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本編
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「まだ時間に余裕があります、お掛けになってお待ちください」
真っ黒なスーツ姿の女性に部屋へ通され、一人がけのソファに腰掛ける。
テーブルの上にマカロンの包みを置き、一つ頬張る。やわらかな甘さに緊張がほぐれると同時に、ここ数日の忙しさがどっと身体に押し寄せたような感覚に陥る。俺はふと、すり減った意識を手放した。
真夏の呆れるほど青い空と、もくもくと空高く伸びる入道雲。暑くてバカになりそうな炎天下を歩いていると、遠くから小さな人影が近付いてきた。それは真新しい自転車に乗った俺の妹だった。おーいと、俺を呼ぶ声がする。俺もおーいと声を返してやる。そんな平和な片田舎の日々が続くと、そう思っていた。だがそれは、けたたましいクラクションの音によって打ち砕かれた。
跳ね上がった妹の小柄な身体が、地面に叩きつけられるまでの時間が妙にゆっくりに見えた。妹を轢いた車がブレーキをかけることなく走り去っていく。俺は慌てて妹にかけよって、そっと抱き起こした。俺の右手をどろりとした感触が襲う。その血の生々しさに、俺はただただ叫ぶばかりで、その後の記憶がほとんどない。
妹が……死んだ。轢いたのは真っ昼間から酒を飲んで運転した男だった。その事実は後から知ったこと。妹の――和佐の葬儀でのことだった……。
「泣くな。お前は中御門家の長男だろう?」
俺の背を叩く親父の声は毅然としていて湿り気一つない、乾いた声だった。
「泣いてない……」
それに対して自分の声はひどく湿っていて……それでも、涙を流さないよう必死でいた。和佐に誇れる自分でいたい。二人一緒に怒られても俺だけ泣かずに耐えた。その時、和佐がお兄ちゃんは凄いと言ってくれた。……だから、泣けないんだ。親父と離れ、俺は上を向いていた。前を見てしまえば、三ヶ月前、中学の入学式で撮った和佐の写真が、花に囲まれて飾られているのがイヤでも見えてしまう。上を向いて何度も何度も深呼吸をしていた。
「おい坊主、泣いてもいいんだぞ?」
葬祭場の最後列に座っていた俺に、おじさんが一人、声をかけてきた。田舎じゃ見かけない小洒落た美男で、どことなく場違いに感じた。ただ、
「俺は坊主じゃねぇ。佑斗だ」
余所者に思えたからか、どこか反発的な声を出してしまった。そんな俺の態度をおじさんは気にせず、俺に小さな包みを握らせた。
「俺の作った菓子だ。食ってみろ」
渡されたのは薄い桃色をした軽い菓子。初めて見る名前も知らないそれを、ビニールをはがしてそっと一口、かじってみた。
「うまい……うまいな、これ。……和佐にも、食べさせたかった。なぁおじさん、この菓子は何て名前なんだ?」
頬を伝う涙も気にせず聞く。既に菓子はなくなっていた。大きくはない菓子だったけれど、心を優しくそっと包むような感じがした。
「おじさんはひでぇな。まだ三十代だっての。まぁいい。そいつはマカロン。また食いたきゃここに来い」
そう言っておじさんは俺に一枚の紙を手渡した。それは名刺だった。書かれている内容は東京までしか分からない住所と全く読めない店の名前とおぼしきもの。そしてオーナーパティシエ・土門零次の文字。
「零次……何をしに来た」
俺が名刺の文字を追っている間に、親父がこっちに近付いていた。しかも、凄い剣幕でだ。
「やぁ一志兄さん。まぁ、金の無心に、ってことかな」
「ふざけるな。傍系とはいえ和菓子の名門、中御門家の縁者が洋菓子なんぞに現を抜かしおって。二度と現れるな。去れ」
「手厳しいね。またな、坊主」
「佑斗だ!!」
土門さんが去っていく時には、気持ちは少し落ち着いていた。そしてこれが、和菓子の名家に生まれた俺、中御門佑斗の後の師である土門零次との出会いであり、運命を変えるマカロンとの出会いであった。
俺が動いたのはその数ヶ月後。十五になった俺は親父に、東京の高校へ行きたいと言った。その言葉を聞いた親父の第一声は、
「出て行け。和菓子職人にならないならお前は中御門の子ではない」
であった。端から出て行くつもりだった俺は、売り言葉に買い言葉ではないが、散々喚き散らして荷物を抱えて家を出た。既に土門さんとは何度も連絡を取っていたが、ここまで急展開になるとは思っていなかったようで、呆れとため息が混じってはいたけれど、笑って迎えてくれた。
土門さんの店に転がり込み、高校、そして専門学校で学び、パティシエの資格を得た俺はいつの間にやら二十歳になっていた。三月、専門学校での全ての課程を修了した俺は土門さんの店、フランス語で春風を意味する『brise de printemps』で正式に修行をする……はずだった。
「佑斗、よく頑張ったな。お前センスあるぜ。日本でなら十分に通用する腕前だろう。だが、日本でなら、だ。パリに行ってこい。若いうちに本場を知るのはいいことだぞ? 俺は金を借りて行ったが、お前には俺がいる。ほら、こいつが資金だ」
そう言って渡された封筒はずっしりと重く、持つ手がかすかに震えた。
「この二年やってきた修行をバイトと見做してその駄賃とボーナスだ。修業先の店は俺の知り合いがやってる。期間は三年。こっちに戻って一年もしねぇうちに自分の店だって持てる。悪くないだろ?」
その言葉が俺には衝撃的であった。てっきり、この店でこれからも修行を積むと思って、それで頑張ってきた……。俺の師匠は土門零次だって、誰にだって自慢できる師匠なのに……見放されたような感覚だった。確かに、話自体はいいものだと思う。……だがパリだなんて突然すぎてどうしていいか分からない。そりゃフランス語は出来るにこしたことはないからやってはあるが……。
「戸惑うこともあるだろう。ただ、お前の実力は確かだ。大丈夫だ」
その翌月、俺はフランスへと発っていた。
『歓迎するよ、ユート』
空港のエントランスへ足を踏み入れてすぐ、俺は修業先のパティシエの姿を見付けた。何せ調理師そのままの格好をしているのだから。名前はケイン・ハーフォン。土門さんより二回り年上、俺からすれば父と同じくらいだが、外国人特有の年齢不詳感からまだまだ若く見える。白い肌に金髪碧眼、異国へ来たことを再確認させられた。俺はたどたどしいフランス語で感謝を伝え、これからよろしくお願いしますと言った。正直言って英語でもよかったのではないかと考えたが既に遅かった。
『こっちだ。車を待たせている』
右側通行の車に少し驚きながらフランスの美しい町並みを眺める。ドライブは小一時間ほどで終わり、白を基調とした店構えの店にたどり着いた。
『ここだ。忙しくなるぞ』
その言葉通り、怒濤の日々が始まった。パティシエはケインさん含め三人にフロアスタッフが交代制で八人の大規模な店である。勝利の女神ニケの名を掲げる店は数多くの人がフランス中……いや、ヨーロッパ中から客がくるそれこそ星つきの店だ。最初の一ヶ月は言葉もあやふやで緊張しまくりだったが、慣れとはおそろしく、少しずつ心の余裕が生まれた二ヶ月目からはミスもどんどん減り半年経つ頃にはちょくちょく褒められるようにすらなった。土門さんはなかなか褒めることをしない人だったから、楽しくて仕方なかった。そりゃミスをすれば怒られるけれど、ケインさんは怒った後に必ず、誰もが通る道だと言ってくれた。そして……。
「ユート、そっちどう?」
フランスで聞ける唯一の他者の日本語。ジュートに近い発音で俺を呼ぶのは、パティシエ―ル見習いのアーデルハイト・ショーメット。彼女の存在は俺にとって大きかった。いつか日本でパティスリーを開きたいと夢見る彼女とは同い年ということもあって、公私にわたって親しくしている。俺が日本語を教える代わりに、彼女からはニケ以外のパティスリーで美味しいマカロンを教えてもらっている。一緒に食べに行く日だってあった。親しみを込めて、日本語っぽくアイと呼んでいる。
「こっちはOKだ。アイ、オーブンは?」
「OKよ。Decorationを始めましょうか」
アイは抜群の美人というわけではないが、その澄んだ碧眼と親しみやすい笑顔に俺は少しずつ惹かれていった。パリで一年を過ごす頃には俺とアイは正式に交際することになった。ケインさん始め多くの同僚たちが祝ってくれた。愛を育み唇を重ね肌を重ね、幸せな日々を過ごしていた俺は……その充実した日々が長く続かないことをすっかり忘れていた。それを遅ればせながら気付いたのは俺がパリに来て三年になるたった二週間前だった……。
『ユート、日本に帰るのか? 君の腕は確かだ。ここに残ることも出来る。レイジには僕から話そう。アーデルハイトのこともある。君は、どうしたいんだ?』
ケインさんの言葉に俺は、考えさせて欲しいと言うよりほかなかった。
「ユート、オーナーは何だって?」
「アイ……俺は……」
店の裏口から外へ出ると、扉のすぐ側の壁にアイは寄りかかっていた。
「日本に帰るんでしょう?」
「いい……のか? 俺はこっちにいた方が……」
アイは俺の胸にしだれかかり、ゆっくりと言葉を紡いだ。
『私はそんなに弱くない。大丈夫よ、一人前になったら日本へ行くつもりだもの。永遠の別れではないわ』
無意識の言葉だったのだろうか。彼女の流暢なフランス語が俺の耳朶をうつ。彼女は一息ついて、今度は日本語で言葉を紡いだ。
「今夜、いいかしら?」
「……あぁ」
その後の二週間はあっという間に過ぎ、俺は三年前に訪れた空港へとやってきていた。見送りに来てくれた同僚たちの中にアイの姿はなかった……。
日本は春だというのにフランスよりも暑く感じた。それが気候の違いなのか、タクシーが涼しかったからかはさておき、俺は三年ぶりに土門さんの店に帰ってきた。
「ただいま戻りました」
俺が土門さんの店に戻ってくると、知らない女の子が一人、フロアの掃除をしていた。いや、知らない女の子ではないように見えた……。
「かず、さ……?」
綺麗な黒髪、垂れ目気味の双眸、泣きぼくろ……妹の和佐が成長したような姿に見えたのだ。
「えっと、どちら様ですか? え、あの、どうして私の名前を……?」
「おうおう、戻ったか佑斗!」
「土門さん! その、彼女は……?」
「彼女は仲村和紗。お前がフランスに飛んだ後に雇ったバイトだ。お前の妹とは無関係だから。……似てるけどな」
土門さんは三年という月日の流れを一切感じない、若さを保った姿で現れた。
「な、仲村さんは……今、いくつなんだ?」
「二十一になります。大学三年生です」
てことは年も和佐と一緒……か。不思議な縁もあるもんだ。
「そっか。土門さんにセクハラされてないか? ちゃんと給料もらってる?」
「おいおい佑斗、そりゃないだろ?」
くすくすと笑う仲村さんに、俺も思わず相好を崩す。それから土門さんの淹れたコーヒーと店のケーキを並べて、増築した店のカフェスペースでいただくことになった。仲村さんはこの近くの賃貸で一人暮らしをしていて、有名大学に通っているらしい。地元はうち程ではないにしろ田舎で、物価の高さから趣味と実益を兼ね備えたバイト先を探してここにたどり着いたらしい。
「私、すっごく甘いものが好きで――――」
楽しそうに話す彼女の笑顔はどこか子供っぽくて、和佐の笑顔が重なって見えた。
「あ、フランスから戻ったばかりなのに、まくし立てちゃってすみません」
「ううん、気にしないでくれ。確かに疲れてるけど、君の話を聞いてると楽しいよ」
俺がまた話しを促すと、彼女はここ三年の国内事情を話してくれた。どんなアイドルが引退したとか再結成したとか、俳優の誰々が結婚して大きな騒ぎになったとか、どこかの動物園で産まれた赤ちゃんに人が殺到したとか、楽しい話題を中心に、さほど学のない俺でも理解しやすいようにかみ砕いて話してくれた。土門さんが気を回してくれたのか、店は臨時休業で時間がゆっくりと過ぎていった。
そうこうしている内に、陽も傾き始め……俺はふと、今日自分がどこへ帰ればいいのか分からずにいた。昔は店に住み込みで働いていたが、その居住スペースは、今や俺と仲村さんがいるカフェスペースになっていた。
「土門さーん」
店の奥で仕込みやら新商品開発やらをしている土門さんに声をかける。
「なんだ?」
手の水気を拭いながらこちら側に近付く土門さんに、俺はこれからどこへ帰ればいいのかと問うた。
「随分と哲学的な質問だな、おい」
「いや、そういうことではなくてですね、寝床がどこかって話なんですけど。ていうか、土門さん今どこに住んでるんですか?」
「あぁ、そういうことか。小さいが一軒家を建てて家内と暮らしている。ガキも産まれた。零の次、一より優れるってことで優一だ。言い名前だろ? まぁ、なんだ。ぶっちゃけちまうとお前を泊めてやる余裕がない」
「マジっすか……」
あまり金を無駄遣いしたくはないが素直にホテルを取った方がよさそうだ。
「大変そうですね。お部屋、早く借りられるといいですね」
「全くだ。明日から部屋探しだ」
数日後、なんとか手頃な賃貸を見付け入居したのだが……。
「お隣さんになるなんて、不思議なご縁ですね」
どういうわけか仲村さんの隣室に入居したようだ。確かに店の近場から探して見付けた部屋ではあったが、いくつか空室がある中で隣同士になるとは予想だにしなかった。
「荷物の整理、お手伝いしましょう?」
「いんや、ほとんど無いから大丈夫だ」
俺は仲村さんを妹みたいに思っている節がある。同じ名前、似た容姿、そう思わない方がかえって不自然なほどだ。でも彼女は俺の妹ではない。俺との記憶はない。そう思うと急に涙が溢れてきた。それを必死で拭って、俺は新居での一人暮らし生活をスタートさせた。血筋がそうさせたのか、手先の器用さに恵まれた俺は菓子作りだけでなく料理もある程度は出来る。少し遅いが軽く昼飯を作ろう、そう思った時だった。インターホンが鳴ったのは。大家が連絡事項を何か忘れたのかと思って開けたら、そこにいたのは仲村さんだった。
「お昼ご飯、一緒にどうですか?」
イタズラっぽい笑顔と美味しそうな匂いを漂わせる鍋の中身に折れて、俺は彼女を部屋に上げた。一緒にカレーを食べていると、どうにも彼女は俺の部屋に置かれたテレビに興味がある様子。
「テレビがどうかしたか?」
「あぁえっと、実は私の部屋にはテレビがなくって」
うすうすそんな気はしていたが、改めて言われると少し意外だった。ここ数年の出来事を俺に話してくれたくらいだから、どこからか情報を入手しているんだろうけど。
「一人暮らしはあれこれお金がかかるので。テレビは買えなかったんです。新聞も取って無くって。でも、大学の図書館で新聞を読めますし、お店にある雑誌とか、ネットの情報とか、何とか時代に取り残されずに済んでます」
「苦労してるんだな。俺もテレビはあまり見ないんだ。何か見たい番組があれば言ってくれ。録画しておく」
「じゃ、じゃあ私、お夕飯持ってお邪魔しますね」
その警戒心のなさに何故か俺が不安に駆られる。もし和佐がこんな風に育っていたら、俺はなんて声をかけただろうか。
「さてと、美味いカレーをごちそうになったし、俺からはデザートを出すかな。ちょっと待っててくれ。テレビ、点けてもいいぞ」
「ありがとうございます。なんだかお兄ちゃんが出来たみたいで、ちょっと嬉しいです」
「……お兄ちゃん、か。――和佐、俺は……」
「どうかしました?」
「いんや、何でも無いさ」
俺の呟きはテレビの音にかき消されて、仲村さんには届かなかったようだ。一息ついてから俺は荷物の中から小さな包みを取り出した。
「マカロンだ。土門さんと比べるとちっと劣るだろうが、俺の得意分野なんだぜ」
初めて食べたあの日から、和佐に食べさせたかったマカロン。別に夢が叶ったなんて思っちゃいないが、俺の作った菓子で笑顔になってもらえるだけで満足だ。
ただ、それだけだったんだ……。
「佑斗さん、私と……付き合ってください。私、上京してからずっと寂しかったんです。……だから、貴方の側にいたいんです」
季節が一巡りするちょっと前、俺は和紗に告白された。距離感を間違えたのだろうか、俺は彼女を妹のように扱って、それが彼女には心地良かったのだろうか。最初は俺も断った。アイのことは言い出せなかったが、俺は何度も付き合えないと言った。それでも彼女は決して引き下がりはしなかった。とうとう俺は押し切られるように和紗と恋人になった。
傍らに横たわる和紗の頭を撫でながら、彼女と過ごした日々を振り返る。アイと離れて寂しさを抱えていた俺を、彼女は満たしてくれた。
「いや、それも言い訳か」
端的に言って交際は順調だった。これまでの日々の延長線上にあったから、だろうか。だが休みの日も共有するようになり、俺からホテルに誘った。色恋の経験が一切ないという和紗の裸体は美しく、俺を迎えた処女の肉体はかつてないほどの快楽をもたらし……俺は和紗に溺れていった。
「佑斗……さん」
それから何度か俺の部屋でも肌を重ねるようになった。和紗の頭をまた撫で、身体を起こしてシャワーを浴びる。倦怠感と罪悪感が重くのしかかる。彼女はきっと、誰かを頼るのが下手だったんだ。だから基本的には誰も頼らず、自分を律して生きてきたんだろう。でも、そこに歪みがあり、そこに俺が入り込んでしまった。
「最低だな、俺。フランスにアイを置き去りにして、日本でもこれかよ……」
帰国して一年、アイとは連絡を一切取っていない。どうして出国の日に見送ってくれなかったか俺はまだ知らない。アイの身に何かあったのかもしれない。だが俺は知るのが恐かった。恐くて、目を背けたままだった。
「依存してるのは……どっちだろうな」
シャワールームを出た俺は、結局……和紗の隣で眠りについた。
俺が帰国してから三年、二十六になった俺は大学を卒業した和紗と結婚した。両親には何も話さず、式も挙げなかった。和紗の両親もとくに不満を言ってはこなかった。土門さんは、最高のウエディングケーキを焼いてやったのに、なんて笑ってたけれど……俺と和紗の結婚式は俺の焼いたケーキを二人で切って、それで終わらせた。ずっと前から家族だった、そんな風に思うことが多かったんだ。今更、派手な式をする必要も感じない。ただこれまでの日々が続いていく。そんなことを思っていた……。だが、安息の日々は長続きしないことを俺は忘れていた。
それは店のある定休日のことだった。定休日とはいえ、俺は新作の試作や研究のために店にいたし、和紗もカフェスペースの掃除をしていた。そこに来客を告げるベルが鳴った。チョコの仕入れのために出掛けた土門さんが戻ってきたかと思ってフロアに出ると、そこには俺の見知った顔があった。
「……アイ」
「久しぶりね、ユート」
より流暢になった日本語で俺の名を呼ぶアイ。幾分か丸くなった彼女は、左腕に子供を抱いていた。どこか東洋人染みた顔立ちだが、髪は親譲りの綺麗な金髪……まさか。
「カーシャ、あなたのパパよ。ほら、挨拶して」
「……」
むっつりとしたまま口を開かない幼子。三歳か、四歳くらいの……俺の、娘。
「ま、待ってください。貴女一体誰ですか、佑斗さんの何なんですか!?」
「私はアーデルハイト、フランスでユートと一緒に修行をしていたわ。恋人でもあるの。彼との娘だっているわ!」
「佑斗さんは貴女との娘なんて知りません。私は……私が彼の奥さんです!」
アイに詰め寄りながら声を荒げる和紗に、アイは子供を下ろして和紗を突き飛ばした。
「訳の分からないことを言わないで! 邪魔よ、ユートと直接話せば全て分かることなんだから……」
尻餅をついた和紗は咄嗟にアイの脚にしがみついた。
「ダメです、あなた、佑斗さんに何するつもりですかっ」
アイのコバルトブルーの双眸はかすかに血走っていた。鬼気迫るものを俺ですら感じるのだから、和紗が止めるのも無理はない。なおも和紗を振りほどこうとするアイの姿に、俺は愕然として膝から崩れ落ちていた。視界が黒く塗りつぶされて、何も考えられなくなってしまった。カーシャと呼ばれた、あの幼い少女の泣き声と二人の怒鳴り声……自分が発端となって起きた今を理解したくなかった。だが、俺の逃避は鈍い音によって潰される。
「か、かず……さ」
床に倒れた和紗は、両目を限界まで見開き、ぴくりとも動かなかった。
「かずさ……かずさ!」
そっと抱き起こすと、頭に添えた右手を生暖かいどろりとした感触が襲った。脳裏にフラッシュバックしたのは十年以上前のあの夏の日。
「――――――」
声にならない叫び声を上げる。逃げ出したくて逃げ出したくてたまらない。だが、あの日のように気を失うわけにはいかないんだ。まだ、助けられる……。俺は左手でスマホを取りだそうとした……が、その腕はアイによって動きを抑えられた。
「ごめんなさい……ユート、私……、あなたに会いたくて。あの日、見送りに行けなくて……。急に産気づいたから……それで、カーシャをあなたに誇れる娘に育てたくて……でも、カーシャがパパに会いたいって言うから……それで、それで……」
俺の腕にしがみつくアイのせいで身動きが取れない。今はどいてくれと言っても、完全に錯乱状態のアイはびくともしない。
「もうあなたと離ればなれなのは嫌なの! もう、わたし……わたしぃ……」
しがみつくアイの手が、肩から首にかけて強く力が込められる。意図したものかそうでないのか、沈みゆく俺の意識は判断できなかった――――。
「パパ、レイジさんの葬儀……もう始まるわよ」
その声に俺はハッとした。俺の目の前には金髪の女性。立派に成長した娘のカーシャだ。
「すまんカーシャ、少しぼうっとしてた」
葬式という場がそうさせたのか、人の死の記憶が走馬燈のように駆け巡った。あのままもう少しぼうっとしていたら、あの走馬燈のようなものはどこまで今に迫ったのだろうか。あのまま帰らぬ人となった和紗の葬儀か、精神を病み自殺したアイの葬儀か、それともカーシャと二人で土門さんに助けられながら過ごした日々か、カーシャと優一君の結婚式か。
俺もとうとう四十六歳になった。また一歩、死に近付いたということだろうか。馬鹿げた疑問を振り払うように頭を振って立ち上がった。喪服のネクタイを締め直し、義理の息子――優一君のもとへ向かった。
「……あ」
葬儀場には多くの人が集まっていた。希代の天才パティシエ、土門零次の葬式となればこれだけの人が集まるのは当然か。そんな数多くの弔問客の中には、親に連れられてきたのか子供達が何人かいた。その中にひとり、親とはぐれたのは今にも泣き出しそうな男の子がいた。俺は控え室に小さな包みを取りに戻って、ふたたびその子のもとへ向かった。
「俺の作った菓子だ。食ってみろ」
あの人ほどふてぶてしくは言えなかったが、少年はぺこりとお辞儀をして一粒のマカロンを口にした。
「ありがと、おじさん!」
お礼を言った直後、母親に見付かり、呼ばれた少年が声のした方へ駆けだす。その目にもう涙はなかった。
「あなたみたいな人格者にはなれない。あなたほどの菓子職人にはなれない。でも……続けます。それが……あなたへの恩返しと、彼女たちへの償いになるなら」
俺はそっと皺の深くなった掌を握った。
真っ黒なスーツ姿の女性に部屋へ通され、一人がけのソファに腰掛ける。
テーブルの上にマカロンの包みを置き、一つ頬張る。やわらかな甘さに緊張がほぐれると同時に、ここ数日の忙しさがどっと身体に押し寄せたような感覚に陥る。俺はふと、すり減った意識を手放した。
真夏の呆れるほど青い空と、もくもくと空高く伸びる入道雲。暑くてバカになりそうな炎天下を歩いていると、遠くから小さな人影が近付いてきた。それは真新しい自転車に乗った俺の妹だった。おーいと、俺を呼ぶ声がする。俺もおーいと声を返してやる。そんな平和な片田舎の日々が続くと、そう思っていた。だがそれは、けたたましいクラクションの音によって打ち砕かれた。
跳ね上がった妹の小柄な身体が、地面に叩きつけられるまでの時間が妙にゆっくりに見えた。妹を轢いた車がブレーキをかけることなく走り去っていく。俺は慌てて妹にかけよって、そっと抱き起こした。俺の右手をどろりとした感触が襲う。その血の生々しさに、俺はただただ叫ぶばかりで、その後の記憶がほとんどない。
妹が……死んだ。轢いたのは真っ昼間から酒を飲んで運転した男だった。その事実は後から知ったこと。妹の――和佐の葬儀でのことだった……。
「泣くな。お前は中御門家の長男だろう?」
俺の背を叩く親父の声は毅然としていて湿り気一つない、乾いた声だった。
「泣いてない……」
それに対して自分の声はひどく湿っていて……それでも、涙を流さないよう必死でいた。和佐に誇れる自分でいたい。二人一緒に怒られても俺だけ泣かずに耐えた。その時、和佐がお兄ちゃんは凄いと言ってくれた。……だから、泣けないんだ。親父と離れ、俺は上を向いていた。前を見てしまえば、三ヶ月前、中学の入学式で撮った和佐の写真が、花に囲まれて飾られているのがイヤでも見えてしまう。上を向いて何度も何度も深呼吸をしていた。
「おい坊主、泣いてもいいんだぞ?」
葬祭場の最後列に座っていた俺に、おじさんが一人、声をかけてきた。田舎じゃ見かけない小洒落た美男で、どことなく場違いに感じた。ただ、
「俺は坊主じゃねぇ。佑斗だ」
余所者に思えたからか、どこか反発的な声を出してしまった。そんな俺の態度をおじさんは気にせず、俺に小さな包みを握らせた。
「俺の作った菓子だ。食ってみろ」
渡されたのは薄い桃色をした軽い菓子。初めて見る名前も知らないそれを、ビニールをはがしてそっと一口、かじってみた。
「うまい……うまいな、これ。……和佐にも、食べさせたかった。なぁおじさん、この菓子は何て名前なんだ?」
頬を伝う涙も気にせず聞く。既に菓子はなくなっていた。大きくはない菓子だったけれど、心を優しくそっと包むような感じがした。
「おじさんはひでぇな。まだ三十代だっての。まぁいい。そいつはマカロン。また食いたきゃここに来い」
そう言っておじさんは俺に一枚の紙を手渡した。それは名刺だった。書かれている内容は東京までしか分からない住所と全く読めない店の名前とおぼしきもの。そしてオーナーパティシエ・土門零次の文字。
「零次……何をしに来た」
俺が名刺の文字を追っている間に、親父がこっちに近付いていた。しかも、凄い剣幕でだ。
「やぁ一志兄さん。まぁ、金の無心に、ってことかな」
「ふざけるな。傍系とはいえ和菓子の名門、中御門家の縁者が洋菓子なんぞに現を抜かしおって。二度と現れるな。去れ」
「手厳しいね。またな、坊主」
「佑斗だ!!」
土門さんが去っていく時には、気持ちは少し落ち着いていた。そしてこれが、和菓子の名家に生まれた俺、中御門佑斗の後の師である土門零次との出会いであり、運命を変えるマカロンとの出会いであった。
俺が動いたのはその数ヶ月後。十五になった俺は親父に、東京の高校へ行きたいと言った。その言葉を聞いた親父の第一声は、
「出て行け。和菓子職人にならないならお前は中御門の子ではない」
であった。端から出て行くつもりだった俺は、売り言葉に買い言葉ではないが、散々喚き散らして荷物を抱えて家を出た。既に土門さんとは何度も連絡を取っていたが、ここまで急展開になるとは思っていなかったようで、呆れとため息が混じってはいたけれど、笑って迎えてくれた。
土門さんの店に転がり込み、高校、そして専門学校で学び、パティシエの資格を得た俺はいつの間にやら二十歳になっていた。三月、専門学校での全ての課程を修了した俺は土門さんの店、フランス語で春風を意味する『brise de printemps』で正式に修行をする……はずだった。
「佑斗、よく頑張ったな。お前センスあるぜ。日本でなら十分に通用する腕前だろう。だが、日本でなら、だ。パリに行ってこい。若いうちに本場を知るのはいいことだぞ? 俺は金を借りて行ったが、お前には俺がいる。ほら、こいつが資金だ」
そう言って渡された封筒はずっしりと重く、持つ手がかすかに震えた。
「この二年やってきた修行をバイトと見做してその駄賃とボーナスだ。修業先の店は俺の知り合いがやってる。期間は三年。こっちに戻って一年もしねぇうちに自分の店だって持てる。悪くないだろ?」
その言葉が俺には衝撃的であった。てっきり、この店でこれからも修行を積むと思って、それで頑張ってきた……。俺の師匠は土門零次だって、誰にだって自慢できる師匠なのに……見放されたような感覚だった。確かに、話自体はいいものだと思う。……だがパリだなんて突然すぎてどうしていいか分からない。そりゃフランス語は出来るにこしたことはないからやってはあるが……。
「戸惑うこともあるだろう。ただ、お前の実力は確かだ。大丈夫だ」
その翌月、俺はフランスへと発っていた。
『歓迎するよ、ユート』
空港のエントランスへ足を踏み入れてすぐ、俺は修業先のパティシエの姿を見付けた。何せ調理師そのままの格好をしているのだから。名前はケイン・ハーフォン。土門さんより二回り年上、俺からすれば父と同じくらいだが、外国人特有の年齢不詳感からまだまだ若く見える。白い肌に金髪碧眼、異国へ来たことを再確認させられた。俺はたどたどしいフランス語で感謝を伝え、これからよろしくお願いしますと言った。正直言って英語でもよかったのではないかと考えたが既に遅かった。
『こっちだ。車を待たせている』
右側通行の車に少し驚きながらフランスの美しい町並みを眺める。ドライブは小一時間ほどで終わり、白を基調とした店構えの店にたどり着いた。
『ここだ。忙しくなるぞ』
その言葉通り、怒濤の日々が始まった。パティシエはケインさん含め三人にフロアスタッフが交代制で八人の大規模な店である。勝利の女神ニケの名を掲げる店は数多くの人がフランス中……いや、ヨーロッパ中から客がくるそれこそ星つきの店だ。最初の一ヶ月は言葉もあやふやで緊張しまくりだったが、慣れとはおそろしく、少しずつ心の余裕が生まれた二ヶ月目からはミスもどんどん減り半年経つ頃にはちょくちょく褒められるようにすらなった。土門さんはなかなか褒めることをしない人だったから、楽しくて仕方なかった。そりゃミスをすれば怒られるけれど、ケインさんは怒った後に必ず、誰もが通る道だと言ってくれた。そして……。
「ユート、そっちどう?」
フランスで聞ける唯一の他者の日本語。ジュートに近い発音で俺を呼ぶのは、パティシエ―ル見習いのアーデルハイト・ショーメット。彼女の存在は俺にとって大きかった。いつか日本でパティスリーを開きたいと夢見る彼女とは同い年ということもあって、公私にわたって親しくしている。俺が日本語を教える代わりに、彼女からはニケ以外のパティスリーで美味しいマカロンを教えてもらっている。一緒に食べに行く日だってあった。親しみを込めて、日本語っぽくアイと呼んでいる。
「こっちはOKだ。アイ、オーブンは?」
「OKよ。Decorationを始めましょうか」
アイは抜群の美人というわけではないが、その澄んだ碧眼と親しみやすい笑顔に俺は少しずつ惹かれていった。パリで一年を過ごす頃には俺とアイは正式に交際することになった。ケインさん始め多くの同僚たちが祝ってくれた。愛を育み唇を重ね肌を重ね、幸せな日々を過ごしていた俺は……その充実した日々が長く続かないことをすっかり忘れていた。それを遅ればせながら気付いたのは俺がパリに来て三年になるたった二週間前だった……。
『ユート、日本に帰るのか? 君の腕は確かだ。ここに残ることも出来る。レイジには僕から話そう。アーデルハイトのこともある。君は、どうしたいんだ?』
ケインさんの言葉に俺は、考えさせて欲しいと言うよりほかなかった。
「ユート、オーナーは何だって?」
「アイ……俺は……」
店の裏口から外へ出ると、扉のすぐ側の壁にアイは寄りかかっていた。
「日本に帰るんでしょう?」
「いい……のか? 俺はこっちにいた方が……」
アイは俺の胸にしだれかかり、ゆっくりと言葉を紡いだ。
『私はそんなに弱くない。大丈夫よ、一人前になったら日本へ行くつもりだもの。永遠の別れではないわ』
無意識の言葉だったのだろうか。彼女の流暢なフランス語が俺の耳朶をうつ。彼女は一息ついて、今度は日本語で言葉を紡いだ。
「今夜、いいかしら?」
「……あぁ」
その後の二週間はあっという間に過ぎ、俺は三年前に訪れた空港へとやってきていた。見送りに来てくれた同僚たちの中にアイの姿はなかった……。
日本は春だというのにフランスよりも暑く感じた。それが気候の違いなのか、タクシーが涼しかったからかはさておき、俺は三年ぶりに土門さんの店に帰ってきた。
「ただいま戻りました」
俺が土門さんの店に戻ってくると、知らない女の子が一人、フロアの掃除をしていた。いや、知らない女の子ではないように見えた……。
「かず、さ……?」
綺麗な黒髪、垂れ目気味の双眸、泣きぼくろ……妹の和佐が成長したような姿に見えたのだ。
「えっと、どちら様ですか? え、あの、どうして私の名前を……?」
「おうおう、戻ったか佑斗!」
「土門さん! その、彼女は……?」
「彼女は仲村和紗。お前がフランスに飛んだ後に雇ったバイトだ。お前の妹とは無関係だから。……似てるけどな」
土門さんは三年という月日の流れを一切感じない、若さを保った姿で現れた。
「な、仲村さんは……今、いくつなんだ?」
「二十一になります。大学三年生です」
てことは年も和佐と一緒……か。不思議な縁もあるもんだ。
「そっか。土門さんにセクハラされてないか? ちゃんと給料もらってる?」
「おいおい佑斗、そりゃないだろ?」
くすくすと笑う仲村さんに、俺も思わず相好を崩す。それから土門さんの淹れたコーヒーと店のケーキを並べて、増築した店のカフェスペースでいただくことになった。仲村さんはこの近くの賃貸で一人暮らしをしていて、有名大学に通っているらしい。地元はうち程ではないにしろ田舎で、物価の高さから趣味と実益を兼ね備えたバイト先を探してここにたどり着いたらしい。
「私、すっごく甘いものが好きで――――」
楽しそうに話す彼女の笑顔はどこか子供っぽくて、和佐の笑顔が重なって見えた。
「あ、フランスから戻ったばかりなのに、まくし立てちゃってすみません」
「ううん、気にしないでくれ。確かに疲れてるけど、君の話を聞いてると楽しいよ」
俺がまた話しを促すと、彼女はここ三年の国内事情を話してくれた。どんなアイドルが引退したとか再結成したとか、俳優の誰々が結婚して大きな騒ぎになったとか、どこかの動物園で産まれた赤ちゃんに人が殺到したとか、楽しい話題を中心に、さほど学のない俺でも理解しやすいようにかみ砕いて話してくれた。土門さんが気を回してくれたのか、店は臨時休業で時間がゆっくりと過ぎていった。
そうこうしている内に、陽も傾き始め……俺はふと、今日自分がどこへ帰ればいいのか分からずにいた。昔は店に住み込みで働いていたが、その居住スペースは、今や俺と仲村さんがいるカフェスペースになっていた。
「土門さーん」
店の奥で仕込みやら新商品開発やらをしている土門さんに声をかける。
「なんだ?」
手の水気を拭いながらこちら側に近付く土門さんに、俺はこれからどこへ帰ればいいのかと問うた。
「随分と哲学的な質問だな、おい」
「いや、そういうことではなくてですね、寝床がどこかって話なんですけど。ていうか、土門さん今どこに住んでるんですか?」
「あぁ、そういうことか。小さいが一軒家を建てて家内と暮らしている。ガキも産まれた。零の次、一より優れるってことで優一だ。言い名前だろ? まぁ、なんだ。ぶっちゃけちまうとお前を泊めてやる余裕がない」
「マジっすか……」
あまり金を無駄遣いしたくはないが素直にホテルを取った方がよさそうだ。
「大変そうですね。お部屋、早く借りられるといいですね」
「全くだ。明日から部屋探しだ」
数日後、なんとか手頃な賃貸を見付け入居したのだが……。
「お隣さんになるなんて、不思議なご縁ですね」
どういうわけか仲村さんの隣室に入居したようだ。確かに店の近場から探して見付けた部屋ではあったが、いくつか空室がある中で隣同士になるとは予想だにしなかった。
「荷物の整理、お手伝いしましょう?」
「いんや、ほとんど無いから大丈夫だ」
俺は仲村さんを妹みたいに思っている節がある。同じ名前、似た容姿、そう思わない方がかえって不自然なほどだ。でも彼女は俺の妹ではない。俺との記憶はない。そう思うと急に涙が溢れてきた。それを必死で拭って、俺は新居での一人暮らし生活をスタートさせた。血筋がそうさせたのか、手先の器用さに恵まれた俺は菓子作りだけでなく料理もある程度は出来る。少し遅いが軽く昼飯を作ろう、そう思った時だった。インターホンが鳴ったのは。大家が連絡事項を何か忘れたのかと思って開けたら、そこにいたのは仲村さんだった。
「お昼ご飯、一緒にどうですか?」
イタズラっぽい笑顔と美味しそうな匂いを漂わせる鍋の中身に折れて、俺は彼女を部屋に上げた。一緒にカレーを食べていると、どうにも彼女は俺の部屋に置かれたテレビに興味がある様子。
「テレビがどうかしたか?」
「あぁえっと、実は私の部屋にはテレビがなくって」
うすうすそんな気はしていたが、改めて言われると少し意外だった。ここ数年の出来事を俺に話してくれたくらいだから、どこからか情報を入手しているんだろうけど。
「一人暮らしはあれこれお金がかかるので。テレビは買えなかったんです。新聞も取って無くって。でも、大学の図書館で新聞を読めますし、お店にある雑誌とか、ネットの情報とか、何とか時代に取り残されずに済んでます」
「苦労してるんだな。俺もテレビはあまり見ないんだ。何か見たい番組があれば言ってくれ。録画しておく」
「じゃ、じゃあ私、お夕飯持ってお邪魔しますね」
その警戒心のなさに何故か俺が不安に駆られる。もし和佐がこんな風に育っていたら、俺はなんて声をかけただろうか。
「さてと、美味いカレーをごちそうになったし、俺からはデザートを出すかな。ちょっと待っててくれ。テレビ、点けてもいいぞ」
「ありがとうございます。なんだかお兄ちゃんが出来たみたいで、ちょっと嬉しいです」
「……お兄ちゃん、か。――和佐、俺は……」
「どうかしました?」
「いんや、何でも無いさ」
俺の呟きはテレビの音にかき消されて、仲村さんには届かなかったようだ。一息ついてから俺は荷物の中から小さな包みを取り出した。
「マカロンだ。土門さんと比べるとちっと劣るだろうが、俺の得意分野なんだぜ」
初めて食べたあの日から、和佐に食べさせたかったマカロン。別に夢が叶ったなんて思っちゃいないが、俺の作った菓子で笑顔になってもらえるだけで満足だ。
ただ、それだけだったんだ……。
「佑斗さん、私と……付き合ってください。私、上京してからずっと寂しかったんです。……だから、貴方の側にいたいんです」
季節が一巡りするちょっと前、俺は和紗に告白された。距離感を間違えたのだろうか、俺は彼女を妹のように扱って、それが彼女には心地良かったのだろうか。最初は俺も断った。アイのことは言い出せなかったが、俺は何度も付き合えないと言った。それでも彼女は決して引き下がりはしなかった。とうとう俺は押し切られるように和紗と恋人になった。
傍らに横たわる和紗の頭を撫でながら、彼女と過ごした日々を振り返る。アイと離れて寂しさを抱えていた俺を、彼女は満たしてくれた。
「いや、それも言い訳か」
端的に言って交際は順調だった。これまでの日々の延長線上にあったから、だろうか。だが休みの日も共有するようになり、俺からホテルに誘った。色恋の経験が一切ないという和紗の裸体は美しく、俺を迎えた処女の肉体はかつてないほどの快楽をもたらし……俺は和紗に溺れていった。
「佑斗……さん」
それから何度か俺の部屋でも肌を重ねるようになった。和紗の頭をまた撫で、身体を起こしてシャワーを浴びる。倦怠感と罪悪感が重くのしかかる。彼女はきっと、誰かを頼るのが下手だったんだ。だから基本的には誰も頼らず、自分を律して生きてきたんだろう。でも、そこに歪みがあり、そこに俺が入り込んでしまった。
「最低だな、俺。フランスにアイを置き去りにして、日本でもこれかよ……」
帰国して一年、アイとは連絡を一切取っていない。どうして出国の日に見送ってくれなかったか俺はまだ知らない。アイの身に何かあったのかもしれない。だが俺は知るのが恐かった。恐くて、目を背けたままだった。
「依存してるのは……どっちだろうな」
シャワールームを出た俺は、結局……和紗の隣で眠りについた。
俺が帰国してから三年、二十六になった俺は大学を卒業した和紗と結婚した。両親には何も話さず、式も挙げなかった。和紗の両親もとくに不満を言ってはこなかった。土門さんは、最高のウエディングケーキを焼いてやったのに、なんて笑ってたけれど……俺と和紗の結婚式は俺の焼いたケーキを二人で切って、それで終わらせた。ずっと前から家族だった、そんな風に思うことが多かったんだ。今更、派手な式をする必要も感じない。ただこれまでの日々が続いていく。そんなことを思っていた……。だが、安息の日々は長続きしないことを俺は忘れていた。
それは店のある定休日のことだった。定休日とはいえ、俺は新作の試作や研究のために店にいたし、和紗もカフェスペースの掃除をしていた。そこに来客を告げるベルが鳴った。チョコの仕入れのために出掛けた土門さんが戻ってきたかと思ってフロアに出ると、そこには俺の見知った顔があった。
「……アイ」
「久しぶりね、ユート」
より流暢になった日本語で俺の名を呼ぶアイ。幾分か丸くなった彼女は、左腕に子供を抱いていた。どこか東洋人染みた顔立ちだが、髪は親譲りの綺麗な金髪……まさか。
「カーシャ、あなたのパパよ。ほら、挨拶して」
「……」
むっつりとしたまま口を開かない幼子。三歳か、四歳くらいの……俺の、娘。
「ま、待ってください。貴女一体誰ですか、佑斗さんの何なんですか!?」
「私はアーデルハイト、フランスでユートと一緒に修行をしていたわ。恋人でもあるの。彼との娘だっているわ!」
「佑斗さんは貴女との娘なんて知りません。私は……私が彼の奥さんです!」
アイに詰め寄りながら声を荒げる和紗に、アイは子供を下ろして和紗を突き飛ばした。
「訳の分からないことを言わないで! 邪魔よ、ユートと直接話せば全て分かることなんだから……」
尻餅をついた和紗は咄嗟にアイの脚にしがみついた。
「ダメです、あなた、佑斗さんに何するつもりですかっ」
アイのコバルトブルーの双眸はかすかに血走っていた。鬼気迫るものを俺ですら感じるのだから、和紗が止めるのも無理はない。なおも和紗を振りほどこうとするアイの姿に、俺は愕然として膝から崩れ落ちていた。視界が黒く塗りつぶされて、何も考えられなくなってしまった。カーシャと呼ばれた、あの幼い少女の泣き声と二人の怒鳴り声……自分が発端となって起きた今を理解したくなかった。だが、俺の逃避は鈍い音によって潰される。
「か、かず……さ」
床に倒れた和紗は、両目を限界まで見開き、ぴくりとも動かなかった。
「かずさ……かずさ!」
そっと抱き起こすと、頭に添えた右手を生暖かいどろりとした感触が襲った。脳裏にフラッシュバックしたのは十年以上前のあの夏の日。
「――――――」
声にならない叫び声を上げる。逃げ出したくて逃げ出したくてたまらない。だが、あの日のように気を失うわけにはいかないんだ。まだ、助けられる……。俺は左手でスマホを取りだそうとした……が、その腕はアイによって動きを抑えられた。
「ごめんなさい……ユート、私……、あなたに会いたくて。あの日、見送りに行けなくて……。急に産気づいたから……それで、カーシャをあなたに誇れる娘に育てたくて……でも、カーシャがパパに会いたいって言うから……それで、それで……」
俺の腕にしがみつくアイのせいで身動きが取れない。今はどいてくれと言っても、完全に錯乱状態のアイはびくともしない。
「もうあなたと離ればなれなのは嫌なの! もう、わたし……わたしぃ……」
しがみつくアイの手が、肩から首にかけて強く力が込められる。意図したものかそうでないのか、沈みゆく俺の意識は判断できなかった――――。
「パパ、レイジさんの葬儀……もう始まるわよ」
その声に俺はハッとした。俺の目の前には金髪の女性。立派に成長した娘のカーシャだ。
「すまんカーシャ、少しぼうっとしてた」
葬式という場がそうさせたのか、人の死の記憶が走馬燈のように駆け巡った。あのままもう少しぼうっとしていたら、あの走馬燈のようなものはどこまで今に迫ったのだろうか。あのまま帰らぬ人となった和紗の葬儀か、精神を病み自殺したアイの葬儀か、それともカーシャと二人で土門さんに助けられながら過ごした日々か、カーシャと優一君の結婚式か。
俺もとうとう四十六歳になった。また一歩、死に近付いたということだろうか。馬鹿げた疑問を振り払うように頭を振って立ち上がった。喪服のネクタイを締め直し、義理の息子――優一君のもとへ向かった。
「……あ」
葬儀場には多くの人が集まっていた。希代の天才パティシエ、土門零次の葬式となればこれだけの人が集まるのは当然か。そんな数多くの弔問客の中には、親に連れられてきたのか子供達が何人かいた。その中にひとり、親とはぐれたのは今にも泣き出しそうな男の子がいた。俺は控え室に小さな包みを取りに戻って、ふたたびその子のもとへ向かった。
「俺の作った菓子だ。食ってみろ」
あの人ほどふてぶてしくは言えなかったが、少年はぺこりとお辞儀をして一粒のマカロンを口にした。
「ありがと、おじさん!」
お礼を言った直後、母親に見付かり、呼ばれた少年が声のした方へ駆けだす。その目にもう涙はなかった。
「あなたみたいな人格者にはなれない。あなたほどの菓子職人にはなれない。でも……続けます。それが……あなたへの恩返しと、彼女たちへの償いになるなら」
俺はそっと皺の深くなった掌を握った。
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