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新婚旅行と林檎占い14
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夜道は当たり前に暗かった。まっすぐにいけば街に着くと放り出された。屋敷からはずいぶんと離れた場所に連れてこられていたらしく、近くに家は一つもなかった。麦畑が広がり、反対側はだだっ広い野原だった。遠くの森で何かが鳴いていた。どれだけ歩いたのだろうか。足が重かった。
これでいいのだ。車一台通れるくらいの暗い道を歩いた。いいのだ、これまで何度も繰り返してきた言葉を頭の中で繰り返す。いつだって私は諦める側で、従う側で、だからこれでいいのだ。テントを振り返ったりしないのだ。前を向いて歩く。まっすぐに伸びる若い麦穂が揺れてむき出しになった二の腕にちくちくした。痛い。手首に滲んだ擦過傷より、二の腕が痛い。
「いいんだ」
青い麦穂をちぎった。「保身なんて」というやつは自分の身を守ることがどれだけ大変か分かっていないのだ。「逃げるな」というやつは自分がどれだけ恵まれた環境にいるか知らないのだ。
自分の無事が第一だ。だからこれでいいのだ。だってここは私の生きる場所じゃない。私は帰るのだ。そのためには生きていないといけないのだ。同居人の代わりはいても、自分の代わりはいないのだから。言い聞かせる。だけどどうしてだろう。風が冷たい。ぬるい、熱い。分からない。太陽が眩しい、いや、まだ夜だ。だけど生きていなくちゃ意味がない。
前に踏み出す足が重い。最後に一度だけ。振り返った。
テントから十メートルも離れていなかった。足跡はレールのように二本の線になっていた。
「なんだこれ」
笑ってしまった。牛歩戦術でもしているのかというほど亀の歩みだ。涙が出た。
テントの入口で灯りが揺れた。編み笠男が荷車の上にヤツとワラビを乗せていた。なんであんなヤツとワラビが同じとこに乗らなくちゃならないんだ。ぐつぐつと涙が沸いた。噛んだ唇に、握った拳に、冷静な頭が『帰るのだろう、だからワラビを見捨てたのだろう』という。
そうだ、帰るんだ。時々おかずをくれたおばさん、いつも会うと声をかけてくれた子、こんな自分にいつも「大丈夫」だと言ってくれた人、慕ってくれた職場の後輩。優しくしてくれた人たちの顔が浮かんだ。
逃げるんだ。走るんだ。頭はいう。
「ははっ、無理だよ」
だけど、地面に張り付いたままの足は一歩も動かない。こんな大事なときに、逃げ方が思い出せない。走り方が分からない。やっぱり私は馬鹿なのだ。
「仕方ないよ」
誰かを見捨てるために何度も使った言葉を、初めて見捨てないために呟いた。少しだけ誇らしい気がしたけれど、体は正直だった。死ぬほど膝が笑った。どこまでいっても私は臆病者なのだ。
荷車が動き出した。このままではおいて行かれる。私は涙を拭いて恐怖に震える膝を掴むと、そのまま一歩前に出した。地面が揺れている気がした。それでも一歩、また一歩、膝を掴んだまま後を追った。
※
荷車の走る音と、馬の蹄の音、麦穂が風にそよぐ音。隠れる場所もない一本道は、つけているのがばれないか怖かったが、編み笠男が振り返ることはなかった。編み笠男は途中で道のない野原に進路を変えた。麦畑すらないだだっ広い野原では隠れる場所がない。さすがに私も馬鹿正直についていくほど考えなしではない。見回せば、少し離れたところに森があった。当たり前だが街灯なんてものはなく、想像の何倍も真っ暗で灯りを愛する現代人には恐怖の塊だったが仕方がない。どうか肉食動物のいない森であってくれと願いながら、森づたいに後を追った。
どれだけ何もない場所を進んだのか。編み笠男は何もない場所で止まると、荷車を斜めにして、ワラビとアスタを殺したヤツを落とした。男はそのまま振り返りもせずに荷車を再び馬に括り付け始めた。まさかこのまま野原に放置する気なのか。人目のないところに捨てるというあまりに原始的な方法に、人殺しなんてしたことないが、殺人犯としてはあまりにやる気のない仕事っぷりにさすがに少し編み笠男の頭が心配になった。すぐに発見された方がいいということなのか。でもそれなら物取りに見せかけるにしても諍いに見せかけるにしてもこんな場所より街中の方がいいはずだ。それともここではこれが常識なのだろうか。編み笠男は振り返りもせず去っていく。証拠隠滅なんてことを考えていた自分がものすごく醜い人間のように思えた。いやともかく埋められたり燃やされたりしなかっただけいい。落とされたときに、ワラビはかすかに動いた気がした。きっと死んだふりをしているのだ。だけどそんな呑気な考えはすぐに吹っ飛んだ。
「え?」
沈んだ?思わず目を瞬いた。疲れて目がおかしくなっているのかもしれない。地面に人が沈むなんてありえない。だが目を開いても目の前の光景は変わらない。二人の体がなぜか地面に沈んでいく。
気づけば走っていた。
「やめろ!」
「来たか。やはり仲間がいるというのは嘘だったようだな」
編み笠男が私の前に立ち塞がると、周囲を見渡した。近くによれば野原だと思ったものは微妙に地面の色が変わっている。沼のような泥のような場所だった。ああ、そうか。元から逃がすつもりなんてなかったのだ。一緒に片付けるつもりで、ついてきていることに気づいて気づかないふりをしていたのだ。隠れることのできない場所ならもし私が兵を連れてきたとしてもすぐにわかる。一度も振り返らずここまで来たのも、私をおびき出すためだ。もろともに「証拠隠滅」をするつもりなのだ。頭大丈夫だろうかと思った自分を呪いたい。
「や、めろ、ハルは見逃すと」
「だいじょぶ、ワラビ、待つ」
こうしている間にもワラビは沈む。私は編み笠男に突進した。お手本は昔すぐ手が出る近所のお兄ちゃんに殴りかかった小柄な幼馴染だ。あいつはレスリングみたいにタックルしていた。足をとってそのまま沼に放り投げるのだ。こんなことなら「レスリングやろうよ」と言われたときに見学だけじゃなく一度くらい練習しとくべきだった。剣を抜かれたら終わりだ。がむしゃらに掴みかかった。
これでいいのだ。車一台通れるくらいの暗い道を歩いた。いいのだ、これまで何度も繰り返してきた言葉を頭の中で繰り返す。いつだって私は諦める側で、従う側で、だからこれでいいのだ。テントを振り返ったりしないのだ。前を向いて歩く。まっすぐに伸びる若い麦穂が揺れてむき出しになった二の腕にちくちくした。痛い。手首に滲んだ擦過傷より、二の腕が痛い。
「いいんだ」
青い麦穂をちぎった。「保身なんて」というやつは自分の身を守ることがどれだけ大変か分かっていないのだ。「逃げるな」というやつは自分がどれだけ恵まれた環境にいるか知らないのだ。
自分の無事が第一だ。だからこれでいいのだ。だってここは私の生きる場所じゃない。私は帰るのだ。そのためには生きていないといけないのだ。同居人の代わりはいても、自分の代わりはいないのだから。言い聞かせる。だけどどうしてだろう。風が冷たい。ぬるい、熱い。分からない。太陽が眩しい、いや、まだ夜だ。だけど生きていなくちゃ意味がない。
前に踏み出す足が重い。最後に一度だけ。振り返った。
テントから十メートルも離れていなかった。足跡はレールのように二本の線になっていた。
「なんだこれ」
笑ってしまった。牛歩戦術でもしているのかというほど亀の歩みだ。涙が出た。
テントの入口で灯りが揺れた。編み笠男が荷車の上にヤツとワラビを乗せていた。なんであんなヤツとワラビが同じとこに乗らなくちゃならないんだ。ぐつぐつと涙が沸いた。噛んだ唇に、握った拳に、冷静な頭が『帰るのだろう、だからワラビを見捨てたのだろう』という。
そうだ、帰るんだ。時々おかずをくれたおばさん、いつも会うと声をかけてくれた子、こんな自分にいつも「大丈夫」だと言ってくれた人、慕ってくれた職場の後輩。優しくしてくれた人たちの顔が浮かんだ。
逃げるんだ。走るんだ。頭はいう。
「ははっ、無理だよ」
だけど、地面に張り付いたままの足は一歩も動かない。こんな大事なときに、逃げ方が思い出せない。走り方が分からない。やっぱり私は馬鹿なのだ。
「仕方ないよ」
誰かを見捨てるために何度も使った言葉を、初めて見捨てないために呟いた。少しだけ誇らしい気がしたけれど、体は正直だった。死ぬほど膝が笑った。どこまでいっても私は臆病者なのだ。
荷車が動き出した。このままではおいて行かれる。私は涙を拭いて恐怖に震える膝を掴むと、そのまま一歩前に出した。地面が揺れている気がした。それでも一歩、また一歩、膝を掴んだまま後を追った。
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荷車の走る音と、馬の蹄の音、麦穂が風にそよぐ音。隠れる場所もない一本道は、つけているのがばれないか怖かったが、編み笠男が振り返ることはなかった。編み笠男は途中で道のない野原に進路を変えた。麦畑すらないだだっ広い野原では隠れる場所がない。さすがに私も馬鹿正直についていくほど考えなしではない。見回せば、少し離れたところに森があった。当たり前だが街灯なんてものはなく、想像の何倍も真っ暗で灯りを愛する現代人には恐怖の塊だったが仕方がない。どうか肉食動物のいない森であってくれと願いながら、森づたいに後を追った。
どれだけ何もない場所を進んだのか。編み笠男は何もない場所で止まると、荷車を斜めにして、ワラビとアスタを殺したヤツを落とした。男はそのまま振り返りもせずに荷車を再び馬に括り付け始めた。まさかこのまま野原に放置する気なのか。人目のないところに捨てるというあまりに原始的な方法に、人殺しなんてしたことないが、殺人犯としてはあまりにやる気のない仕事っぷりにさすがに少し編み笠男の頭が心配になった。すぐに発見された方がいいということなのか。でもそれなら物取りに見せかけるにしても諍いに見せかけるにしてもこんな場所より街中の方がいいはずだ。それともここではこれが常識なのだろうか。編み笠男は振り返りもせず去っていく。証拠隠滅なんてことを考えていた自分がものすごく醜い人間のように思えた。いやともかく埋められたり燃やされたりしなかっただけいい。落とされたときに、ワラビはかすかに動いた気がした。きっと死んだふりをしているのだ。だけどそんな呑気な考えはすぐに吹っ飛んだ。
「え?」
沈んだ?思わず目を瞬いた。疲れて目がおかしくなっているのかもしれない。地面に人が沈むなんてありえない。だが目を開いても目の前の光景は変わらない。二人の体がなぜか地面に沈んでいく。
気づけば走っていた。
「やめろ!」
「来たか。やはり仲間がいるというのは嘘だったようだな」
編み笠男が私の前に立ち塞がると、周囲を見渡した。近くによれば野原だと思ったものは微妙に地面の色が変わっている。沼のような泥のような場所だった。ああ、そうか。元から逃がすつもりなんてなかったのだ。一緒に片付けるつもりで、ついてきていることに気づいて気づかないふりをしていたのだ。隠れることのできない場所ならもし私が兵を連れてきたとしてもすぐにわかる。一度も振り返らずここまで来たのも、私をおびき出すためだ。もろともに「証拠隠滅」をするつもりなのだ。頭大丈夫だろうかと思った自分を呪いたい。
「や、めろ、ハルは見逃すと」
「だいじょぶ、ワラビ、待つ」
こうしている間にもワラビは沈む。私は編み笠男に突進した。お手本は昔すぐ手が出る近所のお兄ちゃんに殴りかかった小柄な幼馴染だ。あいつはレスリングみたいにタックルしていた。足をとってそのまま沼に放り投げるのだ。こんなことなら「レスリングやろうよ」と言われたときに見学だけじゃなく一度くらい練習しとくべきだった。剣を抜かれたら終わりだ。がむしゃらに掴みかかった。
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