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第一部 女武人、翠令の宮仕え

翠令、斬りかかる(二)

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男はますます面白そうな顔をする。

「ほう?」

 姫宮をにするのは畏れ多いが、この話題が相手の気を惹くのならもう少し続けざるを得ない。

「三歳の頃の姫宮は、ご自分の意思を外に出すことがあまりなく、俗な言い方をすれば『ぼうっとした』という印象の御子でいらした。良く言えば『おっとりした』感じの……」

 賊は話の先を促すように問う。

「今は違うのか?」

「商売人の街である錦濤では女童でもテキパキした風であることが望まれる……。そのような錦濤の街の空気が大きく影響したのは確かだ」

 錦濤は大陸の大王朝であるえんからの船が出入りする。また、この国のあちこちから京の都に租税品を送る際にも、海路を使うなら必ず立ち寄るのがこの港だ。

 港街の商人たちは、商売柄、好奇心が旺盛だ。目新しい物に敏感にとびつき、そして自分の主張をあの手この手で押し通す逞しさを身上とする。
 それは童たちも同じこと。錦濤の童たちも面白いことには目がない。そう、翠令自身も武芸を面白いと思い、その気持ちのままに育つことを許されて今に至る。

 そんな活気あふれる港街では、幼い姫宮のぼうっとしたご様子に「何かが大きく欠けているのでは」と危惧する者が多かったのだ。

 外の世界への興味を育まなくては……。そう考えた人々は、港に入ってきた荷に珍しい品があれば片っ端から姫宮のお目に掛けた。翠令も傍にいたが、本当に色々な文物を見て来たものだと思う。

 翠令の話を聞いていた賊もここで頷いた。

「この船には妙な物が多いなと思っていた。なるほど、燕からの渡来品か」

「そうだ」

 色も形も異国情緒が漂う品々……玻璃でできた美しい器、螺鈿の施された豪奢な楽器、玩具にしては随分と本格的なからくり細工、燕から錦濤までの海路を示す地図……。

 錦濤には新奇なものが溢れている。姫宮が次から次へと不思議な品々を見る生活にお慣れになった頃、そのお口から「あれはなあに?」「これはどこのもの?」という問いかけが増えたように思う。

 錦濤の人々はそのご質問で口に応えるだけでなく、姫宮に燕の書物とそれを読む語学力を差し上げた。
 当世の女君はこの国の仮名しか学ばれないそうだが、貿易港の錦濤では燕の言葉を読み書きでき、そして話せるのが当然だった。
 姫宮にも燕人の教師がつき、その言葉をお教え申し上げた。姫宮は楽しそうに燕の話に聞き入り、そして書物を読んだ。

 賊の問いかけ以上に、翠令は長々と姫宮のお育ちぶりがいかなるものであったか弁舌を振るう 。姫宮はお顔が愛らしいし、船旅に疲れた従者を気遣う優しさもおありだが、何と言ってもこの方の美点は様々なことに広く関心を持つ姿勢だと思うのだ。

「今の姫宮はとても才気煥発な方にお育ちになった。好奇心旺盛で、頭の回転が早く、そして物怖じしない。商家の妻女ならかなり有能な女性だ」

 賊が笑った。別に嫌味ではなく、単純に可笑しいと感じたようだった。

「だが、この船の女童は帝の血を引いているんだろう? 商家のおかみさんになるわけじゃない」

 これには翠令も苦笑する。

「……まあな。そこで乳母殿が困っている」

「その乳母と言う女は京の者か何かか?」

「そうだ。姫宮が錦濤でお過ごしになる際に、京から遣わされた女だ。下級貴族出身とはいえ、御所に出入りするような方々とも付き合いがあり、貴婦人とはこうあるべきという理想像は知っている」

「俺は別に理想とは思わんな。都にいる貴族の女というのはぼうっとしているだけの人形だ。そんなつまらない女より、あんたの主の女童の方が面白そうだがな」

「乳母はしょっちゅう愚痴を零している。『貴い身分の女君は何事にも鷹揚に構えて、ゆったりとお話になるのが上品とされるもの。それなのに……』と嘆いているな」

 特に姫宮が御所に上がられると決まってから、乳母のため息が増えた。

「乳母によれば、『姫宮は、はしたないほど目端が利いてお口が回る』のだそうだ」

 賊はぷっと吹き出し、そのまま腹を抱えて笑い出した。

「京の女にそう嘆かせるとは愉快な子どもだな。『はしたないほど目端が利いてお口が回る』のか……へえ……」

 賊はひとしきり笑い終わると、舳先から下りて歩いて来た。

 翠令にはその意図が読めない。

「なんだ?」

「面白そうな嬢ちゃんだからな。話してみたい。何なら連れて帰って仲間にしてもいい」

「莫迦な!」

 翠令はそう言ったきり言葉が出ない。

 舳先から船室に向かう賊が、翠令の横を通り過ぎようとしている。彼女は慌てて刀を構え直して賊の前に立ちはだかった。

「お前は何を言っているのか分かっているのか? 姫宮は東宮になられる貴い御身。盗賊ごときが目通り叶うわけがないだろう!」

 盗賊は何かを見透かすような目を翠令に向け、そして冷笑を浮かべる。

「東宮? 貴い? じゃあ、お前たちを護る兵士が全くいないのはどういうことだ?」

「……!」

 翠令は痛い所を突かれたと思う。一方で、それも見抜かれて当然かと思う。これほどの財宝を積んだ船団なのだから、さぞ厳重な備えがあるだろうと盗賊だって考えていたに違いない。それがこうも抵抗する者が少なければ、おかしいと勘づくだろう。

「臣下から見放されては主に立てない。朝廷に居残ろうするより、俺たちの仲間になった方がましな人生が送れるんじゃないか」

「山崎津の兵士がいないのは単に腰抜けだからだ。明日、明日になれば近衛大将の佳卓《かたく》様が来られる!」

「佳卓か」

 賊は、京で自分を追い詰めている鬼神のような武将をもちろん知っていたようだが、特に動じない。

 佳卓は単なる武人だけではなかったはずだ。高位の貴族でもある。それに、佳卓以外にも物の道理を弁えた優秀な文官もいると聞く。朝廷は先帝の悪政を脱して、正しい道を歩むことになったのだ。

 姫宮は、正義にのっとって歩み始めた朝廷に招かれている。盗賊に仲間に誘われるいわれなどない。

「佳卓様は左大臣家の次男でいらっしゃる。大学寮で学んで文人としての素養もあり、天道のなんたるかもご存知だ。それから朝廷には佳卓様と双璧と呼ばれる文官もいらっしゃるのだろう? こういった方々なら非道な真似などなさるまい。姫宮は朝廷できちんと遇される」

 賊はふうんと考えてからニヤリと笑った。

「佳卓は朝廷に忠誠を誓っているから、なるほどこちらの女童を悪いようにはしないだろうな。それなら別の意味で好都合だ。この女童を人質にして、あいつに色んな条件をのませてやろう」

 賊は翠令などいないかのように、彼女の脇をすり抜けようとした。翠令は身を滑らせて立ちはだかる。距離の近さに賊が少しあとずさったが、船室の方に向かうのを止める気はないようだった。

「そこをどけ、女」

「姫宮に近づくな。どうしてもというなら私を倒してからにしろ」

 翠令は本気で剣を突きつけた。その切っ先は相手の体から拳一つも離れていない。
 それほど近くに刃があっても、賊はまだ刀を動かさず、長身から翠令を見下ろすままだ。

「俺は女相手に剣を振るう趣味はない。子どもに危害を加えるような卑怯者でもない。そこをどけ。邪魔を……」

 翠令は、自分が賊に邪魔と呼ばれた瞬間、返事も与えず斬りかかった。

 男は翠令の剣をかわすと、素早く自分も剣を構えた。なっていない、と翠令は思う。武人として正規な鍛錬を受けた者ならあり得ない不格好な構えだ。だが、こういう手合いの者ほど実戦で強い。お上品な戦い方が通じる相手ではない。

 翠令は素早く男の右のふところを深く突いた。「おっ」と声を上げて男が右の踵を後ろに引く。次は左だ。男が体勢を整える前に翠令は男の左腕めがけて斬りかかった。その翠令の剣を避けて、男は左の踵も後退させた。

 よし。これを繰り返す。左右に攻撃をしかけ小刻みでも一歩一歩相手を後ろに追いやって舳先まで追い詰める。船の先端の狭い場所なら、相手も大きくは動けまい。小柄な翠令に有利となる。

 ここが好機だ。翠令は畳みかけるようにひゅんひゅんと剣を振るって相手の左右に斬り込んだ。

 舳先の、船の幅が狭くなり始めたあたりまで追い詰めたとき、翠令の攻撃の間隙を縫って相手が自分の刀を翻《ひるがえ》した。その動きが目に入った次の瞬間、翠令の左脇にそれが突き出される。

「うっ!」

 翠令は身を捩ってそれを避けた。そのために自分の剣の動きは止まる。そこに、今度は右を突かれた。翠令は右足を引いてそれを躱す。すると、次は左だ。
 翠令は左足を下げて半身を後退させるより避けようがない。

 相手がふっと笑った気配を感じた。

「あんたはなかなか上手いが、俺ほどじゃない」

「なにを!」

 声を上げた翠令の、今度は右上から刀が振り下ろされる。翠令は焦った。この男は翠令と同じことをしようとしているのだ。翠令の左右を攻め、後退させるつもりだ。

 反撃しなければ……。翠令はそう思うが相手に付け入ることができない。

 なんとか相手の素早い動きに合わせて、翠令は自分の刀で賊のそれを弾こうとする。しかし、筋骨隆々とした体格から繰り出される剣戟の重さには歯が立たない。

 一方的に右、左と剣が突き出され、翠令は一歩ずつ後退していく。このまま行けば、姫宮がいらっしゃる船室へと続く扉まで追い詰められてしまう。

 ――どうすれば……。

 キラリと何かが光った。男の剣先を目で追う翠令の、その視野の片隅で何かが時おり光る。賊の刀の切っ先ではない。もっと遠くだ。
 いつのまにか賊どもの松明の光は消え、静かな暗闇が戻ってきている。中空に浮かぶ月の光を、賊の右の背後、船溜まりに並ぶ船の縁にある何かが弾いているらしい。

 ――なんだろう?

 かなり遠くにあるその煌めく光を知ろうとした翠令は、賊の刃が自分に襲い掛かってくるのに合わせるのが遅くなった。

 ――しまった。

 翠令の頭が白く冷たく固まったその瞬間。

「伏せろ!」

 よくとおる男の声がした。

 翠令はとっさに身を沈める。誰の、何の意図があっての声なのか判断が付かない。ただ、その声には従わなくてはならないと感じ、その直感のまま、頭で考えるより先に体が動いた。

 ヒュッと何かが空気を斬り裂く。翠令の動きの素早さから遅れて宙を漂った髪の幾筋かが、その何かに散らされ、はらりと空を舞う。
 翠令が空気の振動を肌で感じた次の瞬間、鋭い音がした。

 ――ガッ。
  
 その音に目をやると、船室の扉に矢が一本刺さり、矢羽根がびいんびいんと揺れていた。
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