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【エルフィン ナイトの章】
【その者の名前はⅢ】
しおりを挟む「この…バカ者が!お前が寝てるのはスパイクの棺桶ベッドだぞ!」
彼女はそう言って彼を叱った。
叱られた方のモートは、言葉通り絵に描いたようなバカ者面をして立っていた。
「言われてみれば、なんか寝る時に棺桶みたいだなあって…確かに思ったぞ!」
モートは彼女の言葉に、ようやく得心がいったとばかりに歩き出した。
クリスマスも近い12月。
冬の到来を告げる初雪は、ロンドンの街や民家の屋根にも舞降りていた。それでもまだ、今年は積雪には至らなかった。
霜柱を砕くブーツの音を、怒ったように足早に彼女の足音が追いかけた。
最近モートは、根城にしているパブの前まで迎えに行かなくても、自らやって来るようになっていた。
いつも二人は、彼女の屋敷に続く森の径で落ち合うようになった。
彼女は直接聞かずとも、モートが塒を変えたことは知っていた。
「大方そこの宿飯に飽きたのだろう」
そんな風に軽く考えていた。
けれど今朝になって、モートの話を聞いた途端に彼女は声を荒げた。モートが現在滞在しているのが、ワークハウスと呼ばれる施設であることを知ったからだ。
ワークハウスという名前だけ聞けば、何か職業の技能を教えるための、学校のようにも聞こえる。
しかしその実体は救貧院(プア ハウス)だった。家も金も無い貧民や、移民や孤児たちが、施しを受けるために集まる施設である。
ロンドン市民なら、その名を聞くだけですぐに顔をしかめたに違いない。
人々に最も忌み嫌われる施設であった。
彼女がそこをスパイクと呼ぶのは、古い慣例に習っただけで、実はその意味までは詳しく知らなかった。
かつて凶悪犯が収監され、公開処刑まで行われていた、ニュー ゲート監獄。
市民はおろか、貧民街の住人でさえ「スパイクに入るくらいなら、監獄か地獄、さもなければ、のたれ死にでもした方がまだましだ!」そんな言葉を口にした。
そこに入れば、なんとか一日命を保てる程度の粗末な食事と、何ヵ月も洗濯されていない衣類が配給された。
看守による暴力も日常的に行われ、それが原因で命を落とす者も数多くいた。
孤児の少年少女には、労働以外に文字の読み書きなど、学習のための時間が法で義務付けられてはいたが。そんなものは看守の都合や気分で、いくらでも無視された。
施し欲しさに一度入れば、家族に合うことは二度と叶わない。
早朝から日没まで義務づけられた労働は、ひたすら石を砕き草を毟る、そんな単純作業の繰り返しだった。
仮に世の中に戻ったところで、スパイクでの経験は何も役に立たなかった。
いかなる労働を譬え何時間何ヵ月こなそうと、施設からは1ペニーの金も支払われることはない。
それでもスパイクの住人たちは、そこを逃げ出したりしない。既に生きることさえ放棄した、そんな人間ばかり集まる場所だと言われていた。
スパイクは長い鉄の爪がついた、手甲に似た手袋だった。
収用された人々はそれを使って、木の皮から繊維を刮ぎとる作業をさせられた。
樹木から剥ぎ取られた細長い繊維は、船底の補修などに使われ、重宝された。
柩のベッド。施設が収用した貧民のために用意した寝床を、人々はそう呼んだ。
それは粗末な杉の板を釘で打ち付けただけの、大人がやっと足を伸ばせる広さの長方形の木箱だった。
ベットと呼ぶには程遠い。何処からどう見ても、安い棺にしか見えない代物だった。
この【柩のベット】という言葉が、ロンドン市民がスパイクを忌み嫌う、大きな理由となっていた。
教会の礼拝堂のような広間に、ずらりと隙間なく並べられた夥しい数の柩。そこに、まだ息をしている人間を寝かせる。
国民の大半がキリスト教徒である英国人達にとって、それは刑務所の独房よりさらにおぞましく冒涜的な光景に思えた。
「あまりに劣悪な環境で、次々死に行く貧民の埋葬の手間を省くために、彼処には、予めベットの柩が用意されている」
そんな黒い噂が真しやかに流れていた。
「柩って言われたら…確かにそうか!でも俺たち魔法使いだしさ。これが、寝たら寝たでなかなか…」
前に足を踏み出した彼女の外套の裾が、ふわりと翻った。
彼女は握りしめた拳を、そのままモートの鳩尾にめり込ませた。
「ぐは!」
不意に腹のあたりを殴られた。
モートは悶絶して膝から崩れ落ちた。
「キル…いきなり…何すんだ!?」
彼女はお構い無しにモートの被っていた山高帽のつばを上に持ち上げて言った。
「宿に泊まる金や飯代がない…ならば、なぜ早く私にそう言わない!」
その声は怒気を孕んでいた。
「だからってお前…いきなり殴る?…まったくこれだからロンドンの…」
苦笑いして見上げた彼女の瞳は、悲しさを湛えて、潤んでいるようにも見えた。
「いや…その…すまねえ」
「お前は私の客人だ 。現に今もこうして、お前に手助けをしてもらっている。その大事な客人を…事もあろうに、あんな場所で寝泊まりさせたとあっては」
(その客人の腹を、振り向き様に殴るかね…しかも手加減なしに思いっきり)
モートは軽く咳き込みながら思った。
「ロンドンの魔女の名折れだ」
彼女はそう吐き捨てるように言い残して、さっさと前を歩き始めた。
モートは立ちあがると、すぐに彼女の横に並んで歩いた。
「別に金が尽きたわけじゃないんだ」
「そうなのか」
「ただ救貧院の前を通りかかって、この国に初めて来た時に、同じ船に乗っていたやつらを思い出したんだ。そいつらが行場がなくて、そこに収用されてはいないかと…ふっと気になっただけだ」
「モート」
「なんだ?」
「振り切って生きねば、お前死ぬぞ」
「師匠にも同じことを言われた」
モートは帽子の下に指を入れて、髪の下の皮膚を掻いた。
「承知の上なら仕方ない」
彼女はそれきり黙って、モートになにも聞こうとはしなかった。
「いつか俺は魔法を誰かに教えたい」
旅立つ前にモートは彼女に打ち明けた
「俺みたいな身の上のやつを集めて、魔法を教える学校を作るんだ」
そんな発想は彼女にはなかった。
「そんなことをしたら…お前の師匠も、国中の魔法使いどもだって黙ってないぞ」
魔法使いは、魔法の探求と研鑽、そして何よりも秘匿を重んじる。
学校など作って魔法を世間に流布するなど、とんでもない裏切りである。
「背信行為」
そう捉えられても仕方ない。
「そうだな…俺のような下っ端の魔法使いが、そんなことをしたら間違いなくそうなる。だけど…これがもし、お前の師匠のバブシカ様のお考えだとしたら、皆は一体どう思うかな」
「バブシカ様のすることなら」
「それはバブシカ様が、過去にマレキフィムの封印という、大偉業を成し得た御方だからだ。だから俺もそうなろうとした…功を焦っちまったってやつさ」
「それでお前は私の家に入ろうとしないのか」
彼女は心の中でそう呟いた。
モートが追うマレキフィム…その名は確かイグニート。それは一度は封印された原初の魔法。焔のオリジンだ。
彼女が街に封印をかけ、時の流れの力を借りて、滅しようとしている者と同等の存在と考えていいだろう。
そしてそれは既に封印を解かれ、彼の命を狙っている。詳しくは知らない。
モートは一度はそれと邂逅した。しかし彼の口振りでは、それは今も封印されてはおらず、野放しになったままだ。
おそらく封印に失敗したのだろう。
そしてモートは再びそれと合間見える時を、自らの宿命と感じているようだ。
もし彼が恐れをなして何処かに身を隠しても、そうでなくても、マレキフィムは彼の近親者をすべて殺すだろう。
一度でも係わった以上それは避けられないことだった。
「マレキフィムとはそういうもの」
彼女は師であるバブシカに、そう教えられていた。だから彼女自身も、モートとは協力者という関係にあっても、家に呼び寝寝食を共にするような、近しい関係となることを避けていた。恐れていた。
彼女自身がモートと同じ、マレキフィムを討つ宿命を背負った者だからだ。
「モート」
森の径を抜けて市街地に出る時、彼女はようやく口を開いた。
森とは違って、けして浄化出来ない埃と煤煙の中で、街は早くも目覚めていた。
忙しく一日を送ろうとする大勢の人たちが通りを往き来している。
「お前ひょっとして、私の家に泊まったりすると、私の宿敵に目をつけられる…そんな風に考えてるのではないか?」
伺うようにモートの顔を覗き込んだ。
「まあ、そんなところだ」
モートはあっさりそう答えた。
「そんなもんに係わってるやつの身内と思われたら…悪いが命がいくつあっても足りねえ!かんべんして欲しいもんだ。まったく!」
「お前の師匠は、国中に邸宅を所有していると聞いたが」
「ああ!その話長くなるけど本当だぜ」
「ロンドンにはないのか?」
「ブラックヒースの森にも一軒あるんだ!よければ、今度案内するよ!師匠が不在の時なら、屋敷は自由に使っていいとお許しをもらっているからな!」
「では何故そこに住まない」
しばらく考えてからモートは答えた。
「広い屋敷は風邪をひくからな!」
彼女は呆れて口をぽかんと開けたまま暫く彼の顔を眺めていた。
「なんだよ…俺の顔になんかついてる?」
「煙突の煤が」
彼女は空手で顔を拭く真似をした。
「生れつきだ…おい人種差別だぞ」
モートは彼女の顔に笑みが浮かんでいるのを見た。つられて自分も笑った。
「モート、お前は魔法使いとして本当に最低なやつだ。これからも、さぞかし最低なことばかりするんだろうな」
「ひどい」
「誉めたつもりだが」
もしも互いに背負っているものすべてに決着の時が来たら。
モート、私もお前を手伝おう。国中の魔法使いがどれだけ文句を言って騒いでも、この結界は破れない。
お前のしたいようにすればいい。
そんな世の中に早くなるといいな。
彼女はモートにそう告げたかった。
しかし彼女は成し得ていない希望や夢語りは、それが成就するのを見届けるまでは、けしてしないと心に誓っていた。
「では今日から家に来い!」
「そのうちにな!」
「二度も三度も同じことを言わせるな」
彼女とモートは通りに出てもそんな言い合いを続けていた。
「この頃のお嬢さんは随分積極的ね…」
「嘆かわしいことだ!」
通りすがりの老夫婦にそんな皮肉を言われても、彼女は気にする素振りもない。
「ひやっ!」
突然こちらを見ていた老人たちが、叫び声を上げて逃げるように駆け出した。
「おい」
彼女は振り向いてモートを睨んだ。
モートは右手に、禍禍しい鉄爪のついたスパイクを嵌めて、大熊のように両方の腕を上げて立っていた。
「いや、これ結構使えるかな…なんて」
モートは笑って、スパイクを玩具のように振り回している。
「さっさと捨てないと、お前の顔にその爪で貫禄をつけてやるからな」
彼女はそう言って、モートの前で両手の指を立て見せた。
子供を怖がらせる、おとぎ話に出て来る魔女がそこにいる。モートは思った。
「お前といると、ちっとも目的地に着かないのだが」
「それって誉めてるつもりなんだろ?」
「誉めてない」
【クリスマス前日】
二人の魔法使いの姿は、ロンドン中央部チャリング クロスに程近い、セント ジェームス パークにある湖の前にあった。
湖と呼ぶには小さく、池と呼ぶにはあまりに広く浅い水辺の畔。湛える水を運ぶ本流は、ロンドン市内を流れる。その形状が竜に似たワイバーン川だった。
ロンドン全域に凍てつく寒波が押し寄せるまでは、湖の主役はペリカンのコロニーや鴨の群れだった。
ペリカンは1664年に、ロシア大使よりチャールズ2世に寄贈されたものだ。
ロンドン塔では縁起が良いと尾羽を切り落とされて鴉が飼われている。ここのペリカンたちも、公園の敷地から逃げ出さないよう、羽根を刈り込まれていた。
しかし餌欲を求めてなのか、隣接する動物園に向かって、悠々と飛び立つペリカンの姿がしばしば目撃されていた。
湖には二つの浮島があり、ウエスト島とダック島と名前がつけられていた。
後者は昔から水辺に棲む鴨が由来だが、今湖には水鳥たちの姿は見られない。
真冬の時期の公園というのは、何処でも人気はなく閑散としているものだ。
しかしこの王立公園は、冬場になっても集まった市民たちで賑いを見せる。
水深が浅く面積が広い。この公園の湖は気温が下がるとすぐに凍結した。
湖面に氷が張ると湖は毎年天然のスケート場に様変わりする。
湖でスケート靴を履いて楽しむのが市民の冬の楽しみの一つだった。
湖面で遊ぶ人々の歓声や笑い声を聞きながら、二人は岸部の柵に沿って、湖中央に架かるブルーブリッジを目指して歩いた。
公園の東側には、近衛騎兵連隊司令部の閲兵場が見えた。
元々ハンセン病患者の収容施設だった場所だ。後にヘンリー8世が王宮に改築させた後、さらに整備されて公園となった。
定期的に市内で行われている騎兵隊のパレードを見越しての訓練なのか。
遠くから教練の掛け声が聞こえて来る。
二人が目指すブルーブリッジは目と鼻の先で、既に橋桁の一画が見えている
歩道に添って小さな運河のような水路が流れ、道までせり出した常緑樹の葉が陽に透けて、通る二人に影を落とした。
すれ違った若い男女は恋人同士なのか、手にスケート靴の靴紐を提げて、互いに暖を取るように寄り添って歩いていた。
公園の敷地に隣接する、 ビクトリア メモリアルのクイーンズガーデンに咲き誇っていたのはスカーレッド ゼラニューム。
バッキンガム宮殿の衛兵の制服の色に合わせてそこに植えられた。
今は秋のうちによく手入れされた庭で刈り込まれて、雪の薄衣を纏いながら開花の季節を静かに待ちわびている。
このセントジェームス パークはロンドン中央部の一番東側に位置する。
壮大な王立公園群の一角だった。
他の王立公園のような、手入れの行き届いた美しい庭園は見られない。
その代わりに市内で最も自然や緑が豊富な公園として知られていた。
彼女がモートを連れてこの公園を訪れたのには勿論理由があった。
ここから西側へグリーンパーク、ハイドパーク、ケンジントン ガーデンズがほぼ切れ目なくつながっている。
公園の西にはバッキンガム宮殿があり、湖の向こうには外務、英連邦省の建物が橋の上から一望出来る。
「この場所からならば、最後の結界をロンドン中央部から、主要な施設すべてに上書きすることが可能はずだ」
彼女はそんな風に考えていた。
「この辺りでいいか」
彼女が頷くのを確認してから、モートは橋の中央まで駆けだし、そのまま手摺の上に飛び乗った。
橋の袂で彼女は黙ってモートの様子を見守った。
魔法使いモートは橋の上に立ち静かに目を閉じた。
両手を橋桁の方に向けたまま、口元から魔法の力が宿る音節が唱えられた。
本来ならば彼女は、モートにもらった兎の耳当てをするべきだろう。
あれはモートが魔法使いの弟子として、師匠について初めて仕事をした時に、師から直接もらった物だ。
それ自体魔法の道具であり、魔法の音を遮断するための小さな結界だった。
如何なる強力な魔法の音素もこれをつければ耳に届かない。共鳴すらも防ぐ効果があるという。
常に秘匿を旨とする魔法使いなら、師弟関係にない魔法使いが魔法を使う時は、自ら席を外すべきだ。
モートは彼女に耳当てを渡した。そのことすら訊ねると忘れていた。
「ただ寒そうにしてたから」
他に意味はない。裏表のないモートの口調や性格だから。受け取れる言葉だと彼女は思った。
「Aligiz」
信頼、そして保護を意味する。彼の唱えるフサルクは彼女が結界に用いたアルカナと同じ意味と効果を持つ。
「TΗ…Η」
スリサズ…ハガル…停止を意味する音素文字。彼女はその文字の並びに一つ一つの意味を知っていた。
それは師について習う前から、彼女に馴染のある響きであった。
かつて海を渡りこの地に移り住んだ。彼女の元の家族や、先祖が故郷の国で使用していたゲルマン言語。
魔法使いが使用する神秘の文字は、それと源流を同じくするものだったからだ。
モートが唱える音の数が一つまた一つと増える度、彼の褐色の皮膚は徐々に色を失った。
靴を湿らせる湖面の冷霧と、真冬の大気にさらされたモートの体が陽に透けて、やがて眩い光を放つ。
彼女はそ遮光の黒いレンズの円縁の眼鏡を額から下ろした。
そうしなければ、間近でその光を浴びたら、忽ち眼球をだめにしてしまう。
光を集め分散、屈折、全反射、複屈折させる周囲の空間とは…屈折率の異なるガラスや水晶などの、透明な媒質でできた多面体。彼女は眼鏡を下げて呟いた。
「まるでプリズムのようだ」
唱える文字や術式は変わらない。それでも彼女はこんな結界は見たことがない。
光を取り込んで放つのではなく、彼自身の体の中から光が生まれ、輝きを放つ。
放たれた様々な色彩は、糸のように細くしなやかに撓みながら、ロンドンの空や建物に向かって飛んで行く。
彼女がこの街に施した結界は、もし見ることが叶うならば光の帯のようだった。
それは街の要所に忍ばせた22のアルカナを光源に、サーチライトのように空の上で互いに重なり合って見えた。
モートの指先から放たれた光の糸と彼女のアルカナの光の帯は、互いに共鳴するように、巨大な観覧車や石作りの塔や建物をすり抜け、重なり合ってモザイク模様のタペストリーを織り上げた。
モートが彼女の前で何一つ術式を隠さない理由はわかる。見たところで到底真似出来ない。これが彼の魔法だった。
「もしも幼い頃に聞いた御伽噺の魔女のように、箒で空を飛ぶならば」
彼女はモートに話したことがある。
「この街の深い霧や雲も空気もない、宇宙の暗闇からこの星を眺めてみたい」
そうしたらこの国の首都ロンドンすべてを取り囲む、オーロラに似た光の壁を見ることが出来ただろう。
それは二人の魔法使いが織り上げた。
光の王冠のように見えたはずだ。
「Ζ」
結界成る。
最後の一文字を彼は唱え終えた。
「腹へった」
ロンドンを救う偉大な魔法を成し遂げた魔法使いはそう呟いた。
市内にあるどのモニュメントにもその名前の碑文はなく、誰かに讃えられることはなく、記録にも残されてはいない。
傍らで彼を見ていた魔法使いの少女一人だけが、その光景を心に刻みつけた。
力をすべて使い果たし、橋の欄干に身を預けるようにぐったりしているモートに、彼女は駆け寄った。
「結界の術式はこれですべて完成だ」
彼女はモートに言った。
「礼をさせてくれモート」
言わせてくれではなく、させてくれ。彼女らしいとモートは思った。
「ここから西に歩けばバッキンガム宮殿だ!北側にはザ マル!東側にはホース ガーズがあるんだ!南にはバードケイジ ウォークがある!少し歩いてみるか?」
「結界なら、ばっちり仕掛けたぜ」
「ではロンドン動物園はどうだ?」
「そこも大丈夫だ!」
「ロンドン大観覧車…そうだ!お前ロンドン塔登りたいと言ってなかったか!?」
「観覧車に乗れば、俺たちの術式見れる
かな」
「もっと…高い空の上からでないと、多分無理だと思う」
「そうか、キル…俺腹が減った」
「腹がへったか」
彼女は幾分落胆した様子に見えた。しかしすぐに顔を上げると笑顔で言った。
「ならば、心ゆくまで腹いっぱい食わしてやろう!」
「本当か!?」
モートの言葉に彼女は頷いた。
「では…コヴェント ガーデン市までつきあってくれ」
二人はストランドに近い市場を目指して歩いた。まだ時刻は8時を少しまわったところだ。
教会に隣接する市場は水、木、土の早朝から午前10時まで、常にたくさんの馬車や荷物や人が往来があった。
構内は混雑するはずだった。それでも、通りでセラーから買うよりも、はるかに新鮮で安全な食材が手に入るはずだった。
「それも今日までの賑いだ」
木立に囲まれたバッキンガム宮殿を遠くに眺めながら、彼女は言った。
途中ペリカンロックの近くにあるテイファニー噴水の前を通った。
普段は子供たちで賑わう噴水の水も凍りつき、広い砂場は無人のままだった。
「静かだな」
二人で並んで歩きながら、モートは白い息を吐きながら彼女に言った。
「クリスマスになれば、ロンドンの街もこんな感じになるさ」
同じように白い息を吐きながら、彼女はそう答えた。
ふと彼女は彼の顔を見て思う。今日はモートを案内してやるつもりでいた。
「ケンジントン パークにある子供の像がな、術式をかけている時のお前に、なんだかとてもよく似ているんだ」
そう言って彼を少しからかってみようかと思ったりもした。
しかし大掛かりな魔法による大事を成し遂げた後で、改めて見た彼の横顔は子供の顔とは違って見えた。
12月になれば街中でツリーに使う樅ノ木を売っているのを見かけるようになる。
クリスマスを迎えたロンドンは1年でいちばん閑散としている。
ほとんどの店は閉まって、市民の多くが家族のいる家や故郷に帰るか、家族で旅行に出かけてしまうからだ。
この国のクリスマスの歴史は、19世紀の英国にあっては、少しも古いものではなかった。クリスマスは英国民の伝統的な行事ではなかった。
キリスト教がこの地に広まってもこの国では、キリストの生誕を祝う祭などする習慣そのものがなかったのだ。
それ以前の英国では、1年の中で最も昼間が短い冬至の時期、12月21日か22日に、太陽の光を地上に呼び戻す祭りが行われれた。12月25日頃には、その成果を祝う目的でごちそうを食べていた。
この習慣がそのままキリスト教の祝典として人々受け継がれた。
華やかなツリー飾ったり、ごちそうを食べてお祝いする習慣として、残されたのだ言われている。
今のようなクリスマスを初めて英国に持ち込んだのは、女王ヴィクトリアだと言われている。
英国王室がかつてドイツ中部に存在した、領邦国家コーブルク公国。
当時王室の次男であったアルバート公を、王女ヴィクトリアの夫として迎える際、訪問先であるドイツの華やかなクリスマスを見たヴィクトリアが大いに気に入り、英国王室に持ち込んだ。
その習慣がやがて民間にも流れ、定着したと言われている。
1840年。ヴィクトリア女王とアルバート公に初めての王女が誕生した年に、ウインザー城内に豪華絢爛なクリスマスツリーが飾られた。
鳥や果実をモチーフにしたオーナメント、ロウソク、バスケット、ボンボンニエール、高価なキャンディが彩り美しく飾られたツリーを囲む王室一家の様子が当時の新聞掲載された。
王室のクリスマスは、瞬く間に庶民の憧れの行事となった。
すでに17世紀中頃には、ドイツ宮廷の習慣として取り入れられていたクリスマスとクリスマスツリーは、ヴィクトリア女王時代に英国で一般的になった。
「野菜だけは新鮮な物が欲しいからな」
市場を訪れた彼女はモートにそう言った。冬野菜だけでなく、クリスマスのディナーの食卓に必ず並ぶ野菜や果物も、市場で沢山売られていた。
この時期旬のスプラウト、パースニップ、乾燥ナツメヤシ…彼女は野菜を吟味して、てきぱきと購入して紙袋に入れた。
袋を持つのはモートの役目だった。スプラウトもパースニッシュも、冬場の家庭ではよく食べられる野菜だった。
クリスマスには生食やボイルよりも、ジャガイモ同様ローストされたものが定番だった。パースニッシュは白い人参に似た野菜で、ローストの他にマッシュされて出されることも多い。
「そんなに野菜が好きなのか」
買い物する彼女の姿を見てモートは思った。彼女が野菜ばかり買うのには、きちんとした理由があった。
家庭のクリスマスは、手間暇のかかる肉料理やデザートは、予めディナーに間に合うように仕込みだけ済ませておく。
料理は温めるだけにして、全員が席についた時には、テーブルに並べられているのが常識だった。
「少し高いがサツマも買おう」
彼女は指差して、右手の指を5本売子の男に示した。
「サツマ五個追加だね」
そう言って売子の親父は木箱に入ったオレンジを丁寧に別の袋に入れてくれた。
「お嬢さん沢山買ってくれたから少オマケするよ!」
どれでも一つ好きな物を持っていけ。そう言って野菜の並んだ棚を顎で指した。
「野菜は足りてる。サツマはだめ?」
彼女が甘えるような声で売子を見る。モートは呆気に取られた。
「仕方ねえな」
袋に男が掴んだ果物とサツマを放り込んだ。
「内緒だぜ」
「おじさんありがと!」
サツマは当時は高価な果物だった。輸入品でしか手に入らない、とても楽に皮が剥ける不思議な冬みかんだ。
袋口から顔を覗かせる土がついた根菜に、爽やかな柑橘の香りが鼻先を擽る。
「師匠と同じ人たらし。ただし俺以外」
上機嫌な彼女の後を歩きながら思った。彼女は売場のあちこちで気に入られて、その度袋の中身は重くなった。
「モート、お前はチキンとターキーどちらが好きだ?」
振り向いて彼女はモートに訊ねた。
「両方」
モートは即答した。うまそうに焼けたチキンやターキーを想像するだけで、自然と顔がほころんだ。
「そう来なくては!」
彼女はモートの手を引いた。
「腹がちぎれるくらい食わしてやるぞ」
てっきり怒られると思った。しかし彼女はいつもの自分を忘れ終止笑顔だった。
彼女に手を引かれるまま街に出た。通りを歩く人々の幸せそうな笑顔とすれ違う。彼らと同じ表情をした彼女が自分の隣を歩くのを横目で見た。
今日は彼女に逆らうまいと思った。
「そうだ酒!」
モートは立ち止まって彼女に言った。
「酒を買って帰ろう!せめてそのくらい俺に金を払わせてくれ!」
彼女はモートの顔を見て、にやりと笑った。
「酒ならあるそ!とびっきりのやつが」
「本当か!?」
モートの顔が輝いた。
「水浴びするくらい飲ませてやる」
「ありがたい!早く行こうぜ!」
今度はモートに彼女が手を引かれる。
「なんだ!?あれだけ私の家に来るのを拒んでいたのに…げんきんな男だな」
彼女は前につんのめりながら言った。
「まあ、そういうやつは嫌いではない」
モートは彼女の手を引きながら思った。
彼女の家を訊ねるつもりはなかった。
役目を済ませたら、すぐに旅立つつもりでいた。彼女の手助けをするつもりで、大きな災厄に見込まれた自分がいては、必ず迷惑になると知っていたからだ。
それは多分自分と似た宿命を背負った彼女も同じはずだ。多分長い間ずっと、もしかしたら生まれてからずっと。
この賑わう気節の人の輪の外で一人で生きて来たのだと。モートは知っていた。
「嫌いではない」
彼女がもう一度呟いた。
ロンドン郊外の公園や森や林の木立の中に、時折人目をひく木が生えている。
「なあ、あの変わったくす玉みてえなのが沢山ぶら下がった木はなんてんだ?」
彼女の家に向かう森の径の途中にもその木は生えていた。
「あれはヤドリギだ」
森の中に一本だけ生えた木を見て彼女は言った。正確に言えば、その木はヤドリギではない。
木に絡みつくように蔦を這わせ、奇妙な緑の葉で出来た果実のような球体をぶら下げる寄生植物がヤドリギだった。
寄生された樹木全体を見て、それがヤドリギの木と勘違いする人は多い。
宿主の枝から垂れ下がっているのは葉でも実でもなく、団塊状に形成された株である。宿主が落葉すると、遠くからでも見て取れるようになる。
後に英国のヤドリギは、多細胞真核生物としては初めて、ミトコンドリアの複合体が完全に欠如し、電子伝達系全体が変化していることが世界で初めて確認された生物でもある。
英国の高名な人類学者のジェームズ フレイザーの著作【金枝篇】の金枝とはヤドリギのことであると言われている。
彼がこの書を書いた発端が、イタリアのネミにおける宿り木信仰「祭司殺し」の謎に発している。古代ケルト族の神官ドルイドによれば、ヤドリギは神聖な植物であり、もっとも神聖視されているオーク に宿るものはより希少とされた。
冬枯れの森でも青々とした緑の色を失わず、雪を払うことから生命力や神秘が宿る樹木として民衆にも珍重された。
クリスマスには宿り木を飾ったり、宿り木の下で出会った男女キスをすることが許される。キスをすることを拒めない。
その習わしはクリスマス文化と共に英国で始まった訳ではなく、古代ケルトの時代から、ドルイドによって伝えられた。
「私たち向かい風の魔女は、人の魂に寄生して世に仇なすマレキフィムを便宜上【ヤドリギ】と呼ぶだけで、その名を持つこの木自体にはなんの罪もない」
彼女は森に生えたヤドリギの木を見上げてそう言った。
「ところでモート…一応聞くが。お前はいったい何をしている?」
モートは目を閉じたまま、彼女に向かって両手を突き出した。
「だって、ヤドリギの下ではキスをしなくちゃいけないんだろ?さ…遠慮せずに…やってくれ!」
「まだクリスマス前だ」
モートの頬に冷たい刃先が触れた。
「そんなにしたいなら今してもいいぞ」
困った。目が開けられない。大体なぜ女にキスをしようと迫りながら、俺は目を閉じているのだろう。モートは思った。
「その後でお前の首は地面とキスだ」
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