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第二部 貴人、竹の宮の姫君への物思い 

三十八 白狼、姫君に要求をつきつける

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 翌朝、白狼は正殿に呼び出された。

 ──正直なところ、面倒くさい。

 白狼を呼び出したあの女は、湿っぽい声で大仰な謝辞を述べるだろう。そして今後もよろしく頼むと懇願するに違いない。

 別に頼まれたことはしてやってもいいが、他人が憐れみを乞う惨めな姿を目にするのは不快なものだと思う。

 白狼はこういう時の貴族の女が嫌いだった。
 例えば、彼が彼女たちの高価そうな贅沢品を奪おうとすると、「お願いですからそれだけは返して下され」とさめざめと泣く。彼女たちは「恩」ではなく「情け」に縋ろうとするのだ。哀れまれてそれで終わりで、恩を返そうなどとは決して思わない。

 ──貴族の女は、狡くてふてぶてしい

「品物を返してくれたら官吏に通報など致しません」という彼女たちの言葉にほだされてもその後ろくな目に遭ったことがない。白狼が品物を返そうと返すまいと彼女たちは官吏を呼び、白狼たちを捕らえさせようとする。

 白狼には義賊としての矜持がある。自分は贅沢好きの貴族からしか物を盗まない。すなわち、貧しい者から毟り取ったものを取り返しているだけのことだ。理はこちらにある。

 彼は以前からめそめそ泣く女を卑怯だと思っていた。翠令を大学寮で襲った男達にも言ったことだが、刀で争おうとする相手には刀で応じるのが筋というものだ。人は自分を盗賊と呼ぶが、理は自分にある。だから、女達が自らの手に何かを残したいのなら理で応じるべきだ。

 ──遊び暮らしている貴族の女が、朝から晩まで働く女が持てないような華美な品々をなぜ所有できると思うのか。それを説明して俺を納得させてみろ

 理もないのに泣き落としなど情に訴えるのはおかしいはずだ。普段は気取っているくせに、都合が悪くなると地に伏せて泣くめそめそした女どもは、滑稽でもあり、その惨めさが見ていて不愉快でもあった。そして、情けを施されてそれで当然と構えている図々しさが心底嫌いだった。

 これから会う竹の宮の姫君と呼ばれる女もそうだろう。

 ──これからあんな風な女の相手をするのか。鬱陶しい……

 朝の光が差し込む簀子《すのこ》を通り、廂《ひさし》の間、そして母屋《もや》まで通される。御簾一枚隔てた向こうに、竹の宮の姫君が脇息に凭れて座っている人影も見て取れた。

 女房が、白狼に姫君の正面に座れと指示を出す。

「お前のような賤しき者が、母屋の奥まで上がって姫宮と差し向かいに座ることが出来る。破格の厚遇ぞ。光栄に思うがいい」

 女房は白狼に忌々し気な視線を向けた。賤民の助けを借りることは、さぞかし不快なことだろう。だが、そんなことは白狼の知ったことではない。

 その女房と良好な関係にあるわけでない姫君もまた、冷ややかな声だった。

「お前が白狼ですか。昨日は世話になったと聞きました。礼を言いましょう」

 貴人である彼女が直接声を掛けて礼を言うのだから、確かに感謝の念はあるようだったが、同時に渋々という様子でもあった。

「あまり覚えていませんが、お前のおかげでわたくしはいつもの御帳台《みちょうだい》で眠ることができたとか」

「……」

 そうか、記憶が無いのか。白狼はそれもそうかと思う。あれほど錯乱していては仕方あるまい。その途切れ途切れの記憶で何を覚えていて何を覚えていないのか聞いてみたい気もしたが、やめておくことにした。それは彼女の傷を抉ることになるだろう。

 姫君に向かって彼はつっけんどんに返答した。

「別にあんたが覚えておく必要はない」

 白狼が伝えたかったのは「辛い記憶など覚えておく必要がない」ということだった。しかし、姫君は御簾の中で絶句する。

「”あんた”……?」

「ああ、あんたは身分が高いから『あんた』と呼ばれたことがないのか」

 姫君が脇息から身を起こした。

「『あんた』という言葉が、話し相手を指すくだけた表現だという知識はあります。ですが、わたくし自身がそのように呼びかけられたことなどありません。不愉快です」

 さすがはこの国で最も尊いとされる帝の息女。正しい言葉遣いしか知らずに育ったと見えて端然とした口調であるが、そこにも生来の気位の高さが滲み出る。いっそ尊大とも言えるほどに。

 白狼はうんざりして黙った。身分の高い人間というのは、なんでこんな下らぬことにこだわるのか。

 御簾の中の声は続ける。

「お前は男です。だから女のわたくしを見下しているのでしょう」

 女君であることで辛酸をなめてきた姫君の口調がさらに尖る。

「わたくしはお前に感謝はしていますが、見下されたくはありません」

 彼女の言わんとする内容が、白狼の気を惹いた。

 ──へえ……。

 竹の宮の姫君のこの反応は白狼には意外だった。彼は心の中で軽く呟き、視線をあげて御簾の中の人影をまじまじと見る。

 ──悪くない。この態度は悪くないぞ

 御簾ごしでは細かな表情は見えない。しかし、白狼の視線を真っ向から受け止めて睨みつけてくる強い視線を彼は感じ取った。

 ──情けを強請って当然だと考えるような貴族の女と、この女は違うのかもしれない。

 白狼は感興を覚えた。「見下されたくはない」と傲然と胸を張っているその姿、なかなか気骨があると言えるだろう。それが自分に対する不快感の表明であったとしても、どこか痛快に感じられる。

 ──少し、俺に似てるんじゃないか

 恩を受けても情けに縋るような真似はするまいと決めているこの自分とこの女には共通するものがあるのかもしれない。そう思った白狼は、率直に感想を口にする。

「いい態度だ」

 褒め言葉のつもりだったが、姫君にはその意図が伝わらない。

「なんですって?」

「別に皮肉でも挑発でもなんでもない。そのままの意味だ。いい態度だと思う」

「……」

 御簾の中の当惑気な沈黙に白狼は説明を加える。

「俺はあんたを助けてやって恩は売ったが、情けをかけてやったわけじゃない。あんたより上に立ったつもりはないし、だから見下してもいない」

「……どういう意味ですか?」

「恩」と「情け」は白狼にとっては明確に異なるものだ。だが、翠令に話した時も彼女は首を傾げていた。ここは他人にとっては説明が必要なものらしい。

「『恩』というものは返すもので、『情け』というのは施されるものだ。『恩』はいつか返すんだからそのやり取りは対等だ。だが、『情け』というのは上の者から下の者へ一方的に与えられるものだ」

 白狼は念を押した。

「もう一度言う。俺はあんたに『恩』を売ったが、『情け』を施してやったわけじゃない。大違いだ」

「つまり……お前はわたくしに『情け』をかけたのではなく『恩』を売った。だから、わたくしとお前は対等で、それはわたくしがお前に恩を返すから……そう言いたいのですね? だから、上に立っていないし見下してもいない……」

「そうだ」

 よし。飲み込みが早い。この女は莫迦ではなさそうだ。

 傍に控えていた女房が金切り声を上げる。

「対等じゃと? お前のような野卑な者がこの高貴な御方と並ぶなどと!」

 白狼はその女を睨みつけた。

「あんた達の方こそ、ここのお姫さんを見下してるんじゃないのか。俺は少なくともこの女を牢には繋がないぞ」

「仕方が無かろう! いったん暴れ始めると静まって下さらぬ。だから、このことは姫宮とてご納得なさって……」

 バサリという音が女房の言葉を遮った。御簾の中で竹の宮の姫君が扇を乱暴に開いたのだった。御簾の中の人影は、開いた扇を女房の方にかざして女房から顔を背ける。女房の存在を厭うようなその仕草から、この姫君が決して女房達の仕打ちを受け容れてはいないことが分かった。

「わたくしはこの男と話しています。……それで?」

 姫君は白狼に話の続きを促し、それに応じて白狼は単刀直入に言いたいことを言う。

「『恩』を返せ」

 あまりに直截な言いように、御簾内の姫君はたじろいだようだった。白狼が続ける。

「俺も『情け』なぞ人に施そうと思わない。そして、あんたも『情け』に縋る女じゃなさそうだ。俺はあんたのそこがいいと思う。普段ふんぞり返っている人間が『情け』を乞う様というのは滑稽で惨めだが、あんたはそうじゃないからな。それで、さっき『いい態度だ』と褒めたんだ。『見下されまい』という気概はおおいに結構。だが、そう胸を張りたいなら受けた『恩』はきちんと返せ」

 分かりました、と姫君は息を吐いた。

「何が望みです?」

「あんた、俺と別の近衛舎人を交代させるという連絡はもうしたのか?」

「いいえ。佳卓へ文を書いている途中です」

「なら、それは置いておけ。俺は近衛大将佳卓に『恩』がある。その佳卓の命で竹の宮で真名を学ぶはずだった。それを反故にされてはあいつに面目が立たない」

 ここで「俺がここに居なければあんただって困ることになるだろう」という論法を白狼は避けた。自分は相手の弱みに付け込んでいる訳じゃないという自負がある。

「俺はあんたに特別なことを求めている訳じゃない。俺を京の都に送り返そうとしたのは、ただあんたが俺の容貌を毛嫌いしたからというだけに過ぎない。そんな理由でやめさせられそうになったものを元に復せと言っているだけだ。当然の要求だろう?」

 姫君が落ち着いた声で応じた。

「よろしいでしょう。理はお前にあります」

 白狼は続ける。

「俺は名を白狼という。『お前』と呼ばずに名前をきちんと呼べ」

 傍に控えていた女房がせせら笑う。

「賤しい者はそこにこだわるか。貴い御方は名を秘すもの。名で呼べとはしょせんは身分卑しき……」

 竹の宮の姫君は女房に皆まで言わせなかった。

「それも、よろしいと受けましょう。白狼──ですか。白狼がそう呼ばれたがっているのなら、これからその名で呼びましょう」

「よし。なら、俺はあんたを助けてやる。それが仕事だからここにしばらく居る」

 これで佳卓の好意を無にせずにすんだ。異形の白狼をいつまでも白眼視する御所から暫く離れる機会を佳卓は作ってくれたのだから、予定通りここに留まることになって良かったと白狼は安心する。

 姫君の声が聞こえた。

「白狼の仕事は妖です」

「……?」

「もちろん昨日のような人間も取り押さえてもらいます。それに加え、わたくしを豺虎《けだもの》から守って下さい。わたくしは豺虎に襲われる幻覚に苦しめられています。白狼は自分が妖だから相手を食べることが出来るのだと言っていました。その碧い瞳でそう言ったことははっきり覚えているのです。それから、女房達に、わたくしが暴れて逃げても取り押さえることが出来ると言ったとか」

 白狼は笑った。

「お安い御用だ。俺と佳卓にとって、その辺の人間なんか物の数じゃない。そんな奴らを相手にするより、妖として魔物退治をする方が、やりがいのある仕事のようだ。佳卓も俺の話を聞いたら面白がるだろう」

 任せておけ、と白狼は請け負った。

「俺はあんたが嫌いだ。だから俺自身があんたを襲うことは全くない。安心していろ」

 御簾の中から返事はなかったが、白狼は別に気にせずに言いたいことを言う。

「それから……これはどっちでもいいが、俺に好きな服装をさせてくれると助かる」

「どんな格好をしたいのです?」

「この、首が詰まったっ盤領《あげくび》の服じゃなくて、俺が普段着てる垂領《たりくび》の衣を着たい。それから髪もいちいち結って冠におさめるのが邪魔くさい」

 女房が「直垂姿で髪も結わずにお仕えするつもりか! その辺の童子ですら髪を束ねて水干を着ているというのに!」と癇性な声を上げたが、当の姫君はそれを無視した。

「よいでしょう。妖が人の格好をする理由もないでしょうから」

 白狼は「よし」と笑って頷いた。交渉は上手く行った。あとは仕事をするだけだ。

 白狼が床に上がることを許されたのは、姫君との会談の短い間だけだった。その後は地に降り、寝殿の周囲で待機する。

 気候が安定しているこの季節は、昨日と同じような空模様で、同じように暮れていこうとしていた。日が傾き、少しずつ西の空から青が抜けてほんのりと緋色がかってくる。

 ──まずいな

 空気の色が昨日にあまりに似ている。あの、竹の宮の姫君が猥談好きの男に襲われた時刻を再現するかのように。

 ──あの女の頭に、またあのおぞましい記憶が蘇ってしまうんじゃないか

 白狼のその予感は的中した。

「いやあーーーっ」

 女の悲鳴が聞こえて、彼は正殿を振り返り、階《きざはし》に足をかけようか迷いながら足を上げた。そこで動きを止めたのは、奥からまっすぐに意思を持った足音が近づいてきたからだった。

 彼が立ち止まっている間に、人の足音と、何かが蹴飛ばされ薙ぎ倒される物音があたりに響き渡る。

「……!」

 彼が見上げる先で御簾が引きちぎられた。破れたその御簾を握っていたのは、単 と袴だけを身に着けた若く美しい女君だった。昨日会い、今朝は正気に思えた竹の宮の姫君。

「白狼!」

 女君は簀子を二、三歩で駆け抜け、階を半ば転げ落ちるように降りてきた。髪は乱れ、荒い息を弾ませ、そして目には切羽詰まった興奮が宿っている。

 彼女の足が最後の一段を踏む前に、彼の方から階を一段上って降《ふ》ってくる女の体を抱きとめた。

「あんた……」

 白狼は、自分が彼女を取り押さえることになるのだだろうとは予想していた。しかし、彼女の方が真っ直ぐ彼の方に駆けてくるとは思ってもいなかった。
 ここは彼女自身の邸宅なのに、頼れる相手は新参の自分しかいないのか……。

 彼女は白狼に取り縋った。必死の形相を彼に向けながら、女房しかいない寝殿の奥を指さす。

「襲いかかってくるの! ほら、あそこにいるわ! 助けて! 助けて、お願い!」

 彼は彼女を落ち着かせようと、軽く抱きしめた。

「誰もいない。落ち着け」

「いや、いやあ! 助けて! 助けて!」

「誰もいないと言っている!」

 いやああっーーーー。

 彼がいくら彼女の敵は誰もいないのだと言っても、彼女の叫び声はやまない。そして自分の悲鳴自体によけいに興奮を募らせていく。白狼の腕の中で彼女は首を振り身を捩り……。

 彼女は彼に飛び込んできたのだが、ここでは安心が得られないと思ったのか、今度は彼を振り払おうとした。衣の袖から剝き出しとなった女の白い腕が白狼の肩を押しのけようとし、押し切れないまま宙を掻く。

 俺を突き飛ばしてどうしようというのか。竹藪に逃げようとするのか。白狼は自分で気づかないうちに姫君に叫んでいた。

「落ち着け! 落ち着くんだ!」

 白狼は彼女の両膝を掬い、横抱きに抱え上げた。

「……!」

 姫君は自分の足が地についていないことに驚いて白狼にしがみつく。白狼は大きく息を吐いた。

「よし、黙ったな。ようし……」

 彼の低い声が興奮を鎮めるのか、姫君はほっとした表情を浮かべた。その様子を見て、白狼は子どもをあやすように続ける。

「ようし、よし。怖い者はいない。ようし、よし」

 彼は彼女の背中を叩いていた。大人が子供をあやすとき、自然とそうするように。姫君は抱き付いた彼の首筋に顔を埋《うず》める。

「もう……いないの?」

「そうだ。いない。俺は妖で、人間など食ってしまうから」

「そう……。もう、いないのね……」

「ああ、安心して落ち着くといい」

「うん……」

 二十歳ばかり大人の女……今朝、御簾内《みすうち》で傲然と胸を張っていた女の口調ではなかった。稚《いとけな》い子どものようで、彼も十歳かそこらの女童を相手にしている気分になる。そのままとんとんと規則正しく身体を叩いてやり、低く落ち着いた声で「ようし、よし」と囁き続けた。

 腕の中で姫君はまどろみはじめたようだった。彼はそっと歩き出そうとした。ただ、少し早かったらしい。彼女は「ん……」と声を漏らし、そして目を瞑ったまま幼い口調で尋ねた。

「……誰? 父様《とうさま》? それとも兄様《あにさま》?」

 白狼が答えに窮しているうち、姫君はすうっと寝入っていった。
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