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11. 蒼海こゆる東の妃(二)

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 木立の上を小鳥達がチチと鳴き交わしながら飛び過ぎていく。空を見上げるとその数三羽。その小さな影が傾きかけた太陽を追うように飛び去っていったのを見届けて白蘭が視線を下げると、東妃もまたその三羽の鳥を眺めていたようだった。

「私と卓瑛、そして冬籟。三人は少し前まであの小鳥たちのように一緒に外で遊んでいたものです」

 その東妃に当時の活発そうな少女の面影はない。冬籟がどこか恨むような口調で言う。

「でも、藍可はそのうち卓瑛と書を読むのを好むようになった」

 東妃は弟に対する姉のように「いつまでも子どもでいられないわ」とたしなめ、そして茶器を置くと卓上で両手を組んだ。

「漣国から董への使者は四隻の船に分かれて航海に出ます」

 それは何か事があっても四隻の内どれかがたどり着けばいいからだという。琥商人達の砂漠の旅も厳しいが、海を渡る航海も過酷なものだ。

「東妃候補の少女達も四隻の船に一人ずつ分かれて乗っていました。ただ出航する前の港での宿は一緒で、私たちはとても気が合って仲が良かった」

 過去形。それはつまり……。

「生きて董に着いたのは私だけです。一隻は嵐で遭難し、一隻も帆が壊れて漂流してしまいました。上陸を目前にした董の沿海部では、残りの二隻が海賊に襲われて……。私の船は逃げ切れましたが、もう一隻は海賊に乗り込まれてしまいました。その船から怒号と悲鳴が聞こえてきて……。中には私が仲良くしていた少女のものも……」

「海賊……」

 東妃は目をつむり、拳を握りしめて唇を震わせる。

「どうして私だけが生き残ってしまったのでしょう?」

 白蘭は一瞬戸惑ったものの思い起こした。災害などの危機を生き残った人間は、ある種の罪悪感を抱えてしまう。隊商を引退した老商人がそう言っていた。彼自身が砂嵐から九死に一生を得、失った仲間に対してそう感じてしまうのだと。

「どうして他の娘たちが亡くなってしまったのに私だけが……。彼女達は何も悪いことをしていないのに。私だって天に選ばれるほど素晴らしい人間でもないのに」

「東妃様……」

「私はまだ子どもでしたから、董に来てしばらくは珍しい生活に気を取られてあまり思い出すことがありませんでした。卓瑛と冬籟と実の家族のように過ごせて幸せでしたし……」

「……」
「だけど、だんだん大人になる中で怖くなってきました。人の生死は偶然に左右される。私の命だって抗いがたい運命に飲み込まれるだけ。私は、自分の足元がおぼつかない気がしてたまらなくなった……」

 冬籟は「考えすぎだ」と苦い顔をするが、一般に大人になる手前の年頃というのは自分の人生の意味を思い悩むものだ。ましてや、董に来るまでの旅で生死を分けるような経験を抱えていては無邪気でいられないのも当然だろう。

「この私の不安な気持ちを共有してくれたのが卓瑛だったの」

「陛下がですか?」

「卓瑛もまた他の兄弟が早世されたから皇太子になったわ。卓瑛の実の母君は身分が低いし産褥で亡くなられたから卓瑛には守ってくれる大人はいなかった。本来はとても玉座につける立場ではなかったの」

 それゆえ先帝は皇后に嫌がらせで育てさせたのだろう。ただ、蒼海に波乱を起こす天は、董の王宮でも気まぐれにそして残酷に振る舞った。皇太子に相応しい子は次々に病や事故でこの世を去っていく。

「卓瑛も、私のように『どうして自分だけが生き残ったのか』『自分の人生は運命に翻弄されるだけなのか』と悩んでいたの。だから、私たちはどこか寄る辺ない気持ちを抱えて二人で過ごすことが多くなった」

 冬籟が面白くなさそうな顔で茶器をいじっている。

「私が正式に東妃になる話が持ち上がった頃、冬籟が私に『一緒に後宮から外に出ないか』と誘ってくれたけれど、もうその頃には私は卓瑛を愛するようになっていて」

「は?」

 白蘭が冬籟に顔を向けると、彼は男くさい精悍な顔を真っ赤に染めていた。

 ──ははーん。なるほど。

 冬籟は東妃が好きなのだ。なるほど白蘭に疑いを向けられて「東妃は悪巧みをするような女じゃない」とあんな怒鳴り声も出すわけだ。

「俺は……。卓瑛がいつかは西妃か南妃を皇后にしなくてはならないから、後宮にいても藍可が辛い思いをするだけだと思って……」

「冬籟にはそのときにも言ったわね。人の一生には何が起こるか分からない。でも何があっても私は自分の人生を後悔したくないの。私は卓瑛を愛しているから自分が納得いくようにきちんと愛し抜いて生きたいの」

「……」

 東妃の声に力がこもる。

「そして卓瑛に皇帝としての責務があるように、私も、彼が誰を寵愛しようと東妃の務めを果たさなければ」

「東妃の務め、ですか?」

「漣国が危険を冒してまで使節を送るのは、進んだ政治と文化を董から学ぶためです。青龍を介した関係はないので利益が無くなれば遣使を打ち切りますが、今の董には漣が取り入れるべき所が多い。ですから多くの留学生たちが董に来ています」

 彼女の眼差しは凛然としていた。

「西妃が琥の商人の利害を守る立場であるのと同じく、私も漣の留学生たちの学ぶ環境を維持し、彼らを守ってやらねばなりません」

 ですから、と話は続く。

「私は私利私欲で悪巧みをするわけにはいきません。命がけで海を渡ってきた学生たちの人生を預かっているのですから」

「……」

「卓瑛からの寵愛がなくなっても、私には東妃としての役割があります。それに、卓瑛との間に同じ悩みを共有しながら大人になった思い出もあります。これは決して消えることはありません。男女の愛情でなくても、卓瑛と私は互いを思いやりながらそれぞれの役割を果たすことでしょう。運命が気まぐれに私たちを翻弄しようとしたとしても」

 卓瑛と東妃の絆は強い。兄妹であり、恋人であり、夫婦であり、そして生涯変わることのない「同志」だ。

「ご立派です……」

「ありがとう。護符を偽物にすり替えたのが私だという疑いは晴れたかしら?」

「ええ。失礼を致しました」

 白蘭は素直に東妃の器量を認めた。これから白蘭が董で暮らすことを思えば、後宮の寵姫がこのような方で良かったと思う。当人が言うとおり、これから西妃をはじめ他の妃が後宮に来ても卓瑛は彼女を大切にするだろうし、このような女性が皇帝を支えることは望ましいことだ。

 消えた護符の謎は残るが、この方を疑わなくて済んでどこかほっとしたような気もする。

 気がゆるんだせいか白蘭の腹がグーっと鳴った。そういえば、朝食から時間がたっているのに何も口にしていない。

 無骨な冬籟は女性に対して無遠慮だ。

「あんた、腹がへっているのか? そうだな、卓瑛と会ったら遅めの昼飯を食べるつもりでいたのだろうからな」

 東妃が「まあ!」と高い声を上げた。

「白蘭は朝から何も食べていないの? じゃあ早めの夕餉を用意しますから一緒に食べましょう」

「あ、いえ……」

「ちょうど海沿いから海産物が届いたところで昨日からそれを食しているのよ。砂漠の国から来た白蘭には珍しいんじゃないかしら? 蛸とか烏賊とか食べたことはあって?」

 返事の代わりに白蘭の腹がさらにグーと鳴る。うーん、それは食べてみたい。

「蛸も烏賊も名前を聞いたことがあるだけです。弾力のある不思議な食感だそうですね。ぜひ実物を口にしてみたい……」

 白蘭は西の空を見た。その色は朱を帯び、夕刻に差しかかっていると示している。

「ご馳走になりたいのはやまやまですが、今日は先約があるので宿に帰らなければなりません」

 冬籟が「先約だと?」と声を尖らせる。

「雲雀に字を教えると約束してまして……」

 冬籟は少々面喰ったような顔で顎を引いた。

「東妃の誘いを断ってまで行きたいのか?」

 白蘭は冬籟をねめつける。

「行きたい行きたくないの問題ではございません。約束は守らなければなりません。それに私は商人です。雲雀から授業料を受け取ることになっています。この点では雲雀が私の客なのです。客との約束を守るのは商人の基本でございます」

「授業料? あんた、あんな貧しい少女から金を取るのか?」

「貧しくとも雲雀は働いて給金を稼ぐ身です。その中から授業料を払う。ですから、勉強については彼女に授業料を支払った分の権利があります。そして私は彼女への義務を果たさなければ」

「子どものくせにごちゃごちゃと理屈っぽいことを……」

「冬籟様は私を子ども扱いなさいますが、私は美味しそうな食べ物につられて先約を放ったらかしにするような子どもではないのです」

 ふふっと東妃が笑みをこぼす。

「冬籟の負けよ。白蘭の顔を見れば珍しい料理を食べたがっているのはよく分かるわ。それでも先に約束した顧客を優先しなくてはと思うのよね? 白蘭は立派な商人だわ。冬籟は邪魔してはダメ」

「邪魔って……」

「白蘭、またお招きするわ。予定のないときにゆっくりお話ししましょう。西のお話を私も留学生たちに伝えたいし」

「御意」

「生徒さんが待っているなら急いだほうがいいわね。冬籟、白蘭に馬を使わせてあげて」

 行きは華央門まで馬で来たが帰りは徒歩だと思っていた。もちろん馬を借りられるのなら助かる。

 冬籟が「それは俺も急いで帰れということか」と拗ねる。子どもっぽいのはそっちの方だと白蘭は内心で独り言ちた。

「冬籟……」

 東妃が何か言い出す前に彼は勢いよく席を立った。自分が彼女を困らせていると分かっているのだろう。

 背中越しに「小娘、ついてこい」と言われたので白蘭も急いで立ち上がる。ただ、彼の後を追う前に東妃に丁寧に頭を下げた。

 必要な手順だったとは思うが、東妃のことを白蘭の母親のように嫉妬にかられた愚かな女ではないかと疑ってしまった非礼を詫びたかった。

「申し訳ございませんでした」

 東妃は「いいのよ」と穏やかに微笑んだ。
 
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