上 下
65 / 73

新婚旅行と林檎占い14

しおりを挟む
 夜道は当たり前に暗かった。まっすぐにいけば街に着くと放り出された。屋敷からはずいぶんと離れた場所に連れてこられていたらしく、近くに家は一つもなかった。麦畑が広がり、反対側はだだっ広い野原だった。遠くの森で何かが鳴いていた。どれだけ歩いたのだろうか。足が重かった。
 これでいいのだ。車一台通れるくらいの暗い道を歩いた。いいのだ、これまで何度も繰り返してきた言葉を頭の中で繰り返す。いつだって私は諦める側で、従う側で、だからこれでいいのだ。テントを振り返ったりしないのだ。前を向いて歩く。まっすぐに伸びる若い麦穂が揺れてむき出しになった二の腕にちくちくした。痛い。手首に滲んだ擦過傷より、二の腕が痛い。

「いいんだ」

 青い麦穂をちぎった。「保身なんて」というやつは自分の身を守ることがどれだけ大変か分かっていないのだ。「逃げるな」というやつは自分がどれだけ恵まれた環境にいるか知らないのだ。
 自分の無事が第一だ。だからこれでいいのだ。だってここは私の生きる場所じゃない。私は帰るのだ。そのためには生きていないといけないのだ。同居人の代わりはいても、自分の代わりはいないのだから。言い聞かせる。だけどどうしてだろう。風が冷たい。ぬるい、熱い。分からない。太陽が眩しい、いや、まだ夜だ。だけど生きていなくちゃ意味がない。
 前に踏み出す足が重い。最後に一度だけ。振り返った。
 テントから十メートルも離れていなかった。足跡はレールのように二本の線になっていた。

「なんだこれ」

 笑ってしまった。牛歩戦術でもしているのかというほど亀の歩みだ。涙が出た。
 テントの入口で灯りが揺れた。編み笠男が荷車の上にヤツとワラビを乗せていた。なんであんなヤツとワラビが同じとこに乗らなくちゃならないんだ。ぐつぐつと涙が沸いた。噛んだ唇に、握った拳に、冷静な頭が『帰るのだろう、だからワラビを見捨てたのだろう』という。
 そうだ、帰るんだ。時々おかずをくれたおばさん、いつも会うと声をかけてくれた子、こんな自分にいつも「大丈夫」だと言ってくれた人、慕ってくれた職場の後輩。優しくしてくれた人たちの顔が浮かんだ。
 逃げるんだ。走るんだ。頭はいう。

「ははっ、無理だよ」
 だけど、地面に張り付いたままの足は一歩も動かない。こんな大事なときに、逃げ方が思い出せない。走り方が分からない。やっぱり私は馬鹿なのだ。
「仕方ないよ」

 誰かを見捨てるために何度も使った言葉を、初めて見捨てないために呟いた。少しだけ誇らしい気がしたけれど、体は正直だった。死ぬほど膝が笑った。どこまでいっても私は臆病者なのだ。
 荷車が動き出した。このままではおいて行かれる。私は涙を拭いて恐怖に震える膝を掴むと、そのまま一歩前に出した。地面が揺れている気がした。それでも一歩、また一歩、膝を掴んだまま後を追った。

 ※

 荷車の走る音と、馬の蹄の音、麦穂が風にそよぐ音。隠れる場所もない一本道は、つけているのがばれないか怖かったが、編み笠男が振り返ることはなかった。編み笠男は途中で道のない野原に進路を変えた。麦畑すらないだだっ広い野原では隠れる場所がない。さすがに私も馬鹿正直についていくほど考えなしではない。見回せば、少し離れたところに森があった。当たり前だが街灯なんてものはなく、想像の何倍も真っ暗で灯りを愛する現代人には恐怖の塊だったが仕方がない。どうか肉食動物のいない森であってくれと願いながら、森づたいに後を追った。
 どれだけ何もない場所を進んだのか。編み笠男は何もない場所で止まると、荷車を斜めにして、ワラビとアスタを殺したヤツを落とした。男はそのまま振り返りもせずに荷車を再び馬に括り付け始めた。まさかこのまま野原に放置する気なのか。人目のないところに捨てるというあまりに原始的な方法に、人殺しなんてしたことないが、殺人犯としてはあまりにやる気のない仕事っぷりにさすがに少し編み笠男の頭が心配になった。すぐに発見された方がいいということなのか。でもそれなら物取りに見せかけるにしても諍いに見せかけるにしてもこんな場所より街中の方がいいはずだ。それともここではこれが常識なのだろうか。編み笠男は振り返りもせず去っていく。証拠隠滅なんてことを考えていた自分がものすごく醜い人間のように思えた。いやともかく埋められたり燃やされたりしなかっただけいい。落とされたときに、ワラビはかすかに動いた気がした。きっと死んだふりをしているのだ。だけどそんな呑気な考えはすぐに吹っ飛んだ。

「え?」

 沈んだ?思わず目を瞬いた。疲れて目がおかしくなっているのかもしれない。地面に人が沈むなんてありえない。だが目を開いても目の前の光景は変わらない。二人の体がなぜか地面に沈んでいく。
 気づけば走っていた。

「やめろ!」
「来たか。やはり仲間がいるというのは嘘だったようだな」

 編み笠男が私の前に立ち塞がると、周囲を見渡した。近くによれば野原だと思ったものは微妙に地面の色が変わっている。沼のような泥のような場所だった。ああ、そうか。元から逃がすつもりなんてなかったのだ。一緒に片付けるつもりで、ついてきていることに気づいて気づかないふりをしていたのだ。隠れることのできない場所ならもし私が兵を連れてきたとしてもすぐにわかる。一度も振り返らずここまで来たのも、私をおびき出すためだ。もろともに「証拠隠滅」をするつもりなのだ。頭大丈夫だろうかと思った自分を呪いたい。

「や、めろ、ハルは見逃すと」
「だいじょぶ、ワラビ、待つ」

 こうしている間にもワラビは沈む。私は編み笠男に突進した。お手本は昔すぐ手が出る近所のお兄ちゃんに殴りかかった小柄な幼馴染だ。あいつはレスリングみたいにタックルしていた。足をとってそのまま沼に放り投げるのだ。こんなことなら「レスリングやろうよ」と言われたときに見学だけじゃなく一度くらい練習しとくべきだった。剣を抜かれたら終わりだ。がむしゃらに掴みかかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

とある高校の淫らで背徳的な日常

神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。 クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。 後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。 ノクターンとかにもある お気に入りをしてくれると喜ぶ。 感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。 してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

明智さんちの旦那さんたちR

明智 颯茄
恋愛
 あの小高い丘の上に建つ大きなお屋敷には、一風変わった夫婦が住んでいる。それは、妻一人に夫十人のいわゆる逆ハーレム婚だ。  奥さんは何かと大変かと思いきやそうではないらしい。旦那さんたちは全員神がかりな美しさを持つイケメンで、奥さんはニヤケ放題らしい。  ほのぼのとしながらも、複数婚が巻き起こすおかしな日常が満載。  *BL描写あり  毎週月曜日と隔週の日曜日お休みします。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

パンツを拾わされた男の子の災難?

ミクリ21
恋愛
パンツを拾わされた男の子の話。

お兄ちゃんはお兄ちゃんだけど、お兄ちゃんなのにお兄ちゃんじゃない!?

すずなり。
恋愛
幼いころ、母に施設に預けられた鈴(すず)。 お母さん「病気を治して迎えにくるから待ってて?」 その母は・・迎えにくることは無かった。 代わりに迎えに来た『父』と『兄』。 私の引き取り先は『本当の家』だった。 お父さん「鈴の家だよ?」 鈴「私・・一緒に暮らしていいんでしょうか・・。」 新しい家で始まる生活。 でも私は・・・お母さんの病気の遺伝子を受け継いでる・・・。 鈴「うぁ・・・・。」 兄「鈴!?」 倒れることが多くなっていく日々・・・。 そんな中でも『恋』は私の都合なんて考えてくれない。 『もう・・妹にみれない・・・。』 『お兄ちゃん・・・。』 「お前のこと、施設にいたころから好きだった・・・!」 「ーーーーっ!」 ※本編には病名や治療法、薬などいろいろ出てきますが、全て想像の世界のお話です。現実世界とは一切関係ありません。 ※コメントや感想などは受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 ※孤児、脱字などチェックはしてますが漏れもあります。ご容赦ください。 ※表現不足なども重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけたら幸いです。(それはもう『へぇー・・』ぐらいに。)

女性が全く生まれない世界とか嘘ですよね?

青海 兎稀
恋愛
ただの一般人である主人公・ユヅキは、知らぬうちに全く知らない街の中にいた。ここがどこだかも分からず、ただ当てもなく歩いていた時、誰かにぶつかってしまい、そのまま意識を失う。 そして、意識を取り戻し、助けてくれたイケメンにこの世界には全く女性がいないことを知らされる。 そんなユヅキの逆ハーレムのお話。

処理中です...