蒼天の竜騎士

緑谷

文字の大きさ
上 下
4 / 6
第一章 英雄の娘

しおりを挟む
 息を吸う。吐く。もう一度吸って。

「ソフィアさん!」

 腹から声を張り上げた。

 母とソフィアの視線が同時に注がれる。一度唇を湿らせてから、ソフィアをまっすぐに見上げた。萌える草の瞳には、緊張した面持ちの自分が映っている。

「戦いになったら、たくさんの人が悲しい思いを……するん、ですよね」

 一拍の間を置いて、ソフィアがうなずいた。

「無論だ。我々騎士団は、彼らを護るために存在する。力なき民の誰もが、力に踏みにじられて悲しまぬように、我らはある」

 向き直るソフィアの答えに迷いはない。まっすぐな眼差しには強さすらある。きっとかつての母も、こんな風だったのだろう。

 大切な人たちの生きるこの場所が危険にさらされるというのなら。もしも自分にも、できることがあるというのなら。その場所を、その人たちを護りたい。それはエオナも同じだ。

 もう一度、ゆっくりと息を吸う。それからソフィアを見つめ返し、告げた。

「なら……あたしが、母さんの代わりに行きます」

 ソフィアが軽く目を見開いた。母は目に見えて狼狽し、エオナの肩を抱く。

「エオナ、あなた……!」
「……本気か?」
「はい」

 緊張する。手先がじっとりと汗をかいていた。短く呼吸をして、エオナは残る思いを口にする。

「あたしじゃ力不足だってことぐらい、わかってます。でも、昔の母さんがそうだったみたいに……あたしも、大事な人たちがいるこの場所を、この国を、守りたい」

 ソフィアは黙って話を聞いてくれている。緊張で舌がもつれ、唇は強張ってうまく声が出ない。それでもエオナは、何とか続きを搾り出した。

「あたし、母さんにも他の人にも、悲しい思いをさせたくないです。ユクニはまだ小さいけど、あたしはもう十六です。戦ったことはないし、英雄だった母さんの、代わりになんてならない。でも……」

 ソフィアは何かを考えている風だった。腕を組み、首をかしげて思案にふけっている。

 母の顔色は眼に見えて悪かった。肩を震わせ、涙をためた瞳でエオナを見ている。行っては駄目、行っては駄目と、まるでうわごとのように呟いていた。

 肩にかかる母の指は、力の入れすぎで震えている。その手に手を重ねてから、エオナは再度ソフィアを見た。

「あたしも、ソフィアさんのお手伝いがしたい。だから、あたしが母さんの代わりに行きます。一緒に行かせてください」

 母もソフィアも、何も言わない。エオナは気まずさと気恥ずかしさ、居心地の悪さに二人を見比べた。

 と。

「なるほど。君の想いはよくわかった」

 言いながら、ソフィアがゆっくりと戻ってくる。それから震えている母の肩に、手袋に包まれた手をそっと置いた。

「……ヤーファ。エオナのことは、私が責任をもって面倒を見る。ここは彼女と、私のことを信じてくれないか」
「駄目よ、まだこんなに小さいのに……」

 嗚咽の隙間から言葉が漏れている。ソフィアの手を振り解いて、顔に手を押し当ててむせび泣いていた。

 胸に切ない痛みが走る。自分のせいで泣かせていることは、とてもつらい。だが、ここでエオナが折れてしまえば、もっとたくさんの人がこうして泣くことになる。

「母さん……ごめんなさい。だけどあたし、誰かが苦しんだり、悲しんだりしているの、放っておけない」

 細い背中を軽く撫でて、エオナは言葉を選んで口に出す。

「あたしね、ここで母さんとユクニと一緒で、すごく楽しくて幸せ。だけどね、……ふもとの村の人たちも、もっとたくさんの人たちも、今みたいに笑って、幸せに暮らしていきたいって思ってるはずなんだ」

 戦で命を落とした騎士の家族だけではなく、まったく戦と関係のない人たちも苦しみ、涙を流す。それを考えたら、いてもたってもいられなくなる。大切な人たちの幸せを、笑顔を守りたい。

「ここでじっとしてたら、駄目なんだと思う。あたし、みんなに恩返しがしたい。母さんにも、ふもとの人にも、今まであたしを守ってくれていた、この国にも。あたしが今、できることをしたい。だから……行く。ここを守る母さんの代わりに、たくさんの幸せを守りに行く」

 母は目元を手のひらで拭い、真っ赤になった目でエオナを見つめた。涙に濡れて、上気した頬に髪が数本貼りついている。潤んだ瞳に浮かぶのは、かすかな喜びと諦めの情だった。

「……あなたも、あのひとと同じことを言うのね、エオナ……」

「誰かの幸せを願い、行動せずにはいられない。あなたに、何よりもあの人にそっくりですね、ヤーファ」

 ソフィアの言葉に、母はまた涙をぬぐう。蒼い睫毛が涙を含み、いつもより色を濃くして濡れている。

「ええ……本当に、本当に……」

 ふたりとも、誰かをエオナに重ねて見ているらしい。エオナは妙な気恥ずかしさと照れに弾む心臓を抱え、とっさに目を逸らした。きちんとそろえられたソフィアの足先が見える。

 母の手が、エオナの頬を包み込んだ。いつもの通り、柔らかくて優しい母の手のひらだった。

「……必ず、必ず帰ってきて頂戴ね……約束をして、ね、エオナ」

 顔を上げ、母の手を取る。包み込むように握り締め、深くうなずいてみせた。

「うん。必ず帰るから、待ってて」

 母の鮮やかな瞳がまた潤んでいる。それを目に焼き付けながら、エオナは確かな決意をもって約束を交わした。

「エオナ。よくぞ決意してくれた。英雄ヤーファの代わりとして……否、一人の勇気ある有志として、そなたの力を貸してもらえるだろうか」

 ソフィアの声は凛と滑らかで深く、それでいて強い。固い決意と覚悟を内に秘めているからなのだろうか。あまりにも気高く凛々しいその姿に、エオナは強い憧れと尊敬の念を禁じ得なかった。

「はい。よろしくお願いいたします、ソフィアさん」
「ああ。期待しているぞ」
「ど、努力します」

 慌てて早口で付け加えれば、ソフィアは愉快そうに笑った。隣に立つ母に目を移す。母は小さく微笑んで、小さなころのようにエオナの髪を撫でてくれた。その手が、ぬくもりが愛しくて、エオナは再度胸の決意を握りしめた。





 翌朝。朝もやが未だ山々のあちこちにたなびく中、エオナは再度迎えにやってきたソフィアのもとへと歩みを進める。

 蒼い糸で刺繍された外套は、空の上の冷たい空気を通さない。母がかつて使っていたという眼鏡は、空を飛ぶときに使うものだそうだ。皮をなめして作った手袋もブーツも、羊毛で作った裏地のおかげで温かい。古くはあるがよく手入れされたそれらは、母がかつて戦に出たときに使っていたものだった。

「ああ、エオナ……」
「姉ちゃん!」

 ユクニと母のふたりに抱きしめられ、エオナの鼻の奥がつんと痛む。母は一睡もしていなかったのだろう。目が真っ赤になっていた。

「行ってくるよ、ユクニ、母さん」
「絶対、絶対帰ってきてね、やくそくだからね」

 ユクニは大泣きだ。柔らかいほっぺたをぐいぐいとして、エオナは涙をこらえ笑ってみせる。

「大丈夫だよ。姉ちゃんは約束やぶったことないでしょ?」
「うん」
「だから待ってて。母さんのこと助けてあげてね」
「うん!」

「エオナ」

 母の手が、エオナの手を握りしめる。しゃらり、とかすかな音と重み。目を落とせば、蒼い石を懐に抱く、銀の飛竜のペンダントがあった。

「私の母からもらったお守りです。どうかあなたに翼の加護がありますように……」

 母はそれだけ言うと、もう一度強くエオナを抱きしめる。エオナも大きくうなずいてから、母を強く抱きしめ返した。

 黄金の光が差し込んでくる。ソフィアの騎竜ディアドーラが、せかすように鳴くのが聞こえてくる。 荷物を持ち、エオナはソフィアのもとへ急ぐ。振り返れば、ふたりが家の前で手を振っている。手を振り返してそれに応え、今度こそソフィアのもとへと向かった。

「別れは済んだか」
「はい」
「よろしい。では往こう。いい風が吹いている」

 ソフィアの言う通り、澄んだ風が吹き抜けていく。ディアドーラの鈍い緑がかった灰色の鱗を一度撫で、ソフィアに促されるままに竜に乗った。

 鞍をもうひとつ、エオナの後ろに取り付けてから、ソフィアは軽い身のこなしで飛び乗った。

「ゴーグルをつけておきなさい。瞼が風でめくれるぞ」

 慌てて首にかけていた眼鏡をかける。重たいが、目の周りだけ空気が遮断されるのが肌で感じ取れた。

「はっ!!」

 掛け声とともに、手綱が引っ張られる。ディアドーラが咆哮し、翼が羽ばたく。風が巻き起こる。白い花の花弁が巻き上げられ、くるくると舞う。生まれ育った家が、景色が、ふもとにある村が、みるみるうちに小さくなる。その光景を目に焼き付けながら、エオナは遠くなる故郷をいつまでも見つめていた。

 ぐん、と竜が加速する。強く揺らされて、エオナは思わず目を閉じた。耳元で風が渦巻いている。頬が痛い。あまりの勢いに目が開けていられない。

「エオナ、見えるか。あれがイヴァノンの都だ」

 合間を縫うように、ソフィアの声が届いた。

「見えませんよ! 風が……」
「直に慣れる。ほら、見てみろ」

 朗らかな笑い声を背に受けながら、エオナは恐る恐るまぶたを持ち上げた。

 北には雄々しきゼグレス山脈、西にはなだらかなシェカ山脈。その継ぎ目より流れた水が湖を作り、二本の川を作り、一本は東の崖より落ちて滝となる。もう一本は南の平原へと流れ込み、そこを守るように白い都が広がっていた。

 母から聞いて想像した景色より、それははるかに美しかった。

 シェカ山脈に食い入るように張り巡らされているのは、南の関所から連なる塀であった。二つの山脈を背後に控え、イヴ湖が澄んだ水をたたえている。その中央には、空へと向かうかのように高い、きらびやかな城がそびえていた。白い橋が方々にかけられ、城へと伸ばされている。

 町並みのところどころにある緑は林か森か、鳥がそこから一斉に飛び立つのが見えた。細い煙があちこちから立ち上り、遠くから鐘の音が聞こえてくる。空は太陽を中心に鮮やかな金に染まり、雲は朝日を宿した真珠色に輝いている。そして、王城よりもなお高い尖塔が、都を守るようにうがたれていた。

 ひとつは王城のすぐ近く、湖の中に。ひとつは国の関所近く、南の平原の入り口に。ひとつはシェカ山脈の中、緑豊かな中腹に。針のように鋭い塔の屋根が、陽を照り返してきらめいている。その間を通る風もまた、朝の気配に染まっている気がした。

「すごい……」

 山の上からでは決して見られない景色に、エオナはため息をついた。騎乗している竜が得意げに鳴く。それから湖の上を一巡りし、シェカ山脈の尖塔へと飛んでいく。

「美しいだろう」

 ソフィアの声もまた、どこか誇らしげだ。

「はい、とても」
「これからお前はここで訓練を受ける。寂しくとも、しばらくは帰れぬからな」

 はい、とうなずき、エオナは唇をかみ締める。

 戦へ向かう娘を思い、気丈に振舞っていた母。身支度を整えたエオナを抱きしめて、泣きながら贈り物をくれた母。顔をくしゃくしゃにして泣いていた弟――思い出すだけで、目の奥が熱くなる。

 それでも、戻るわけにはいかない。約束をしたのだ。必ず帰ると。そのためには、これから起こるだろう戦を終わらせなければならない。母が、弟が、たくさんの人が泣かないように、エオナは望んでここに来たのだから。

 ゴーグルを外し、服の袖で涙をぬぐう。泣いてなどいられない。

「残された時間は多くない。訓練は厳しいぞ」
「大丈夫です!」

 エオナは強く目を瞑り、残りの涙をやり過ごす。それから腹に力を込め、声を張った。

「あたし、がんばるって決めましたから!」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私は心を捨てました 〜「お前なんかどうでもいい」と言ったあなた、どうして今更なのですか?〜

月橋りら
恋愛
私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。 だが、彼には幼い頃から大切に想う少女がいたーー。 「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。 私は心を捨てたのに。 あなたはいきなり許しを乞うてきた。 そして優しくしてくるようになった。 ーー私が想いを捨てた後で。 どうして今更なのですかーー。 *この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

いっとう愚かで、惨めで、哀れな末路を辿るはずだった令嬢の矜持

空月
ファンタジー
古くからの名家、貴き血を継ぐローゼンベルグ家――その末子、一人娘として生まれたカトレア・ローゼンベルグは、幼い頃からの婚約者に婚約破棄され、遠方の別荘へと療養の名目で送られた。 その道中に惨めに死ぬはずだった未来を、突然現れた『バグ』によって回避して、ただの『カトレア』として生きていく話。 ※悪役令嬢で婚約破棄物ですが、ざまぁもスッキリもありません。 ※以前投稿していた「いっとう愚かで惨めで哀れだった令嬢の果て」改稿版です。文章量が1.5倍くらいに増えています。

冷遇妻に家を売り払われていた男の裁判

七辻ゆゆ
ファンタジー
婚姻後すぐに妻を放置した男が二年ぶりに帰ると、家はなくなっていた。 「では開廷いたします」 家には10億の価値があったと主張し、妻に離縁と損害賠償を求める男。妻の口からは二年の事実が語られていく。

魔石と神器の物語 ~アイテムショップの美人姉妹は、史上最強の助っ人です!~

エール
ファンタジー
 古代遺跡群攻略都市「イフカ」を訪れた新進気鋭の若き冒険者(ハンター)、ライナス。  彼が立ち寄った「魔法堂 白銀の翼」は、一風変わったアイテムを扱う魔道具専門店だった。  経営者は若い美人姉妹。  妹は自ら作成したアイテムを冒険の実践にて試用する、才能溢れる魔道具製作者。  そして姉の正体は、特定冒険者と契約を交わし、召喚獣として戦う闇の狂戦士だった。  最高純度の「超魔石」と「充魔石」を体内に埋め込まれた不死属性の彼女は、呪われし武具を纏い、補充用の魔石を求めて戦場に向かう。いつの日か、「人間」に戻ることを夢見て――。

魅了が解けた貴男から私へ

砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。 彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。 そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。 しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。 男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。 元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。 しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。 三話完結です。

10年間の結婚生活を忘れました ~ドーラとレクス~

緑谷めい
恋愛
 ドーラは金で買われたも同然の妻だった――  レクスとの結婚が決まった際「ドーラ、すまない。本当にすまない。不甲斐ない父を許せとは言わん。だが、我が家を助けると思ってゼーマン伯爵家に嫁いでくれ。頼む。この通りだ」と自分に頭を下げた実父の姿を見て、ドーラは自分の人生を諦めた。齢17歳にしてだ。 ※ 全10話完結予定

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

処理中です...