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第一章 英雄の娘
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その瞬間――風がたたきつけるように吹き、身体が奇妙な浮遊感を訴える。あまりの風の強さに、エオナは再び目を開けることができずにいた。力強い羽ばたきの音、ごうごうと鳴る風の音、振り落とされないように必死でしがみつく。
やがてそれは、始まった時と同様唐突に終わった。背後から気配が消え、エオナもまた目を開く。かき乱された髪を軽く指で梳きなおし、竜に乗ったまま首をめぐらせる。
降り立った場所は、故郷に似た見通しのよい平原だった。ところどころに咲いた花が、巻き起こる風に可憐な花びらをさらわれていく。
「ここでいいんですか?」
困惑と疑問のにじむ言葉に、明晰な答えが返ってきた。
「無論。後ろをごらん」
鞍から下ろされ、言われるままに振り返る。そして思わず、息をのんだ。
北に見えるゼグレス山脈の影を背負い、未だ夕暮れの残滓を帯びる石造りの無骨な建物がそこにあった。まっすぐに天へと伸びる尖塔が、降り注ぐ陽光を浴びている。空の上から眺めると印象が違い、塔はどっしりとした重厚な造りをしていた。
隣に続く建物も大きいが、そちらの窓は格子が嵌められている。あちらこちらには旗が翻り、交互に飾られたそれのひとつは、ソフィアの服にもある竜の紋様だった。
「今日からここで訓練を受け、寝泊りをするようになる。もっとも、ここを拠点とすることはあまりない。大概は戦端に近い砦を使う」
格子窓の建物から、数人の人が駆け出してくる。一瞬だけ不審そうに眺められたが、すぐにそれもなくなった。
彼らは並んで背筋を伸ばし、右手の拳を自らの左肩口へ押し当てた。
「お帰りなさいませ、団長」
「うむ。ディアドーラを竜舎に」
そのうちの一人が、ディアドーラの手綱を恭しく受け取る。ディアドーラは不満そうに首を振り、エオナとソフィアの間に頭を突っ込んだ。
「こら、ディアドーラ。疲れているのだから、もう休みなさい」
まるで母親のような口調で、ソフィアが優しく竜を叱る。だが竜はそれも意に介さない。甘えるように主の衣服のすそを食み、引く。ぐるぐると低い、くぐもった声が聞こえてきた。
「甘えっ子なんですね」
「いつもこの調子だからな、参ってしまう」
苦笑交じりに言う彼女の表情は、ちっとも嫌そうではなかった。別れたばかりの母の顔を思い出し、喉にせりあがる熱い塊を何とかして飲み下す。
ソフィアが何度か言い含めると、竜はしぶしぶといった風に裾を離した。人間のようにため息をつき、おとなしく手綱を引かれていく。他の人が乗っていた竜も、同じように格子窓の建物へと引かれていった。
「お前たちも疲れたろう。先に戻っていて構わんぞ」
それを見届けてから、ソフィアが周囲に声をかける。彼女と一緒にエオナを迎えに来た人たちだ。皆男性で、先ほどの人々同様右手を左肩に置いている。
「いえ、団長を差し置いて、おいそれと休むわけには参りません」
ユクニと遊んでくれていた一人が言う。黒い髪を丁寧に後ろへ梳き流した、目の細い長身の男性だ。クロディットという名前で、飛竜騎士団の副団長を務めている。無骨ではあるが、ソフィアが言うには、その生真面目さと実直さは信頼するに足るという。ちなみに騎士団にはもう一人副団長がいるらしいが、これはあまり他の騎士団ではないそうだ。
クロディットによれば、先代の団長もソフィアも、基本的に他人任せを嫌っているらしい。部下を思うあまり、自らが先頭に立って行動する。ゆえに、不在時の砦を守る人間が必要になったのだとか。
「部下が休んでいないのに、どうして私が休めると思う」
「ではこう申し上げましょう。団長がお休みにならなければ、我々も休めない。結果的に士気が下がり、あなたはますますお休みにならない。そして私たちも休めない、と。完全な悪循環です」
クロディットは涼しい顔でそう言った。後ろに控える騎士たちは、ハラハラしたようにその様子を伺っている。
ソフィアが渋面を作ってみせる。
「それは困るな……ふむ、仕方がない。エオナを案内してから早々に休むとしよう」
「お願いいたします。エオナからも、これからは強く言って差し上げてくれ。そうでもしなければ、この方は休もうとすらしないからな。何、ちょっとくらい無礼になっても構わんぞ」
騎士たちが真顔のまま、大きくうなずいた。それからちょっとだけ笑い、今一度姿勢を整える。
「口の減らない奴め」
「私はどうも、口から生まれたらしいので」
渋い表情でソフィアが毒づけば、クロディットは相変わらず澄ました顔でやり返す。気心の知れた相手同士、とでも言うのだろうか。そこには確かに、お互いに対する深い信頼が感じ取れた。
「エオナ、行こう。簡単に砦の中を案内する。こいつの相手をしていては、埒が明かないからな」
「は、はい」
改めて促され、エオナも背筋を伸ばして応じた。行ってらっしゃいませ、というクロディットの声を背に、ソフィアの後を追う。
踏み込んだ砦の中は、想像よりもはるかに賑やかで活気に満ちていた。内側も外と同様無骨ではあったが、確かに人の気配が染み付いている。
一番最初に踏み入れた場所は、正面に階段と飛竜の像、左右には廊下が続いている。ソフィアは階段を上らずに、右側の道を進んでいく。廊下は一本道になっており、明かりが揺れるそこを抜けると、最初の広間くらいの大きな部屋に出た。長い机がいくつも置かれ、数え切れぬほどの人が談笑している。
「ここは食堂だ。食事は無償で出る。王城ほどの豪勢なものではないが、ちゃんと料理人もいるから安心しろ」
ソフィアが通りかかると、皆が一斉に立ち上がり、右手の拳を自分の左肩へと置いた。あれは敬礼といって、立場が上の者に対する敬意を示してそうするのだという。
後々紹介をするから、と兵たちに言い置いて、ソフィアはさらに奥を目指して歩いていく。エオナもきょろきょろしながらその後に続いた。
次の廊下は、大人七人ほどが余裕を持って並べるほどの広さがあった。右手の壁には既に明かりが灯されており、足元を暖かく照らしている。
左手は吹き抜けになっているためか、冷たい夜風がエオナの頬をなでていった。代わりに、重厚な円柱が突き当たりまで連なっている。廊下はそこで左に折れ、柱を伴いながら違う建物へと続いていた。
どうやら庭になっているらしい。ちょうど反対側にも建物らしき影があるが、暗くてよくわからなかった。
「すごくたくさんの人がいるんですね」
視線をあちこちにさまよわせながら、エオナは呟く。山奥に暮らしていたエオナにとって、これほどまでの人数は見たことすらなかった。ふもとの村よりも多いのではないか、とさえ思う。
「そうだな。もっとも、あれだけの数が一斉に動くことは稀だ。大概は少数の部隊に別れる。情報の伝達を迅速に行えるし、それだけ素早く行動が取れるからな」
「ソフィアさんも、部隊を持ってるんですか?」
以後は団長と呼びなさい、と柔らかくたしなめられてから、答えが返ってくる。
「無論だ。団長がいれば士気が上がるし、私だけ砦に篭っているのは性に合わぬ。……そうだ、そなたは私の部隊に入ることになった。後で同じ部隊の者を紹介しておこう」
よかった、知っている人がいるなら安心だ。はい、とひとつうなずいて、エオナは導かれるままに廊下の突き当りを左へ曲がる。ソフィアの脇から前を覗けば、少し先に重そうな鉄の扉が控えていた。
その扉を難なく押し開け、ソフィアはエオナを促す。
「ここが宿舎だ」
そのまま足を踏み入れると、扉は重い音を立てて閉められた。指をはさんだら痛いだろうな、と身震いする。顔に出たのだろう、ソフィアが小さく笑い声を立てて反対側、宿舎の奥を示した。指した先には木の扉がついており、そばの光に照らされてあめ色の艶を放っていた。
「一番奥に浴場と洗面場、それと用足しの場がある。この山脈は地下水が豊富でな、それを魔術で作られた井戸がくみ上げ、我々はそれを使っているのだ。この砦は、魔術師と呼ばれた者たちが暮らしていた、いわゆる修行場なのだそうだよ」
はるか古の人々は、魔術と呼ばれる不可思議な数式を用いて様々な奇跡を呼び起こしたという。しかし、現在ではその力も失われ、その時代に作られたとされる遺物が残るばかりだった。
この砦では、触れただけで明かりが灯る硝子の瓶と、先ほどの井戸、そしてこの山脈の遥か下に広がる下水の処理場がそうなのだそうだ。
一体どんな人たちがここで暮らして、どんな修行を積んでいたのだろう。まったく別の形ではあるが、これから修行を重ねていくだろうエオナにとって、このささやかな偶然が不思議と嬉しかった。
「そなたの部屋は、ここから数えて二十五番目の部屋だ」
ソフィアの手が、今度は右手の側を示す。ずらりと並んだ扉は、どれも鈍い光を含んでいる。一応左を確認すると、こちらは一面に窓が取り付けられていた。ちょうど宿舎の真ん中あたり、窓の列が途切れた場所には、これまた重そうな鉄の扉が鎮座している。
「通常部屋は四人で使うのだが、女は数えるほどしかいないから少々寂しいかもしれぬな」
はあ、とエオナは曖昧にうなずく。別に男とでもよかったのだが、どうやら不都合があるらしい。それよりも、自分とソフィア以外の女性騎士とはどんな人なのかが気になる。
「ソフィ……あ、えと、団長。その人って」
どんな人ですか、と続くはずの言葉が、音にならないうちに砕けてしまう。そのまま足が固まり、床に縫いとめられてしまった。
廊下の左手、温かな陽光の差す窓辺に何かがいる。白くぼんやりとした輪郭が、窓のそば近くにわだかまっていた。
人間なのか、それとも人ですらないのか、背筋を嫌な汗が伝っていく。
「あ、の、そ、そふぃ……団長」
「まったく、いつものことだが、困った奴だな」
ソフィアが軽く息をつく。その気配を感じたのか、白い影がゆらりと動いた。次いで、ああ、とも、うむ、ともつかない呻きが落とされる。
慣れてきた目が最初にとらえたのは、その見事な銀髪だった。とはいえ、その髪ときたら伸ばし放題のぼさぼさで、さらに乱雑に背中でくくってあるだけだ。先ほどの騎士たちよりも簡素ではあるが、同じ紋が彫りこんである鎧を身にまとっている。無駄な装飾のない黒衣は、彼の髪や瞳の色を余計に際立たせていた。
眠たげな目が数度瞬いて、眠たげなままエオナを眺める。今まで見たこともない、銀色の瞳だ。左目のすぐ下には、大きな傷が走っている。一歩間違えば失明しかねない箇所に刻まれたそれは、彼が危険な戦いを潜り抜けてきたことを物語っていた。
「よお」
敬礼するかと思いきや、彼は気だるげに手を持ち上げるだけだった。起きた直後のように音がかすれているが、その声は深くよく響いた。
団長が前にいるのに敬礼しない。敬意を払わない相手など、この騎士団にいるのだろうか。単純に考えても団長以上の立場になるはずだが、失礼ながら相手がそこまで地位の高い人間には見えなかった。
混乱するエオナをちらりと眺め、ソフィアは肩をすくめてみせる。口許には淡く苦笑が浮いていた。
「こいつのことは気にするな。言っても聞きやしないからな」
「んなこと言われても、俺ぁこれっぽっちも覚えてねえからな」
男は喉の奥で笑うと、両手を広げておどけるのだった。依然として眠そうではあるが、一応会話はできるらしい。エオナはほっと息をつくと、知らずに入っていた肩の力を抜いた。
「紹介しよう、エオナ。こいつは私の部隊の主砲で、『剣の雨』と呼ばれている男だ。レイン、エオナだ。明日から私の部隊に入ってもらうから、よろしく頼むな」
改めて、エオナは相手を眺める。年は三十代の前半くらいか。時折ふもとの村に買出しに行くと、いつも滅茶苦茶に頭をなでてくれる雑貨屋のお兄さんくらいの年である。
ただ、やはり軍人だけあって彼のほうががっちりしている。要所要所が締まった、まるで野生の動物を彷彿とさせるような身体つきだった。長身を窓の枠に預けてこちらを眺め返している。半分伏せられた瞳の色は、灯りの鮮やかな金を含んで揺らめいていた。
「ん」
と、手が伸ばされた。反射で身を強張らせるエオナをよそに、彼はエオナの頭をくしゃりとなでた。
「ちびだなあ、お前……」
呟いて、小さく笑む。精悍な顔立ちに浮かぶその笑みは優しかったが、やはりどこか夢うつつな印象が拭えない。開かれた目蓋は重たげで、こちらが目を逸らした隙に眠ってしまいそうだ。
「そんなにちびじゃあ、吹っ飛ばされるんじゃねえのかい」
「が、がんばります、『剣の雨』さん」
「レインでもシルバーでもどっちでもいい、好きに呼びな」
手が離れる。大きな手のひらだった。それから彼はまた笑い、ずるずると窓枠にもたれかかる。何が起こったか理解できず、エオナは慌ててソフィアを見た。
ソフィアは呆れ顔で、動かなくなった彼をにらんでいる。
「まったく、こんなところで寝るな。見つけるほう、運ぶほうの身にもなってみろ」
「え、ね、寝てるんですか?」
言われてレインに視線を戻せば、なるほど確かに寝息を立てている。
「こんなところで寝ちゃうなんて、よっぽど疲れてたんですね」
「ん……ああ、まあな」
ソフィアが歯切れ悪く言う。今まで会話をしている中でも、初めてのことだった。それを不思議に思いながら、エオナは彼の様子を眺める。眠りは深いのだろう。身じろぎひとつしない。
「さてと。早速申し訳ないが、エオナ」
「はい」
「こいつの部屋はすぐそこだ。適当に放り込むぞ」
面倒くさそうに言う団長に、エオナは思わず笑ってしまうのだった。
やがてそれは、始まった時と同様唐突に終わった。背後から気配が消え、エオナもまた目を開く。かき乱された髪を軽く指で梳きなおし、竜に乗ったまま首をめぐらせる。
降り立った場所は、故郷に似た見通しのよい平原だった。ところどころに咲いた花が、巻き起こる風に可憐な花びらをさらわれていく。
「ここでいいんですか?」
困惑と疑問のにじむ言葉に、明晰な答えが返ってきた。
「無論。後ろをごらん」
鞍から下ろされ、言われるままに振り返る。そして思わず、息をのんだ。
北に見えるゼグレス山脈の影を背負い、未だ夕暮れの残滓を帯びる石造りの無骨な建物がそこにあった。まっすぐに天へと伸びる尖塔が、降り注ぐ陽光を浴びている。空の上から眺めると印象が違い、塔はどっしりとした重厚な造りをしていた。
隣に続く建物も大きいが、そちらの窓は格子が嵌められている。あちらこちらには旗が翻り、交互に飾られたそれのひとつは、ソフィアの服にもある竜の紋様だった。
「今日からここで訓練を受け、寝泊りをするようになる。もっとも、ここを拠点とすることはあまりない。大概は戦端に近い砦を使う」
格子窓の建物から、数人の人が駆け出してくる。一瞬だけ不審そうに眺められたが、すぐにそれもなくなった。
彼らは並んで背筋を伸ばし、右手の拳を自らの左肩口へ押し当てた。
「お帰りなさいませ、団長」
「うむ。ディアドーラを竜舎に」
そのうちの一人が、ディアドーラの手綱を恭しく受け取る。ディアドーラは不満そうに首を振り、エオナとソフィアの間に頭を突っ込んだ。
「こら、ディアドーラ。疲れているのだから、もう休みなさい」
まるで母親のような口調で、ソフィアが優しく竜を叱る。だが竜はそれも意に介さない。甘えるように主の衣服のすそを食み、引く。ぐるぐると低い、くぐもった声が聞こえてきた。
「甘えっ子なんですね」
「いつもこの調子だからな、参ってしまう」
苦笑交じりに言う彼女の表情は、ちっとも嫌そうではなかった。別れたばかりの母の顔を思い出し、喉にせりあがる熱い塊を何とかして飲み下す。
ソフィアが何度か言い含めると、竜はしぶしぶといった風に裾を離した。人間のようにため息をつき、おとなしく手綱を引かれていく。他の人が乗っていた竜も、同じように格子窓の建物へと引かれていった。
「お前たちも疲れたろう。先に戻っていて構わんぞ」
それを見届けてから、ソフィアが周囲に声をかける。彼女と一緒にエオナを迎えに来た人たちだ。皆男性で、先ほどの人々同様右手を左肩に置いている。
「いえ、団長を差し置いて、おいそれと休むわけには参りません」
ユクニと遊んでくれていた一人が言う。黒い髪を丁寧に後ろへ梳き流した、目の細い長身の男性だ。クロディットという名前で、飛竜騎士団の副団長を務めている。無骨ではあるが、ソフィアが言うには、その生真面目さと実直さは信頼するに足るという。ちなみに騎士団にはもう一人副団長がいるらしいが、これはあまり他の騎士団ではないそうだ。
クロディットによれば、先代の団長もソフィアも、基本的に他人任せを嫌っているらしい。部下を思うあまり、自らが先頭に立って行動する。ゆえに、不在時の砦を守る人間が必要になったのだとか。
「部下が休んでいないのに、どうして私が休めると思う」
「ではこう申し上げましょう。団長がお休みにならなければ、我々も休めない。結果的に士気が下がり、あなたはますますお休みにならない。そして私たちも休めない、と。完全な悪循環です」
クロディットは涼しい顔でそう言った。後ろに控える騎士たちは、ハラハラしたようにその様子を伺っている。
ソフィアが渋面を作ってみせる。
「それは困るな……ふむ、仕方がない。エオナを案内してから早々に休むとしよう」
「お願いいたします。エオナからも、これからは強く言って差し上げてくれ。そうでもしなければ、この方は休もうとすらしないからな。何、ちょっとくらい無礼になっても構わんぞ」
騎士たちが真顔のまま、大きくうなずいた。それからちょっとだけ笑い、今一度姿勢を整える。
「口の減らない奴め」
「私はどうも、口から生まれたらしいので」
渋い表情でソフィアが毒づけば、クロディットは相変わらず澄ました顔でやり返す。気心の知れた相手同士、とでも言うのだろうか。そこには確かに、お互いに対する深い信頼が感じ取れた。
「エオナ、行こう。簡単に砦の中を案内する。こいつの相手をしていては、埒が明かないからな」
「は、はい」
改めて促され、エオナも背筋を伸ばして応じた。行ってらっしゃいませ、というクロディットの声を背に、ソフィアの後を追う。
踏み込んだ砦の中は、想像よりもはるかに賑やかで活気に満ちていた。内側も外と同様無骨ではあったが、確かに人の気配が染み付いている。
一番最初に踏み入れた場所は、正面に階段と飛竜の像、左右には廊下が続いている。ソフィアは階段を上らずに、右側の道を進んでいく。廊下は一本道になっており、明かりが揺れるそこを抜けると、最初の広間くらいの大きな部屋に出た。長い机がいくつも置かれ、数え切れぬほどの人が談笑している。
「ここは食堂だ。食事は無償で出る。王城ほどの豪勢なものではないが、ちゃんと料理人もいるから安心しろ」
ソフィアが通りかかると、皆が一斉に立ち上がり、右手の拳を自分の左肩へと置いた。あれは敬礼といって、立場が上の者に対する敬意を示してそうするのだという。
後々紹介をするから、と兵たちに言い置いて、ソフィアはさらに奥を目指して歩いていく。エオナもきょろきょろしながらその後に続いた。
次の廊下は、大人七人ほどが余裕を持って並べるほどの広さがあった。右手の壁には既に明かりが灯されており、足元を暖かく照らしている。
左手は吹き抜けになっているためか、冷たい夜風がエオナの頬をなでていった。代わりに、重厚な円柱が突き当たりまで連なっている。廊下はそこで左に折れ、柱を伴いながら違う建物へと続いていた。
どうやら庭になっているらしい。ちょうど反対側にも建物らしき影があるが、暗くてよくわからなかった。
「すごくたくさんの人がいるんですね」
視線をあちこちにさまよわせながら、エオナは呟く。山奥に暮らしていたエオナにとって、これほどまでの人数は見たことすらなかった。ふもとの村よりも多いのではないか、とさえ思う。
「そうだな。もっとも、あれだけの数が一斉に動くことは稀だ。大概は少数の部隊に別れる。情報の伝達を迅速に行えるし、それだけ素早く行動が取れるからな」
「ソフィアさんも、部隊を持ってるんですか?」
以後は団長と呼びなさい、と柔らかくたしなめられてから、答えが返ってくる。
「無論だ。団長がいれば士気が上がるし、私だけ砦に篭っているのは性に合わぬ。……そうだ、そなたは私の部隊に入ることになった。後で同じ部隊の者を紹介しておこう」
よかった、知っている人がいるなら安心だ。はい、とひとつうなずいて、エオナは導かれるままに廊下の突き当りを左へ曲がる。ソフィアの脇から前を覗けば、少し先に重そうな鉄の扉が控えていた。
その扉を難なく押し開け、ソフィアはエオナを促す。
「ここが宿舎だ」
そのまま足を踏み入れると、扉は重い音を立てて閉められた。指をはさんだら痛いだろうな、と身震いする。顔に出たのだろう、ソフィアが小さく笑い声を立てて反対側、宿舎の奥を示した。指した先には木の扉がついており、そばの光に照らされてあめ色の艶を放っていた。
「一番奥に浴場と洗面場、それと用足しの場がある。この山脈は地下水が豊富でな、それを魔術で作られた井戸がくみ上げ、我々はそれを使っているのだ。この砦は、魔術師と呼ばれた者たちが暮らしていた、いわゆる修行場なのだそうだよ」
はるか古の人々は、魔術と呼ばれる不可思議な数式を用いて様々な奇跡を呼び起こしたという。しかし、現在ではその力も失われ、その時代に作られたとされる遺物が残るばかりだった。
この砦では、触れただけで明かりが灯る硝子の瓶と、先ほどの井戸、そしてこの山脈の遥か下に広がる下水の処理場がそうなのだそうだ。
一体どんな人たちがここで暮らして、どんな修行を積んでいたのだろう。まったく別の形ではあるが、これから修行を重ねていくだろうエオナにとって、このささやかな偶然が不思議と嬉しかった。
「そなたの部屋は、ここから数えて二十五番目の部屋だ」
ソフィアの手が、今度は右手の側を示す。ずらりと並んだ扉は、どれも鈍い光を含んでいる。一応左を確認すると、こちらは一面に窓が取り付けられていた。ちょうど宿舎の真ん中あたり、窓の列が途切れた場所には、これまた重そうな鉄の扉が鎮座している。
「通常部屋は四人で使うのだが、女は数えるほどしかいないから少々寂しいかもしれぬな」
はあ、とエオナは曖昧にうなずく。別に男とでもよかったのだが、どうやら不都合があるらしい。それよりも、自分とソフィア以外の女性騎士とはどんな人なのかが気になる。
「ソフィ……あ、えと、団長。その人って」
どんな人ですか、と続くはずの言葉が、音にならないうちに砕けてしまう。そのまま足が固まり、床に縫いとめられてしまった。
廊下の左手、温かな陽光の差す窓辺に何かがいる。白くぼんやりとした輪郭が、窓のそば近くにわだかまっていた。
人間なのか、それとも人ですらないのか、背筋を嫌な汗が伝っていく。
「あ、の、そ、そふぃ……団長」
「まったく、いつものことだが、困った奴だな」
ソフィアが軽く息をつく。その気配を感じたのか、白い影がゆらりと動いた。次いで、ああ、とも、うむ、ともつかない呻きが落とされる。
慣れてきた目が最初にとらえたのは、その見事な銀髪だった。とはいえ、その髪ときたら伸ばし放題のぼさぼさで、さらに乱雑に背中でくくってあるだけだ。先ほどの騎士たちよりも簡素ではあるが、同じ紋が彫りこんである鎧を身にまとっている。無駄な装飾のない黒衣は、彼の髪や瞳の色を余計に際立たせていた。
眠たげな目が数度瞬いて、眠たげなままエオナを眺める。今まで見たこともない、銀色の瞳だ。左目のすぐ下には、大きな傷が走っている。一歩間違えば失明しかねない箇所に刻まれたそれは、彼が危険な戦いを潜り抜けてきたことを物語っていた。
「よお」
敬礼するかと思いきや、彼は気だるげに手を持ち上げるだけだった。起きた直後のように音がかすれているが、その声は深くよく響いた。
団長が前にいるのに敬礼しない。敬意を払わない相手など、この騎士団にいるのだろうか。単純に考えても団長以上の立場になるはずだが、失礼ながら相手がそこまで地位の高い人間には見えなかった。
混乱するエオナをちらりと眺め、ソフィアは肩をすくめてみせる。口許には淡く苦笑が浮いていた。
「こいつのことは気にするな。言っても聞きやしないからな」
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男は喉の奥で笑うと、両手を広げておどけるのだった。依然として眠そうではあるが、一応会話はできるらしい。エオナはほっと息をつくと、知らずに入っていた肩の力を抜いた。
「紹介しよう、エオナ。こいつは私の部隊の主砲で、『剣の雨』と呼ばれている男だ。レイン、エオナだ。明日から私の部隊に入ってもらうから、よろしく頼むな」
改めて、エオナは相手を眺める。年は三十代の前半くらいか。時折ふもとの村に買出しに行くと、いつも滅茶苦茶に頭をなでてくれる雑貨屋のお兄さんくらいの年である。
ただ、やはり軍人だけあって彼のほうががっちりしている。要所要所が締まった、まるで野生の動物を彷彿とさせるような身体つきだった。長身を窓の枠に預けてこちらを眺め返している。半分伏せられた瞳の色は、灯りの鮮やかな金を含んで揺らめいていた。
「ん」
と、手が伸ばされた。反射で身を強張らせるエオナをよそに、彼はエオナの頭をくしゃりとなでた。
「ちびだなあ、お前……」
呟いて、小さく笑む。精悍な顔立ちに浮かぶその笑みは優しかったが、やはりどこか夢うつつな印象が拭えない。開かれた目蓋は重たげで、こちらが目を逸らした隙に眠ってしまいそうだ。
「そんなにちびじゃあ、吹っ飛ばされるんじゃねえのかい」
「が、がんばります、『剣の雨』さん」
「レインでもシルバーでもどっちでもいい、好きに呼びな」
手が離れる。大きな手のひらだった。それから彼はまた笑い、ずるずると窓枠にもたれかかる。何が起こったか理解できず、エオナは慌ててソフィアを見た。
ソフィアは呆れ顔で、動かなくなった彼をにらんでいる。
「まったく、こんなところで寝るな。見つけるほう、運ぶほうの身にもなってみろ」
「え、ね、寝てるんですか?」
言われてレインに視線を戻せば、なるほど確かに寝息を立てている。
「こんなところで寝ちゃうなんて、よっぽど疲れてたんですね」
「ん……ああ、まあな」
ソフィアが歯切れ悪く言う。今まで会話をしている中でも、初めてのことだった。それを不思議に思いながら、エオナは彼の様子を眺める。眠りは深いのだろう。身じろぎひとつしない。
「さてと。早速申し訳ないが、エオナ」
「はい」
「こいつの部屋はすぐそこだ。適当に放り込むぞ」
面倒くさそうに言う団長に、エオナは思わず笑ってしまうのだった。
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toyjoy11
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