上 下
22 / 28

22:俊くんの悩み

しおりを挟む
 新規事業が成功するには、現在の顧客に新たなサービスを売り込む分野。若しくは既存の技術で新規顧客を開拓する分野とされている。そして、既存の事業から離れる程に失敗の確率が高くなる。エンジニアでも知っているビジネスの常識だ。例外があるとすれば、資金と人材を湯水のように投下して一から立ち上げる新規事業がある。
 社長はその例外を実現しようとしているが、資金も人員もゼロが二個は足らない。と言っても新しい分野に挑戦できる面白さと無謀な挑戦が入り乱れているのが正直な気持ちだ。
 未だに開発目標は新しい触媒だとしか言わない社長にゲンナリしていても仕方がないので、農学部出身の穂村には酵素や酵母などバイオ関連で使う触媒を、工学部出身の黒鉄には化学工業などで使う触媒を調べさせながら触媒に関係のありそうな所には何処へでも出掛けて行った。それぞれの担当分野の知識は部内で勉強会を開き並列化を図った。
 ネットで調べて一割。専門書を読み込んで理解できたとして二割強。設備を見学して専門家と議論して五割ぐらいまで。残りの五割は実践を通して積み重ねるしかない。エンジニアとしての経験則では、そう言うイメージだ。


「開発の準備は進んでいる様だね?」
 今日も社長が来た。机と本棚しかない触媒開発部では開発が出来ない事は理解して貰えたようだ。
「触媒の開発は再生エネルギー分野に参入するチャンスだ。そこで水と二酸化炭素からアルコールを合成する触媒の開発が地球を救う事になる」
 具体的な目標が出てきた。メカバメディカル社から指示があったのだろう。
「植物を発酵して作るバイオ燃料の開発ですか?」
 葉緑体が作った糖を酵母でアルコールにするプロセスをイメージしているのかを確認する必要がある。少なくとも分野を絞り込める。
「違うだろ。触媒だから工業プラントで作る燃料だ」
 言質を取れたのは収穫だ。方向性がはっきりした。
「ところで、目標管理が出てないのは触媒開発部だけだが、いつまでに提出できる?」
 基礎研究も応用研究も試作プラントも飛び越えて量産開始日を訊いているのか? カメレオンの色が変わるように簡単に事業転換できると考えていると上司が言っていたのを思い出した。
「まずは、反応プロセスを解明して各段階の触媒を見つけていきます。それを目標に進めていきます」
「難しいのか? 水と二酸化炭素を使った葉緑体による反応は生物の教科書に出てくるレベルだぞ」
「葉緑体は酵素で反応を進めます。工業プラントに応用するのは難しい可能性があります」
 数年で成果が得られると思われない様にする必要があった。
 しばらく、沈黙になった。
 社長はメカバメディカル社から何を要求されているのだろうか? 社長とは言え基本属性はヒラメだ。最初の部分がメカバメディカル社からの指示で後の部分がマウントを取るために付け足したと見るべきだ。
「早急にアルコールの合成に必要な実験装置を揃えます」
 事が進むと社長が笑顔になる。
「一つ提案がありますが・・・」
 笑顔の時に切り出した方が良い話題だ。
「触媒の研究をしている大学を確認してあります。共同開発も可能だと思いますが話を進めて宜しいですか?」
「世界に先駆けて単独開発するのがメカバメディカル社との約束だ」
 と社長は言ったが、本当にメカバメディカル社は触媒を作りたいのだろうか? 不毛な精神論で時間を潰される前に触媒の開発に時間を使う方が建設的だ。
「稟議が仕上がり次第、決裁に伺います」

 穂村も黒鉄も今のやり取りが聞こえていた筈だが、それぞれが与えられた仕事をしている。夏彦・冬花のように主体的に動こうとしないのは処世術を心得ているとプラスに理解する事にした。
「社長から開発の目標が明確にされたので具体的な設備の選定を行います。基本は工業アルコールの合成プロセスを軸に酒造を参考にします。試行錯誤の一歩目はそこにします」
 指示が明確なら仕事が早い二人だった。実験装置を扱う商社に電話をしている。実験室で扱うのに丁度良い容量の器具のイメージを相談している。場慣れ感が伝わってくるのは前職の経験なのだろうか? 的確な人材を社長が採用したとはにわかに信じられないものだ。
 朝一に決裁を貰いに社長室に行くと機嫌が良かった。簡単な説明をしただけでハンコが貰えるのは他部署から嫉妬を買いそうほどだ。
「これから、ミスター・ベンソンに説明に行くところだ。今までと違う説明が出来るのは進展感を伝えられて良いアピールになる。実験の進捗もつぶさに報告するように」
 そのまま玄関までお見送りになった。秘書係の話によれば毎週報告に行って、鋭い質問を受けてくるらしい。
 こちらに質問が来ないのは防波堤になっているのか? 開発以前の話なのか? 分からない。ただ毎週の報告に耐えうる進展が必要になるのは間違いない。


 総務部から会議用のテーブルを分けてもらい、ホームセンターで買った耐薬品性のあるシートで上面を覆う。実験台と同じ機能のテーブルが一日で出来上がった。稟議を出せばハンコは直ぐに貰えるのは分かっている。問題はお金を出しても時間は貰えない事に気がついたからだ。納期半年の稟議を出した時に『半年、開発止めるつもりか?』と、ぼそりと言われた。その時は『いいえ。次のステップで必要な装置なので、先行手配です』これで乗り切ったが同じ手が何度も使えないのは分かっている。

 アルコール合成の為の触媒と言われた翌週には、それらしい器具を並べ実験を始めていた。フラスコに炭酸水を入れ金属片を電極にしてアルコールを合成するか・・・・。陽極と陰極の材質の組み合わせ、電圧の違いにより何かが合成されるのか? 延々と総当たりの実験を繰り返していた。
「今日は、ベンソン氏に直接説明するように」
 社長のイライラが頂点に達したようだ。毎日のように『この組み合わせでは合成されない事を確認できました』と事実の報告では不満の様だった。
 直接説明が出来るなら、開発には時間もお金も掛かる事を説明できる。そうすれば、大学との共同開発の許可を得られるかもしれない。
 しかし、メカバメディカル社に着くまで練っていたプランは無駄になってしまった。ベンソン氏が会ったのは社長だけだった。受付担当曰く『社長以外は通さない様に事前に申し受けております』だった。社長の説明に笑顔を崩さず無言で聞き続けた後『社長以外は通さない様に事前に申し受けております』とだけ言った。

 それぞれが役割分担を自覚し開発は開発に専念する事。ベンソン氏の真っ当な考えが事態を悪化させた。社長が説明するための資料作りに時間を取られるようになったからだ。詳細を求められ見通しを求められた。
 部下の二人は優秀で指示した通りに実験を進めていたがアイデアが出て来ることはない。インスピレーションを得るには自分で実験をしなければならない。手足を縛られて速く走る事を求められている状況に陥っていた。
 そんな簡単に開発が出来るなら基礎研究から積み重ねている企業が製品化しているはず。モノづくりを舐めていると思うけど、会社の命運以上に我が家の命運が掛かっている。成功の見返りは小さくとも失敗の代償が大きいのはサラリーマンの宿命だ・・・・。


「出来そう?」
 真理子さんがお茶を出しながら訊いてきた。声を聞くのが久しぶりのような気分だ。休日は出社せずにオフの時間を作るようにしていても、アイデアが思い浮かべば書き記し検索を繰り返しては打開策を考えてばかりだった。
「液体クロマトグラフィーで分析しているけど有機物は何も出て来ないよ。総当たり戦で可能性を見つけようとしているけど、そもそも答えに通じる道がある保証はないから」
 モンブランが出てきた。お気に入りのメーカーのケーキなのに美味しそうに見えない。一口食べても美味しくない・・・・。そうか、自分の状態がそこまで悪いと気づかされた。
「ベンソン氏に直接説明すれば建設的意見交換が出来ると思うけど社長に却下された。触媒を見つける以外に選択肢はないみたいだよ」
 真理子さんが何か考えている。心配させているのは分かっているけど町工場の命運より地球の命運の方が大事だ。馬鹿な社長に付き合うのは自分だけで十分だ。
「水と二酸化炭素からアルコールを作るナノマシンなら簡単に作れる」
 酵素でも酵母でもなく触媒でもない方法なら簡単に作れる?
「そんな簡単に作れるの?」
「炭酸水からではなくて、二酸化炭素の炭素を捉えてそれを軸に反応を進めていくナノマシン。葉緑体は糖を作っているけど同じ理屈でアルコールを合成できるはず」
「でも、触媒ではないよね?」
「御社の社長さんは触媒の定義を分かっている?」
 身も蓋もない・・・・、触媒を分かっていると思っていた自分のおかしさに気づくべきだった。となるとベンソン氏が求めている物を開発していないかも。水と二酸化炭素を原料にアルコールが合成できれば目標クリアーと許されるかも。それに、真理子さんのアドバイスはもっと大事な何かを含んでいる気がする。

しおりを挟む

処理中です...