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Episode3-3 橘結芽の非日常(2)

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 何かがこぼれ落ちるあの感覚は消え失せ、何かがわたしを満たす、その感覚だけがわたしを覆い尽くしていた。

「うそ、待って。そんなに持っていかれたら……」

 焦る彼女を無視して、二度目の口づけを交わす。より深く、舌を絡めて。百合、ごめんね。せっかく思い出したのに、やっぱりわたしは、百合を裏切ることになるんだ。でもね、あの時わたしの手を取って逃げようとせず、この子を助けようとした百合への意趣返しでもあるんだよ。なんてね、嘘ばっかりで独善的なわたしを信じてくれただろうか。わたしはただ、この満ちていく感覚をもっと貪りたいだけなんだ。
満たされた。わたしは初めて満たされた。すると、目の前の彼女は真紅の髪がまるで燃え尽きたように黒褐色へと変わっていた。

「また随分と強力な力を感じますね。よい……実によい。上質なる存在の力は我が欲するものなり」

 化物が迫り来る。不思議ともう怖くはなかった。不意に握ったままだった簪が熱を帯びる。あぁ百合、あなたを見捨てたわたしに力を貸してくれるというのね。

 それは刃だった。銀に輝く刃は、あの簪だったものだ。槍のようなそれを、化物へ突き出す。確かな手応えと、貫いた場所から溢れる光を目にした。化物の肩に座る男へ向けて跳ぶ。まるで自分の身体と思えぬ軽さだった。男への一撃は化物の手に防がれる。振り払われて壁に叩きつけられるが、痛みはほとんどなかった。もう、わたしはおかしいんだ。それを理解すると、ますます満ち足りた気持ちになった。ずっと抱いていた渇きが嘘のように消えていく。化物を刺して刺して刺し続ける。振り下ろされる爪も、迫り来る蹴りも尻尾も、何もかもが、何ら恐怖を抱くものではなかった。

「被害は甚大、一度退却としましょう」

 男が何か呟くと化物は消え失せた。それと同時に何かに覆われているような感覚も消え失せ、わたしが脱力すると簪はもとの姿を取り戻した。

「貴女は何者なんだ? どうしてそれほどまでに……」
「君こそ誰なの? この力は……どういうものなの?」
「私は陽炎。死神……だった。死神の力は今、貴女が持っている。それは存在の力と言われ、そうだね……器と水を想像してほしい」

 陽炎が言う存在の力とは器に注がれた水のようなものらしい。もともと、人が持つ存在の力……水は普通に過ごしていれば蒸発してなくなってしまう。それが人生。空っぽになった器は勝手に割れてしまうらしい。器こそ肉体、と言う。わたしが化物と呼んできた、あの悪魔は人という器に注がれた水の飲み干してしまう。それを陽炎たち死神が討伐していたという。まるで訳の分からない話だけれど、たった今の自分の力を考えれば納得するよりほかないのだろう。

「存在の力は人に認識されるために必要不可欠。よく言われるでしょう? 人は二度死ぬ、なんて。一度目は肉体が、器が割れた時。そして二度目は人びとから忘れられた……水が全て無くなってしまった時。悪魔に襲われた人は存在の力を失い、順序が逆な死に方をする」

 だからわたしは、百合のことを忘れてしまっていたんだ。最初からいなかった扱いをしてしまって……でも、この簪が残っていた。

「それには故人の残留思念があったのかもしれない。貴女への想いがその簪に宿っていたから、貴女は彼女のことをほんの僅かだけれど覚えてもいたし、先ほどのような力になっているのでしょうね」

 一先ず、人が生きるために必要な存在の力と呼ばれるものを奪う悪魔と呼ばれる化物を、こうして死神が倒しているということは分かった。

「じゃあ、あの時なんでキスしたの?」
「あの悪魔が奪ってしまった存在の力を補うために私の力を注いだ。器から器に移すようなもの……だったんだけど、貴女の持つ器は底が知れないわ。力のほとんどを持っていかれてしまったわ。この髪色だってそう、あの赤髪は私の持つ力の象徴だから」

 陽炎は黒化した髪を手櫛で梳きながら、少し伏し目がちにそう言った。言わんとすることは分かる。力の象徴とまで言った赤髪は、わたしが力を吸い取りすぎたせいで真っ黒になってしまった、そのことについて責任を全く感じない程わたしは非人間ではない。

「あなたの存在の力って元通りになるの?」
「おそらく、ね。死神は普通の人間と理を異にする存在だから。ただ、ここまで存在を欠くと、死神の支援機構には入れそうにないわ」

 死神にはその活動を支援する組織があると言われても、全く想像が出来ない。陽炎が言うには、そもそも死神はこことは違う世界の存在、そんな彼らがこっちの世界で活動するには支援者が必要不可欠らしい。

「行き場がないなら……家に来ればいい。近いから」

 日常と非日常の境界は、見えてなかっただけでずっと近くにあった。それをわたしは、陽炎と出会うことで知った。

「その簪を貸してくれる?」

 陽炎にそう言われ、わたしは銀の槍に姿を変えた方の簪を手渡す。彼女はそれを使って髪を結わえると、薄い紅色の火の粉が彼女を包み込む。すると……。

「あ、貴女たち、そういう関係だったのね。はぅ」

 少し狼狽えた様を晒すその少女の姿は……小此木百合のそれだった。
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