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第20話 泥棒!泥棒!泥棒!

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 武田氏はイノブン前の歩道にいた。

 車道との境目にある鉄柵ギリギリまで遠ざかった場所で、しゃがみ込んだり、背伸びをしたりしている。視線を追うと、どうもイノブンの中を懸命に覗き込もうとしているようだ。

「武田さん?」

 美希に声を掛けられた武田氏はあからさまにぎょっとした顔をした。そしてたちまち顔を真っ赤にする。

「どうしたんですか?」

 武田氏は「え……」「あ……」としどろもどろだ。

「イノブンの中が気になるんですか?」

 武田氏ははっと驚く。

「どうしてそう思うんだ?」

「さっきから一生懸命に中を覗こうとしてるじゃないですか」

「『さっきから』? 君、俺を観察していたのか?」

「声を掛けるタイミングを見計らってました」

「……見られていたのか」

 武田氏は観念したようにガクリと首をうなだれ、イノブンの店内を小さく指さし、声を絞り出した。

「……どろぼ……」

「は? 聞き取れませんでした。もう一度言ってみてください」

 武田氏は少しだけ声を大きくする。

「……泥棒」

「えええっ?」

 大変だ。武田氏は泥棒を発見したのだ。その泥棒がイノブンに入って行ったのだろう。

「警察! 警察に行きましょう! あそこに交番があるじゃないですか。犯罪者は早く通報しなくちゃ」

「え? 犯罪者? 犯罪が起きたの?」

「……は?」

「っていうか、君、また何かのトラブルに巻き込まれたの?」

「え、私がですか?」

「君はどうも危なっかしいから! 君こそ交番で早く自分の被害を相談した方がいい。俺もついていってやるから!」

 氏はそう言うと「ほら」と美希を促して、さっきの交番に歩いていこうとする。美希はその背中に慌てて問いかけた。

「あ、あの。泥棒はイノブンの店内にいるんじゃないんですか?」

「イノブンに泥棒?」

「武田さんがさっきそう言ったじゃないですか!」

 氏は自分が言い出したはずのことなのに怪訝そうに眼を眇める。

「だって、イノブンの店内を指さして『泥棒』って」

 ああ……と、氏は額に右手をやった。

「……君、俺たちの認識はとんでもなくズレてしまっているようだ」

「はあ……」

 武田氏は深呼吸を一つした。それで随分と落ち着いたようだ。再びイノブンの真正面に戻ると、今度はしっかり店内を指さす。

「あそこにカバンやクッションが展示されているだろう?」

「花柄ですね」

「まあ、植物モチーフだが……。よく見てみ? 鳥が描かれているのが見えないか? それからイチゴも」

「ああ、そう言えば」

 装飾的に描かれた植物の図を背景に鳥が左右対称に二羽並び、その傍に確かに赤いイチゴが描かれている。そんな布地でできたカバンやクッションカバーが入り口近くに並んでいるのだ。

「あの布は『イチゴ泥棒』という名前の有名な図柄だ」

「ああ、鳥がイチゴを盗っちゃう『泥棒』……。それであの鳥とイチゴの図柄は『イチゴ泥棒』という名前がついている、という訳ですね」

「そうだ。モリスのデザインだ」

 モリス? 文脈から察するに人名だろうか。

「建築家ではないが、壁紙やステンドグラスなど建物の内装のデザイナーにウィリアム・モリスという人がいる。十九世紀のイギリス人だ。産業革命で手作りの工芸品が衰退していくことを憂いた人だが……ま、調べてみれば分かる。有名な人だから」

 武田氏は「とにかく」と言いながら困った顔をした。

「俺としては、モリスの『イチゴ泥棒』を見つけたが、店内に入れないから歩道から見ていたんだ」

「どうして入れないんですか?」

 氏はクワッと眼と口を見開く。

「入れるわけがないだろう! こんな女の子のための店に、男の俺が!」

「……でも、ちょっと奥の方に男のお客さんもいますよ?」

「あれは可愛い彼女に連れられてのことだろう。女性が一緒なら、この見えない結界
を破ることができるが……」

 氏は「結界」などという言葉を大まじめに使う。美希は「彼女さんいないんですか?」と尋ねかけて、慌てて飲みこんだ。確か宵山でも「そんな洒落たものがいたためしがない」と言っていたはずだ。

「あの、私、イノブンに入るところなんです。一緒に入りましょうか?」

 重たい一重の瞼を持ち上げて「え?」と驚く氏に、「ええっと。ほら、私が偽装彼女になってさしあげますから」と言ってみる。

「……偽装彼女……」

 氏はその言葉の意味を咀嚼するやいなや、がばりと頭を下げた。

「それは助かる! 是非とも頼む!」

 入り口ではウィリアム・モリスを特集しているのだそうだ。美希が「これは花柄ですね」と手に取ったテーブルクロスを見て、氏が「それもモリスの作品で『アネモネ』だ」と教えてくれた。

 どれもこれも似た雰囲気の花柄と思っていたが、それぞれモリスの「何それ」という作品名があるのだそうで、美希は一つ一つ氏に教えてもらった。

「なんでそんなにモリスに詳しいんですか?」

「俺は工学部の建築学科だ。モリスは建築家ではないが内装の有名なデザイナーだから俺も何冊か本を読んで調べた」

「建築がご専門ですか! それで辰野金吾の建築もご存知だったんですね」

 氏は笑った。一重の目が糸のように細められ、とても優しそうに見える。あの宵山の夜と同じく、見ているこちらもホッとする笑顔だ。

「『小さな東京駅』だね。覚えていてくれたんだ」

「近くの書店で京都の近現代建築の本を何冊か見ました」

「あ、建築に興味を持ってくれたのか。ありがとう。京都は近代化の過程で建てられたものが戦災の影響を受けずに多く残っているんだ」

 ここで氏は再び真剣な顔に戻る。

「それから、君のおかげでこうして店に入れた。このことにも礼を言う」

「どういたしまして」

 氏はためらいがちに続ける。

「厚かましくて申し訳ないが出来ればもう一つ頼みを聞いて欲しいんだが……」

「私に出来ることなら」

「店内の商品を隈なく見て回りたいので同行してもらえないだろうか」

「女性らしいものが苦手なのでは?」

「しかし世界人口の半分は女性だ。それなのに世界のための建築を志す俺は、女性が苦手で、こういう店でこういう品物を見ることができない」

「はあ……」

「女性が集まるビルディング、女性を施主とする家屋、女性も購入するマンション……いやしくも建築家を目指すなら女性のことも知らねばならないのに、俺ときたら女性に縁がなく……」

 氏は眉間に眉を寄せて心底悔しそうに続ける。

「俺は自分が不甲斐ない……」

 氏の今後のキャリアはともかく、今ここでなら美希にできることはある。

「あの、私も今日ここを最上階から地下まで隅から隅まで見て回る予定でした。ご一緒しますよ」

「ありがとう!」

 糸目に口をあけて相好を崩す氏は、意外と感情豊かな人物であるようだった。

 最上階まで階段を上がると、文具売り場の中央にロール状に巻かれた壁紙が並んでいる。

「あ! これはモリスの『クレイ』ですね!」

 美希が指さした壁紙のロールの一つを、氏が手に取った。

「さっき知ったばかりなのによく覚えたね。女性の気を惹くんだろうな。ここの文具売り場にもモリスが沢山あるし」

 氏は「クレイ」を手に持ったまま「良かったら俺が買って君に進呈しようと思うが」と申し出た。

「いえ、そんな。結構です」

「ここに入れたのも君のおかげだから入場料と思えば。三百八十円だからコーヒー一杯より安いし。こんなお店で買い物するなど俺の人生で一度きりだろうから感謝してる」

「はあ……。それではありがたく」

 美希はより一層丁寧に店内を見て回る。自分の為だけでなく、氏の「一度きり」の経験のために。

 三階の奥。「ここらへんのアイテムは自分より由梨さんの好みだな……」と思って素通りしかけたが、思い直して立ち止まる。

「私の好みではありませんが、寮の先輩の好みです」

「先輩?」

「はい、私と深夜お茶会をしたんです」

 美希はプライバシーに配慮した上で由梨さんの話をした。

 氏も摂食障害については深入りせず、ただ「年上だから君より大人っぽい好みなのかな」と頷いた。

 奥の方には「sale」という札が張られているものもある。三十パーセントオフだ。

「ウチの寮のFPさんなら、こういう目立たない棚をチェックしてセール品を見つけるように言うでしょう」

「そうだね。『掘り出し物』だ」

 二階の階段前は少し雰囲気が違う。

「わあ、このフロア、和風グッズもたくさん! あ、お香! 寮に日本文化が凄く好きな人がいるんですが……そうそう、宵山の時に私に浴衣を着付けてくれた人です」

「ああ、なるほど。そういう人は好きだろうね」

 耳を傾けてくれるのは嬉しいが、美希は少し心配だ。この人の限られた時間を無駄にしてはいないだろうか?

「あの……私、余計な話をしていませんか?」

「余計?」

「私の知り合いの話は不要かな、と……」

「……」

 氏は少し考えて首を振った。

「いや、むしろ逆だ。俺は女性に縁がないから女性の好みを知りたいと思っているわけだろう? 商品にも興味はあるが、それよりも、君が喋ってくれる女性たちの話の方が、むしろ俺には重要なんじゃないかな」

 そして付け加えた。

「第三者の俺に話していい内容かどうかは君の方できちんと考えてくれているようだし。安心して楽しく聞いているよ」

 ここで氏が微笑んでくれたので、美希もついつられてしまう。

「それなら、良かったです」

 和風の隣に中国を中心としたアジア全体をモチーフとしている食器セットがあった。

 美希はふと金田さんを思い出した。どこまで話していいか迷ったが、氏は食堂で金田さんが大立ち回りを演じた時に「君のために怒ってくれる友達を大事にするように」と言っていたことを思い出す。

「食堂で私に代わって怒鳴ってくれた金田さんという人は……」

 アジア食器の前で金田さんの話を一通り聞いた氏は、「へえ」とこだわりなく感心した。

「あの金髪はカツラだったんだ。世間に『ナメられてたまるか』と戦いを挑んでいるんだね。その話を聞くと戦闘服みたいでカッコいいな」

 氏は、美希にとってもう見慣れたいつもの笑みでそう言った。

「はい……」

 そうか。金田さんはカッコイイんだ。これまで美希のために何くれと気を配ってくれた金田さんが褒められて嬉しいと感じる。

 そのカッコよさを構える風なく評価できる武田氏も、器の大きな人だと美希は思う。

 その一方で何故か心の奥底がちりちりと痛んだ。私は、金田さんの外見だけでだけで「怖い人」「関わるべきじゃない」と判断してしまった。自分には武田さんのような見識がない。

 美希は、自分の胸が苦しいのは自己嫌悪のせいだと思った。
 
 イノブンを出る頃には、西の空がほんのりと赤みがかっていた。

 三時間以上も店の中にいたことになるが、そんなに時間が経ったとは思えない。まだ何か話し足りない気がして、ここで氏とお別れするのが名残惜しい気がする。

 氏を見ると、氏は何を思うのか、歩道の真ん中で腕を組み、俯いて地面を睨んでいた。

「あの……」

 氏が腕を解いて、美希に真面目な顔を向ける。

「君がしてくれる話は実に興味深い。そして俺のガイド役を厭わない。そんな君を見込んで頼みがある……頼み事ばかりで済まないが……」

「いえ、お気になさらず。何ですか?」

「イノブン以外にも女性同伴でないと入りづらい場所がある。これからも偽装彼女を引き受けてもらえないだろうか?」

 美希は思い出した。自分にも喫緊の課題があったのだ。

「こちらもお願いがあるんです」

「何なりと。君には世話になりっぱなしだし」

「私の『偽装彼氏』になって下さい!」

「……は?」
 
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