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第一章 英雄の娘
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息を吸う。吐く。もう一度吸って。
「ソフィアさん!」
腹から声を張り上げた。
母とソフィアの視線が同時に注がれる。一度唇を湿らせてから、ソフィアをまっすぐに見上げた。萌える草の瞳には、緊張した面持ちの自分が映っている。
「戦いになったら、たくさんの人が悲しい思いを……するん、ですよね」
一拍の間を置いて、ソフィアがうなずいた。
「無論だ。我々騎士団は、彼らを護るために存在する。力なき民の誰もが、力に踏みにじられて悲しまぬように、我らはある」
向き直るソフィアの答えに迷いはない。まっすぐな眼差しには強さすらある。きっとかつての母も、こんな風だったのだろう。
大切な人たちの生きるこの場所が危険にさらされるというのなら。もしも自分にも、できることがあるというのなら。その場所を、その人たちを護りたい。それはエオナも同じだ。
もう一度、ゆっくりと息を吸う。それからソフィアを見つめ返し、告げた。
「なら……あたしが、母さんの代わりに行きます」
ソフィアが軽く目を見開いた。母は目に見えて狼狽し、エオナの肩を抱く。
「エオナ、あなた……!」
「……本気か?」
「はい」
緊張する。手先がじっとりと汗をかいていた。短く呼吸をして、エオナは残る思いを口にする。
「あたしじゃ力不足だってことぐらい、わかってます。でも、昔の母さんがそうだったみたいに……あたしも、大事な人たちがいるこの場所を、この国を、守りたい」
ソフィアは黙って話を聞いてくれている。緊張で舌がもつれ、唇は強張ってうまく声が出ない。それでもエオナは、何とか続きを搾り出した。
「あたし、母さんにも他の人にも、悲しい思いをさせたくないです。ユクニはまだ小さいけど、あたしはもう十六です。戦ったことはないし、英雄だった母さんの、代わりになんてならない。でも……」
ソフィアは何かを考えている風だった。腕を組み、首をかしげて思案にふけっている。
母の顔色は眼に見えて悪かった。肩を震わせ、涙をためた瞳でエオナを見ている。行っては駄目、行っては駄目と、まるでうわごとのように呟いていた。
肩にかかる母の指は、力の入れすぎで震えている。その手に手を重ねてから、エオナは再度ソフィアを見た。
「あたしも、ソフィアさんのお手伝いがしたい。だから、あたしが母さんの代わりに行きます。一緒に行かせてください」
母もソフィアも、何も言わない。エオナは気まずさと気恥ずかしさ、居心地の悪さに二人を見比べた。
と。
「なるほど。君の想いはよくわかった」
言いながら、ソフィアがゆっくりと戻ってくる。それから震えている母の肩に、手袋に包まれた手をそっと置いた。
「……ヤーファ。エオナのことは、私が責任をもって面倒を見る。ここは彼女と、私のことを信じてくれないか」
「駄目よ、まだこんなに小さいのに……」
嗚咽の隙間から言葉が漏れている。ソフィアの手を振り解いて、顔に手を押し当ててむせび泣いていた。
胸に切ない痛みが走る。自分のせいで泣かせていることは、とてもつらい。だが、ここでエオナが折れてしまえば、もっとたくさんの人がこうして泣くことになる。
「母さん……ごめんなさい。だけどあたし、誰かが苦しんだり、悲しんだりしているの、放っておけない」
細い背中を軽く撫でて、エオナは言葉を選んで口に出す。
「あたしね、ここで母さんとユクニと一緒で、すごく楽しくて幸せ。だけどね、……ふもとの村の人たちも、もっとたくさんの人たちも、今みたいに笑って、幸せに暮らしていきたいって思ってるはずなんだ」
戦で命を落とした騎士の家族だけではなく、まったく戦と関係のない人たちも苦しみ、涙を流す。それを考えたら、いてもたってもいられなくなる。大切な人たちの幸せを、笑顔を守りたい。
「ここでじっとしてたら、駄目なんだと思う。あたし、みんなに恩返しがしたい。母さんにも、ふもとの人にも、今まであたしを守ってくれていた、この国にも。あたしが今、できることをしたい。だから……行く。ここを守る母さんの代わりに、たくさんの幸せを守りに行く」
母は目元を手のひらで拭い、真っ赤になった目でエオナを見つめた。涙に濡れて、上気した頬に髪が数本貼りついている。潤んだ瞳に浮かぶのは、かすかな喜びと諦めの情だった。
「……あなたも、あのひとと同じことを言うのね、エオナ……」
「誰かの幸せを願い、行動せずにはいられない。あなたに、何よりもあの人にそっくりですね、ヤーファ」
ソフィアの言葉に、母はまた涙をぬぐう。蒼い睫毛が涙を含み、いつもより色を濃くして濡れている。
「ええ……本当に、本当に……」
ふたりとも、誰かをエオナに重ねて見ているらしい。エオナは妙な気恥ずかしさと照れに弾む心臓を抱え、とっさに目を逸らした。きちんとそろえられたソフィアの足先が見える。
母の手が、エオナの頬を包み込んだ。いつもの通り、柔らかくて優しい母の手のひらだった。
「……必ず、必ず帰ってきて頂戴ね……約束をして、ね、エオナ」
顔を上げ、母の手を取る。包み込むように握り締め、深くうなずいてみせた。
「うん。必ず帰るから、待ってて」
母の鮮やかな瞳がまた潤んでいる。それを目に焼き付けながら、エオナは確かな決意をもって約束を交わした。
「エオナ。よくぞ決意してくれた。英雄ヤーファの代わりとして……否、一人の勇気ある有志として、そなたの力を貸してもらえるだろうか」
ソフィアの声は凛と滑らかで深く、それでいて強い。固い決意と覚悟を内に秘めているからなのだろうか。あまりにも気高く凛々しいその姿に、エオナは強い憧れと尊敬の念を禁じ得なかった。
「はい。よろしくお願いいたします、ソフィアさん」
「ああ。期待しているぞ」
「ど、努力します」
慌てて早口で付け加えれば、ソフィアは愉快そうに笑った。隣に立つ母に目を移す。母は小さく微笑んで、小さなころのようにエオナの髪を撫でてくれた。その手が、ぬくもりが愛しくて、エオナは再度胸の決意を握りしめた。
*
翌朝。朝もやが未だ山々のあちこちにたなびく中、エオナは再度迎えにやってきたソフィアのもとへと歩みを進める。
蒼い糸で刺繍された外套は、空の上の冷たい空気を通さない。母がかつて使っていたという眼鏡は、空を飛ぶときに使うものだそうだ。皮をなめして作った手袋もブーツも、羊毛で作った裏地のおかげで温かい。古くはあるがよく手入れされたそれらは、母がかつて戦に出たときに使っていたものだった。
「ああ、エオナ……」
「姉ちゃん!」
ユクニと母のふたりに抱きしめられ、エオナの鼻の奥がつんと痛む。母は一睡もしていなかったのだろう。目が真っ赤になっていた。
「行ってくるよ、ユクニ、母さん」
「絶対、絶対帰ってきてね、やくそくだからね」
ユクニは大泣きだ。柔らかいほっぺたをぐいぐいとして、エオナは涙をこらえ笑ってみせる。
「大丈夫だよ。姉ちゃんは約束やぶったことないでしょ?」
「うん」
「だから待ってて。母さんのこと助けてあげてね」
「うん!」
「エオナ」
母の手が、エオナの手を握りしめる。しゃらり、とかすかな音と重み。目を落とせば、蒼い石を懐に抱く、銀の飛竜のペンダントがあった。
「私の母からもらったお守りです。どうかあなたに翼の加護がありますように……」
母はそれだけ言うと、もう一度強くエオナを抱きしめる。エオナも大きくうなずいてから、母を強く抱きしめ返した。
黄金の光が差し込んでくる。ソフィアの騎竜ディアドーラが、せかすように鳴くのが聞こえてくる。 荷物を持ち、エオナはソフィアのもとへ急ぐ。振り返れば、ふたりが家の前で手を振っている。手を振り返してそれに応え、今度こそソフィアのもとへと向かった。
「別れは済んだか」
「はい」
「よろしい。では往こう。いい風が吹いている」
ソフィアの言う通り、澄んだ風が吹き抜けていく。ディアドーラの鈍い緑がかった灰色の鱗を一度撫で、ソフィアに促されるままに竜に乗った。
鞍をもうひとつ、エオナの後ろに取り付けてから、ソフィアは軽い身のこなしで飛び乗った。
「ゴーグルをつけておきなさい。瞼が風でめくれるぞ」
慌てて首にかけていた眼鏡をかける。重たいが、目の周りだけ空気が遮断されるのが肌で感じ取れた。
「はっ!!」
掛け声とともに、手綱が引っ張られる。ディアドーラが咆哮し、翼が羽ばたく。風が巻き起こる。白い花の花弁が巻き上げられ、くるくると舞う。生まれ育った家が、景色が、ふもとにある村が、みるみるうちに小さくなる。その光景を目に焼き付けながら、エオナは遠くなる故郷をいつまでも見つめていた。
ぐん、と竜が加速する。強く揺らされて、エオナは思わず目を閉じた。耳元で風が渦巻いている。頬が痛い。あまりの勢いに目が開けていられない。
「エオナ、見えるか。あれがイヴァノンの都だ」
合間を縫うように、ソフィアの声が届いた。
「見えませんよ! 風が……」
「直に慣れる。ほら、見てみろ」
朗らかな笑い声を背に受けながら、エオナは恐る恐るまぶたを持ち上げた。
北には雄々しきゼグレス山脈、西にはなだらかなシェカ山脈。その継ぎ目より流れた水が湖を作り、二本の川を作り、一本は東の崖より落ちて滝となる。もう一本は南の平原へと流れ込み、そこを守るように白い都が広がっていた。
母から聞いて想像した景色より、それははるかに美しかった。
シェカ山脈に食い入るように張り巡らされているのは、南の関所から連なる塀であった。二つの山脈を背後に控え、イヴ湖が澄んだ水をたたえている。その中央には、空へと向かうかのように高い、きらびやかな城がそびえていた。白い橋が方々にかけられ、城へと伸ばされている。
町並みのところどころにある緑は林か森か、鳥がそこから一斉に飛び立つのが見えた。細い煙があちこちから立ち上り、遠くから鐘の音が聞こえてくる。空は太陽を中心に鮮やかな金に染まり、雲は朝日を宿した真珠色に輝いている。そして、王城よりもなお高い尖塔が、都を守るようにうがたれていた。
ひとつは王城のすぐ近く、湖の中に。ひとつは国の関所近く、南の平原の入り口に。ひとつはシェカ山脈の中、緑豊かな中腹に。針のように鋭い塔の屋根が、陽を照り返してきらめいている。その間を通る風もまた、朝の気配に染まっている気がした。
「すごい……」
山の上からでは決して見られない景色に、エオナはため息をついた。騎乗している竜が得意げに鳴く。それから湖の上を一巡りし、シェカ山脈の尖塔へと飛んでいく。
「美しいだろう」
ソフィアの声もまた、どこか誇らしげだ。
「はい、とても」
「これからお前はここで訓練を受ける。寂しくとも、しばらくは帰れぬからな」
はい、とうなずき、エオナは唇をかみ締める。
戦へ向かう娘を思い、気丈に振舞っていた母。身支度を整えたエオナを抱きしめて、泣きながら贈り物をくれた母。顔をくしゃくしゃにして泣いていた弟――思い出すだけで、目の奥が熱くなる。
それでも、戻るわけにはいかない。約束をしたのだ。必ず帰ると。そのためには、これから起こるだろう戦を終わらせなければならない。母が、弟が、たくさんの人が泣かないように、エオナは望んでここに来たのだから。
ゴーグルを外し、服の袖で涙をぬぐう。泣いてなどいられない。
「残された時間は多くない。訓練は厳しいぞ」
「大丈夫です!」
エオナは強く目を瞑り、残りの涙をやり過ごす。それから腹に力を込め、声を張った。
「あたし、がんばるって決めましたから!」
「ソフィアさん!」
腹から声を張り上げた。
母とソフィアの視線が同時に注がれる。一度唇を湿らせてから、ソフィアをまっすぐに見上げた。萌える草の瞳には、緊張した面持ちの自分が映っている。
「戦いになったら、たくさんの人が悲しい思いを……するん、ですよね」
一拍の間を置いて、ソフィアがうなずいた。
「無論だ。我々騎士団は、彼らを護るために存在する。力なき民の誰もが、力に踏みにじられて悲しまぬように、我らはある」
向き直るソフィアの答えに迷いはない。まっすぐな眼差しには強さすらある。きっとかつての母も、こんな風だったのだろう。
大切な人たちの生きるこの場所が危険にさらされるというのなら。もしも自分にも、できることがあるというのなら。その場所を、その人たちを護りたい。それはエオナも同じだ。
もう一度、ゆっくりと息を吸う。それからソフィアを見つめ返し、告げた。
「なら……あたしが、母さんの代わりに行きます」
ソフィアが軽く目を見開いた。母は目に見えて狼狽し、エオナの肩を抱く。
「エオナ、あなた……!」
「……本気か?」
「はい」
緊張する。手先がじっとりと汗をかいていた。短く呼吸をして、エオナは残る思いを口にする。
「あたしじゃ力不足だってことぐらい、わかってます。でも、昔の母さんがそうだったみたいに……あたしも、大事な人たちがいるこの場所を、この国を、守りたい」
ソフィアは黙って話を聞いてくれている。緊張で舌がもつれ、唇は強張ってうまく声が出ない。それでもエオナは、何とか続きを搾り出した。
「あたし、母さんにも他の人にも、悲しい思いをさせたくないです。ユクニはまだ小さいけど、あたしはもう十六です。戦ったことはないし、英雄だった母さんの、代わりになんてならない。でも……」
ソフィアは何かを考えている風だった。腕を組み、首をかしげて思案にふけっている。
母の顔色は眼に見えて悪かった。肩を震わせ、涙をためた瞳でエオナを見ている。行っては駄目、行っては駄目と、まるでうわごとのように呟いていた。
肩にかかる母の指は、力の入れすぎで震えている。その手に手を重ねてから、エオナは再度ソフィアを見た。
「あたしも、ソフィアさんのお手伝いがしたい。だから、あたしが母さんの代わりに行きます。一緒に行かせてください」
母もソフィアも、何も言わない。エオナは気まずさと気恥ずかしさ、居心地の悪さに二人を見比べた。
と。
「なるほど。君の想いはよくわかった」
言いながら、ソフィアがゆっくりと戻ってくる。それから震えている母の肩に、手袋に包まれた手をそっと置いた。
「……ヤーファ。エオナのことは、私が責任をもって面倒を見る。ここは彼女と、私のことを信じてくれないか」
「駄目よ、まだこんなに小さいのに……」
嗚咽の隙間から言葉が漏れている。ソフィアの手を振り解いて、顔に手を押し当ててむせび泣いていた。
胸に切ない痛みが走る。自分のせいで泣かせていることは、とてもつらい。だが、ここでエオナが折れてしまえば、もっとたくさんの人がこうして泣くことになる。
「母さん……ごめんなさい。だけどあたし、誰かが苦しんだり、悲しんだりしているの、放っておけない」
細い背中を軽く撫でて、エオナは言葉を選んで口に出す。
「あたしね、ここで母さんとユクニと一緒で、すごく楽しくて幸せ。だけどね、……ふもとの村の人たちも、もっとたくさんの人たちも、今みたいに笑って、幸せに暮らしていきたいって思ってるはずなんだ」
戦で命を落とした騎士の家族だけではなく、まったく戦と関係のない人たちも苦しみ、涙を流す。それを考えたら、いてもたってもいられなくなる。大切な人たちの幸せを、笑顔を守りたい。
「ここでじっとしてたら、駄目なんだと思う。あたし、みんなに恩返しがしたい。母さんにも、ふもとの人にも、今まであたしを守ってくれていた、この国にも。あたしが今、できることをしたい。だから……行く。ここを守る母さんの代わりに、たくさんの幸せを守りに行く」
母は目元を手のひらで拭い、真っ赤になった目でエオナを見つめた。涙に濡れて、上気した頬に髪が数本貼りついている。潤んだ瞳に浮かぶのは、かすかな喜びと諦めの情だった。
「……あなたも、あのひとと同じことを言うのね、エオナ……」
「誰かの幸せを願い、行動せずにはいられない。あなたに、何よりもあの人にそっくりですね、ヤーファ」
ソフィアの言葉に、母はまた涙をぬぐう。蒼い睫毛が涙を含み、いつもより色を濃くして濡れている。
「ええ……本当に、本当に……」
ふたりとも、誰かをエオナに重ねて見ているらしい。エオナは妙な気恥ずかしさと照れに弾む心臓を抱え、とっさに目を逸らした。きちんとそろえられたソフィアの足先が見える。
母の手が、エオナの頬を包み込んだ。いつもの通り、柔らかくて優しい母の手のひらだった。
「……必ず、必ず帰ってきて頂戴ね……約束をして、ね、エオナ」
顔を上げ、母の手を取る。包み込むように握り締め、深くうなずいてみせた。
「うん。必ず帰るから、待ってて」
母の鮮やかな瞳がまた潤んでいる。それを目に焼き付けながら、エオナは確かな決意をもって約束を交わした。
「エオナ。よくぞ決意してくれた。英雄ヤーファの代わりとして……否、一人の勇気ある有志として、そなたの力を貸してもらえるだろうか」
ソフィアの声は凛と滑らかで深く、それでいて強い。固い決意と覚悟を内に秘めているからなのだろうか。あまりにも気高く凛々しいその姿に、エオナは強い憧れと尊敬の念を禁じ得なかった。
「はい。よろしくお願いいたします、ソフィアさん」
「ああ。期待しているぞ」
「ど、努力します」
慌てて早口で付け加えれば、ソフィアは愉快そうに笑った。隣に立つ母に目を移す。母は小さく微笑んで、小さなころのようにエオナの髪を撫でてくれた。その手が、ぬくもりが愛しくて、エオナは再度胸の決意を握りしめた。
*
翌朝。朝もやが未だ山々のあちこちにたなびく中、エオナは再度迎えにやってきたソフィアのもとへと歩みを進める。
蒼い糸で刺繍された外套は、空の上の冷たい空気を通さない。母がかつて使っていたという眼鏡は、空を飛ぶときに使うものだそうだ。皮をなめして作った手袋もブーツも、羊毛で作った裏地のおかげで温かい。古くはあるがよく手入れされたそれらは、母がかつて戦に出たときに使っていたものだった。
「ああ、エオナ……」
「姉ちゃん!」
ユクニと母のふたりに抱きしめられ、エオナの鼻の奥がつんと痛む。母は一睡もしていなかったのだろう。目が真っ赤になっていた。
「行ってくるよ、ユクニ、母さん」
「絶対、絶対帰ってきてね、やくそくだからね」
ユクニは大泣きだ。柔らかいほっぺたをぐいぐいとして、エオナは涙をこらえ笑ってみせる。
「大丈夫だよ。姉ちゃんは約束やぶったことないでしょ?」
「うん」
「だから待ってて。母さんのこと助けてあげてね」
「うん!」
「エオナ」
母の手が、エオナの手を握りしめる。しゃらり、とかすかな音と重み。目を落とせば、蒼い石を懐に抱く、銀の飛竜のペンダントがあった。
「私の母からもらったお守りです。どうかあなたに翼の加護がありますように……」
母はそれだけ言うと、もう一度強くエオナを抱きしめる。エオナも大きくうなずいてから、母を強く抱きしめ返した。
黄金の光が差し込んでくる。ソフィアの騎竜ディアドーラが、せかすように鳴くのが聞こえてくる。 荷物を持ち、エオナはソフィアのもとへ急ぐ。振り返れば、ふたりが家の前で手を振っている。手を振り返してそれに応え、今度こそソフィアのもとへと向かった。
「別れは済んだか」
「はい」
「よろしい。では往こう。いい風が吹いている」
ソフィアの言う通り、澄んだ風が吹き抜けていく。ディアドーラの鈍い緑がかった灰色の鱗を一度撫で、ソフィアに促されるままに竜に乗った。
鞍をもうひとつ、エオナの後ろに取り付けてから、ソフィアは軽い身のこなしで飛び乗った。
「ゴーグルをつけておきなさい。瞼が風でめくれるぞ」
慌てて首にかけていた眼鏡をかける。重たいが、目の周りだけ空気が遮断されるのが肌で感じ取れた。
「はっ!!」
掛け声とともに、手綱が引っ張られる。ディアドーラが咆哮し、翼が羽ばたく。風が巻き起こる。白い花の花弁が巻き上げられ、くるくると舞う。生まれ育った家が、景色が、ふもとにある村が、みるみるうちに小さくなる。その光景を目に焼き付けながら、エオナは遠くなる故郷をいつまでも見つめていた。
ぐん、と竜が加速する。強く揺らされて、エオナは思わず目を閉じた。耳元で風が渦巻いている。頬が痛い。あまりの勢いに目が開けていられない。
「エオナ、見えるか。あれがイヴァノンの都だ」
合間を縫うように、ソフィアの声が届いた。
「見えませんよ! 風が……」
「直に慣れる。ほら、見てみろ」
朗らかな笑い声を背に受けながら、エオナは恐る恐るまぶたを持ち上げた。
北には雄々しきゼグレス山脈、西にはなだらかなシェカ山脈。その継ぎ目より流れた水が湖を作り、二本の川を作り、一本は東の崖より落ちて滝となる。もう一本は南の平原へと流れ込み、そこを守るように白い都が広がっていた。
母から聞いて想像した景色より、それははるかに美しかった。
シェカ山脈に食い入るように張り巡らされているのは、南の関所から連なる塀であった。二つの山脈を背後に控え、イヴ湖が澄んだ水をたたえている。その中央には、空へと向かうかのように高い、きらびやかな城がそびえていた。白い橋が方々にかけられ、城へと伸ばされている。
町並みのところどころにある緑は林か森か、鳥がそこから一斉に飛び立つのが見えた。細い煙があちこちから立ち上り、遠くから鐘の音が聞こえてくる。空は太陽を中心に鮮やかな金に染まり、雲は朝日を宿した真珠色に輝いている。そして、王城よりもなお高い尖塔が、都を守るようにうがたれていた。
ひとつは王城のすぐ近く、湖の中に。ひとつは国の関所近く、南の平原の入り口に。ひとつはシェカ山脈の中、緑豊かな中腹に。針のように鋭い塔の屋根が、陽を照り返してきらめいている。その間を通る風もまた、朝の気配に染まっている気がした。
「すごい……」
山の上からでは決して見られない景色に、エオナはため息をついた。騎乗している竜が得意げに鳴く。それから湖の上を一巡りし、シェカ山脈の尖塔へと飛んでいく。
「美しいだろう」
ソフィアの声もまた、どこか誇らしげだ。
「はい、とても」
「これからお前はここで訓練を受ける。寂しくとも、しばらくは帰れぬからな」
はい、とうなずき、エオナは唇をかみ締める。
戦へ向かう娘を思い、気丈に振舞っていた母。身支度を整えたエオナを抱きしめて、泣きながら贈り物をくれた母。顔をくしゃくしゃにして泣いていた弟――思い出すだけで、目の奥が熱くなる。
それでも、戻るわけにはいかない。約束をしたのだ。必ず帰ると。そのためには、これから起こるだろう戦を終わらせなければならない。母が、弟が、たくさんの人が泣かないように、エオナは望んでここに来たのだから。
ゴーグルを外し、服の袖で涙をぬぐう。泣いてなどいられない。
「残された時間は多くない。訓練は厳しいぞ」
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