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3.日本国財政拡大

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 さて、日本が主として公共投資と、防衛費への大幅支出増を始めたのはすでに説明したが、このきっかけについて少し説明しておきたい。

 その日集まったのは、まず当時の総理大臣は阿山慎吾で、すでに7年の間その席に座っており、それに盟友とも呼ばれている首相経験者の財務大臣兼副総理麻山三千人、及び片腕の幹事長の須賀正樹は発足時からのメンバーである。それに加えて、財務副大臣、若手の三嶋直人42歳で当選2回、遅くとも来年には再度の選挙の洗礼を受けることになる。

 彼は元全日本級のラガーであり、長身ですらりとしているが逞しく浅黒く精悍な顔のハンサムであり、その爽やかな弁舌もあって、御婦人に非常に人気がある。彼は、阿山の秘蔵っ子と言われている。
 これら4人に加えて総理秘書が2名いる席で、ずんぐりした学者がプロジェクターを使って説明している。

「このように、日本国の財政は現状のところは健全であると言っていいのです」
 一通りの説明の後に、加越大学経済学部教授の高橋元太は話を締めくくるように3人の顔を順次見ながら言う。

 彼の説明の主旨は、2018年末の現在の日本国財政状況として国債など日本国政府の負債が1010兆円、しかし金融資産が460兆円あるので純負債は560兆円だ。しかも、日本政府の子会社である日本銀行が460兆円の国債をもっていて、政府はその国債の金利を日銀に払う必要があるがそれは国に返ってくる。

 つまり、日銀の持っている国債は国のものに等しいのだから、国会で議決すれば国に返納、つまり償却することも可能である。このように中央銀行が国債を引き受けることでの問題は、普通の場合インフレになることであるが、日本の今はデフレであり、日銀のこの大量の国債引き受けがあってもインフレの気配はない。

 この辺りは説明している高橋や他のエコノミストが、書籍や雑誌の記事等に繰り返し書いているので、もはや世の中には広まっており、当然聞いている3人もその記事は読んで理解している。しかし、高橋のこの論はエコノミスト全体の多数派に受けいれられているとは言えない。

 とりわけ、最も強力な反対勢力は財務省と日銀であろう。しかし、彼らとその影響力の強い学者やエコノミストは決して高橋の論に賛成しないが、また決して素人に解るように高橋の論に反論もしない。だから、素人から見ると、反論してまた言い返されるのが怖いのかなと思ってしまう。

 今日は、相の阿山が高橋呼び、麻山と須賀に同席を求めたのだ。三嶋については阿山は自分の後継者と考えており、自分では非常に重要だと思っているこの席に呼んだものだ。阿山は高橋とは以前からそれなりの付き合いがあって、彼の論も理解しており関心もある。また、エキセントリックなアメリカのスペード大統領に、その人脈を使って繋いでくれたのは実は彼なのだ。

 間もなく消費税を8%から10%に引きあげるが、この結果について阿山はそれほど心配をしていなかった。5%から1.6倍にするのと8%から1.25倍にするのはインパクトが違う。それに前の経験に懲りて能う限りのインパクトの軽減策を講じてあるから、5年前の引き上げほどの悪影響はないはずだ。

 5年前の引き上げは、間違いなく折角上向きになった経済に冷や水を浴びせた。あれは阿山にとって悪夢であり、二度と繰り返したくない思い出であった。また、財務省に本当の意味で不信感を持ったのはその案件が故であった。
 それに阿山は高橋の論はずっとフォローしており、それに半ば以上賛成していたので、彼が言うように今のところ日本の財政が財務省の言うように危機的でないとすれば、何か手を打つのはいまの内だという思いがあった。

 高橋が一旦言葉を切ったところで、三嶋副大臣が言う。
「はい、先生のそのお話は我々も承知しています。まあ、わが省の者達はトンでもないというでしようがね。とは言え、先生のおっしゃるように現状は大きな問題はないとしても、予算の30%以上が借金というのは異常と言わざるを得ません。そこをどうするかです。とりわけ、現状では支出が社会保障費と国債費といういわば固定費で半分を超えていますから、もはや動きようがないという所です」

 その言葉に高橋教授は静かに答える。
「ええ、このままいけば今言われた2つの支出のみがどんどん増えて、財政の硬直性はもはやどうにもならないようになるでしょうね」

 これに対して、三島は再度言う。
「ですから、そこをどうするかです。結局財政を拡大するしかないでしょうが、今のマスコミ、また財務省に率いられる一派は財政の拡大には猛反対しますからね。その中の政治側の私が言うのはおかしいですが」

「ただ、現状の調査では実際のところ先生の論、つまり現状の日本の財政は悪くない、ここで何とかしなくてはならないということに賛成の意見は強くなっています。少なくともインターネットの世界では、すでにその考えが主流です。わが自由民主党の議員について調べた結果はすでに、67%がその認識の元に財政の拡大に前向きです。ただ、具体的にどうすれば良いかです」
 今度は須賀官幹事長が言うと、高橋が応じる。

「ええ、おっしゃる通りで、私自身も書籍とインターネットで様々に発信した結果への手ごたえは感じています。しかしながら、私は数学出身であり、経済に関してはいわゆる権威はありません。私で良ければいくらでも手助けをしますが、財務省が築き上げた学会・経済界さらに言論界の牙城を切り崩すことはできないでしょう」

「ええ、彼らはマスコミを握っていますからね。何かやろうとすれば、あらゆる方法で妨害してきます。またとりわけ女性は、家庭の間隔で財政出動それもインフラへの支出に抵抗を持っていますから、なかなかマスコミを中心とした抵抗を崩せないのが現実です」
 三嶋が言うのに首相が説明の先を促す。

「まあ、先生の処方箋をお聞きしよう。それを聞いて、どうするかは我々の責任だ。先生お願いします」

「はい、処方箋は今も話が出ましたが、財政拡大によりインフレ喚起になります。すでに1千兆円を超えた借金を、年間65兆円足らずの収入から返すのはどう考えても不可能です。歴史を見ても、かつて英国が収入の2倍を超える借款を抱えましたが、別に破綻せずに経済成長のなかで時間をかけて返済しています。

 要は経済成長の結果、膨張した経済の中で相対的に借金の重みを減らして返したということですね。しかし、その前提条件になるのは当然、プライマリーバランス(借金の返済・利子を除いた収支バランス)を均衡させることです。しかし、それを緊縮財政によって実現させようとしたのが、過去30年の失敗であったわけです。

 確かに、福祉も全面カット、経済がシュリンクしてもやむを得ないということであれば、緊縮財政でもプライマリーバランスは実現できます。しかし、その時点では日本のGDPは恐らく半分になっていますね。だから、それは政治として選べない道ですよね」
 高橋は出席者を見渡すが皆頷いているのを見て言葉を続ける。

「ですから、唯一の道は財政拡大してインフレを起こし借金を薄めていくことです。もっとも、そもそもその借金を払う必要があるのかという議論がありますね。つまり、永遠にロールオーバー(借り換え)を繰りかえせば良いということです。
 しかしながら、利子は払う必要があるので、この場合は国が国債をもっている集団あるいは個人に所得移転を続けるということになります。これは、場合によってはある集団・個人の特権的な立場を与えることになりかねません。
 ですから、それを永遠に続けるというのは避けるべきであり、国債はいつしかは返済するという計画は必要だと思っています。

 それで、具体的手段としては、予算を膨らませて、その部分を出来るだけ今後の波及効果の高い部分に投資するということですね。額としては、私の計算では明確に効果が見える実質2%程度の成長を見込むには10兆円程度の財政拡大、それもその全額を目標の事業に投入する必要があります」高橋が、一旦言葉を切ると麻山が口を挟む。

「10兆円ですか。そうでしょうね。過去の小出しの支出は全くと言うほど効果はありませんでしたからね。とはいえ、それをやると発表したら大変な騒ぎになるでしょうな。だから相当な準備が必要ですね」

そ ういう麻山の口調は、やることを前提での話であるのを、高橋は意外に思った。麻山は首相になる前は、財政拡張論者であったように思うが、首相であった短い期間はそれどころではなくリーマンショックの後始末に追われていた。

『悪夢』ともいわれる民主党時代を終わらせて、第2次阿山政権で財務大臣になってからは、そのスタンスは今までの財務省路線をなぞった言動に終始してきた。ただ、継続的な消費税引き上げが必要と主張する財務省の主流派の論に賛成せず、今後10年は引き上げの必要はないとする阿山に賛同している。

 高橋の視線に、言わんとすることを感じたのであろう。麻山がニヤリとしながら再度口を開く。
「高橋先生、私が財政拡大に与するのを意外に思われているようですが、緊縮財政・増税派の巣窟にいて、それに真っ向から逆らえるほど私の神経は太くありません。先生とは違います」

「いやいや、麻山元総理が思われるほど、私だって古巣の財務省の組織には逆らっていません。でも、まあ反抗的な態度は見えたのでしょうね。結局、自分で就職先を見つける羽目になりましたが」
 高橋が笑いながら言うのに、今度は須賀が笑いながら口を挟む。

「でも、今のお立場だからこそ、自由に自分の言いたいことを発信できるのだと思いますよ。先生の啓蒙のお陰で、ものが判っている国民が増えて、今後我々がやろうとしていることには大きな助けになっています」

「それは有難うございます。さて話を続けますが、さっきも申し上げたように10兆円程度の真水の投資が必要と申しましたが、その程度の投資、つまり政府支出を行えば、私の計算では実質2.5%程度の成長が見込まれますが、一方で2%程度のインフレが起きます。

 つまり名目では5%近くの成長になりますから、額面に対して課税する税収には大きく効いてきます。5%の名目成長が10年続けば日本経済は1.05の10乗ですから、名目では1.63倍になって過去の国債1千兆円は610兆円程度の値打ちになります。国債の日銀引き受けは、インフレが過度にならない程度に続けていけば良いですから、その1千兆も実際には大きく減っているでしょう。

 インフレについては、日本の対外資産に留意する必要があります。不動産やドル建て債券は良いのですが、円建ての貸し付けや円建ての債券は国内のインフレ率をもろに反映しますからね。
 インフレについては、これは重々ご承知のように貯金の目減りを防ぐために投資が盛んになることは確かですが、それが実体経済に結び付くには、適当な投資先が必要です」
 高橋は須賀の言葉を受けて、このように説明を続けたが、一息ついたところで、須賀が口を挟む。

「そうでしょうね。しかし、当面相当部分はインフラと防衛費になりますね」
「防衛費?やはり、スペード大統領のあのツイートはブラフではなかったのですね?」
 その話に高橋が食いつき、須賀が応じる。

「ええ、アメリカはどうも共和党、民主党とも上層部はそういう意向のようです。防衛費は相当増やさないと仕方がないですね」

「まあ、日米同盟は無論残ります。片務的な形は改めるというのが、アメリカの確固たる要求です。これはしかし、我が国のアメリカからの自立はいつか必要でしたから、ある意味当然のことです。このことはまた、憲法改正が必然ということを意味します」
 今度は阿山が口を挟み、それに高橋が応じるように続ける。

「なるほど。いずれにしてもそうした場合の投資は、日本での生産に結び付く形である必要があります。そうでないとさきほど申したような効果は出ませんので。それと、今回私が申した方策は、財政を拡大した結果を好景気と言う形で誰にも理解できるような形で見せることなのです。

 また同時に、今後財政再建の確固たる指標にしようと思っている、借款に対するGDPの比を下げることで、投資が有効に使われたことを人々に理解してもらいます。これは概ね5年続けることになるでしょう。しかし、その時点では、プライマリーバランスは概ね均衡しますが、返済のところまではいかないはずです。
 さらに、この結果をもってさらに拡大することにも理解を得て、多分100年程度の期間を要する返済が始めるわけです。それから………」
 高橋は自分で計算して作成した、様々な表や図を見せながら解りやすいように説明していく。

 高橋が説明を終えると、阿山、須賀に麻山が顔を見合わせて頷きあう。そして阿山が口を開いた。
「高橋先生、非常に解りやすい話をありがとうございました。まさに、我々の望んだものでした。わが阿山政権は、我が国の将来のために、手遅れにならない、今しかないこの時期に先生の言われる方法を実行しようと思っております。それに当たっては様々な障害があります。

 まず予想されるのは、未だに消費増税を唱えている一派のマスコミを通じてのネガティブ報道です。調査の結果では、現状では国民の皆さんは我々が真摯に訴えていけば、この財政拡大を受け入れてくれると出ています。しかし、予想される猛烈なネガティブキャンペーンに遇えば、敗北に終わることも十分考えられます。

 そこで、この政策の理論的なバックボーン、そしてオーガナイザーとして先生には是非内閣に入って頂きたいと思っています。現在『経済再生担当大臣』の席は空席になっています。先生には席に座って頂きたいと思っております。どうか、御承諾をお願いします」

 テーブル席の後ろで首相、官房長官、財務大臣に財務副大臣の3人が立ち上がって、深々と頭を下げる。
高橋は座ったままで聊か驚いていたが、日本国における重鎮が頭を下げていること気が付いて少し慌てて立ち上がる。そして、手を広げて「い、いや、その頭を下げるのは止めてください」と言う。高橋としては、内閣参与位の話はあるかなとはぼんやりとは思っていた。

 現在の彼の勤める大学は、世間的には精々2流か3流大学ではあるが、高橋が世間に評価されるとともに彼を慕ってくる学生もおり、学内ではなかなか居心地が良い。また、学者から大臣になった者はいるが、通常なら高橋の勤め る大学レベルではありえない。
 そして、彼も実際のところは日本の行く末を憂いていたから、首相以下の決心を聞いて本当にうれしかったのだ。また、自分がその先頭に立って日本の将来を決めるプロジェクトに携われるというのは望むところと言う思いもあった。

阿山首相が頭を上げ自分の目を見て、「引き受けて頂けますよね?」と言った時、高橋は固い決心の元に頷いて返事をした。

「はい、引き受けます。この高橋、残り少ない人生全身全霊を挙げてやります」
そして、始まったその激務に、その時の自分の発言を何度後悔したことか。しかし、彼は与えられた責務をヘロヘロになりながらも立派に果たした。

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