたいというのは、気に入れば結婚してほしいということだと、率直に話したよ。恐れ多いと恐縮してね、立ち上がろうとするのを、脅して座らせたところに、お前が現れたというわけさ。……あれだと、どうだろうね。私の言葉に嘘はなくお前は可愛いらしいけど、誰もが好き人なるかというと、それはどうかわからないからね。景之亮には期待外れだったかもしれないな」
と、最後に父は景之亮が蓮を気に入らないかもしれないという。
これは、蓮にとっては心外な言葉だった。
私はこんなにきれいに身なりを整えて準備しているのに、私の印象が悪くなるなんて、どういうことだろう。私の方が仕事帰りの汚れた姿で、髭も伸び放題のみすぼらしい男に失望しているのに。
「あら、その顔は、何を言っているの、お父さま。私の方から、願い下げよ、とでも言いたげだね」
と言った。連の気持ちを言う時は女の声音のように高い声で話す。
蓮は図星を指されて、顔が赤くなるのを感じた。
「いいよ、願い下げでもさ。でも、今日の姿を見ただけだよ。私が推す男なのだから、もう少し会ってみた方がいいね。それでも、あの顔が好きじゃないとか、気が合わないとかいうならそれでいいよ」
実言は、今の蓮の気持ちが変わらないか見物だというように、高笑いして部屋の中に入って行った。
父に挑まれているようで、蓮は目をつり上げてその背中を見送った。
なんだか、自信満々ね、お父さま。そうであるなら、あの鷹取景之亮という人をもっと知ってやるわよ。
と心の中で啖呵を切った。
部屋に戻ると、母、榧、珊の三人が輪になって、珊の好きなお人形遊びをしていた。
「……お姉さま!」
背中を向けていた榧がすぐに気づいて、振り向いた。その声で、母と珊が顔を上げた。
蓮の着飾った姿を今初めて見た珊は立ち上がって言った。
「姉さま、きれい。かわいい」
蓮は榧と珊の間に座った。
「きらきらね」
珊は手の届くところに蓮の耳飾りが来たので、垂れ下がる琥珀の玉を触った。
「榧、首飾りを取ってちょうだい」
背中を向けて蓮は、首の後ろで結んでいる首飾りの紐を解くように言った。膝たちになって榧は首飾りを解くと姉の手の中に置いた。
「珊、後ろを向いてごらん。きらきらをつけてあげる。でもね、これはとても重いのよ」
珊は頭の上から降りてきた首飾りが自分の胸の上に置かれた時に、それを手で触って、仮の母である礼を見てにっこり笑った。その間に蓮は首の後ろで結んでやった。
「ほら、どう?」
珊は蓮を振り向いて、胸の上の飾りを握って笑っている。
「きらきら、きれい」
珊は嬉しそうに手のひらの置いた琥珀の大きな玉を眺めている。
「大切なものだから、乱暴に扱ってはだめよ」
と注意した。
「蓮、どうだったの?どのような方だった?」
今回、母はあの鷹取景之亮に会っていないため、蓮がどう思うかは予想ができず、どこか興味津々の様子で訊いてきた。いつも控えめな榧も、姉の顔を覗き込んで何を言うか待っている。
「……わからない。……お父さまは酷い人。あの方、鷹取景之亮様とおっしゃるのだけど、今日私に会うことは知らされていなかったのですって。ただ、今日、仕事帰りに邸に寄るように言われて来たようで、山のように大きな体で、日に焼けて黒い顔に頬は髭に覆われていて、格好なんてくたくたの仕事着だったし、着飾った私は何だったのかしら。……そのお姿は私の好みではなくて。お帰りになった後、私の顔が不服そうだとお父さまは言うの。だけれど、反対に私があの方に選ばれるかもわからないと言われたわ。断ってもいいけど、今日会っただけで決めてはいけないって。だから、その言葉に従って、またあの方にお会いするわ」
へえ、と二人は黙って蓮の話に頷いた。
「そうなの?なんだか、そのお姿を見るのが楽しみね。だって、蓮の好きな人は伊緒理のような色白で涼やかな顔つきの方ですものね。少し違うように感じるもの。だから、蓮も気持ちがよくわからないのね」
と母は冷静に分析した。
「私もお姿を見られるかしら。見てみたいわ。伊緒理様とは正反対の方を」
榧も興味津々の目をして言う。
小さな珊はきょとんとした顔をして三人を見ている。両手で琥珀の玉を挟んで持って、その重さを楽しみながら。
父から会わせたい男がいると言われてから、蓮は毎日衣装を入れた箱の前に座って、開けては中を出して並べ、再び入れたりしている。昨日は、有馬王子の宴に着ていった衣装を取り出して、他の上着や帯を並べてみているところに、母と榧がやってきて三人でわいわいと上着、裳、背子、帯の組み合わせを話した。着るものの話は楽しくて、結婚相手に会う緊張よりも、どのような組み合わせが自分の好みか、蓮に似合っているか、美しく見えるかを好き勝手に言い合った。
今朝、昨日姦しく騒いでやっと決めた衣装の前に蓮は座っていた。
下着姿になって、上着を着た。侍女の曜が傍で手伝ってくれている。帯を巻いているところで、母がやってきた。
「明るい碧がとても似合っているわ、朱色もいいわね」
上着は織が美しい碧である。裳は目にも鮮やかな朱色だ。
「これを着けなさい。おばあ様が大事にされていた琥珀の耳飾りと首飾りよ」
髪を何度も梳いて、一つにまとめると高く結い上げて櫛を指した。次は化粧だ。母の礼に昔から付いている侍女の澪と蓮の侍女の曜の二人がかりで蓮の肌を少しばかり白く塗り、丸い目の周りを縁取って、ほんのりと赤と白を混ぜた桃色を目尻に乗せた。鮮やかな紅を唇に載せてなじませると、それは年ごろの娘がおめかしした姿になった。
有馬王子のところに行くのでも、蓮はこれほどにはめかし込まなかった。
母と二人の侍女は「まあ、きれい」「かわいらしいわ」と口々に蓮の姿を褒めた。そう言われると蓮は嬉しいよりも恥ずかしいが先に立って、下を向いた。
そこに大人しい榧が、庇の間に入って来た。昨日、姉の衣装を母と一緒にあれだこれだという中にいたので、姉の姿が気になったのだ。
「榧、いらっしゃい」
榧に気づいた母の礼が手招きした。榧は母の隣に立って、部屋の真ん中で皆から注目されている姉の姿を見た。
「……姉さま……」
そう言ったまま、ほけっと姉を見つめている。
「なに?榧!どこかおかしなところがあるかしら?あるなら言ってちょうだい」
「……きれい…かわいいな」
そう呟いて、恥ずかしそうに母の腕にすがった。
「……え、そう?」
「きれいよ、蓮」
蓮はまたしてもどのような態度を取っていいかわからず、両手で頬を覆って下を向いた。
庭を介して反対の部屋から女人たちの騒がしい声がする。
実津瀬は、蓮の支度で母たちが話しているのだと察した。何を着ようかと、随分騒がしく話していたからその結果の姿にまた騒いでいるのかもしれない。
その様子を簀子縁に出て窺っていると、父の側近である渡道が呼びに来たので、実津瀬はそのまま父の部屋に向かった。
蓮は母、妹の榧、支度を手伝ってくれた侍女たちと尽きない衣装の組み合わせの話をしているところに、渡道が呼びに来た。
母が立たないので、蓮は驚いた。
「お母さまは行かないの?」
「ええ、私は行かないわよ。あなた一人で会うのよ。相手も一人だもの」
蓮はぎょっとした。渡道も。
「蓮様おひとりでどうぞ。実言様もそのつもりですよ」
蓮は一人で渡道の後をついて父の部屋に行った。
途中で、実津瀬とすれ違う。
「実津瀬!」
「やあ、蓮。きれいにしてもらっているじゃないか。でも、顔が怖いよ。緊張しているの?」
からかうような実津瀬の言葉に蓮は頬を膨らませた。
「実津瀬は、お父さまのところに行っていたの?」
「そうだよ。会ってきたよ」
「どのような」
「今から会うんじゃないか、すぐにわかることだよ」
実津瀬はそう言って、手を上げて自室へと帰って行った。
蓮は庇の間まで渡道の後ろをついて行き、庇の間で渡道が脇に避けたので、蓮の目の前には父とそして、父と正対している男の背中が見えた。
大きな背中……。
蓮は最初に思ったことを心の中で呟いて部屋の中に入って行った。
「蓮、ここに座って」
蓮は父の隣に置いてある円座にくるりと男の方へ向いて座った。まだ、目を伏せたままで、男の顔を見ないようにしていた。
「景之亮殿、これが娘の蓮だ。蓮、この方がお前に会わせたいと言っていた男だよ」
蓮は一度お辞儀をして、顔を上げた。相手も、同じように一度頭を下げたようで、顔を上げるのが同時になった。目が合った蓮は、びっくりした様子を悟られないように目を伏せた。
お父さまったら、どうしてこの人を選んだのかしら。
蓮は心の中で、父に向かって悪態をついた。
お父さまも決して体小さいほうではないけど、この人はそれよりも背も高くて体も大きくて、怖いくらい。そして、そのお顔は私の好きな……伊緒理のような……優しそうな顔が好みなのに……。色も黒くて、毛も濃い、頬は髭が覆っていて、全く好きではない顔だ。着ている物も、色あせて多くのしわが寄っていて古びている。私はこんなに着飾っているのに。そして、この人は私よりもとても年上に見える。伊緒理よりも年上……。
「鷹取景之亮と申します。どうぞ、よろしくお願いします」
鷹取景之亮は、名乗ってもう一度頭を下げた。
その容姿は蓮の好みではないが、初めて聞いた声音は低い声だが、温かみがあり心地よく感じた。どこをとっても気に入らないということはなさそうだ。
「景之亮、この子が私の自慢の娘の蓮だよ。今日はあなたに会うから一段と着飾ってきれいにしているけど、私が言うのもなんだけど可愛らしい子だよ。性格ははっきりしていて気が強い。自分の思ったことはやらないと気が済まず、後先考えずに行動してしまって、周りの者をびっくりさせるところが難点かな。でもね、優しい子なんだ。誰にでも手を差し伸べて助けることができる、優しい素直な子なんだよ。いずれ知ることになるとは思うけど、そこは売り込んでおくよ」
と笑いながら父は言った。
蓮は、父が自分を褒めたと思ったら欠点を告げ口して、その後にまた褒めてきたので、頬を膨らませたり、恥ずかしそうに下を向いたりと気持ちが忙しい。
「どうしたの?違うかい?」
そんな蓮の様子を見て、父が話し掛けてきた。
「酷いわ…お父さま。私の悪いところをすぐに言ってしまうのですもの」
「ああ、それは、お前も認めるところなんだね。景之亮、私だけの意見ではないよ。娘もその自覚があるらしい。いいことばかり言ってもね。人はいいところばかりじゃないからね。欠点も持ち合わせているのが人というものさ」
実言は高らかに笑った。
父の飾らない物言いが、自分のことをいわれているのにおかしくて、蓮は袖で口元を隠して笑った。ひとり、景之亮だけがこの場で笑っていいものかどうか思案しかねて、歪んだ変な顔で頬を指でかいた。
浅黒い顔の上で鼻と口が左右にねじれたようになって、蓮はその顔を盗み見て、変な顔、と思った。
お父さまは私が伊緒理を好きなことは知っているのに。伊緒理の全てが好きだが、顔は特に好きなのだ。もう少し、蓮の好みの顔の人を連れてきてもいいのではないか、と思った。
「景之亮は左近衛府に勤めている。武術の腕の立つとても優秀な男だ。私はその優秀さに目をつけていてね。前からお近づきになりたいと思っていたのだ。これからは、たびたびこの邸にお招きして、私の話し相手になってもらいたいと思っている。相談したいこともあるしね。その時に、蓮とも会って話をしてみてよ。私は何も性急にことをすすめたいなんて思っていなくてね。すぐに分かり合えることもあれば、時間をかけてその人の好さを知ることもあるから」
と言う。
「私なんてね、最初、妻にはそっぽを向かれていたものだけど、時間を掛けて私のことをわかってもらったくちだから、最初から思い合うなんてうまくいきすぎだと思うよ」
と自分のことを語り出した。
蓮にはこの話は何回目か、いや何十回目かである。また始まったと、少々呆れた顔をした。
「ま、こんな話も追々聞いていただこうかな…お嫌でなければね」
実言は言って、この日の蓮と景之亮の対面は終わった。蓮が来る前に父は景之亮とじっくりと話をしたので、景之亮は退出するため立ち上がった。
立ち上がった景之亮は横に渡る柱に頭が当たってしまうほど大きくて、蓮は驚いた顔を見せてしまった。
「あはは、景之亮は大きいだろう。見た通りの力持ちだが、こう見えても俊敏だ。乗馬の技術も随一だ。まあ、そんなことは蓮も追々知れることだよ」
蓮は父と一緒に簀子縁まで出て、渡道に案内されて去っていく景之亮の後ろ姿を見送った。
「どうだった?」
父は簀子縁に立ったまま蓮に向かって、にやにやと笑いながら話し掛けてきた。それは、自分の目に狂いはないとの自信の表れのようだった。
蓮は素直な自分の今の気持ちを言っていいものかと迷っていると、答えを待たずに父は続けた。
「あの男には、今日お前と会うことは言っていなかったのだよ。気に入った男だから、前からうちに呼びたかったのだけど、忙しい男でね。日に焼けていただろう?外を走りまわっているのだ。ようやく、今日来ることになったのだけど、仕事の帰りでいいからここに寄れと言って、格好など気にしないといったから、まあ、少々みすぼらしい姿のまま来た。庭先で済む話と思ったらしく、邸の中に上がろうとしないし、この部屋まで連れて来るのに苦労したよ。まあ、それでいろいろと話をして、実津瀬とも会わせてね、話は弾んだよ。武術に秀でているが、学問にも明るくてね。実津瀬が塾で習っていることの話を何でも知っていた。それでね、これから私の娘と会わせたいというと、あの黒い顔が白くなってね。それは、どういう、どうして、としどろもどろさ。それまでは歯切れよく話していた男なのに、おかしくてね。娘に会わせたいというのは、気に入れば結婚してほしいということだと、率直に話したよ。恐れ多いと恐縮してね、立ち上がろうとするのを、脅して座らせたところに、お前が現れたというわけさ。……あれだと、どうだろうね。私の言葉に嘘はなくお前は可愛いらしいけど、誰もが好き人なるかというと、それはどうかわからないからね。景之亮には期待外れだったかもしれないな」
と、最後に父は景之亮が蓮を気に入らないかもしれないという。
これは、蓮にとっては心外な言葉だった。
私はこんなにきれいに身なりを整えて準備しているのに、私の印象が悪くなるなんて、どういうことだろう。私の方が仕事帰りの汚れた姿で、髭も伸び放題のみすぼらしい男に失望しているのに。
「あら、その顔は、何を言っているの、お父さま。私の方から、願い下げよ、とでも言いたげだね」
と言った。連の気持ちを言う時は女の声音のように高い声で話す。
蓮は図星を指されて、顔が赤くなるのを感じた。
「いいよ、願い下げでもさ。でも、今日の姿を見ただけだよ。私が推す男なのだから、もう少し会ってみた方がいいね。それでも、あの顔が好きじゃないとか、気が合わないとかいうならそれでいいよ」
実言は、今の蓮の気持ちが変わらないか見物だというように、高笑いして部屋の中に入って行った。
父に挑まれているようで、蓮は目をつり上げてその背中を見送った。
なんだか、自信満々ね、お父さま。そうであるなら、あの鷹取景之亮という人をもっと知ってやるわよ。
と心の中で啖呵を切った。
部屋に戻ると、母、榧、珊の三人が輪になって、珊の好きなお人形遊びをしていた。
「……お姉さま!」
背中を向けていた榧がすぐに気づいて、振り向いた。その声で、母と珊が顔を上げた。
蓮の着飾った姿を今初めて見た珊は立ち上がって言った。
「姉さま、きれい。かわいい」
蓮は榧と珊の間に座った。
「きらきらね」
珊は手の届くところに蓮の耳飾りが来たので、垂れ下がる琥珀の玉を触った。
「榧、首飾りを取ってちょうだい」
背中を向けて蓮は、首の後ろで結んでいる首飾りの紐を解くように言った。膝たちになって榧は首飾りを解くと姉の手の中に置いた。
「珊、後ろを向いてごらん。きらきらをつけてあげる。でもね、これはとても重いのよ」
珊は頭の上から降りてきた首飾りが自分の胸の上に置かれた時に、それを手で触って、仮の母である礼を見てにっこり笑った。その間に蓮は首の後ろで結んでやった。
「ほら、どう?」
珊は蓮を振り向いて、胸の上の飾りを握って笑っている。
「きらきら、きれい」
珊は嬉しそうに手のひらの置いた琥珀の大きな玉を眺めている。
「大切なものだから、乱暴に扱ってはだめよ」
と注意した。
「蓮、どうだったの?どのような方だった?」
今回、母はあの鷹取景之亮に会っていないため、蓮がどう思うかは予想ができず、どこか興味津々の様子で訊いてきた。いつも控えめな榧も、姉の顔を覗き込んで何を言うか待っている。
「……わからない。……お父さまは酷い人。あの方、鷹取景之亮様とおっしゃるのだけど、今日私に会うことは知らされていなかったのですって。ただ、今日、仕事帰りに邸に寄るように言われて来たようで、山のように大きな体で、日に焼けて黒い顔に頬は髭に覆われていて、格好なんてくたくたの仕事着だったし、着飾った私は何だったのかしら。……そのお姿は私の好みではなくて。お帰りになった後、私の顔が不服そうだとお父さまは言うの。だけれど、反対に私があの方に選ばれるかもわからないと言われたわ。断ってもいいけど、今日会っただけで決めてはいけないって。だから、その言葉に従って、またあの方にお会いするわ」
へえ、と二人は黙って蓮の話に頷いた。
「そうなの?なんだか、そのお姿を見るのが楽しみね。だって、蓮の好きな人は伊緒理のような色白で涼やかな顔つきの方ですものね。少し違うように感じるもの。だから、蓮も気持ちがよくわからないのね」
と母は冷静に分析した。
「私もお姿を見られるかしら。見てみたいわ。伊緒理様とは正反対の方を」
榧も興味津々の目をして言う。
小さな珊はきょとんとした顔をして三人を見ている。両手で琥珀の玉を挟んで持って、その重さを楽しみながら。
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