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ドナ
39 やってきた過去
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「まぁ、ドナ。いきなり呼びつけて申し訳ないわね」
レティシア様のお屋敷に行くと、レティシア様に笑顔で迎えられた。お元気そうなその様子に私は内心安心した。時々体調を崩して寝込むこともあったのだが、最近はお元気になられたようだ。
「いいえ、とんでもございません」
私も笑顔で挨拶をする。私はこんなふうに笑顔でいられるようになった。それも全てレティシア様のおかげなのだ。タセル国に来られてよかった。心の底からそう思う。
「今日はね、紹介したい人がいるのよ」
レティシア様はそう言って、隣に立つ背の高い男性の方に目をやった。レティシア様と髪の色が同じだ。顔の輪郭も似ている。
「息子のエリックよ。私の様子を見に来たの」
エリック様がにこやかに挨拶をされる。
「初めまして、母がいつもお世話になっているようで嬉しいよ」
エリック様の笑顔はレティシア様によく似ていた。
「手紙では体力も衰えて余生は生まれ故郷のタセルで穏やかに過ごすとか言っていたのに、あまりにお元気で驚きました」
「ドナのお陰なのよ。私に気遣って色々してくれるの」
レティシア様はニコニコと笑いながら、エリック様に近況を報告されている。
「母もあなたのお陰で元気になりました。ありがとう」
エリック様は私に頭を下げてくださった。高貴な身分で私よりも年上の大人なのに丁寧に振る舞ってくださる。私は恐縮してしまい、
「や、やめてください」
と、頭を上げてくださるように懇願した。
「ふふふ、今の私を見ればエリックがどれだけ感謝しても仕切れないわ」
「そうですね」
レティシア様がお元気なのは私のお陰のわけがない。確かに当初はお疲れのようではあったが、生まれ故郷に帰られて気持ちも落ち着かれたのが良かったのだ。私はそんなことを一生懸命に説明した。そして私にもお茶が出され、取り止めもないような話をしていた。しかし目的はこんなことではないはずだ。私は少し訝っていた。
わざわざレティシア様が私を呼んだのは理由があるはずだ。確かにエリック様を紹介したいということもあるかもしれないが、それだけではないだろう。
「実はね」
しばらくしてレティシア様はお茶のカップを置くと、真剣な目で私を見た。
「ドナが訳したあの本がすごい売れているそうなのよ」
「あぁ、今まで本に興味がない人も夢中になっているんだ」
そうだ、前の時もあの本はかなりの評判になった。身近にある植物が役に立つとわかり、手にする人も多かった。
「私は訳しただけですから」
原本を書いた教授が凄いのだ。私は何もしていない。ただ訳しただけだ。そう言いながら気がついた。姉もあの時そう言っていた。ただ訳しただけ。姉はそう言って謙遜する仕草を見せた。人々は姉を称賛していた。そして私に言った。ただ訳しただけなんだから、あんたはちっとも偉くないのよ。
姉の声を実際に聞いた気がして、私は心の中で何度も呟いた。大丈夫、あれは現実の出来事じゃないの。そうだ、現実ではないのだ。現実を把握しよう。
「訳すのがどれだけ大変か。私もタセル語を学んだけど、あんなにわかりやすく訳せないよ。何とかタセル語を普及しようと、辞書や入門書を配ったけど誰も習得しようとはしなかったよ」
前の時にラガン家にタセル語の辞書や本があったのはエリック様の普及活動のお陰だったのか。おかげで私はタセル語を習得できたのだ。訳しただけではあったが、簡単ではなかった。そのことを理解してくれる人がいて私は嬉しかった。
「それでね、ドナを我が国に招待したいと思っているのだが」
エリック様の申し出に私は驚愕してレティシア様を見た。レティシア様は心配そうな目で私を見ている。嫌だ、国には戻りたくない。
私は今タセル国の人間だ。きちんとした身分もある。一時的にも戻りたくない
「私主催のパーティに来て欲しい。非公式だが、国王陛下も参加を希望しているんだ」
前の時、姉は国王陛下に賞賛された。今回もそうだろうか。それでも行きたくない。目立つ場所に行けば私のことがバレるのではないか。ドナ・スタンではなく、アニー・ロゼルスとバレたらどうなるだろう。家に戻されるかもしれない。姉や両親に会うことを考えると、私は身体中が震えるくらいに恐怖を感じた。
姉はブライアン様と無事に結婚したのだろうか。あの時は私が刺繍を私、結婚が成立した。今回は刺繍はないが、きっと姉のことだから違う方法でも見つけて結婚しているはずだろう。刺繍も翻訳もなくなった姉はどう過ごしているだろうか。考えると怖くてたまらない。全てを壊してしまった私を姉が許すわけがないからだ。
「ドナ、ごめんなさい。大丈夫よ」
レティシア様が私のそばに駆け寄り、私を抱きしめてくれる。
「大丈夫よ、何も心配ないわ」
気づけば、私はレティシア様の腕の中で赤ん坊のように泣きじゃくっていた。エリック様はさぞや驚き幻滅しただろう。でもそんなことは気にしていられなかった。呼吸すら今はうまくできない。レティシア様の手が優しく私の背中をトントンと叩いてくれる。そのリズムに合わせ、私は深呼吸をする。
「大丈夫、何も心配ないわ。もう大丈夫、大丈夫なのよ」
何度も繰り返される大丈夫の言葉。私は徐々に落ち着きを取り戻していく。タセル国に来てからもこういうことは何度もあった。そのたびに私は何度もレティシア様やマリア様に抱きしめられた。大丈夫、大丈夫と何度も言われて来たのだった。
「辛いことはわかっているの。でもね、もう少し話を来て欲しいの」
涙が止まり、少しだけ落ち着いた私にレティシア様が穏やかに切り出す。暖かなレティシア様の腕の中で私は次の言葉を待つのだった。
レティシア様のお屋敷に行くと、レティシア様に笑顔で迎えられた。お元気そうなその様子に私は内心安心した。時々体調を崩して寝込むこともあったのだが、最近はお元気になられたようだ。
「いいえ、とんでもございません」
私も笑顔で挨拶をする。私はこんなふうに笑顔でいられるようになった。それも全てレティシア様のおかげなのだ。タセル国に来られてよかった。心の底からそう思う。
「今日はね、紹介したい人がいるのよ」
レティシア様はそう言って、隣に立つ背の高い男性の方に目をやった。レティシア様と髪の色が同じだ。顔の輪郭も似ている。
「息子のエリックよ。私の様子を見に来たの」
エリック様がにこやかに挨拶をされる。
「初めまして、母がいつもお世話になっているようで嬉しいよ」
エリック様の笑顔はレティシア様によく似ていた。
「手紙では体力も衰えて余生は生まれ故郷のタセルで穏やかに過ごすとか言っていたのに、あまりにお元気で驚きました」
「ドナのお陰なのよ。私に気遣って色々してくれるの」
レティシア様はニコニコと笑いながら、エリック様に近況を報告されている。
「母もあなたのお陰で元気になりました。ありがとう」
エリック様は私に頭を下げてくださった。高貴な身分で私よりも年上の大人なのに丁寧に振る舞ってくださる。私は恐縮してしまい、
「や、やめてください」
と、頭を上げてくださるように懇願した。
「ふふふ、今の私を見ればエリックがどれだけ感謝しても仕切れないわ」
「そうですね」
レティシア様がお元気なのは私のお陰のわけがない。確かに当初はお疲れのようではあったが、生まれ故郷に帰られて気持ちも落ち着かれたのが良かったのだ。私はそんなことを一生懸命に説明した。そして私にもお茶が出され、取り止めもないような話をしていた。しかし目的はこんなことではないはずだ。私は少し訝っていた。
わざわざレティシア様が私を呼んだのは理由があるはずだ。確かにエリック様を紹介したいということもあるかもしれないが、それだけではないだろう。
「実はね」
しばらくしてレティシア様はお茶のカップを置くと、真剣な目で私を見た。
「ドナが訳したあの本がすごい売れているそうなのよ」
「あぁ、今まで本に興味がない人も夢中になっているんだ」
そうだ、前の時もあの本はかなりの評判になった。身近にある植物が役に立つとわかり、手にする人も多かった。
「私は訳しただけですから」
原本を書いた教授が凄いのだ。私は何もしていない。ただ訳しただけだ。そう言いながら気がついた。姉もあの時そう言っていた。ただ訳しただけ。姉はそう言って謙遜する仕草を見せた。人々は姉を称賛していた。そして私に言った。ただ訳しただけなんだから、あんたはちっとも偉くないのよ。
姉の声を実際に聞いた気がして、私は心の中で何度も呟いた。大丈夫、あれは現実の出来事じゃないの。そうだ、現実ではないのだ。現実を把握しよう。
「訳すのがどれだけ大変か。私もタセル語を学んだけど、あんなにわかりやすく訳せないよ。何とかタセル語を普及しようと、辞書や入門書を配ったけど誰も習得しようとはしなかったよ」
前の時にラガン家にタセル語の辞書や本があったのはエリック様の普及活動のお陰だったのか。おかげで私はタセル語を習得できたのだ。訳しただけではあったが、簡単ではなかった。そのことを理解してくれる人がいて私は嬉しかった。
「それでね、ドナを我が国に招待したいと思っているのだが」
エリック様の申し出に私は驚愕してレティシア様を見た。レティシア様は心配そうな目で私を見ている。嫌だ、国には戻りたくない。
私は今タセル国の人間だ。きちんとした身分もある。一時的にも戻りたくない
「私主催のパーティに来て欲しい。非公式だが、国王陛下も参加を希望しているんだ」
前の時、姉は国王陛下に賞賛された。今回もそうだろうか。それでも行きたくない。目立つ場所に行けば私のことがバレるのではないか。ドナ・スタンではなく、アニー・ロゼルスとバレたらどうなるだろう。家に戻されるかもしれない。姉や両親に会うことを考えると、私は身体中が震えるくらいに恐怖を感じた。
姉はブライアン様と無事に結婚したのだろうか。あの時は私が刺繍を私、結婚が成立した。今回は刺繍はないが、きっと姉のことだから違う方法でも見つけて結婚しているはずだろう。刺繍も翻訳もなくなった姉はどう過ごしているだろうか。考えると怖くてたまらない。全てを壊してしまった私を姉が許すわけがないからだ。
「ドナ、ごめんなさい。大丈夫よ」
レティシア様が私のそばに駆け寄り、私を抱きしめてくれる。
「大丈夫よ、何も心配ないわ」
気づけば、私はレティシア様の腕の中で赤ん坊のように泣きじゃくっていた。エリック様はさぞや驚き幻滅しただろう。でもそんなことは気にしていられなかった。呼吸すら今はうまくできない。レティシア様の手が優しく私の背中をトントンと叩いてくれる。そのリズムに合わせ、私は深呼吸をする。
「大丈夫、何も心配ないわ。もう大丈夫、大丈夫なのよ」
何度も繰り返される大丈夫の言葉。私は徐々に落ち着きを取り戻していく。タセル国に来てからもこういうことは何度もあった。そのたびに私は何度もレティシア様やマリア様に抱きしめられた。大丈夫、大丈夫と何度も言われて来たのだった。
「辛いことはわかっているの。でもね、もう少し話を来て欲しいの」
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