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19:昔の上司

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 地下のラボには培養槽、居抜きの研究所には分析装置を移動した。拠点が分かれた不便さはあるけど分析装置を湿気から守れるのは嬉しい事だ。来訪者の目に触れる範囲は海洋研究所らしい飾りつけもした。運送屋にも疑われず荷物を受け取れる。飛び込み営業にも疑われず追い返す事が出来る。それにしても、地下の工廠跡が研究所の下にもあったのは予想外だった。戦時中に飛行場を中心に張り巡らされたのは小学校の社会科で教わっていたけど、これ程までに張り巡らされて、これ程までに残っていたとは私たち以外に知る事はないのだろう。お陰で夏彦・冬花が人目に触れることなく移動できるのもありがたい。
 ただ、子供姿の夏彦・冬花に店番みたいな仕事を任せられない。渉外業務担当の大人姿を完成させないと研究に専念できない。気持ちよく研究に専念できる環境を作るのは難しいものだ。

「先日アポイントを取った、理化学商事です」
 アポイントの記憶はないが『理化学』に反応してしまった。インターフォン越しに断れば良かったと声を聞いた時に思えなかったのは失敗だった。
 ロビーには非の打ち所がない英国紳士風が立っていた。昔の上司のブレッド・クリスティだ。バイソンテキサスから出向して英国で働いていた南部訛のアメリカ英語のはずなのに日本語を話しているとは。
「テキサス英語しか喋れないと思っていたけど?」
「ボケの防止です。語学を覚えるのが一番効果的と聞いたので、頑張って覚えました」
 にこやかに答えているけど、百パーセント嘘。日本で勤務になったのか? 少なくとも日本語を覚える仕事上のメリットがあるのだろう。
「それで、ご用件は?」
「メールに返信がないから『心配』で様子を見に来たよ」
 そう言えば、数か月前にそんなのがあった。だから無視していたのに。押し掛けられるぐらいなら、適当に返信してお茶を濁すべきだった。ん? 何故ここに来た? 居ぬき物件を見つけて開業してから半年ほど。実家の住所が記録に残っていても、退職後のこの場所の住所をどうやって知った?
「お金持ちなんだから、観光案内ならガイドを雇えば良いでしょう」
「やっぱり、メールは届いていましたね。でも、今日の用件はこちら、会社設立のお祝いに蘭を持って来ましたよ」
 背中側に置いていた胡蝶蘭を取り出した。
 社名が古巣の英国バイオ社になっている。英国バイオ社で日本語が必要になる事はない。日本に出向するような関連会社もない。何かを隠しているのは間違いない。それどころか隠している事を誇示している様にも見える。相手の神経を逆撫でして自分のペースに持ち込もうとするのは昔より巧妙だ。とりあえず、後で捨てよう。何が仕込んであるか分からない。
「手間が掛かるから、お祝いとは言えないな。現金が無難で相手に迷惑ではない」
「おや、性格が随分変わりましたね。世話係は従業員にさせれば良いでしょう? 一人で仕事をするには随分と大きな建物ですよね?」
「研究に必要な機器を置くのに必要な広さだよ。それに、零細企業では求人を出しても人が集まらない」
「なら、私がここで働きましょうか?」
 間髪入れずに就職提案が出るとは・・・、余計な事を言ったと反省する前に切り返された。
「必要ないです」
 曖昧な断り方をすると、そこから切り崩される。余計な事を言っても同じだ。否そこじゃない。本音が出た。私がやろうとしている事に興味がある? 何故だ? それより聞き出す事だ。
「そんな事より、研究所のみんなは元気ですか?」
「はい、引き継いだ開発も順調ですよ。ただ、幾つか分からない使用記録が残っていると言っていましたよ」
 十数年前の話を昨日の事のように話すとは。
「引継ぎは全て書き出したと思ったけど見落としがあったのかな? 今更聞かれても思い出せないけどね」
 現状を隠しつつ鎌をかける。何度痛い目に遭った事か。引継ぎに不備があれば直ぐに連絡があったはず。今、話題にするのは、知りたい何かと関係していると思っているのだろう。

「あ・・・・」
 予想外の来客中にフリーズする俊くん。会議で遅くなると聞いていたけど定時上がりの様だ。
「ハズバンドですね。初めまして、ミス桂の元上司のブレッド・クリスティと言います」
 俊くんと名刺交換をしている。後で名刺の情報を確認せねば。
「開業祝で立ち寄りました。起業したと噂に聞いていたのですが素晴らしい会社です。しかも、世界的に問題になっている環境問題を扱うと聞いています。素晴らしい着眼点です」
「ありがとうございます。私も洋上の環境問題を知った時には驚きました。人類は地球の外では生活できません。この環境を大切にしたいです。ところで、元上司と言う事は英国勤務ですよね? 日本語が堪能で驚きました。良く日本に来るのですか?」
 環境問題を扱う事は特定されてしまったけど、俊くんは良い質問をぶつけている。
「はい。日本の営業部門に来る機会があったので、挨拶代わりに立ち寄りました」
 これも嘘だ。基礎研究と営業に接点は殆どない。しかも、現場営業と接する理由もない。
「立話もなんですので、お祝いに食事を一緒にどうですか?」
 俊くんが私を見て返事を待っている。流れ的には断れない状況だけど安易に返事をしない人なのはありがたい。
 クリスティは色々と調べ上げているから目の前にいる。その上で用意周到に準備した質問をぶつけてくるのだろう。でも、これは聞き出すチャンスでもある。少なくとも質問こそが相手の関心事だから、それを知るだけでも大きな収穫になるはず。
「そうですね。クリスティの近況でも聞きながら食事をしましょうか」
 釘だけは差しておく。
「オーケー。では、タクシー呼びます」

 気がつくと、タクシーは高速で都内を目指している。クリスティの知っている店だから近所居酒屋ではないと思ったが、ホテルのレストランに連れて行かれる可能性もある。割り勘にされる心配はしていないが帰りの便は気になるところだ。
「どこのお店ですか?」
「内緒です。私の歓迎会の時のお店です。印象深くて美味しかったので、是非紹介したいと思いました」
 内緒と言っても、カーナビには行き先が表示されている。神田のようだ。サラリーマンが行く居酒屋しかない印象だが外国人受けするお店があるあるのか? 意図的なお店があるのか? それより、俊くんが色々と聞き出されている。クリスティは相手を煽てて話させるのが巧い。少ない質問で合いの手を入れながら聞きたい事を喋らせる。研究より営業向きの話術を使い実績以上に出世した、だけの事はある。
 そうは言っても俊くんのガードは堅い。退職理由を知っているから無難な受け答えをしながら、外国人お勧めの日本の観光地や美味しいお店を聞きいている。日常会話程度の無難な質問から行動範囲を探っている。興味の範囲を探っている。
 相手を煽てて核心を聞き出そうとするクリスティと、無難な会話から輪郭を描き出そうとしている俊くん。二人を熟知しているから分かる戦術の違いは聞いていて飽きない。お陰で私は聞き役に徹する事でクリスティの目的を考える事が出来る。対策を考えられる。ありがたい事だ。

 神田に鯨肉の専門店があったとは・・・・。
「日本でしか食べられません。日本人も喜ぶ店だと聞きました」
 得意げに店を紹介するクリスティだが含みがあっての鯨肉店だろう。それにしても、サラリーマン向けの普通の店をクリスティが選ぶとは信じられない。高級な鯨肉店もあるはずだ。
「どうですか?」
「美味しいです。脂っこさがなく柔らかい。牛肉とは違いますね」
 一品皿が並び鯨尽くしになっている。ジビエとは言わないが家畜にはない野生の濃さを感じる。命を頂く事を実感する味わい。昭和の人は毎日のように鯨を食べていたと聞くが羨ましすぎる味わいだ。
「広大な洋上で生きている命の濃さを感じます」
「私も、そう感じました。海洋研究所で環境問題に取り組んでいると聞いた時に深い感銘を覚えました」
「日本の水俣病は有名でしょ。微量なら直ちに健康に害を及ぼすものではない有機水銀が海の食物連鎖で生体濃縮され、更に人体でも生体濃縮され社会問題になった。有機水銀の特殊性を以てしても因果関係を認めさせるには長い年月が必要だった。それならば、その生体濃縮を使って生息域が特定できる水産物を分析すれば、問題が顕在化する前に化学物質を特定して問題提議が出来るはず。まずは海洋と言っても日本近海を中心に研究するの」
 タクシーの中で準備したシナリオの一つを披露した。嘘ではないが本当でもない企業理念だ。
「生体濃縮だとマイクロプラスチックによる問題もあります。プラスチックに吸着された化学物質が体内で害をもたらすと」
 と言ってクリスティはタブレットを取り出すとクジラの映像を見せた。
「この映像は知り合いの環境団体が発見したゴミを食べるクジラです」
「ネットに流れていたね。私も見たよ。たしか新種発見みたいなタイトルだと思ったけど?」
 たぶん同じ映像だけど切り取り位置が違うのだろう。
「そうです。新種発見となっていました。どのへんが新種なのでしょう?」
「クジラに詳しくないけど、形は科博にあるシロナガスクジラに似ていると思うけど? 図鑑は横からの絵だから区別がつかないでしょう」
 鯨料理にクジラの話し。これがクリスティのメインディッシュ。表情の変化に声のトーンを聞いている。
「それで、知り合いに訊きました。シロナガスクジラに似ているけど黒いと」
「ナガスクジラが黒いから、ホワイトが付いてシロナガスクジラでは?」
 クリスティの質問が雑になって来たのは、知りたい事は押さえたのだろう。
「なるほど、ナガスクジラではない。シロナガスクジラではない。新種なのでしょうが私達では分からないですね」
 慣れない日本語で細かい話が出来るのはクリスティの能力の凄さだけど、特定の分野の日本語に詳しいのはクジラと私の関係を探ろうとしていた証拠だ。この収穫は大きい。
 しかし、私からクジラが手に入ると思っているのか? 目的がまだ分からない。どちらにしても、日本語を習得してまでも欲しいものがあるのが分かった。
「今日は、開業祝いをしてくれてありがとう。久しぶりに話が出来て良かったです」
「喜んで貰えて良かった。会社の発展を祈っているよ」
 クリスティに見送られ駅に向かった。

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