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15:指輪物語

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「あ・・・・」
 ホントに一瞬の事だった。シンクの掃除をしていたら指輪が抜け落ちてしまった。
 まず、水を止める。これで大丈夫なはずだ。指輪は重たいからシンク下のU字管に留まっているはずだ。一番長い菜箸で探ってみると底に届いている手応えがあるが指輪らしき手応えはない。スマホのライトで照らして見る・・・・、底は見えるが指輪もゴミもない。
「何か、おかしい・・・・」
指輪はプラスチックではないから簡単には流されないはず? シンクの下の扉を開けてみる。
「あ・・・・」
 U字管がない。
「シンクの排水トラップを掃除していたんだっけ・・・・」
 玄関先の汚水マスの蓋を開けて覗いた。何もないし何も流れていない。そんなに水を流していないから大丈夫なはず。ここに網を張れば捕まえられるはず。
 ゴボゴボゴボ・・・・
 大量の水が流れてきた。二階の住人が風呂掃除でも始めたかも?
「ああ・・・・」
 汚水マスを指輪が流れて行った。
「マズイ。本格的にマズイ」
 次の汚水マスを探すと蓋が半分埋まっていた。これでは開けられない。次のマスを探すと公共マスだ。重くて開けられない・・・・、困った時はネズミくんだ。急いでラボに戻った。
「ネズミくん。助けて」
 ほどなく、足元にネズミくんが集まって来た。
「指輪を探して」
 絵を描いて説明する。
「排水管に落とした」
 ネズミくんの反応が鈍い。伝わっていないみたいだ。台所に案内するとシンクの穴を指差し、
「ここに、指輪を落とした」
 ネズミくんたちは話し合うように顔を見合わせると次々に排水管に入って行った。
 これで一安心。夏彦を呼んだ。
「ドクター、新しいミッションですか?」
「台所で指輪を流してしまった。汚水マスを流れて行ったから道路下の下水道まで流れたかもしれない。ネズミくんに探して貰っているけどサポートして」
「バージョンアップの新機能のテストですか?」
 夏彦の類推能力が日々向上している。それに今日を予見したかのような新機能と喜びたいところだけど、ゴム手袋をして掃除をすれば良かったと、後悔の方が数百倍大きかった。
「そうよ。実地テスト。ネズミくんをサポートして」
 夏彦は頷くと動かなくなった。袖口からハエトリグモがワサワサ出てくるとシンクの排水管に入って行った。

 排水管を進むネズミくんたちは、下水管に出ると右に進むグループと左に進むグループに分かれた。配管を見つける度に潜り込み指輪を探した。上流下流の区別なく隅々まで『円い金属』を探していた。
 特製クッキーの自動販売機で、何を集めれば良いかを覚えたネズミくんたちが『円い金属』を探して持ち帰った物は百円玉、五百円玉、一円玉、メダルなどだった。指輪なら同じく『円い金属』の延長線で間違って持ち帰るだろうと考え、敢えて指示を変えずにお願いしたのだった。しかし、思い返すと色々なコインの中に指輪が混じっていた記憶がなかった。指輪が落ちていなかったから拾ってこなかったと思うけど、厭な予感が広がっていくのを抑えられない。
「夏彦、指輪を見つけたら教えて」
「ドクターの指輪以外でもですか?」
 夏彦の反応が遅くなっているのも厭な予感がする。
「・・・・そう」

 夏彦から分離したハエトリグモはシンクの排水管に入ると通信状態を確認しながら進んで行った。微弱な電波しか出せないハエトリグモは要所々々で中継用の個体を残しながら進み下水管に到着した。暗い下水管だが所々のマンホールから差し込む光によって辛うじて物体の認識ができた。
 ハエトリグモの視覚情報は全て夏彦に送っていた。小さなハエトリグモに搭載できる機能と駆動時間はトレードオフなので偵察に関わる機能は搭載せずに夏彦側で処理する設計になっていた。言わば数十匹のハエトリグモを通して見ている状態だった。
 夏彦には細くて長く曲がった配管全てを一望していた。重複した視界では自分の眼に自分の眼が映り後ろ姿が映り全身が映っていた。
 真理子さんのメガネには夏彦の体温が上昇を続けているとアラームが表示された。
「夏彦、ハエトリグモの視覚を遮断しなさい」
 夏彦は映像処理に能力を割り当て過ぎて、加減が出来なくなっていた。
「ドクター、視界の範囲に指輪はありませんでした。先端部のハエトリグモの視覚に集中して残りは中継機能に切り替えます」
「良い判断です」
 夏彦は頷いた。

 下水管に色々なものが流れている。時折まとまって流れてくる水が固形物を押し流していた。それでも台所から流された油がヘドロとなって所々にへばり付いている。まるでコレステロールの溜まった血管のようだ。
 ネズミくんたちはベタベタしたヘドロを気にする事もなく右往左往探し回っていた。ハエトリグモはネズミくんたちの姿を視界に捉えながら下流に捜査範囲を移していた。
「ドクター、指輪を見つけました」
 真理子さんの眼の色が変わった。
「良く見つけた!」
 ヘドロにくっつき留まっている。しかし、他のヘドロにゴミがくっついていない事が、次の瞬間押し流される可能性を示していた。
「急がないと・・・、ハエトリグモで運べる?」
 夏彦は頷くと、ハエトリグモが指輪に噛みつこうとするが大き過ぎて太過ぎて成す術がなかった。
「ネズミくんに運んで貰える?」
 ネズミとのコミュニケーション手段を持たないハエトリグモと、虫に関心を示さないネズミくんとの間にコミュニケーションは成立しなかった。
 ハエトリグモとネズミくんの連携を想定していなかった事に後悔しつつも目の前の問題を解決する方が先だった。
「ドクター、お困りの様だね?」
 真理子さんの足元に黒猫が現れた。ラボにいる時間より近所を巡回している方が長い黒猫だが夏彦の異常に戻ってきたところだった。
「丁度良かった。何とかなる?」
 シンクを指差す真理子さんに首を横に振った。
「そこからじゃ入れない」
 黒猫は汚水マスにゆっくり近づくと潜り込んだ。水を嫌う事も溺れる事もないが楽に進めるほど太い配管ではない。伏せた状態で少しずつ進むと下水管に出た。そこまで行けば動きを制限するものはなかった。
「夏彦、猫くんにデータ転送して」
 指輪の映像を転送して指輪に糸を巻き付けているハエトリグモからビーコンを出した。黒猫は難なく指輪を見つけるハエトリグモも一緒に呑み込んだ。
 黒猫の行動は周辺にいたハエトリグモに視覚され夏彦に送られた。
「ドクター、猫くんが指輪を確保しました」
「やった!」
 真理子さんはネズミくんや夏彦や黒猫を信頼していても、指輪が二度と戻って来ないかもと思わずにいられなかった。行き着く先が下水処理場でも流れ着く保証はない。雨が降れば河川放流があるかもしれない。浜辺の砂の中から指輪を探すより広い範囲を探す事になるかもと思っていただけに夏彦からの一報には唯々安堵するだけだった。
 玄関先に戻って来た黒猫は糞尿塗れのヘドロ塗れになっていた。黒猫は家に入らずその場で指輪とハエトリグモを吐き出した。
「ありがとう、私の大切な指輪よ。夏彦が見つけてくれたからよ、ありがとう。冬花もありがとう。黒猫くんはこんなに汚れてしまって、きれいに洗いましょう」
 黒猫を抱えるとお風呂に連れて行った。ボディーシャンプーを使って全身丁寧に、糞尿の上を歩いた足の指の間は特に念入りに洗ってあげているとネズミくんたちが続々と戻って来た。コインを咥えているネズミくん。二重リングを咥えているネズミくん。どのネズミくんも何かを咥えて戻って来た。
「みんな、ありがとう。シャワーで綺麗にしてあげる」
 お風呂場はプールで騒ぐ園児と保母さんのような状態だった。

「ただいま・・・・」
 俊くんが帰ってきた。
 事の顛末は分かってくれても臭いはどうしよう・・・・。
「おかえり・・・・」
 涙目の俊くんが玄関から動けずにいた。

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