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前編

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 昔から彼女、和泉綾乃は特別な女の子だった。可愛くて、頭が良くて、足が速くて、料理が上手。凡人がどれか一つ持っていればいい才能を全て兼ね備えていて……そんな完璧超人な彼女を、僕はずっと羨んでいたのだ。
 僕も綾乃みたいになれたら……と、何度思ったことだろう? しかし今になってみれば、綾乃を羨む必要などなかったのだと分かる。何故なら彼女は、僕のことを好きだと言ってくれたから。だから僕は、彼女と付き合うことにした。
 綾乃にはきっと、いつか彼女に相応しい人が現れるだろう。だけどそれでも構わない。いつか彼女が心変わりして、僕以外の誰かを好きになる日まででいい。それまでは彼女の傍にいて、一緒に笑い合っていようと思った。そうすればきっと、こんな冴えない自分にも、少しだけ価値を見出せる気がしたから……。


「……ん?」

 ふと気付くと、目の前に見慣れた天井があった。いつの間に眠っていたのか、ベッドの上で横になっている自分に気付いて首を傾げる。

(あれ……?)

 寝起きのせいだろうか。頭が上手く回らない。まだ夢の中にいるような気分だ。ぼんやりとした意識の中で寝返りを打つと、そこにいた人物を見てようやく我に返った。

「あ……」

 綾乃がいた。ベッドの端に腰掛けて、こちらをじっと見つめている。

「えっと……おはよう」
「うん。おそようだよ」

 反射的に挨拶を口にすると、苦笑混じりの声が応じる。枕元にあるスマホで時計を見ると、確かに午前十一時を過ぎていた。

「ごめん、起こしてくれれば良かったのに」
「疲れてるんでしょ? ぐっすり気持ち良さそうに寝てたし、起こすの悪いかなって思って」

 綾乃は小さく肩をすくめて言う。彼女は一冊の文庫本を読んでいた。スツールにもう一冊あるから、よっぽど前から起きていたらしい。

「これ、借りてるよ。続きが読みたかったらさ」
「いいよ、僕が持っているものなら全て綾乃の好きにしていい」
「ありがと。じゃあ、好きにさせてもらうね」

 そう言うと綾乃は着ていたパジャマを脱ぎ始めた

「あのー、綾乃さん?」
「ん?どうしたの?」
「いえ、どうして上着脱いでるんですかね?」

 恐る恐る尋ねると、綾乃はきょとんとして答えた。

「もちろん、二回戦目のためよ」

 昨夜を思い出す。二回戦目なんてものじゃない。どれだけ長い時間交わっていただろうか……。

「……今日は勘弁してもらおうかなって思うんだけど」
「駄目です。キミの全ては私のものなんだから、もっとイチャイチャしようよ」
 言って、綾乃は僕の上に覆い被さってきた。唇を重ねてくる彼女に抗う術もなく、口内に彼女の舌が侵入してくる。
 寝起きなんだけどなぁ……という思いは、すぐに霧散していった。真っ白で美しい彼女という存在を、僕が汚していく。その背徳的な行為に、僕はあらがえなかった。結局そのまま、僕は三度に渡って彼女と交わり続けた。

「ねぇ、麻尋」

 情事の後。二人並んでベッドに座っていた時のことだ。綾乃が唐突に口を開いた。

「キミは、私のこと好き?」

 突然の言葉に、思わず呆気に取られてしまう。しかしそれも一瞬のことだった。僕はすぐに笑顔を浮かべると、隣にいる少女を抱き締めながら言ったのだ。

「ああ、好きだよ。愛している――誰よりも何よりも君を愛している」

 それは紛れもない真実だった。心の底からの想い。だけどそれを口にすると同時に、僕の胸に小さな痛みが走った。

「ありがとう。私も大好きだよ」

 綾乃は僕の胸の中で嬉しそうに微笑んだ。そんな彼女を見ていると、また罪悪感を覚えずにはいられない。
だって、この子は何も知らない。僕がどんな思いで彼女を好きでいるのか、僕が彼女をどういう意味で好きなのか。何も分かっていない。

(でも……)

 それでもいいと思う。今はただ、彼女が傍にいてくれればそれで良い。彼女が僕のことを好きと言ってくれれば、それだけで幸せだから……。
だから、せめて今だけは……彼女の恋人でいよう。いつか来るであろう別れの時に、後悔しないために。



「……ねえ、聞いてる?」

 不意に声をかけられて、我に返った。視線を向けると、目の前には不満げな表情をした綾乃がいる。

「ごめん、ちょっとぼーっとしてた」

 素直に謝って、話を促すように首を傾げる。すると綾乃は、僕をジトッとした眼差しで見つめてから口を開く。

「だから、最近何かあったのかなーって。学校でも上の空だし、授業中もぼんやりしてること多いし……」
「別に、いつも通りだと思うけど」
「嘘。絶対おかしいもん」
「そんなことはないよ。それに仮にそうだとしても、僕に言えることは特にないからね」

 心配してくれているのは嬉しいけれど、正直に話すわけにはいかない。そもそも言ってしまったら、この関係は終わってしまう。

「あ、綾乃……?」

 少し……強く言い過ぎたかな。

「……まあ、話したくないなら無理に聞かないけどさ」

 綾乃は不機嫌そうな声で言う。それから大きく息をつくと、「しょうがないな」といった様子で苦笑した。

「じゃあさ、今日の放課後、デートしようよ」
「え?」
「たまには二人で出かけたいなって思って。ダメ?」
「駄目じゃないよ! 行こう!」

 即座に答えると、綾乃は嬉しそうに笑ってくれた。その笑顔を見て思う。
 こんな時間がずっと続けばいいのに……と。

「う~ん……」
「どう? どっちが似合う?」
「どっちも凄く可愛いから悩むけど、今着ている方がいいかな」

 僕と綾乃が来たのは駅前にあるショッピングモール。もうじき春休みも終わるというのに、けっこうな混雑だった。

「ホント? やった♪」

 無邪気な笑みを浮かべて喜ぶ綾乃。僕がチョイスしたのは、桜色のワンピースだ。溌剌とした彼女には、明るい色がよく似合う。
 もし彼女が春の神に遣わされた桜の妖精だったら、なんて……そんなお花畑みたいな妄想すらよぎるくらいに、そのワンピースは彼女に似合っていた。

「じゃあこっちにするね!」

 はにかむような笑顔を見せる綾乃。そんな彼女を見ながら、僕は内心で安堵の溜め息を漏らす。
彼女のために服を選ぶのはいつも緊張する。

(喜んでもらえたみたいでよかった……)

 元の服に着替え終えた綾乃が試着室から出てくる。僕は彼女からワンピースを受け取ると、レジに向かった。

「あ、いいよ私が出すから」
「いいんだよ。僕があげたかっただけだからさ」
「そっか。じゃあ遠慮なく貰っちゃおうっと。ありがとね」

 お会計を済ませると、ショップの袋を綾乃に手渡した。

「よし、決めた。今日はこれ着ることにする」
「……気に入った?」
「うん、大満足。キミはセンスが良いね」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
「本当だよ? キミが選んでくれたものだから、私は何でも嬉しいの」
「……ありがとう」
「どういたしまして」

 そう言って、綾乃は店員さんに声をかけて試着室を借りて再び桜色のワンピースに着替える。

「お待たせ。麻尋もたまにはどう? こういうのは?」
「……趣味じゃないよ」
「そう? まぁ、キミはそのままが一番かもね。そうだ、見たい映画があるの。行きましょ?」
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