心の中にあなたはいない

ゆーぞー

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ラガン家

21 新しい道

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 アリーとの婚約はなかったことになり、俺は安心した。両親もホッとしたのか、特に母は見違えるように元気になった。

「これでもっといいご縁に恵まれますわ」
「そうだな、ナタリア様との話が進んでいるしな」

 侯爵家の三女のナタリア嬢。俺より3歳年上でとても大柄な令嬢である。他の令嬢よりも布地代と食事代が3倍かかるが侯爵家は財産家なので問題ない、と酒場で酔った男たちが話題にしている。普通の令嬢が自分のことをそんなふうに言われていると聞いたらショックで卒倒しそうだが、当の本人はケロリとしているらしい。

 実際に会って話したことはないのだが、そんな女性が次の結婚相手かもしれない。自分にしたらいい縁かはわからないが、相手は侯爵家である。うちにとってはいい縁なのだろう。何より両親は前向きだった。妹の手柄をすべて横取りして別の男と浮気して子どもを産むような女よりかは、きっといいはずだと俺は自分を納得させていた。何より、貴族の結婚は家を繁栄させることが目的なのだ。

 1週間もすると母は親しい夫人たちを集めてお茶会を開くようになっていた。お茶会は貴族女性の重要な仕事の一つでもある。こういうお茶会でロゼルス家は我が家と婚約が整ったとか、俺がアリーにベタ惚れだなどと噂を流していた。気力の衰えていた母が出遅れてしまい、我が家にとっては不名誉な噂が出回ったことに母は自分を責めていた。そんなこともあって母はここぞとばかりに張り切り出したのだ。

 その日も姦しい笑い声が庭から聞こえてきて、俺は気分が悪かった。お茶会は俺のいる図書室のすぐそばで行われていた。天気が良いからガーデンパーティにしましょうと母は朝から張り切っていた。てっきり裏庭で行うのだと思っていたのだが、直前になってこちらの方が花が綺麗などと言って場所を変えたのだ。

 図書室で俺は本を探してた。アリーが訳したという植物学の本である。タセル国と我が家は付き合いがない。何故あの本が我が家にあったのか、全く記憶がなかった。おそらく父か俺がどこかのパーティに出た時に付き合いで購入したか、貰い受けたかしたのだろう。そういうことはよくある。この部屋には読めもしない本が大量に置かれているのだ。

 実際にあの本を訳したのはアリーではなくアニーだった。我が家にあったタセル語の辞書と簡単な教科書だけでアニーはあの本を翻訳した。どれだけ努力したのか想像もつかない。あの本のおかげで国王陛下は伯爵家の我が家に対して、最大級の賛辞を送った。我が家は国中から一目置かれる存在になった。 

 タセル語は一部の貴族が習得しているが、それは我が家とは違う派閥の者たちである。タセル国出身の妻を持つ侯爵の派閥だ。そこまで思い出して、気がついた。あの本は結婚した時に学生時代の友人がくれたものだった。たぶん友人も持て余していたのだろう。タセル語なんか、と訝る俺に奴は笑いながら手渡してきたのだ。

 ということは本は今ここにはないのだ。しかも結婚も無くなってしまったのだから、あの本を手に入れる方法が無くなってしまった。

 本だけではない。見事なまでのあの刺繍は派閥内の結束を固めるのに効果的だった。あれを手渡した瞬間、誰もが俺に好意的になったし逆らう者はいなかった。幸福のハンカチなど呼ぶ者さえいたし、欲しがって俺におべっかを使う者もいた。それら全てを手に入れることはできなくなった。

 あの時の俺は何も知らなかった。騙されている俺をアイツは陰で笑っていたのだろう。おそらくあの男と一緒に。御者のレイモンド。思い出すと、大声をあげそうになる。結婚するずいぶん前からアイツらは関係を持っていた。そして2人の子どもを俺の子どもとして育てさせた。

 俺は深呼吸をした。呼吸が激しくなっていた。何度も何度も俺は自分に言い聞かせる。俺はアリーと結婚しない。だから子どもは生まれない。アダムもケイラも俺の子どもではない。だから、自分の子どもと思っていたアダムは人殺しにはならない。俺もアニーを見放して命を奪ったりもしない。あの日の悲劇はもう起こらない。

 少しだけ窓を開け、外の風を招き入れた。気分が良くなるのを感じる。相変わらず、外からは女性たちの声が聞こえてくる。

「ロゼルス家とご縁がなくてよかったですわねぇ」

 母が満面の笑みで小さくうなづく様子が見えていないのに浮かぶ。やはりその話をするのか。俺はうんざりした。母から言わせればそれが本題なのだろう。

「そちら様とご縁を結びたくて、ずいぶん無茶なことをされてきたのでしょう?」
「あのお宅の横暴さはずいぶん前から有名でしたもの」
「私の両親もずいぶん強引なことをされて困っておりましたわ」

 ロゼルス家はずいぶん評判の悪い家のようだった。以前はそんな噂は耳にしなかったが、結婚がなくなったので面と向かって言われるようになったのだろう。

「それに・・・お聞きになりました?あのこと」

 突然小声で一人が切り出すと

「えぇ、あのことですわね」

 と、もう一人も小声で返す。何のことだと俺も息を潜めて外の声に注意する。

「妹の方を折檻していたのでしょう?」
「姉の方ばかり可愛がっていたそうですわね」

 アニーを折檻。俺の心臓が大きな音を立てた。

「よくは知りませんのよ、でも確かに妹のドレスはいつも姉のお下がりで。しかもレースやリボンも取られて可哀想な状態だったのを何度か見ましたわ」

 母は沈痛な声を絞り出していた。

「私、見ていられませんでしたの」

 泣き声になる母の声が聞こえてきた。確かに母はアニーをずっと見てきた。顔色は悪く目は虚ろで痩せていた姿。まさかアリーから刺繍や翻訳をさせられ、満足に眠ることも食事を取ることもできなかったとは知らなかった。俺だけではない。家中の者全てがその姿を見ていたのに何も気づかずにいた。そして美しく聡明と言われたアリーの真の姿も。誰も知らなかったのだ。

 夫人たちはなおも小声になり、おそらくはロゼルス家の悪口を言っているのだろう。これ以上聞くのは耐えきれず、俺は図書室を出たのだった。
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