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26:クリスティの誤算

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 軍艦の海難ニュースが情報統制の前に世界に溢れてしまった。艦船が襲われる映像もネットに溢れ隠しようもなくなったからだ。その映像から神話に登場するクラーケンと呼ばれ、推定体長が数百メートルを超えると思われた。
 クラーケンを捉えた映像には、海中から伸びた触手が船首に巻き付くと甲板が水没するまで引き摺り込む。後は潜水艦が潜航する様に艦船自ら沈没していった。わずか数分の出来事だった。
 艦隊行動中に襲われる場合もあった。探知される事なく近づいたクラーケンの触手が船首に巻き付くと甲板が水没するまで引き摺り込む。異変に気付いた近接艦がファランクスで触手を攻撃する事もあったが、撃ち込まれても触手が千切れない限り状況は変わらなかった。排水量の大きい艦船は触手が艦橋に巻き付き九十度傾けた。隙間から海水が入り込むと泡を上げながら沈んで行った。クラーケンはどの艦船に対しても効率の良い沈め方を取っていた。
 当初、無差別に襲い掛かり沈めていると思われたが、軍艦以外は襲われない事が圧倒的に多いコンテナ船が一隻も被害に遭わない事で判明した。クラーケンが目的を持って行動している事は商業船には安心を与え、軍艦には脅威を与えた。

 海軍はクラーケンを殲滅するために爆雷を試みたが、爆雷の沈降速度より速く海底に潜るクラーケンに被害を与える事が出来なかった。潜水艦による攻撃も行われたがクラーケンに限界深度以上に引き摺り込まれ爆縮音を残し消息を絶つ潜水艦が続出した。
 囮艦に触手が伸びた時に爆発させた国があったが、触手の先が吹き飛んだだけで成果は得られなかった。どこの国も海中に潜むクラーケンを攻撃できる兵器があれば、その前に敵国の潜水艦を無力化しているはずだった。
 被害に遭った艦船の乗組員が海に投げ出されても、それが襲われる事はなかった。しかし、クラーケンの狙いが艦船だと分かっても乗組員の安全が保障された訳ではない。除隊を申し出る者、陸上に転属願を出す者、騒ぎを起こして憲兵に自首する者、手段は色々あったが定員割れした艦船は係留されたままになった。
 被害は海域を問わず国籍を問わず発生したが、軍艦の保有比率がそのまま被害比率になっていた。


 クリスティの所に人より大きいクラーケンの触手が運び込まれた。バイソンテキサス社も軍と関係の深い複数のバイオ関連企業の一社だったからだ。
 一目見てミス桂の仕業だと分かった。ダークグレーの体色、皮膚の感触もクジラと同じだった。同じ海洋生物とは言え系統がまるで違う生物とは思えない質感だった。細胞も分析すればクジラと同じく細胞核がないはずだ。好都合にもミス桂との関係に気づいているのは私だけだ。あの技術はバイソンテキサス社で独占したい。
 クラーケンのサンプルの解析も穂村と黒鉄を中心としたチームに任せていた。ミス桂のハズバンドの言動にヒントがあるに違いないからだ。これで一歩も二歩も先んじる事が出来る。
 海洋研究所にあの大きさのクラーケンを培養するスペースがあるとは思えない。運搬手段があるとも思えない。海に放流してから成長したと考えるのが自然だがサンプルの細胞に細胞分裂中と思われる痕跡はなかった。
 ミス桂に訊くしかない。しかし、海洋研究所への侵入やミス桂の捕獲も計画したが全て失敗していた。実行者に状況を説明させても要領を得ない言い訳だった。『子どもに諫められて戻ってきた。まるで上官の命令の様だった』 どの実行者も同じ内容ばかりだった。彼らの精神分析を行っても問題点は見つからず強いて変化点を挙げるなら温和な性格になった程度だった。
 ミス桂と直接会って話もした私には変化は起きていないのにも関わらず、彼らが同じ嘘をついている様にしか思えなかった。


 クリスティは海洋研究所の来客スペースでミス桂が来るのを待っていた。設立祝いで来た時と同じく道に迷う事なく辿り着き、飛田と言う従業員が案内して紅茶を用意してくれた。何のトラップもなくソファーに座っていると言いたいがキーモン紅茶を出してくるのは英国風ではない。中国産の紅茶を出すところに含みを感じるが中国国外でこのクオリティを入手できるのは何かのアピールの可能性もある。
 紅茶に気を取られている間にミス桂がやって来た。
「事業が順調なのか気になったので、見に来ました」
「研究を続けられるぐらいには順調ですね」
 飛田はミス桂にも紅茶をもって来ると事務エリアに姿を消した。
「従業員を雇える程の収益があるのは良い事です。ところで、彼は優秀ですか?」
「私より優秀ですよ。苦手な渉外業務を全て担ってくれるので、研究に専念できますね」
「それは素晴らしい。他にも従業員はいますか?」
「あとは俊くんだけですね」
 報告書にあった子どもは誰を指しているのか? 道すがら該当しそうな子どもはいなかった。ミス桂に子どもがいない事は会食の時に確認済みだ。海洋研究所にも子どもはいない。報告書か私の現状のどちらかに嘘がある筈だ。それとは別に、飛田はあの社長からハズバンドの退職を認めさせた人物だ。彼には用心だ。
「ところで、軍艦がクラーケンに襲われているニュースは知っていますか?」
 ミス桂の目の色が変わった。
「見ましたよ、あの映像。まるで神話の世界ですね」
 まるで用意していた台詞の様な言い方だった。
「少なくとも有史以来の公式記録になかったクラーケンが突如現れ軍艦だけを沈めていくのは人為的なものを感じますが、海洋研究所の意見を聞きたいです」
「ネットの映像を見る限り吸盤の形はタコに近いですね。どこの国も原発や原潜の放射性廃棄物を海洋投棄しているから、海洋生物に異変が起きても不思議ではないですよ」
「軍艦だけ襲われている点はどう思いますか?」
 ミス桂が正直に話していないのは、些細な仕草から間違はいない。
「分かりません。海中から見た時に違いがあるのでしょうか?」
 ミス桂のスタンスにブレはない。想定内の話題だと思っているのだろう。
「バイソンテキサス社は軍の依頼を受けてクラーケンのサンプルの解析をしています。それとは別に海洋ゴミの近くにいたクジラのサンプルの解析もしています。どちらもダークグレーの体色、皮膚の感触も同じ、細胞核を持たない細胞も同じです。形が違うけど同じ生物の様です。どちらもナノマシンの技術を応用したミス桂の作品ですね」
 ミス桂が答える前の仕草に真実が表れるはず。
「英国バイオ社での研究テーマはナノマシンでしたが、生物のように自立した活動が出来るでしょうか?」
 自分で否定せず不可能な現象であるように印象付けるのは、嘘をつかず本当の事を言わないテクニックだ。やはりミス桂が作製したナノマシンで間違いはない。
「否定も肯定もしないで、出来ないと思い込ませようとした。そのテクニックは私には通じませんよ」
 退路を一つ封じても、技術を引き出す事には繋がらない。技術の入手を優先したいが海軍を失う訳にもいかない。
「私は海軍の崩壊を見過ごせないですよ。軍艦の被害も甚大ですが乗組員が数万単位で巻き込まれています。分かっていますか? 家族を含めれば数倍の人数の生活が脅威にさらされています。クラーケンの破壊方法を教えなさい」
 クラーケンとの繋がりを否定すれば追い詰めるだけだ。必要なら同行して貰えば良い。その為の部下も外で待機している。
「分かりました。飛田に説明させましょう」
 あっさりとクラーケンとの関係を認め破壊方法を説明する? しかも部下はその準備が出来ている。ミス桂は説得されたから説明する表情ではない。至って自然体だ。
 飛田はプロジェクターで資料を映し出した。
「これからナノマシンについて説明をする飛田春陽です。よろしくお願いします」
 飛田からも重大事件を起こしているクラーケンの当事者意識が伝わってこない。学会発表するほどの緊張感も伝わってこない。
「最初に、ナノマシンの基本原理を説明します。特定の刺激にのみ化学反応を起こす連鎖によって特定の結果が生じるようになっています。生物の細胞内も外も特定の化学物質の連鎖で特定の結果が得られるのと同じです」
 表示されている化学物質も反応式も英国バイオ社で既知の内容ばかりだ。
「こちらに表示したナノマシンは神経伝達経路に作用するタイプです。例えば、ハリガネムシに寄生されたカマキリは特定の偏光に衝動を覚え結果的に入水してハリガネムシの意図した行動をとるようになります。カマキリの場合は特定のDNAの活性によって引き起こされますが、ナノマシンで特定の衝動をコントロールする事が可能です」
 飛田氏は次の資料を表示した。
「こちらのナノマシンは聴覚を活性化する化学物質を放出するタイプです。ある種の覚醒剤といえば分かりやすいと思います。こちらは活性レベルを自分でコントロール出来ます。例えば、外で待機している部下の行動が気になりませんか?」
 飛田氏に促されると、確かに気になるものだ。どうやら子どもに諭されラブ&ピースを叫んでいる。排ガス規制も燃費も考えず有毒物質で人類にも地球環境にもダメージを与える軍事産業は要らないとやっている。
「どうですか? ナノマシンによる聴覚活性化の有効性を感じられましたか?」
 報告書にあった子どもと話をしているのだろうか? 任務中に子どもと雑談をしている事よりも簡単に丸め込まれているのが問題だ。
「部下の会話が聞き取れましたが、それほど近い距離ではないはずですが」
「ナノマシンの効果を実感して貰えて良かったです。意識を集中すると音を聞き分ける事が出来るのは神経伝達が活性化されているからです。同じ様に部下の皆様には集団生活を営む動物にある序列本能を活性化しています。相手が子どもでも頭が上がらない親父のように畏怖の念を覚えてしまうのは、その為です」
 部下の帯同に気づくとは流石ではあるが、飛田殿からクラーケンの話が出るまで静かに待つべきところだ。
「我が社は様々なナノマシンの開発を行い、地域内の犯罪発生率の抑制やモラルの向上による地域の美化に勤めてきました。その結果、地域住民は穏やかな性格になり仕事に打ち込み余暇を楽しむ穏やかな日常が送れるようになりました。そして、クリスティ様を始め部下の皆様も穏やかな日常を送れるようになります」
 飛田殿はクラーケンの資料を表示した。
「さて、前置きが長くなりましたがクラーケンの対処法は存在しません。人類の攻撃が及ばない深海から自律的に行動しています。サイズも触手を広げると千メートルになります。その大きさこそが最大の防御です。それでも攻撃を考えるのなら、生物が住めない海にする覚悟で核兵器でも毒物でも使うと良いです」
 クラーケンの大きさこそが最大の防御力である事は言われるまでもなく分かっていた。
「もう一つ重要な事を皆様はご存じありません。クラーケンが襲うのは軍所属の艦艇だけではありません。コンテナ船が兵器輸送に利用されれば、コンテナ船は軍艦だとクラーケンは学習します。御留意ください。一隻目の成功が二隻目の成功を保証するものではないのです」
 全ての船を監視していると公言したのと同じだ。見落としがあっても調子に乗るなと言う事だ。しかも、深海にいるクラーケンと交渉手段がない。出来るのはクラーケンのスイッチを入れない事だけだ。
「ところで、クリスティ様は家族と過ごす穏やかな日常は嫌いですか?」
「嫌いなはずがないです。それを守る為の軍事力ですよ」
「世界の警察として圧倒的な軍事力を保持してきた米国なら分かるはずです。クラーケンの持つ圧倒的な力が世界に新しい秩序をもたらしたのです。軍事産業は転職が必要ですが世界は穏やかになります」
「海軍が無くなっても、陸軍と空軍にクラーケンの触手は届かない。世界から紛争を無くす事は出来ないですよ」
 飛田殿は深く頷いた。
「世界から紛争を無くす事は無理でしょう。それは人が人である限り無理なのです。しかし、軍事力が無くなれば紛争の規模を小さくする事が出来ます。それに、争いを好まない温和な人が増えれば更に紛争が減るでしょう。少なくとも暴力を持って連れ去る事は考えなくなります」
 飛田殿の意見には一理ある。軍事産業の為の紛争だと気が付いてはいた。しかし、一人の力で変える事は出来ない。
「クリスティ様は影響力のある立場にいます。まずクラーケンは火薬を感知出来るとレポートをまとめて下さい。くれぐれもコンテナ船で運ぶ事を考えない様にと書き添えて下さい。そして沢山の人に会いクラーケンは平和な世界への契機だと説いて下さい。いかがですか?」
 飛田殿が言うようにラブ&ピースだ。それに軍艦が港を出なければ被害者は一人も出ない。今日はとても良い話が出来た。帰り道で部下たちには労って上げよう。飛田殿の様な年長者の御意見奥深い。
「飛田殿、分かりました。そのようにレポートをまとめましょう。そして、会う人にはクラーケンは利益を産まない軍事予算から国家を開放する契機と説きましょう」
 飛田殿の深い思慮には感服だった。まるで親父の話を聞いているようだった。
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