そして夜は華散らす

緑谷

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肆章

其の二

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 天明は、戦事に関することは苦手であった。ある程度頭を使うことは嫌いではなかったが、それ以上に前線で戦うこと自体に抵抗があった。

 自分のような上に立つべき人間が、なぜこんな危険な戦場で、命なんぞ張って戦わねばならぬのか。そんなことは、下層から来た学のない、生きていても何ら意味もない連中に任せてしまえばよいのに、なぜ自分がそんな野蛮で下種なことをしなければならないのか。

 理不尽で理解不能なことに苛立ち、武勲を挙げられぬことに焦りを感じていたところに、まるでとどめを刺すかのように、コレが上司に連れられて軍に入ってきたのである。


 ――天明。やつがれに稽古をつけてくれないか。


 忌々しい言葉がよみがえる。忌々しい声がよみがえる。なぜわざわざ自分の苦手なことを求めてくる汚らしい獣に、わざわざ自分が施しを与えてやらなければならないのか。

 しかし無視はできなかった。組織にあり、上司から面倒を見るよう言われている以上、上司の機嫌を損ねることにもつながるのは避けたかったのだ。

 思い出しても苛立たしいことばかりで、次々と封じていた怒りが湧き上がってくる。


 ――君は本当にいろんなことを知っているのだな。やつがれももっと、いろいろなことを学ばなければ。よければ、他にも教えてくれないか?


 嫌味としか取れぬ言い回しで、貼りつけたような不気味な笑みで。心にもないことを口にする。昔からずっとコレはそうだった。その赤い瞳が憎らしくてたまらなかった。他の人間にとって当然のことを、延々といじり回してぐちぐちと尋ねてくるのも嫌いだった。

 ――やつがれは殺すことしか能がない。だが、たとえそ今それを求められていたとしても、これから先必要なのは、君のように国のこれからを見据えられるものだ。


 ――だからやつがれは、これからを担う君の代わりに殺してこよう。何百でも、何千でも、僕にとっては同じことだ。


 ああ、くそ、くそ! よくも平然と言ってくれるじゃあないか。もてはやされているのを自慢したくて仕方がないだけのくせに。謙遜しているように振る舞って、影で自分をあざ笑っているに違いない。そうだ、コレがあの場所に、隣にいた限り、天明は決して武勲を立てて、上へ行くことなどできるわけがなかったのだ。

 八年前の葦原国は、血で血を洗うような侵略戦争にさらされていた。大陸の帝国からの開国要請を拒否した三日後――新月の夜に突如現れたのは、奇怪な妖術で織り上げられた橋だった。

 奇妙な紋を脈打たせる半透明のそれが、音もなく四方八方から伸びてくる様はひどく不気味だった。その上を、重たい音を立てて駆け抜けてくるのは、蜥蜴に乗った騎士の群れ。上空より降り注ぐ魔術の弾丸が、味方をバラバラに吹き飛ばしていき、その肉片や贓物が空から雨として降ってくるような地獄だった。

 帝国の武力行使に賛同する国々の連合軍と、強硬なやり方に反発する国々の助けを得た、葦原国の軍を中央に据えた同盟軍。空へは空を、海には海を、白兵には白兵をぶつけた双方の戦いは、たったひと月ながら非常に激しく、双方に多大なる犠牲を出した。そのさなかに改めて和平交渉がなされ、速やかに和平条約が締結されたのである。

 相手方に甚大な痛手を与えたきっかけになったのが、今は“北東一幻橋の惨禍”と呼ばれた大量虐殺である。闇に潜み進んでいた連合軍の分隊に対し、当時中尉であった世見坂終宵よみさか・よすがらが、北東の橋上にいた連合軍分隊すべてに、たったひとりで奇襲をかけた。

 部隊が一定距離を離れて移動していたことがあだとなったか、世見坂は橋の半分を陣取っていた先発隊およそ数百人を、ひとり残らず血祭にあげたのである。

 白かった橋がたった一夜にして血の海となり、物言わぬ屍が横たわるばかりの光景。それを目の当たりにした連合国軍に動揺が走った。あまりにも凄惨な現場に、あちら側では勝手に戦線を離脱する者もいたという。

 思い出しても吐き気がする。天明は確かに、世見坂がただひとり、闇の中からぼろぼろになった刀を手にして戻ってきたのを見た。髪から手から顔からつま先まで、全身血まみれでひどい臭いがしていた。軍服は重い黒と赫に染まり、しみ込み切れない血が指先から細く流れていた。ぎらぎらと光る真紅の眼差し、血染めの面に刻まれた恍惚の笑みが、言葉が、今も天明の頭から離れないでいる。


 ――ああ、天明。たくさん、斬ってきた。


 ――まだ足りないから……もっともっと、斬りたい。なあ、次は何人斬ればいい?


 天明は恐怖し、そして確信した。あいつは、これを楽しみながら食い殺してきたのだ。たまたま相手が敵だったというだけで、必ずしもこちらが無事であるという保証はない。

 気持ち悪い。吐き気がする。コレは殺すことを、心から楽しんでいる。異常だ。頭がおかしい。コレは異常者だ。

 ただでさえケダモノ以下の存在しかいない地上生まれだというのに、コレは魂も腐り果てて救いようがない。生きている価値なんかない、どうしようもない、ろくでなしだ。ここに存在することすらおこがましい。ここにいるだけで周囲を脅かす、真性のゴミだ。こんなものはいてはいけない。こんなろくでもない化け物は、さっさと死んだほうがいい。きっとこの国の誰しもが、それを望むに違いない。

 そもそもコレがここにいるから、自分は出世もできないし、戦功をあげることもできやしない。コレが生きているせいで、私はこんなにもみじめな想いをしなければならない。そんな理不尽な話があるものか。

 排除しなければならない。異常なものなんてみんな気持ち悪がるに決まっている。当たり前のことだ。異常なほうが悪い。こいつは異常だ。化け物がこんなところに来るのが悪いのだ。ああ気持ち悪い。汚い。汚らわしい。汚い、汚い。

 だから。だから向こうと取引をして、コレを殺す算段をつけた。向こうは存外にもやる気で、成功すれば向こうの軍でもっと上の階級にしてくれると約束してくれた。戦のさなかに命を落とした、そんなのはごく当たり前のこと。事はうまく進むだろう。そう確信していた。

 向こうはコレが逃げないように包囲し、特殊な薬品を仕込んだ煙幕を展開して味方の陣から引き剥がした。秘密裡に仕入れていた、神経を殺す薬を弾丸に仕込んだのは天明だ。背後から狙撃するまではうまくいったのに――!

「……天明?」

 そこで急激に意識が戻され、天明はびくりと肩を揺らした。

 天明宅の客間、立派な黒檀の机を挟み、天明と世見坂は対面している。この間張り替えたばかりの畳からは、今だ濃くて青い匂いがする。

 目の前には、蒼から紫へ移り変わる空に染まる、きめ細かな光沢の七宝の湯飲みが置かれている。注がれる緑茶は、水から出すと甘味が強くなる翠雨という品種である。

 茶托に収まる茶碗のつるりとした表面を、世見坂の指がなぞる。その様を映す黒檀の机は、高名な職人が集まる臥竜宮から取り寄せたもので、脚や側面に見事な蔦彫りが施されていた。

 一級の調度品に薄汚い獣は似つかわしくはないが、まあ仕方のないこと。あの茶碗はあとで処理させよう。胸中で舌打ちしながら、天明は世見坂と他愛のない会話を重ねる。

 世見坂は饒舌に言葉を重ねては、茶碗を何度も空にしていた。観察をした限り、世見坂の目が見えていないことは確かなようだった。座るときに畳を撫でて座布団を探し、湯飲みの位置も手で確認していたから、間違いはないだろう。

 だからこそ余計に気になった。あのあと――足を失い、視力を失い、退役したあとはどのように生きていたのか。コレの本性を知る者からすれば、コレが野放しの状態で、通常の人間と同じように暮らすなど、ありえなさすぎて想像ができない。

 様子を伺う。瞼は今は閉ざされている。あの禍々しい赤は見えない。だが、まるで血を固めてはめ込んだような、濁った不気味な色が頭の隅からどうしても拭い去れない。ああ、気持ち悪い。おぞましい。

「……ところで世見坂。貴様、今までどこにいたのだ?」

 罵声を浴びせたい衝動を噛み殺し、問いかける。茶を飲もうとした世見坂の動きが止まった。口元に運びかけた茶碗を再度茶托へと戻し、わずかに首をかしげる。

「うん……? どこ、とは?」

 しらじらしい。苛々と歯噛みしたくなるのをおしとどめ、天明はなおも愛想笑いを浮かべて続けた。

「大怪我をしたあと、いったいどうしていたのだろうと思ってな。救命措置で後援部隊のところへ担ぎ込まれて、そのまま前線に復帰せず退役してしまったじゃないか」

 猫なで声になるのは仕方がない。声に険が出てしまえば不審がられてしまうかもしれない。あるいは――敵意があるとみなされ始末されるか。やりかねない。コレならば、あいつならば。

「確か……どこぞの軍医が出張ったと聞いたが、そのあとは?」

 そう。世見坂は、出血多量と失明により前線を離脱したあと、後方に控えていた救護隊のもとへと連れていかれた。天明はすぐに世見坂の抜けた穴を補うべく前線へ戻ったため、世見坂が生きていた理由や、退役したあとの処遇について詳細を知らなかった。

 ……もっとも、当時は世見坂を殺すことに失敗したという事実で、天明は焦り、恐怖し、苛立って神経をすり減らしていたのだが。

 「ああ」と世見坂は唇だけで無機質に笑う。人の真似をした、貼りつけたような笑みが気持ち悪い。早くどうにかしてしまいたい。天明は机の表面を指で叩きながら答えを待った。

「不夜城が、たまたま僕らのいた場所の近くにいたらしくてな。そのまま救護隊のところへ連れて行ってくれて、手当をしてくれたのだ。おかげで一命をとりとめた」

 不夜城、同室だったあの赤毛か! 憎らしい顔を思い出し、天明は思わず奥歯を噛んだ。

 まったく、あの男は余計なことばかりしてくれる。そのまま放置してさえすれば、毒と出血ですぐ死んだというのに! あいつは本当にろくでもない、どこまで自分の邪魔をすれば気が済むのか。ああ、本当に腹が立つ。

 胸中で毒づきながら、天明は不自然に渇いた喉を茶で潤した。独特の甘さと苦さが舌先に染みる。

「むろん、片足を失った状態で戦闘はできぬゆえ、退役せざるを得なかったが……そのあとはしばらく、過去に世話になった人のところに身を寄せていた。今も彼のところにいるが、比較的自由にやらせてもらっているよ。ここのことも彼から聞いたのだ」

 ここのことも、聞いた。その言葉が出た瞬間、天明の耳の奥で、硝子が砕けるような音がした。

 思い当たるやつはひとりしかいない。やはりあいつか。あいつが自分を殺すためにコレを差し向けたのだ。自分は目を付けられた。ならば――やはりやるしかない。


 思い知らせてやらなければ。どちらの立場が上なのかを。


 今この男は刀を持っていない。上がらせたときに刀を耀に回収させた。かつて天明自身も腰に帯びていたものと同じ白鞘の刀は、今は素知らぬ顔で天明の背後の刀掛けに収まっている。

「そうか。……茶のおかわりを淹れてやれ」

 耀が手にした硝子の水差しには、すでに無味無臭の薬が混入している。思考能力を奪い、身体の自由を奪うものだ。天明の飲んでいる茶とは別の水差しで作ってある。

 耀がちらと壁の時計へ目を向ける。天明もそこへ視線を移し、にや、と嗤った。そろそろ頃合いだろう。

 そう思った瞬間、目の前で世見坂が机に崩れ落ちた。湯飲みが甲高い悲鳴を上げ、机に転がる。ひっくり返された茶が黒檀の机にぶちまけられ、天明の袖を濡らした。

「ぁ、な、ぃ、……なん、」

 まるで死にかけた蟲のように緩慢にのたうち、何度も机へと頬をすりつける。言葉もろくに紡げぬ様は、ひどく無様で滑稽だ。がたがたと震えている。どうにか力を振り絞り、腕を突っ張ろうとしているようだ。しかしそれもかなわず、ぎしぎしと黒檀の表面の爪を立てている。何度も何度もぎこちなく繰り返すその動きが情けなくて、天明は歪んだ笑みを深めた。

「おや、世見坂。具合が悪そうだな?」

 こんなに簡単に引っかかるなんて、阿呆にもほどがある! あまりの愉快さに喉でくつくつと笑いながら、天明はできた使用人へと言葉を投げた。

「耀、奥の部屋の準備はできているか?」
「いつでもお使いいただけます、旦那様」

 耀が微笑み、最奥へつながるふすまを開ける。天明は立ち上がると世見坂の襟首をつかみ、未だもがいている世見坂の身体を引きずりあげた。

「来い。せっかくこうして訪ねてきてくれたのだ、たっぷりともてなしてやらんとなあ」
「うぁ、ぅ……」

 呻きながら顔を上げる、鈍い光を放つ赤瞳を見下ろし、天明はさらに深く笑みを刻んだ。

 それから世見坂の着物が乱れるのもそのままに、引きずりながら歩き出す。身体の自由を奪われた世見坂は、壊れた玩具のようにだらりと両の手足を投げ出して、おとなしく天明に引きずられていた。
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