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壱
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闇のたなびく町外れ。腕の時計へ目を落とす。時刻はきっかり午前二時、草木も静まる丑三つ時。弓月はついと目線を上げて、古びた鉄門を眺めやる。
郊外にある廃屋は、不気味な沈黙を抱いてたたずんでいる。かなり古い洋館だった。この町にはなぜか洋館が多い。しかも全てが規模の大きなものだ。一昔前に物好きが建てたらしいが、その大多数がこうして廃屋となり打ち捨てられている。
この屋敷に幽霊が出る。そんなありふれた噂が流れ始めたのは、つい先週のことである。夜な夜な屋敷を巡回し、門の外で見かけた人を引きずりこむのという。小規模ではあるが、行方不明者も何人か出ているらしい。
一応調査はしていたものの、急ぎの仕事を片付けるのに手間取ってしまった。明るいうちには何度か来たが、妖の出やすい時間帯……黄昏もしくは深夜二時過ぎに来るのは初めてだった。
妖狩の仕事には二つある。一つ、これは古来より行われてきた、依頼人を通しての『狩り』。いま一つは、妖の出没地域を調べて出向く『狩り』。後者のほうは金が出ない。そのくせ圧倒的に後者が多い。とはいえ、前者の状態はいささか危険である。一般人が高い金を出してまで専門家に依頼する――そうなる前に、仕留めてしまったほうがいい。そういうことなのだ。
ちなみに今回は完全ボランティアである。宿題はもう済ませたので、明日のことは心配しなくていい。
手を伸ばし、鉄の門に触れる。手袋越しに伝わる冷たさは、明らかに普通ではない。指が痺れるほどだ。ただの冷気ではない。これは、妖気の一種だ。構わずに握り締め、前後に力を込めた。びくともしない。靴の裏で一度蹴りつけるが、やはり開く気配はなかった。
「面倒臭ぇな」
毒づいてから、数歩下がる。助走をつけて踏み切る。アスファルトを踏みしめてから、高く高く跳躍した。館の壊れた窓からは、なぜか生ぬるい風が吹いてくる。すえた臭いが鼻を突き、弓月は眉間にしわを作った。中に何かがいることは間違いないだろう。
雑草の生い茂る庭に着地する。その状態のまま、低く小さく声を紡いだ。
ひらいたひらいた 何の花がひらいた
れんげの花がひらいた
ひらいたと思ったら いつの間にかつぼんだ
唄にあわせて力が凝縮されていく。冷たくなった手のひらに熱が宿る。握り締め、力いっぱい引き抜いた。紅の刀身が闇を裂く。紅にまとわりつく白の炎は、軌跡を描いて散っていく。
妖魔退散の剣、『月朱雀』。妖狩へ伝わる二振りの『月』、その対となる一本だ。聖なる炎をその身に宿す、氷室家の宝刀である。先代は母が持っていた。豪快に刀をぶん回す母は、幼い弓月にとって恐ろしい以外の何者でもなかった。
刀を肩に担ぐと、辺りに目を走らせる。人気はない。館からにじみ出る妖気だけが、粘ついた冷たさを伴いながら足にまとわりついてくる。
「結界張っとくか」
暗く口を開けた扉を見やり、弓月は再び意識を凝らす。
とおりゃんせ とおりゃんせ
ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ
ちいっと通してくだしゃんせ 御用の無いもの通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに お札をおさめに参ります
行きはよいよい帰りは怖い 怖いながらもとおりゃんせ とおりゃんせ
果たして屋敷は隔絶された。たとえ通行人がいたとしても、外側では何が起こっているのかすら分からない。妖は入ることもできないし、出ることもできない。弓月を討つか、自分が討たれるか、どちらかでしか解除できない。
ゆったりとした足取りで、弓月は屋敷の中へと入る。崩れた壁、落ちたシャンデリア、埃まみれの絨毯の上には、数え切れないほどの骨が打ち捨てられていた。獣の骨に混じるそれは、
「人骨だな」
確かめるように呟いて、その場にかがむ。数はそれほど多くない。行方不明者は五人いて、ここにある骨は四人分。
「食われたか……」
舌打ちを一つ。刀の切っ先で骨に触れる。炎は刀より滑り落ち、骨を全て包み込んだ。殺された人間がいる場所は、得てして妖魔が湧きやすい。それに、こうして浄化の炎で焼くことで、少しでも殺された人間が救われるのならば――労力を裂くことも悪くない。もっとも、結局は自分の気休めであって、相手は喜ばないかもしれないが。
自嘲の笑みを一片残し、弓月は再び目を上げた。妖気は依然として濃く漂っている。正面には階段が、左右には通路が続いていた。やはり、どちらにも人気はない。
「……いねぇはずはねぇんだが」
呟きを漏らした瞬間、上からごとりと音がした。何か重いものが倒れたような、鈍い衝撃が耳を打つ。妖気が揺らいだ。誰かが入り込んでいる。
弓月は鋭く息を吸い、階段を素早く駆け上った。暗い廊下を抜け、最奥の重厚な扉を蹴り開ける。
正面の大きなフランス窓は開け放たれ、部屋には未だ新しい血の臭いが立ち込めている。散乱する骨は、絨毯が吸い込みきらない血溜まりに浸っている。その、向こう。
人がいた。小柄で細い、男だった。行方不明者ではない。逆光で顔は見えない。窓枠にもたれて煙草を吸っていた。衣装のだろうか、美しい牡丹の花が鮮やかに浮き上がっている。
「誰だ、てめぇ」
「吼えるな、小娘」
冷淡な、どこか気だるげな音で突っ返される。有無を言わせぬ物言いに、思わず言葉が詰まった。
男がついと顔を背ける。長い髪が一房、彼の細い肩から落ちた。
「捕らえられた人間かと思ったが、どうも違う。あれは鬼か……別の憑き物に憑かれたか。自らの意思があるのかも、知る前にいなくなった」
不意に、弓月の心の一部が弛緩した。対峙しなくてよかったと、その一部が安堵している。それが無償に嫌で、弓月は苛立ちを隠すべく舌打ちした。
「一足遅かったようだが、何をしていた?」
「うるせぇ。てめぇこそ何だ、捕まえなかったのかよ」
「俺はお前と違って忙しい。仕事のえり好みをしないからな。ちょうど入れ違いになっただけだ」
月が、雲間から顔を出す。降り注ぐ蒼白い光は、男の横顔を縁取った。
青白い肌は体温が感じられない。華奢というよりは痩せぎすだ。人形のように整った面差し、一重目蓋で切れ長の瞳はまるで底が見えなかった。その双眸は細められ、薄い唇には嘲笑が刻まれている。まとう衣装はチャイナドレス――だろうか。艶を持つ布地は闇に溶ける黒、袖口が広く長く作られていた。
その口ぶりから推測すると同業者のようだが、こんな男は知らない。おそらくは会ったこともない。だが、その格好も、その口調も、声も、瞳も、まなざしも、一度会えば一生忘れそうになかった。
胸の奥が落ち着かない。冷たく虚ろな落とし穴の淵にかろうじてつかまっているような、飢えた獣の入った檻に腕を突っ込んでいるような、不安と焦燥が這い登ってくる。
弓月が押し黙っていると、男は一つ煙を吐いた。
「風穴を穿ち、妖魔を招きいれ、別種の妖を操る。早いうちに始末をするべきだ。そんな力を持つ妖を、一体誰が討ち漏らしたのか……」
そこでなぜこちらを見るのか、弓月にはよく分からなかった。討ち漏らしなど、今まであったためしはない。ましてや鬼や憑き物憑きは、個人的な事情で極力相手にしていない。あまりいい思い出はない。そのときのショックがきっかけで、一時期声が出なくなったことがあるからだ。それはつまり、課せられた使命を放棄するのと同じこと。
「ゆづ――というのは、お前の名だな。あの鬼は、どういうわけか俺をお前と間違えた。日本の本家として妖を狩る、妖狩の末裔氷室弓月とな」
虚を突かれ、弾かれたように男を見た。うまく意味を汲み取ることができない。戸惑う弓月を見て男が嗤い、嘲りの色を残したまま問いを出す。
「ことに、お前は妖に加担した者を斬れるか?」
嫌なことを聞かれた。弓月はそっぽを向いて吐き捨てる。
「何を今さら」
妖に加担した人間も、契約では始末の対象に入っているのだ。たとえどのような事情があったとしても、情状酌量の余地はない。心を無にし、妖として斬るしかない。助けるという選択肢は、最初からない。
「では、鬼をはじめとする憑き物憑きは」
心臓を、わしづかみにされた気がした。答えようにも唇が強張る。全身に余計な力が加わって、痛みさえ覚えるほどだった。返答の代わりに男をにらむ。男は冷たい双眸を弓月へと注ぎ、冷えた笑みを浮かべているだけだ。
「……答えなんざ、聞いたって同じだろ」
かろうじて濁し、搾り出した返答は、
「避けて通っても無意味だぞ? いずれこなさざるを得なくなるのだからな。斬らねば、契約違反として裁かれる。人間も妖も、斬れば何の差すらない……おかしいとは思わぬか」
くすくすと、場違いな笑い声と共に返された。背筋が急に寒くなる。理由は分からない。ただ、唐突に本能が警鐘を鳴らし始めていた。
「てめぇ……何者だ」
一歩、後ずさる。
「さあ。何だろうな」
一筋、煙が舞う。
「お前の運命の先にあるもの、とでも言えばいいか」
「あぁ?」
「逃げることなどできはしない。人間として生きることも叶わない。人間のように生きたとしても、それは所詮人間の真似をしているにすぎん。妖狩と人間は別のもの。同じ場所にいようとも、心を交わらせることなどできはしない。人間と道具が言葉を交わすことなどできぬように、な」
男は煙草を投げ捨てた。火の消えた煙草が床へと落ちる、そのときには既にいなくなっていた。
同業者。否、もっと近いところにいる。契約のことを知っている、ならば妖狩一族に決まっている。あんな男がいたかどうか、依然として思い出すことはできなかったが、そんなことはどうでもいい。今現在の大きな問題は、男が見たという『鬼』だ。
鬼には二通りの例がある。日本古来より確認されている、恐ろしげな容貌と角、鋭い牙を持つ者だ。そしてもう一つ……もっと厄介で狡猾な者がいる。
身体を持たず、いわば魂だけの存在の鬼。人間の負の感情に呼び寄せられ、取り憑き、魂を食らって身体を乗っ取る。人間に紛れることができる分、前者の鬼よりも危険な相手だ。同業者らの間で『鬼』と言われれば、もっぱらこちらの意味となる。
風穴を穿ち、妖魔を招きいれ、別種の妖を操る。そんな鬼は聞いたことがないが、どうも妖怪たちの凶暴化と関係があるように思えてならない。いずれにせよ、まずその鬼を倒さなければならないだろう。鬼は嫌いだ。憑き物憑きも嫌いだ。できることならば、関わりたくはなかったのだが。
フランス窓から身を乗り出し、弓月は天を仰いだ。金色の月が闇夜を照らし、晴れ渡った空気を玲瓏とした光で満たしている。いつしか妖気は途切れていた。
「……くそ」
知らず、悪態が口をつく。あの男に対してのものなのか、それとも鬼と接触しなければならない今の状況に対してのものなのか、あるいはもっと別の理由なのか、弓月自身にも分からなかった。
不意にポケットが振動する。取り出してみた。未だ明るい画面の中、メールのマークがついている。新着メールあり。一件だけのようだ。少しためらって、開く。
比呂也からのメールである。こんな夜中まで起きているのは珍しい。相変わらず絵文字だらけの見づらい文面である。
『仕事お疲れさま! 今メール送っても平気だよな? 仕事中なら終わったあと気づくし、まあ別に急ぎじゃないから、書いとくだけ書いとくな。
えっと、今日言おうと思って忘れてたんだけど、最近狐耳の男が悪さするって噂聞いたんだ。一組に大竹って子いるだろ? その子からと、あと四組にいる尾股って奴の兄ちゃんが見たって言ってた。
詳しい話はまた明日(もう今日かな?)するよ。あんま無理すんなよ。じゃあな!
P.S 宿題の答え、今超写してる! 帰ってくるまでにちゃんとかばんに戻しとくからよろしく!』
張り詰めていたものが断ち切れて、後に残るは脱力感。昔から空気を読まないことに定評のある男だったが、本当に、絶妙なタイミングで空気を読まない。
「……人のかばん勝手に漁りやがって……プライドってもんはねぇのか、プライドってもんは」
弓月はこめかみをひくつかせつつ、速攻で返事を書き上げた。
『了解 後でロイヤルガーデンの特製プリン三つ買って来い』
送信完了。弓月は嘆息ひとつとともに、画面を閉じた。
今日の仕事はこれで仕舞いだ。刀を一つ振り下ろし、血に浮かぶ骨に切っ先を置く。骨はたちまち炎に包まれ、血溜まりと共に塵と消えた。
最後の塵が風に溶ける、それを確かに見届けると、弓月は窓枠に足をかけた。携帯をポケットにねじ込んで、気配が無いのを確認する。妖の気配はおろか、妖気の残滓すら存在しない。ここまで綺麗に消せるとなると、長期戦を覚悟したほうがいいかもしれない。
あの男にしろ、鬼にしろ――一筋縄ではいかないだろう。それだけはよく理解できる。
「……面倒臭ぇな、もう」
弓月は小さく毒づいて、ひらりと庭へ降り立った。白い炎が燐光を散らし、黒い姿を追いかけた。
丑三つ時に起きた一つの会合、月の光も妖しく霞む、卯月の末の夜のことである。
闇のたなびく町外れ。腕の時計へ目を落とす。時刻はきっかり午前二時、草木も静まる丑三つ時。弓月はついと目線を上げて、古びた鉄門を眺めやる。
郊外にある廃屋は、不気味な沈黙を抱いてたたずんでいる。かなり古い洋館だった。この町にはなぜか洋館が多い。しかも全てが規模の大きなものだ。一昔前に物好きが建てたらしいが、その大多数がこうして廃屋となり打ち捨てられている。
この屋敷に幽霊が出る。そんなありふれた噂が流れ始めたのは、つい先週のことである。夜な夜な屋敷を巡回し、門の外で見かけた人を引きずりこむのという。小規模ではあるが、行方不明者も何人か出ているらしい。
一応調査はしていたものの、急ぎの仕事を片付けるのに手間取ってしまった。明るいうちには何度か来たが、妖の出やすい時間帯……黄昏もしくは深夜二時過ぎに来るのは初めてだった。
妖狩の仕事には二つある。一つ、これは古来より行われてきた、依頼人を通しての『狩り』。いま一つは、妖の出没地域を調べて出向く『狩り』。後者のほうは金が出ない。そのくせ圧倒的に後者が多い。とはいえ、前者の状態はいささか危険である。一般人が高い金を出してまで専門家に依頼する――そうなる前に、仕留めてしまったほうがいい。そういうことなのだ。
ちなみに今回は完全ボランティアである。宿題はもう済ませたので、明日のことは心配しなくていい。
手を伸ばし、鉄の門に触れる。手袋越しに伝わる冷たさは、明らかに普通ではない。指が痺れるほどだ。ただの冷気ではない。これは、妖気の一種だ。構わずに握り締め、前後に力を込めた。びくともしない。靴の裏で一度蹴りつけるが、やはり開く気配はなかった。
「面倒臭ぇな」
毒づいてから、数歩下がる。助走をつけて踏み切る。アスファルトを踏みしめてから、高く高く跳躍した。館の壊れた窓からは、なぜか生ぬるい風が吹いてくる。すえた臭いが鼻を突き、弓月は眉間にしわを作った。中に何かがいることは間違いないだろう。
雑草の生い茂る庭に着地する。その状態のまま、低く小さく声を紡いだ。
ひらいたひらいた 何の花がひらいた
れんげの花がひらいた
ひらいたと思ったら いつの間にかつぼんだ
唄にあわせて力が凝縮されていく。冷たくなった手のひらに熱が宿る。握り締め、力いっぱい引き抜いた。紅の刀身が闇を裂く。紅にまとわりつく白の炎は、軌跡を描いて散っていく。
妖魔退散の剣、『月朱雀』。妖狩へ伝わる二振りの『月』、その対となる一本だ。聖なる炎をその身に宿す、氷室家の宝刀である。先代は母が持っていた。豪快に刀をぶん回す母は、幼い弓月にとって恐ろしい以外の何者でもなかった。
刀を肩に担ぐと、辺りに目を走らせる。人気はない。館からにじみ出る妖気だけが、粘ついた冷たさを伴いながら足にまとわりついてくる。
「結界張っとくか」
暗く口を開けた扉を見やり、弓月は再び意識を凝らす。
とおりゃんせ とおりゃんせ
ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ
ちいっと通してくだしゃんせ 御用の無いもの通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに お札をおさめに参ります
行きはよいよい帰りは怖い 怖いながらもとおりゃんせ とおりゃんせ
果たして屋敷は隔絶された。たとえ通行人がいたとしても、外側では何が起こっているのかすら分からない。妖は入ることもできないし、出ることもできない。弓月を討つか、自分が討たれるか、どちらかでしか解除できない。
ゆったりとした足取りで、弓月は屋敷の中へと入る。崩れた壁、落ちたシャンデリア、埃まみれの絨毯の上には、数え切れないほどの骨が打ち捨てられていた。獣の骨に混じるそれは、
「人骨だな」
確かめるように呟いて、その場にかがむ。数はそれほど多くない。行方不明者は五人いて、ここにある骨は四人分。
「食われたか……」
舌打ちを一つ。刀の切っ先で骨に触れる。炎は刀より滑り落ち、骨を全て包み込んだ。殺された人間がいる場所は、得てして妖魔が湧きやすい。それに、こうして浄化の炎で焼くことで、少しでも殺された人間が救われるのならば――労力を裂くことも悪くない。もっとも、結局は自分の気休めであって、相手は喜ばないかもしれないが。
自嘲の笑みを一片残し、弓月は再び目を上げた。妖気は依然として濃く漂っている。正面には階段が、左右には通路が続いていた。やはり、どちらにも人気はない。
「……いねぇはずはねぇんだが」
呟きを漏らした瞬間、上からごとりと音がした。何か重いものが倒れたような、鈍い衝撃が耳を打つ。妖気が揺らいだ。誰かが入り込んでいる。
弓月は鋭く息を吸い、階段を素早く駆け上った。暗い廊下を抜け、最奥の重厚な扉を蹴り開ける。
正面の大きなフランス窓は開け放たれ、部屋には未だ新しい血の臭いが立ち込めている。散乱する骨は、絨毯が吸い込みきらない血溜まりに浸っている。その、向こう。
人がいた。小柄で細い、男だった。行方不明者ではない。逆光で顔は見えない。窓枠にもたれて煙草を吸っていた。衣装のだろうか、美しい牡丹の花が鮮やかに浮き上がっている。
「誰だ、てめぇ」
「吼えるな、小娘」
冷淡な、どこか気だるげな音で突っ返される。有無を言わせぬ物言いに、思わず言葉が詰まった。
男がついと顔を背ける。長い髪が一房、彼の細い肩から落ちた。
「捕らえられた人間かと思ったが、どうも違う。あれは鬼か……別の憑き物に憑かれたか。自らの意思があるのかも、知る前にいなくなった」
不意に、弓月の心の一部が弛緩した。対峙しなくてよかったと、その一部が安堵している。それが無償に嫌で、弓月は苛立ちを隠すべく舌打ちした。
「一足遅かったようだが、何をしていた?」
「うるせぇ。てめぇこそ何だ、捕まえなかったのかよ」
「俺はお前と違って忙しい。仕事のえり好みをしないからな。ちょうど入れ違いになっただけだ」
月が、雲間から顔を出す。降り注ぐ蒼白い光は、男の横顔を縁取った。
青白い肌は体温が感じられない。華奢というよりは痩せぎすだ。人形のように整った面差し、一重目蓋で切れ長の瞳はまるで底が見えなかった。その双眸は細められ、薄い唇には嘲笑が刻まれている。まとう衣装はチャイナドレス――だろうか。艶を持つ布地は闇に溶ける黒、袖口が広く長く作られていた。
その口ぶりから推測すると同業者のようだが、こんな男は知らない。おそらくは会ったこともない。だが、その格好も、その口調も、声も、瞳も、まなざしも、一度会えば一生忘れそうになかった。
胸の奥が落ち着かない。冷たく虚ろな落とし穴の淵にかろうじてつかまっているような、飢えた獣の入った檻に腕を突っ込んでいるような、不安と焦燥が這い登ってくる。
弓月が押し黙っていると、男は一つ煙を吐いた。
「風穴を穿ち、妖魔を招きいれ、別種の妖を操る。早いうちに始末をするべきだ。そんな力を持つ妖を、一体誰が討ち漏らしたのか……」
そこでなぜこちらを見るのか、弓月にはよく分からなかった。討ち漏らしなど、今まであったためしはない。ましてや鬼や憑き物憑きは、個人的な事情で極力相手にしていない。あまりいい思い出はない。そのときのショックがきっかけで、一時期声が出なくなったことがあるからだ。それはつまり、課せられた使命を放棄するのと同じこと。
「ゆづ――というのは、お前の名だな。あの鬼は、どういうわけか俺をお前と間違えた。日本の本家として妖を狩る、妖狩の末裔氷室弓月とな」
虚を突かれ、弾かれたように男を見た。うまく意味を汲み取ることができない。戸惑う弓月を見て男が嗤い、嘲りの色を残したまま問いを出す。
「ことに、お前は妖に加担した者を斬れるか?」
嫌なことを聞かれた。弓月はそっぽを向いて吐き捨てる。
「何を今さら」
妖に加担した人間も、契約では始末の対象に入っているのだ。たとえどのような事情があったとしても、情状酌量の余地はない。心を無にし、妖として斬るしかない。助けるという選択肢は、最初からない。
「では、鬼をはじめとする憑き物憑きは」
心臓を、わしづかみにされた気がした。答えようにも唇が強張る。全身に余計な力が加わって、痛みさえ覚えるほどだった。返答の代わりに男をにらむ。男は冷たい双眸を弓月へと注ぎ、冷えた笑みを浮かべているだけだ。
「……答えなんざ、聞いたって同じだろ」
かろうじて濁し、搾り出した返答は、
「避けて通っても無意味だぞ? いずれこなさざるを得なくなるのだからな。斬らねば、契約違反として裁かれる。人間も妖も、斬れば何の差すらない……おかしいとは思わぬか」
くすくすと、場違いな笑い声と共に返された。背筋が急に寒くなる。理由は分からない。ただ、唐突に本能が警鐘を鳴らし始めていた。
「てめぇ……何者だ」
一歩、後ずさる。
「さあ。何だろうな」
一筋、煙が舞う。
「お前の運命の先にあるもの、とでも言えばいいか」
「あぁ?」
「逃げることなどできはしない。人間として生きることも叶わない。人間のように生きたとしても、それは所詮人間の真似をしているにすぎん。妖狩と人間は別のもの。同じ場所にいようとも、心を交わらせることなどできはしない。人間と道具が言葉を交わすことなどできぬように、な」
男は煙草を投げ捨てた。火の消えた煙草が床へと落ちる、そのときには既にいなくなっていた。
同業者。否、もっと近いところにいる。契約のことを知っている、ならば妖狩一族に決まっている。あんな男がいたかどうか、依然として思い出すことはできなかったが、そんなことはどうでもいい。今現在の大きな問題は、男が見たという『鬼』だ。
鬼には二通りの例がある。日本古来より確認されている、恐ろしげな容貌と角、鋭い牙を持つ者だ。そしてもう一つ……もっと厄介で狡猾な者がいる。
身体を持たず、いわば魂だけの存在の鬼。人間の負の感情に呼び寄せられ、取り憑き、魂を食らって身体を乗っ取る。人間に紛れることができる分、前者の鬼よりも危険な相手だ。同業者らの間で『鬼』と言われれば、もっぱらこちらの意味となる。
風穴を穿ち、妖魔を招きいれ、別種の妖を操る。そんな鬼は聞いたことがないが、どうも妖怪たちの凶暴化と関係があるように思えてならない。いずれにせよ、まずその鬼を倒さなければならないだろう。鬼は嫌いだ。憑き物憑きも嫌いだ。できることならば、関わりたくはなかったのだが。
フランス窓から身を乗り出し、弓月は天を仰いだ。金色の月が闇夜を照らし、晴れ渡った空気を玲瓏とした光で満たしている。いつしか妖気は途切れていた。
「……くそ」
知らず、悪態が口をつく。あの男に対してのものなのか、それとも鬼と接触しなければならない今の状況に対してのものなのか、あるいはもっと別の理由なのか、弓月自身にも分からなかった。
不意にポケットが振動する。取り出してみた。未だ明るい画面の中、メールのマークがついている。新着メールあり。一件だけのようだ。少しためらって、開く。
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えっと、今日言おうと思って忘れてたんだけど、最近狐耳の男が悪さするって噂聞いたんだ。一組に大竹って子いるだろ? その子からと、あと四組にいる尾股って奴の兄ちゃんが見たって言ってた。
詳しい話はまた明日(もう今日かな?)するよ。あんま無理すんなよ。じゃあな!
P.S 宿題の答え、今超写してる! 帰ってくるまでにちゃんとかばんに戻しとくからよろしく!』
張り詰めていたものが断ち切れて、後に残るは脱力感。昔から空気を読まないことに定評のある男だったが、本当に、絶妙なタイミングで空気を読まない。
「……人のかばん勝手に漁りやがって……プライドってもんはねぇのか、プライドってもんは」
弓月はこめかみをひくつかせつつ、速攻で返事を書き上げた。
『了解 後でロイヤルガーデンの特製プリン三つ買って来い』
送信完了。弓月は嘆息ひとつとともに、画面を閉じた。
今日の仕事はこれで仕舞いだ。刀を一つ振り下ろし、血に浮かぶ骨に切っ先を置く。骨はたちまち炎に包まれ、血溜まりと共に塵と消えた。
最後の塵が風に溶ける、それを確かに見届けると、弓月は窓枠に足をかけた。携帯をポケットにねじ込んで、気配が無いのを確認する。妖の気配はおろか、妖気の残滓すら存在しない。ここまで綺麗に消せるとなると、長期戦を覚悟したほうがいいかもしれない。
あの男にしろ、鬼にしろ――一筋縄ではいかないだろう。それだけはよく理解できる。
「……面倒臭ぇな、もう」
弓月は小さく毒づいて、ひらりと庭へ降り立った。白い炎が燐光を散らし、黒い姿を追いかけた。
丑三つ時に起きた一つの会合、月の光も妖しく霞む、卯月の末の夜のことである。
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