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第12話 小さな東京駅の怪

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  帰ろう。人の流れに逆行していけばこの祭りから抜け出すことが出来るはずだ。右折と左折を一回ずつしただけなのだからそれを逆に辿ればいい。

 しかしながら、どんどんと膨れ上がる人の流れの中、自分の浴衣を庇いながらでは思うように進むことができない。何度か不本意に道を折れ、方角が分からないまま、ただただ人の少ない方を目指した。

「あ、小さな東京駅」

 行きがけに見た赤煉瓦に白い帯の建物が右手に見えてきた。その建物は交差点の南西の角に立つが、自分はその裏手に出たようだ。建物の北辺にあたる東西の通りを東に進んでいることになる。

 次の角を北に折れれば烏丸通を北上できることになるが、人が一杯でとてもできそうにない。とはいえ、この建物を背にして通りを東に直進すれば少なくとも祭から遠ざかることができる。そう信じて美希はひたすら前に進んだ。それなのに……。

 ──どうして?

 小さな東京駅を残して祭から離れたはずなのに。それなのに、美希がふと視線を上げると目の前にやはり東京駅のような赤煉瓦に白帯の建物が現れる。

 遠目に見ただけでは分からなかったが、石造りの正面玄関はわりと派手だ。美希は呆然と立ち尽くし、思わず「どうして? なんでなの!」と叫んでしまう。頭の中は恐慌状態だ。

 ちゃんとこの「小さな東京駅」からまっすぐ東に意識して歩いてきたはずなのに。この建物の正面玄関の真ん前に出てきてしまうなどありえないはずなのに。

 ――何か超常現象が起こっているのかも。

 京都と言えば昔は陰陽師が妖と戦っていたりした場所だ。提灯に祇園囃子、粽売りの子どもの声。今の京都には魔術がかかってしまって時空が歪んでしまっているのかもしれない。

 ならばどうしたら自分はこの魔界から抜け出ることができるのだろう? 歩いても歩いてもこの小さな東京駅から抜け出せないなら自分はどうなってしまうのだろうか?

 美希は周囲を見回す。混んではいないが、人通りは絶えることなく、皆楽し気に笑いあっている。誰に訴えても、美希の不安と恐怖を理解してくれそうにない。帯がほどけかけて着崩れた浴衣を思うと、道行く人に声を掛けるのはなおのこと憚られた。

 美希はとうとう泣き出してしまう。どうしてこんなことになったのか分からない。私、何か悪いことしただろうか? こんな風に恐ろしい思いをしなければならないほど悪いことを?

 清水さんは急いでいた。見知らぬオヤジと一緒の黒田さんを心配していた。そんなときに、私がただ心細いというだけで待って欲しいと頼んでしまった。それが悪かったのかもしれない。 

 だって、自転車の時だって怒られてしまったもの。サドルの下げ方が分からなくて人に頼ろうとしたのは、とても傲慢なことだった。自分は母の言うとおり思いやりのない人間だから、知らない内に人の怒りを買ってしまうのだ。

 そして自分はそれを事前に予想できない。美希がいくら気を付けていても、不意打ちを食らわせるように悪い結果だけが襲い掛かってくる。 

「おい」と美希に向かってかけられた声があった。その声は「君、何やってんだ?」と続く。

 美希はさらに絶望的な気持ちになる。 

 ――ああ、やっぱり。私は怒られてしまう、またこの人に。 

 その人は、あの交差点で自転車のサドルの件で美希を叱った男性だった。

「ちょ! 君、その服……浴衣! なんかグチャグチャだけど?」

「お、帯がほどけてしまって、自分で結んで……」

「結んだままずり落ちてる! このままだと足元に落ちてしまう!」

 その人は、しかし、今度は美希を怒らなかった。怒るという行為をどこかに置き忘れたかのようにポカンとし、そして慌てて自分のTシャツを脱ぎ始める。

「……?」 

 上半身裸の彼はそれを美希に突き出した。

「ほら! これ、これを着て!」

「あの……?」

「俺のシャツ。汗臭いかもしれないが、とりあえずこれがあれば身体を隠せるから!」

「はあ……」

 美希は片手で浴衣を抑えながら、もう一方の手でそれを受け取った。彼は「うん」と一つ頷く。

 しかし、次いで彼は全く理解不可能な行動に出る。なんと、彼はベルトを外そうとするではないか!

「な、何をするんですか!」

 彼はベルトのバックルをカチャカチャ言わせながら真剣な顔で言う。

「俺のズボンを履けばいい!」

「それじゃあ、貴方の着るものがなくなってしまいます!」

「男のパンツ一丁はまだギリギリ社会通念の許す範疇だろう。しかし、女性のそれはそうじゃない」

 どうやら、この人は美希に自分の服を譲ろうとしているようだ。

「いえ、いいえ!  私のことは気にせず! 私、貴方の服を脱がせるほど図々しくはありません!」

「いや、だけど!」

 ほとんど怒鳴り合っていた二人に、初老の夫婦連れの男性が呆れた声を掛けてきた。

「あんたら、何をやっとんの?」

 いつの間にか周囲に人だかりができていた。髪を蛍光ピンクに染めた若い男性がニヤニヤと笑っている。

「兄ちゃん、いくらカノジョとエエことしたいからって、道端で脱ぎ始めるのは気が早すぎるで」

  美希と上半身裸の彼とは揃って真っ赤になり「誤解です!」「俺はいやらしいことは一切やってない!」と声を張り上げる。

 初老の夫婦連れの女性の方が「あらまあ」と美希の浴衣の異変に気づいてくれた。
「浴衣が着崩れてしもたん? それで彼氏が慌ててはるの?」

 半分事実で半分誤解だ。

「この人は彼氏じゃないんです。ただ、私が困ってたところに偶々通りがかったみたいで、それで 私を助けてくれようとして下さったようなんですけど……」

 そう、通りがかりだ。でも何の用でここにいるの? 

「スミマセン。私に構わずご用事に行ってください。人の時間を奪うなんてこと二度としないってあの交差点で誓ったんです」

「自転車のサドルの時と今とでは事情が違うだろう」

「あの、彼女さんとか待たせてるんじゃないですか? 私に構わず……」

 彼は胸を張った。

「俺は、生まれてこのかた彼女なんて洒落た存在などいたためしがない」

「はあ……」

 着物姿の三十代くらいの女性が美希の側に立った。

「私、近くの町屋でイベントやってるの。そこの控室で着付け直しましょう。そこまで歩けるようとりあえず帯だけ結んでおくわね」

「お願いします」

 ほっとした美希は握っていた男物のTシャツを彼に返そうとし、しかし、もっと重大な事実に気づく。手に持つ物が何もない! 藤原さんから借りたトートバックはどこにいったの? 

「バッグ、バッグもありません」

 彼が「中に何が入ってんの?」と素早く応じてくれた。

「財布、スマホ、ハンカチ……」

 彼はズボンのポケットから自分のスマホを出して、「ほら。これで自分の携帯を呼び出してみ?」と渡してくれる。ああ、なるほど。もし親切な人に拾われていれば、連絡がつくかもしれない。

 幸い、拾い主がすぐ電話に出てくれた。年配の男性の声が「もしもし? ああ、この鞄の持ち主さんですね? 今から警察に持って行こうとしてたんですよ」と言う。

「あの、こちらから取りに伺います」

「もちろん会ってお渡ししたいんですけど。今、どこですかね? いや、貴女の場所も分からないけど僕も分からなくてね」

 その声は苦笑を含みながら「僕も京都は初めてで。祭のせいか元からなのか、何だか魔宮に迷い込んだみたいで場所がさっぱりわからない」と告げる。そう言われても美希が困っていると、スマホの持ち主の彼が「俺が聞く」と電話を替わった。

「何が見えますか? 特徴のある建築物があればそれを目印に向かいます」

 相手の声が漏れ聞こえる。街の喧騒に負けまいと声を張り上げているのだろう。

「おお、彼氏さんかね。ええと、地下鉄の駅から地上に出るとギリシャ建築みたいな石造りの柱が交差点にあった。そこから賑やかな方に歩いて今は和モダンなビルの前だ。奥に本屋さんがあるらしい」

「四条烏丸から京都経済センターの大垣書店の前なんだと思います。今から向かうので待っていてください」

 彼はスマホをポケットに素早くしまった。 

「じゃあ、君が着付け直してもらってる間に四条室町まで君のカバンを取りに行って戻ってくる」

「は、はい……お願いします」

 町屋ではイベントスタッフの女性たちが二人がかりで美希の浴衣を着付け直してくれる。それぞれ「御池駅のトイレで帯を結び直したオバちゃんが怪しいなあ」「きっと寮のお友達の結び方が正しかったやろうにねえ」「浴衣にも着物警察っておるもんなんやねえ」と言い、そして、「災難やったねえ、ちょっとゆっくり休んどき」 とお茶を振る舞ってくれた。

 それをエアコンの効いた室内でちびちび飲みながら美希はぼうっと考える。

 何がどうしてこうなったのだろう。あれから清水さんは黒田さんを見つけただろうか。見つからないまま探しているのだろうか。黒田さんが見つかったとして一緒に大事に巻き込まれているだろうか。それとも、黒田さんの無事を確認して、今頃は置き去りにしてきた美希を探してくれているだろうか……。

 最後の問いは美希のスマホを見れば分かることだった。清水さんが美希を探しているなら美希のスマホに連絡があるはずだ。

 ヌッと、美希の前にトートバッグが突き出される。

「待った?」

 あの彼が戻ってきたのだ。玄関口にいた女性が「ああ、この人がパンツ一丁になろうとしはった男の子かいな」と笑う。

「え?」

「エエ男やないの。自分がパン一になっても女の子を守る。立派な彼氏さんやわぁ~」

「いや、俺は別に彼氏じゃなくて偶々見かけただけで……」

 彼は慌てて視線を美希に向けた。

「っていうか、君は一人で来たの? 連れは?」

「いえ……人と一緒だったんですけど、はぐれてしまって」

 そう表現する以外に言いようがない。

「その人を探してみる? 行き先が分かるならそこに連れて行くけど? 君は京都の街に不案内そうだし……」

 トートバックから自分のスマホを取り出してみるが、着信履歴は何もない。

 美希は力なく首を横に振った。

「いえ。心当たりは全くありません。私は……今は自分の寮に帰りたいです」

「寮? じゃあ丸太町にある西都大学の熊野寮?」

「いえ、大学の寮じゃありません。下鴨にある女子寮です」

 それなら送ろうとその人は言った。

「あの、ご用事があったんじゃないんですか?」

「宵山では普段非公開の旧家が邸内を見せてくれるから、俺はそれを見に来ただけだ。日が暮れて観光客で混むようになったから帰るところだった。地下鉄で北大路駅まで出て、バスターミナルから自分の下宿に戻るから一緒に帰ろう」

「はい……ありがとうございます」

 烏丸御池駅は東西線との乗換駅だからなのか、京都市営地下鉄には珍しい対面式ホームでやたら広い。祭は始まったばかり。到着する車両から大量の人々が吐き出されても、ホームで電車を待つ人は少なかった。

「……」

 二人は無言で立っている。美希は気まずくてたまらない。美希の母の教えでは、女性の方から男性を楽しませなくてはならないはずだった。

「あの」

「何?」

「私、超常現象を体験したんです」

「……」

 話題選びに失敗しただろうか。西都大生ならオカルトめいた話など非科学的でくだらないと思うのかもしれない。

 しかし、相手は急に話しかけられたことに戸惑っただけのようで、話に応じてくれた。

「ああ、京都本の中には陰陽師とか妖モノって多いしなあ。まあ何か不思議なことも起こるかもしれん」

「私も奇妙な体験をしたんです。建物から離れたはずなのに、真っ直ぐ背にして歩いたはずのその建物が、また目の前に現れるんです!」 

「建物?」

 その男性の目がキラッと光ったような気がした。

「どんな建築だって?」

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