1 / 6
序章
しおりを挟む
一面の蒼の中を、一本の矢のように――紅い飛竜が少女を乗せ、絡みつく風を振り払わんと力強く飛翔していた。
ようやく少女の身体に馴染んできていた蒼い鎧は、未だ鉄錆の臭いを濃くまとわりつかせている。呼吸もままならず、少女はゴーグルの下で大きく目を見開き、空気を求めあえいでいた。
手袋に包まれ固く強張った右手に槍を、がたがたと震える左手には手綱を握り締め、目の覚めるような蒼い髪を風に乱しながら、少女は騎竜と共に空を裂いていく。
まるで心だけをどこかに置き忘れてきたようだ。呼吸の仕方も、手綱の繰り方も、何もかも全部があの一瞬に持っていかれてしまったのかもしれない。それなのに、身体は風にさらわれることもなくここにある。目を閉じてしまいたいのに、瞳は勝手に敵影を探している。
不意に視界を何かが横切った。青く染まる雲間に見える影。数は三。心臓が跳ね上がる。槍の穂先をついとあげて、少女は唇をわななかせる。喉が乾いていて、笛の音にも似た呼吸が漏れるばかりだった。
目の前が翳る。巨大な飛竜が翼を広げ、少女と竜を待ち構えていた。銀光が目を焼く。少女と同様、槍を手にした騎士が見えた。
危機を察した異種族の相棒が、甲高く啼いた。停止した思考のまま、少女は槍を握りなおす。相対し、そしてぶつかりあう。交錯は一瞬。少女の手は、相手の喉笛を正確に貫いていた。
主を失い、悲痛な叫びを残して竜が堕ちる。叫びの断片は風に消え、飛竜は主のなきがらと共に蒼へ沈んだ。
何も考えられない。呼吸ができない。心臓が口から飛び出していきそうだ。吐き気がする。腕がしびれている。槍の穂先を濡らす色、理解できない。理解したくない。何も考えられない。
愛騎の翼の影から放たれた一撃を避けきれなかった。違う。避けようとも思わなかった。右腕の付け根が鈍く痛んだ。交差する腕、金属の穂先はただ相手の胸をえぐり、飛竜の背から叩き落した。
雲の間に散る色は見えない。蒼い色しか見えない。蒼い色しか、見えない。最後の影が浮上してくる。交錯は一瞬、竜が叫びなきがらが蒼に落ちる、呼吸ができない、吐き気がする、涙が止まらない、腕がしびれて冷たい、身体が思うように動かない。どうしてこうなった。
どうして。どうして、どうしてこうなってしまった。どうして。止まった思考の中で、少女はただそれだけを繰り返す。
「――!!」
どこかから、懐かしい声がした。貫かれた右肩がひどく痛む。目蓋が重い。羽音がする。近づいてくる。意識の半ばを手放しながら、少女は半ば反射のように槍の穂先を持ちあげた。
「エオナ――!!」
この声は誰。知っている。麻痺する思考回路を無理やりに動かし、置き忘れた心を必死に呼び戻すけれど、その前に、身体が、動いた。
しびれた腕に伝わる感触は先ほどと変わらない。しかし急所をはずしたのか、竜の上の影は身じろぎすらしなかった。うめき声すらあげなかった。
三白眼で、短く切った髪は鮮やかな赤。少女のそれとは対照的な色。冷たく深い蒼の中、炎のように暖かな色。ただ射抜かれそうな強いまなざしが、真摯な光を帯びて注がれている。
「エオナ!! この馬鹿野郎、敵か味方かくらい覚えとけ!!」
怒鳴る声もどこか心地よい。でも、ああ、思い出せない。彼はいったい、誰だったっけ。呆然としたまま、ぎこちなく槍を構える少女へ、さらに少年は声を張る。
「ためらうな、迷うな、恐れるな! あいつらは敵だ、知ってるのは俺たちしかいねぇ!! 俺たちが戦わなくて、一体誰があいつらと戦うってんだよ!!」
槍が、重い。取り落としそうになるのを必死で耐える。
「お前のことを、待ってる人たちがいる!! 守ってやる人たちがいる!! だから、こんなところで自分を見失ってんじゃねぇよ!!」
戦わなければ。何のために? 戦わなければ。ああでも、でも、この先を聞きたい。この続きを聞きたい。閉じられそうになる意識をつなぎながら、少女は固く手綱を握る。
「俺も行く――俺がお前を守ってやるから!!」
少年の真摯な言葉が、視線が、想いが。
「一緒に、みんなを助けるんだ!!」
氷のような身体の中に、遠く離れた心の中に、ひとつの焔を燃え上がらせた。
ようやく少女の身体に馴染んできていた蒼い鎧は、未だ鉄錆の臭いを濃くまとわりつかせている。呼吸もままならず、少女はゴーグルの下で大きく目を見開き、空気を求めあえいでいた。
手袋に包まれ固く強張った右手に槍を、がたがたと震える左手には手綱を握り締め、目の覚めるような蒼い髪を風に乱しながら、少女は騎竜と共に空を裂いていく。
まるで心だけをどこかに置き忘れてきたようだ。呼吸の仕方も、手綱の繰り方も、何もかも全部があの一瞬に持っていかれてしまったのかもしれない。それなのに、身体は風にさらわれることもなくここにある。目を閉じてしまいたいのに、瞳は勝手に敵影を探している。
不意に視界を何かが横切った。青く染まる雲間に見える影。数は三。心臓が跳ね上がる。槍の穂先をついとあげて、少女は唇をわななかせる。喉が乾いていて、笛の音にも似た呼吸が漏れるばかりだった。
目の前が翳る。巨大な飛竜が翼を広げ、少女と竜を待ち構えていた。銀光が目を焼く。少女と同様、槍を手にした騎士が見えた。
危機を察した異種族の相棒が、甲高く啼いた。停止した思考のまま、少女は槍を握りなおす。相対し、そしてぶつかりあう。交錯は一瞬。少女の手は、相手の喉笛を正確に貫いていた。
主を失い、悲痛な叫びを残して竜が堕ちる。叫びの断片は風に消え、飛竜は主のなきがらと共に蒼へ沈んだ。
何も考えられない。呼吸ができない。心臓が口から飛び出していきそうだ。吐き気がする。腕がしびれている。槍の穂先を濡らす色、理解できない。理解したくない。何も考えられない。
愛騎の翼の影から放たれた一撃を避けきれなかった。違う。避けようとも思わなかった。右腕の付け根が鈍く痛んだ。交差する腕、金属の穂先はただ相手の胸をえぐり、飛竜の背から叩き落した。
雲の間に散る色は見えない。蒼い色しか見えない。蒼い色しか、見えない。最後の影が浮上してくる。交錯は一瞬、竜が叫びなきがらが蒼に落ちる、呼吸ができない、吐き気がする、涙が止まらない、腕がしびれて冷たい、身体が思うように動かない。どうしてこうなった。
どうして。どうして、どうしてこうなってしまった。どうして。止まった思考の中で、少女はただそれだけを繰り返す。
「――!!」
どこかから、懐かしい声がした。貫かれた右肩がひどく痛む。目蓋が重い。羽音がする。近づいてくる。意識の半ばを手放しながら、少女は半ば反射のように槍の穂先を持ちあげた。
「エオナ――!!」
この声は誰。知っている。麻痺する思考回路を無理やりに動かし、置き忘れた心を必死に呼び戻すけれど、その前に、身体が、動いた。
しびれた腕に伝わる感触は先ほどと変わらない。しかし急所をはずしたのか、竜の上の影は身じろぎすらしなかった。うめき声すらあげなかった。
三白眼で、短く切った髪は鮮やかな赤。少女のそれとは対照的な色。冷たく深い蒼の中、炎のように暖かな色。ただ射抜かれそうな強いまなざしが、真摯な光を帯びて注がれている。
「エオナ!! この馬鹿野郎、敵か味方かくらい覚えとけ!!」
怒鳴る声もどこか心地よい。でも、ああ、思い出せない。彼はいったい、誰だったっけ。呆然としたまま、ぎこちなく槍を構える少女へ、さらに少年は声を張る。
「ためらうな、迷うな、恐れるな! あいつらは敵だ、知ってるのは俺たちしかいねぇ!! 俺たちが戦わなくて、一体誰があいつらと戦うってんだよ!!」
槍が、重い。取り落としそうになるのを必死で耐える。
「お前のことを、待ってる人たちがいる!! 守ってやる人たちがいる!! だから、こんなところで自分を見失ってんじゃねぇよ!!」
戦わなければ。何のために? 戦わなければ。ああでも、でも、この先を聞きたい。この続きを聞きたい。閉じられそうになる意識をつなぎながら、少女は固く手綱を握る。
「俺も行く――俺がお前を守ってやるから!!」
少年の真摯な言葉が、視線が、想いが。
「一緒に、みんなを助けるんだ!!」
氷のような身体の中に、遠く離れた心の中に、ひとつの焔を燃え上がらせた。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
私は心を捨てました 〜「お前なんかどうでもいい」と言ったあなた、どうして今更なのですか?〜
月橋りら
恋愛
私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。
だが、彼には幼い頃から大切に想う少女がいたーー。
「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。
私は心を捨てたのに。
あなたはいきなり許しを乞うてきた。
そして優しくしてくるようになった。
ーー私が想いを捨てた後で。
どうして今更なのですかーー。
*この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

【コミカライズ&書籍化・取り下げ予定】お幸せに、婚約者様。私も私で、幸せになりますので。
ごろごろみかん。
恋愛
仕事と私、どっちが大切なの?
……なんて、本気で思う日が来るとは思わなかった。
彼は、王族に仕える近衛騎士だ。そして、婚約者の私より護衛対象である王女を優先する。彼は、「王女殿下とは何も無い」と言うけれど、彼女の方はそうでもないみたいですよ?
婚約を解消しろ、と王女殿下にあまりに迫られるので──全て、手放すことにしました。
お幸せに、婚約者様。
私も私で、幸せになりますので。

いっとう愚かで、惨めで、哀れな末路を辿るはずだった令嬢の矜持
空月
ファンタジー
古くからの名家、貴き血を継ぐローゼンベルグ家――その末子、一人娘として生まれたカトレア・ローゼンベルグは、幼い頃からの婚約者に婚約破棄され、遠方の別荘へと療養の名目で送られた。
その道中に惨めに死ぬはずだった未来を、突然現れた『バグ』によって回避して、ただの『カトレア』として生きていく話。
※悪役令嬢で婚約破棄物ですが、ざまぁもスッキリもありません。
※以前投稿していた「いっとう愚かで惨めで哀れだった令嬢の果て」改稿版です。文章量が1.5倍くらいに増えています。

もう死んでしまった私へ
ツカノ
恋愛
私には前世の記憶がある。
幼い頃に母と死別すれば最愛の妻が短命になった原因だとして父から厭われ、婚約者には初対面から冷遇された挙げ句に彼の最愛の聖女を虐げたと断罪されて塵のように捨てられてしまった彼女の悲しい記憶。それなのに、今世の世界で聖女も元婚約者も存在が煙のように消えているのは、何故なのでしょうか?
今世で幸せに暮らしているのに、聖女のそっくりさんや謎の婚約者候補が現れて大変です!!
ゆるゆる設定です。

冷遇妻に家を売り払われていた男の裁判
七辻ゆゆ
ファンタジー
婚姻後すぐに妻を放置した男が二年ぶりに帰ると、家はなくなっていた。
「では開廷いたします」
家には10億の価値があったと主張し、妻に離縁と損害賠償を求める男。妻の口からは二年の事実が語られていく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる