と或る王の物語

雪野 千夏

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第一部 国売りのセド

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「これは、セドです。ハル・ヨッカーはただ対価を言ったにすぎません。国を売りにかけた人間が、どんな対価を提示されようと人を殺してよい理由にはなりません。セドに出したその時点で後戻りはできないのです」

 ユビナウスの目には強い意志があった。初日に唯々諾々と王の弁に従い国売りのセドの手続きをした男と同じとは思えなかった。
「憎いか」
 王はユビナウスを見もしなかった。ハル・ヨッカーだけを見ていた。
 ユビナウスは握りしめかけた拳をゆっくりと開いた。
「私はこのセドの担当です。私は私の仕事をしているだけです」
「そうか」
 王は目を眇めた。一拍、二拍。
 不可思議な沈黙が二人の間に漂う。

「ならば、我に触れるな!」

 王はユビナウスの腹を蹴った。ユビナウスの体は勢いよく吹っ飛んだ。血だまりの床を滑り、総史庁長官の体にぶつかった。総史庁の青い制服が血を吸い、黒ずんでいく。
 ユビナウスは生ぬるい血だまりと、冷たい床を感じながら、息子とも言ってくれた人の亡骸に手をつついた。死者が起き上がったかと見紛う姿に、気の弱い大臣の幾人かが悲鳴をあげた。
 ユビナウスは口の中に広がった血を飲み込み、右の瞼にべったりとはりついた血を拭った。血が髪を伝い、総史庁第三席を示す徽章の上に落ちた。

『君は自分の仕事をすればいい。迷うことはない。あとはこちらでうまくやろう』
『規則を守り死ぬか、良心に従い生きるか、選びなさい。君が選ぶのは王でも私でもない、民の未来だ』

 ユビナウスの頭に昨夜のタラシネ皇子と宰相の言葉がよぎった。
 同時にヴァレリアン総史庁長官の声もよみがえる。

『お前はお前の仕事をしろ』
 
 ユビナウスは宰相を、ゾニウス侯爵を、サルナルド将軍を、そして王を見た。
 ユビナウスがすべきことは一つだ。
 ユビナウスは腹に力を入れた。

「総史庁第三席ユビナウス・ハーレンの名において、このセドの担当官として警告いたします。これ以降、セドを冒とくする行いをなした者についてはセド総則に則り、厳正に対処いたします」

 謁見の間がどよめいた。
 セドにおける厳正に対処。それはセドへの参加権の永久はく奪、そして場合によっては罰金として私財没収、投獄・死罪さえある。セドが経済の一端を担うこの国において全くセドに関わらないことなどできない。厳しい措置だ。これまでは収賄や刃傷沙汰になったときに適用されてきたが、大貴族、まして王に対して使われたことなどなかった。国売りのセドを出した王が前代未聞なら、王に対して罪に問うと正面切って口にした文官も前代未聞だった。

「ほう。面白い、ことをいうな」

 王はくつりと笑った。それきり、ユビナウスを見たまま口を閉じる。
 ユビナウスは奥歯を噛みしめた。王の視線一つで抜けそうな膝を叱咤し、前を向いた。

「一文官が何の権限あって、そのようなことを口にする」
 口を開いたのは宰相だった。
「権限と申されますか」
 ユビナウスは服の裾をさばき、宰相に向き直った。ユビナウスの服の裾からヴァレリアン総史庁長官の血が飛んだ。
「さよう、セド総則による処罰が行えるのは総史庁長官だけだ。総史庁の一文官にすぎぬそなたが口を挟むのは謁見も甚だしい」

 宰相は白い床に散ったヴァレリアン総史庁長官の血を、冷たい目で見た。
 ユビナウスは噛みしめた奥歯をぎりりと鳴らし、総史庁第三席を示す徽章を引きちぎった。驚きに目を見張る周りなど気にせず、懐から別の徽章を取り出した。

「私が次期、総史庁長官だからです」

 ユビナウスは新たに取り出した徽章を誰にでも見えるように掲げた。 
 公正を示す秤と富を示す水がめ、その下に深い青の一本線。
 総史庁長官を示す徽章だった。

「な、次の長官は副長官ではないのか!?」
 焦ったように宰相を見たのは元老院の議長でもあるゾニウス侯爵だった。
「総史庁では長官に不測の事態が起きた場合でもセドを円滑に行うために、常に後任たるべきものに長官の徽章を託すことになっております。長官より、もしものことがあった場合のことは全て言いつかっております」

 今朝から副長官の姿を見かけないと思ったが、どうやら副長官にも宰相の手は伸びていたらしい。ユビナウスは確信とともに口にした。

「そのようなこと聞いてはおらぬ。そ、そそ、それに、なれば副長官こそ適任であろう!」
「では、伺います。侯爵が副長官こそが長官にふさわしいと思われる理由は何でしょうか?……それこそが、副長官が長官としてあってはならぬ理由です」

 ゾニウス侯爵が忌々し気に唸り声をあげた。
 ここからが正念場だ。
 ユビナウスは手の平についたヴァレリアン総史庁長官の血を握り締めた。
 総史庁長官の人選は議会から独立しているが、王に任命されなければ、王制のこの国では力を振るうことができない。王に何をしてでも認めてもらわなければならなかった。王を罰するという者を任命するとは思えなかったが、長官の席を他の者に渡すわけにはいかない。

「王、総史庁長官とは誰の意にも染まらぬ者。それを失ったとき、任を退くべきとされております。どうか、ご判断を」

 ユビナウスは式典以外でしたことのない正式礼をし、徽章を王に差し出し、深く頭を下げた。ユビナウスの首筋が露わになる。正式礼とともに意見を述べ、相手に首筋を見せる行為はすなわち、全ての判断に従うという意思表示だ。
 死ねと言われれば死ななければならない。
 誰かが息をのむ音がした。

 王の目は静かだった。見たことのないほど穏やかな目で、差し出された徽章を手の中で転がした。徽章の天秤と水がめの下の一本線を指でなぞり、王の顔色をうかがう者ばかりのこの王城で、幾久しく聞いたことのない正論をぶちまけた男を見下ろした。
 命を差し出すつもりだ、と示すように深々と頭をたれ、その首すじを露わにしている男。

「で、あるか」

 王は剣先を床に乗せた。
 一歩。一歩。ユビナウスに向かって歩く。剣はカリカリと音をたて床を削り、跪いたユビナウスの視線の先で止まった。剣先がふっと宙に浮き、ヴァレリアン総史庁長官の血に濡れたユビナウスの右ひざに触れた。
 膝、太もも、腹、腕、心臓。
 撫で上げるように、王の剣はヴァレリアン総史庁長官の血に濡れたユビナウスの右半身を辿った。
 急所に来るたび止まる剣に、ユビナウスは最初こそ肩を震わせたが、その後は無心で床に飛び散った血を見つめた。
 王は目を細めると、誰にも聞こえないほど小さな吐息で笑った。ユビナウスは動かない。王は手首を回した。ユビナウスの心臓にぴたりと当たっていた剣が半円を描き、静かにユビナウスの肩に乗った。
 殺される。
 肩というより、首に近いその位置に、誰もがそう思った。だが、いつまでも肩の上で止まったままの剣に、すぐにそれが略式の任命式だと理解した。
 宰相が顔色を変え、ゾニウス侯爵は唇を震わせた。ラオスキー侯爵もニリュシードも目を見張り、タラシネ皇子は静かに事の成り行きを見守った。
 ユビナウスは気づかれぬよう息を吐き、石の床の溝を伝う血を見つめた。

「王、おやめください。その男の許可印が今回のセドに使われていたのですぞ!」
 宰相が声を上げた。
「で、あるか」
 王は止まらなかった。ユビナウスの右肩に一回、左肩に一回、剣を触れさせる。
「顔を上げよ」
 王とユビナウスの視線が絡まる。真正面から見た王の姿にユビナウスは目を見張った。
「これより其方は総史庁長官、我の臣だ。そのことを忘れるな」 
 王はそれだけ言うと、剣を収め、玉座へと踵を返した。

「王!」
「不満があれば、このセドののち、この者を罷免でも処刑でもすればよい。新しき王とな。今は我が、王だ。わかったら黙れヤホネス。我がその口閉じさせたくなる前にな」

 宰相が口を閉じる。
 もはや誰もユビナウスの総史庁長官就任に異を唱える者はいなかった。
 ユビナウスは玉座の階を上る王の後ろ姿に頭を下げた。血に濡れた頬から滴が落ちた。
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