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タセル国にて
16 小さな勘違い
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「これをドナが作ったの?」
朝食の時に私が昨夜作った刺繍入りハンカチをクララ様へお見せすると、クララ様は驚いたように目を見開いた。横にいるエリオット様は丁寧に1枚1枚を手に取って眺め、少し難しい顔をした。
急いで作ったからだ。エリオット様の表情を見て私は心の中でつぶやいた。刺繍をするのは久しぶりだった。だから簡単な模様にしたのだが、エリオット様が気にいるような出来ではなかったのだ。きっと姉ならクシャクシャに丸めてゴミ箱に放り入れただろう。それから冷たい目つきで言ったはずだ。
ブライアン様にこんななものをお渡ししろって言うの?私が嫌われたらあんたも路頭に迷うのよ。
姉の声が現実に聞こえた気がした。我が家は姉がブライアン様と結婚しなければ、立ち行かなくなる。私だけではなく両親も使用人も全てが路頭に迷うのだ。そんなわけには行かない。だからいつも必死だった。
今思えば、どうしてそんなふうに思っていたのかわからない。姉のそばで姉の言うとおりに生きるしか道はないと思っていた。姉のおかげで生きていける。だから姉の無理難題にも応じていた。
でも違う。そんなことはない。私は自分に何度も言い聞かせた。姉とはもう決別したのだ。姉はもう私の人生には関係ない。姉とはもう会わない。
「また夜更かししたのね」
クララ様が大きなため息をついて頭を左右に振っていた。エリオット様も眉間に皺を寄せて険しい顔をしている。今目の前にいるエリオット様とクララ様は明らかに勘違いをしている。思いもよらない反応に私はどうしていいかわからなくなった。あの程度の刺繍で何故夜更かしをしたと思われるのだろう。
「こんな綺麗な縫い目。かなり時間をかけたのでしょう」
「それにこんなにたくさん。どういうことだ?」
「これだけの物を作るのに一晩でできるわけがないわ」
「1人でなんて無理だろう?誰かが手伝ったのか?」
「うちにこんな見事な技術を持つ使用人はいないはずよ」
エリオット様とクララ様が言い合っている。あぁそうか。私にはできないと思っているのだ。私は納得した。私が刺繍を刺すことができないと思っているのだろう。タセル国ではどうなのかわからないが、確かに刺繍は貴族の令嬢の嗜みとされる。だから私が刺繍ができるとは思えないのだろう。
「あの、よろしいでしょうか?」
その時、部屋の隅で控えていたメイドのキャサリンが一歩前に進み出た。エリオット様がうなづく。許可したという合図である。
「昨夜、お嬢様は確かに時間通りお休みになりました」
キャサリンは私の担当のメイドだ。確かに昨夜キャサリンに灯りを消してもらった。お時間です、と声をかけられ、お休みなさいと挨拶をした。
「まさか、夜中に起き出したんじゃないわね?」
クララ様の目が厳しく光った。いかにも威厳のある女主人という感じだ。
「いいえ」
クララ様の言葉にキャサリンはキッパリと答えた。
「何度かご様子を伺いましたが、一度もお目覚めにはならずにご就寝されていました」
まさか寝ているところを見られていたのか。私はそのことを知って恥ずかしくなった。寝相が悪いかもしれないし、寝言を言っているかもしれない。そのうえ寝顔を見られるなんて恥ずかしいにも程がある。私は俯いた。
「それにその刺繍ですが」
もう一人のメイドのアンがおずおずと話し出した。
「私がお嬢様に布と糸と針をお渡ししました。お嬢様にお渡しして、タオルとお寝巻きをご用意するためにお部屋を離れ、戻らせていただいた時にはすでに刺繍は出来上がってお嬢様はお休みの準備に入られるところでした」
あぁ、そういえばそうだった。昨夜のことを思い出し、逆に心配になった。こんなに簡単に刺した物などを寄付したら恥になるかもしれない。実際に寄付するものはもう少し気を配ろう。最初からこれは寄付するためではなく、試しに作ったものだ。直接お見せして判断してもらおうと思っていただけである。
「じゃあ、本当に夜更かしをしていないのね」
クララ様の安心したような声に私もホッとした。
「それどころかわずかの時間にこれだけの物を作るって天才じゃないか」
クララ様とエリオット様が手を取り合って喜んでいる。いや、喜ぶようなことだろうか。
「これを寄付してくれるの?」
「こんなもので良いのですか?」
思わず口にしてしまう。私にとってはこんなもの、である。刺繍は私にとって身近な物ではある。でもけして誇れるものではなかった。たくさんの色の糸を使い複雑な模様で作ったとしても姉に褒められることはなかった。もっと早くできないのかとか、雑な仕事ぶりでみっともないとか言われるばかりだった。
「こんなものって・・・」
クララ様が困惑したような顔で私を見ている。クララ様にそんな顔をさせてしまって、言わなければ良かったと私はものすごく後悔した。
「ドナ。これは素晴らしい物よ」
「そうだ、こんな素晴らしい刺繍を俺は初めて見たよ」
クララ様に抱きしめられ、エリオット様に頭を撫でられる。
「でもあなたが無理をしてこれを作ったんじゃないかと心配なのよ」
クララ様の声は優しく、まるで小さな子どもに何かを諭すような力強さがあった。
「私たちは、ドナがいつでも幸せで健康にいてくれればそれでいいの。無理だけはしないでね」
クララ様が寄付をする物に困っていたから、私が無理をして刺繍をしたのだと勘違いさせたようだ。私は何度も無理はしていないことを説明した。
「でもこれならかなりの高額を期待できるな」
「ええ、きっと貴族の奥方が取り合いになるわ」
「一番高い値をつけた人に売るのはどうだ?」
「良いわね、イザベラ様にも相談してみるわ」
とりあえずは誤解が解けたようである。私たちは少し冷めてしまった朝食を取った。それでも気持ちは温かくて、私は今日もいい1日が始まったことに感謝した。
朝食の時に私が昨夜作った刺繍入りハンカチをクララ様へお見せすると、クララ様は驚いたように目を見開いた。横にいるエリオット様は丁寧に1枚1枚を手に取って眺め、少し難しい顔をした。
急いで作ったからだ。エリオット様の表情を見て私は心の中でつぶやいた。刺繍をするのは久しぶりだった。だから簡単な模様にしたのだが、エリオット様が気にいるような出来ではなかったのだ。きっと姉ならクシャクシャに丸めてゴミ箱に放り入れただろう。それから冷たい目つきで言ったはずだ。
ブライアン様にこんななものをお渡ししろって言うの?私が嫌われたらあんたも路頭に迷うのよ。
姉の声が現実に聞こえた気がした。我が家は姉がブライアン様と結婚しなければ、立ち行かなくなる。私だけではなく両親も使用人も全てが路頭に迷うのだ。そんなわけには行かない。だからいつも必死だった。
今思えば、どうしてそんなふうに思っていたのかわからない。姉のそばで姉の言うとおりに生きるしか道はないと思っていた。姉のおかげで生きていける。だから姉の無理難題にも応じていた。
でも違う。そんなことはない。私は自分に何度も言い聞かせた。姉とはもう決別したのだ。姉はもう私の人生には関係ない。姉とはもう会わない。
「また夜更かししたのね」
クララ様が大きなため息をついて頭を左右に振っていた。エリオット様も眉間に皺を寄せて険しい顔をしている。今目の前にいるエリオット様とクララ様は明らかに勘違いをしている。思いもよらない反応に私はどうしていいかわからなくなった。あの程度の刺繍で何故夜更かしをしたと思われるのだろう。
「こんな綺麗な縫い目。かなり時間をかけたのでしょう」
「それにこんなにたくさん。どういうことだ?」
「これだけの物を作るのに一晩でできるわけがないわ」
「1人でなんて無理だろう?誰かが手伝ったのか?」
「うちにこんな見事な技術を持つ使用人はいないはずよ」
エリオット様とクララ様が言い合っている。あぁそうか。私にはできないと思っているのだ。私は納得した。私が刺繍を刺すことができないと思っているのだろう。タセル国ではどうなのかわからないが、確かに刺繍は貴族の令嬢の嗜みとされる。だから私が刺繍ができるとは思えないのだろう。
「あの、よろしいでしょうか?」
その時、部屋の隅で控えていたメイドのキャサリンが一歩前に進み出た。エリオット様がうなづく。許可したという合図である。
「昨夜、お嬢様は確かに時間通りお休みになりました」
キャサリンは私の担当のメイドだ。確かに昨夜キャサリンに灯りを消してもらった。お時間です、と声をかけられ、お休みなさいと挨拶をした。
「まさか、夜中に起き出したんじゃないわね?」
クララ様の目が厳しく光った。いかにも威厳のある女主人という感じだ。
「いいえ」
クララ様の言葉にキャサリンはキッパリと答えた。
「何度かご様子を伺いましたが、一度もお目覚めにはならずにご就寝されていました」
まさか寝ているところを見られていたのか。私はそのことを知って恥ずかしくなった。寝相が悪いかもしれないし、寝言を言っているかもしれない。そのうえ寝顔を見られるなんて恥ずかしいにも程がある。私は俯いた。
「それにその刺繍ですが」
もう一人のメイドのアンがおずおずと話し出した。
「私がお嬢様に布と糸と針をお渡ししました。お嬢様にお渡しして、タオルとお寝巻きをご用意するためにお部屋を離れ、戻らせていただいた時にはすでに刺繍は出来上がってお嬢様はお休みの準備に入られるところでした」
あぁ、そういえばそうだった。昨夜のことを思い出し、逆に心配になった。こんなに簡単に刺した物などを寄付したら恥になるかもしれない。実際に寄付するものはもう少し気を配ろう。最初からこれは寄付するためではなく、試しに作ったものだ。直接お見せして判断してもらおうと思っていただけである。
「じゃあ、本当に夜更かしをしていないのね」
クララ様の安心したような声に私もホッとした。
「それどころかわずかの時間にこれだけの物を作るって天才じゃないか」
クララ様とエリオット様が手を取り合って喜んでいる。いや、喜ぶようなことだろうか。
「これを寄付してくれるの?」
「こんなもので良いのですか?」
思わず口にしてしまう。私にとってはこんなもの、である。刺繍は私にとって身近な物ではある。でもけして誇れるものではなかった。たくさんの色の糸を使い複雑な模様で作ったとしても姉に褒められることはなかった。もっと早くできないのかとか、雑な仕事ぶりでみっともないとか言われるばかりだった。
「こんなものって・・・」
クララ様が困惑したような顔で私を見ている。クララ様にそんな顔をさせてしまって、言わなければ良かったと私はものすごく後悔した。
「ドナ。これは素晴らしい物よ」
「そうだ、こんな素晴らしい刺繍を俺は初めて見たよ」
クララ様に抱きしめられ、エリオット様に頭を撫でられる。
「でもあなたが無理をしてこれを作ったんじゃないかと心配なのよ」
クララ様の声は優しく、まるで小さな子どもに何かを諭すような力強さがあった。
「私たちは、ドナがいつでも幸せで健康にいてくれればそれでいいの。無理だけはしないでね」
クララ様が寄付をする物に困っていたから、私が無理をして刺繍をしたのだと勘違いさせたようだ。私は何度も無理はしていないことを説明した。
「でもこれならかなりの高額を期待できるな」
「ええ、きっと貴族の奥方が取り合いになるわ」
「一番高い値をつけた人に売るのはどうだ?」
「良いわね、イザベラ様にも相談してみるわ」
とりあえずは誤解が解けたようである。私たちは少し冷めてしまった朝食を取った。それでも気持ちは温かくて、私は今日もいい1日が始まったことに感謝した。
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