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21:俊くんの会社、買収される

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 玄関を開けても夕飯の匂いが広がってこない?
「ただいま」
 と、後ろに人の気配がする。
「毎度ご注文ありがとうございます。寿司のデリバリーです」
 事態は呑み込めないけど、注文するような慶事がない事だけは分かる。配達員のとりあえず受け取ってよ。の圧に困惑していると俊くんが出てきた。
「ご苦労様です」
 目の前でお寿司二人分を受け取っている。記憶の限り記念日を思い返すが前後一週間に思い当たる慶事はなかった。
「今日はお寿司にしたので、直ぐ食べられます」
 俊くんだけが理解している慶事となると・・・分からない。素直に従うのが吉のようだ。
 ダイニングのテーブルには箸と醤油が用意してある。付録のお吸い物に一手間加えた物が出てきた。
「何か好い事があったの?」
 素直に訊く事にした。
 俊くんの新しい名刺が出てきた。触媒開発部部長になっている。
「昇進おめでとう。でも、そう言う会社だっけ?」
「節目だからお寿司にしたけど、そう言う会社じゃないよ」
 食べながらの説明では、会社が買収されたらしい。銀行の顔色が良くないと噂が広がっていたのに外資系企業が株式の三分の一を引き受けてくれる話に飛びついたらしい。融資の条件の一つが「御社の技術力で、触媒の開発をお願いしたい」とほだされたらしい。
「強い立場が下げる頭ほど高い物はない。と思うけど、どう思う?」
 食後のお茶を飲みながら訊いてきた。
「たしかに・・・。勘違いするのが居たりするけど御社の社長さんは大丈夫・・・・ではなそうね」
 節目のお寿司。自分にご褒美なら夕飯はホイールケーキでもおかしくないけど、節目の意味が分かってきた。
「どの化学反応を制御する触媒を開発するの?」
「普通は、そう思うよね。社長に訊いても先に体制を整えるとしか答えなかったよ。常温常圧下での化学反応だと思いたいけど、特殊な環境下で反応を制御する触媒もありそうだからね。準備すら出来ない。せめて開発目標が明確なら、専門家に聞きながら設備計画も作成できるけど、それもない」
 節目のお寿司と言うより、夕飯の準備をする気力がなくなったからのデリバリーのようだ。
「今、分かっているのは工場の一部を仕切って設備を並べるらしい。農学部と工学部出身を新規採用したらしい。まだ会っていないけど院卒じゃないらしい。自分を含めてスペック不足だと思うけど三人で開発部がスタートするらしい。部長って責任者だと思うけど蚊帳の外の外の感覚だよ。とりあえず、機器の搬入に備えて掃除をしている」
 リビングでテレビを見ていた冬花にデリバリーの器の処理の説明をして片付けさせた。
「どのくらいの広さが必要なの?」
「海洋研究所のワンフロア分ぐらいで足りるらしい。クリーンルームがベストらしいけど他のエリアと遮断して粉塵が入らなければ始められるらしい」
「装置とかの話は?」
「純水を使うらしいけど量が分からないからポリタンクで貰いに行く予定。ベルギー製の分析装置は来月搬入と言っていたけど、配電工事が間に合わないかも」
 スマホで検索するとベルギー製の装置を見せてくれた。
「あ、型式が違うけどこの分析装置を使っていたから使い方は分かるよ。でも、触媒でも使うのかな? バイオや製薬だと当たり前に使うけど」
 部長の肩書に舞い上がるタイプではないと思っていたけど、昇進にネガティブになるとも思っていなかった。
「出資者はどこの会社なの?」
「メカバメディカル社。そこの社長が自ら動いているらしい。日本語が出来るアメリカ人でベンソンと言っていた。日本の顧客に売り込むために日本で生産したいらしいよ」
「それなのに、日本で一から開発するの? 生産依頼じゃなくて?」
「社長はそこに疑問を感じていないよ。町工場から国際企業に脱皮だと思っているからチャンスを掴む事しか考えてないみたいだよ」
「視野狭窄と選択と集中の区別が出来ない人のあるあるだね」
「僕としてはチャレンジできるのは嬉しい事だよ。分野が違っても本質は変わらないと思っているからね。でも、辞退する選択肢がなかったのも事実かな」
「え? そうなの」
 ホイールケーキではない核心に近づいた様だ。
「出資前に財務資料と従業員の経歴を提出させられたと言っていたよ」
「従業員の経歴をチェックするのは、金の卵を産むのが従業員だと理解しているよね。メカバメディカル社は良く分かっているみたい。それで指名されたの?」
「社長から聞いたわけではないけど。第一候補の時にもっと広く人材を検討したのかとダメ出しされたらしい。それで面接をして第二候補を提案したけど面接者全員の可否の理由をチェックされたらしい。そこでやんわりとベンソン氏が僕を薦めたらしい」
「出資者の意向には逆らえないよね」
「そうなるね。何を基準に選ばれたのかが分からないけど。会社の方針が分からないと開発する触媒も決まらないからね。新人が入社する前に社長から聞き出しておくよ」
 社長の一声で始まった新規事業が代表する収益に育った話を耳にする事があるけど、失敗事例を聞かないのは噂が広まる前に倒産して従業員が離散するからだ。そんな愚痴をパート先で聞いた事があった。
 俊くんだからチャレンジを諦めないと思うけどババを掴まされたのは間違いない。
 静観するしかないのか・・・・。

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