手が招く

五味

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四章

沼の底から 1

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一人で事務所へと戻る道、既に日が落ちればかなり寒い、そのはずだが、海斗はそれでも冷め切らない熱をただ持て余していた。
最期に、楠林に向けていってしまった言葉、それは本心でしかないが、それでも言うべきではなかった、そうのみ込もうとするが、それでも楠林に向けて、それ以外は到底飲み込めはしない。
頭の中で、ただ一年前、その時に起きた事件と、今起きている事件を考える。
関係性は見つかった、見つかってしまった。
あの一件、終わったとそう思ていた事件が、今もこうして彼の足を引く。
そして、歩く道、以前と同じ場所、そう感じる場所に、また手が生えている。
相変わらず、何をするでもなく、ただゆるゆると、円を書く、手招きを繰り返す。
その手が、これまでは誰のものでもなく、何かの記号として、そう見えていたが、やるせなさ、腹の底にたまった感情からだろうか。
あの男の、一度名前は聞いた気もするが、思い出すこともできない、あの男の手に見える。
それを、ただ激情のままに踏みつぶす。
あたりに響くのは、ただ堅いアスファルトを靴底で打ち付ける、そんな音が響くだけ。
そこについていた泥も、纏わりついていた枯れ枝や枯葉も、見えていた手も、上げた足の下には何も残っていない。

その様子に、ただため息をついて、明日からの事を考える。
調査は、終わった。
恐らく、依頼人が最も望まない形で。
楠林の記憶違い、その可能性も残っている、その確認をするのなら、調査対象の両親に話を聞けば、それで終わるだろう。
彼にとっては不本意でしかないが、共通点はある。同じ被害者、過去に致命的な事態を避けて、今回のよりひどい惨状を引き起こした。
そんな人間として、あの両親の前に立ってもいい。そんなことを彼は考える。
もし、あの日、伊澄を助けず、何も見なかったことにして、放っていたのだとしたら。
被害者は、今回の事件はまた違う形になったのだろうか。
被害者は重症の自分だけ、それで終わったから、終わってしまったから、今回の件が起きたのだろうか。
そんなどうしようもない、後悔か未練か、よくわからない思考が彼を苛む。
事務所に続く道を、ただ歩いている中、そんな思考に捕らわれたからか、先に勧めるはずの足が重くなってくる。
いや、それだけではない。

何かに引っかかるような感触を覚えて、足元を見れば、これまでは夢の中以外では、ただ招くだけだった手が、彼の足を掴んでいる。
湿った泥の感触、枯れ枝の方さ、そういった物をはっきりと伝えながら、見慣れてしまった手が、確かに彼の足首を掴む。
未練、死んだ相手へのそれがあるなら、さぁ、こっちに来るといい。そうとでもいうように。
あの沼の底、彼が夢に見たあの場所。未練を残し、沈んでいった先、そこに引き込もうと、仲間を増やそうと。
招くだけにとどまらず、彼の足を掴み、引きずり込もうとする。
伊澄は、この招きに応えたのだろうか。
彼はそんなことを考える。
それこそ、彼女はよく知っていたのだろう。
調査対象。彼女の両親を殺した相手。友人の死を、未だに受け入れられない依頼人。
自分が、その場にいれば、犠牲は一人で済んだかもしれない。
そんなことを考えて、未だに苦しむ少女を見て、この手につかまったのだろうか。

足首を掴む手を、彼は力任せに振り切る。
彼自身は、そんなところに行くつもりは微塵もない。
彼にとって、そこには何もない。
未練を残す、そんなことはまだ彼にはないのだから。彼はまだ生きているし、出来ることもある。
後悔はあるが、未練と、終わったこととして、どうにもならないこととして、事を治めるにはまだ早い。
そう考えながら、足を振り切れば、地面から生えていた手は、また、これまでと同じように、ただただその姿を消す。
いい加減、このわけのわからない事態に、どうにか決着をつけなければ。
その形はまだわからないが、依頼人に、伝えれば、事実を突きつければ、何か、また変わるだろう。
まだ年若い少女に、ただ現実を突きつける、その気の進まない作業を行えば。

そんなことを考えながら、事務所に戻った彼は、全ては明日と、いつものように仮眠室で眠りにつく。
そして、また、夢を見る。
昨夜と同じ、沼の底、ただ違うのは、周囲を流れるものは何もなく、向かいに伊澄が立っていることだろうか。
彼女を雇用してから、再会してから、彼が、こうしてきちんと彼女と、向かい合ったことはどれほどあっただろうか。
その姿は、慣れたようにも、見覚えが無いようにも、彼の目には映る。
浮かべる表情は、どこか寂し気で、それでもほほ笑んでいるような、そんな不思議な表情であった。
彼は何か声をかけようと、そう、口を開きかけるが、その口が開くことはない。
彼女にしても、口を開くこともなく、表情を変えることもなく、ただそこに立っている。
ただただ、向かい合って立っているだけ、そんな時間がどれだけ立ったのだろうか。
互いに、表情だけで、意思の疎通ができるほどに確かな何かなど、そこには無い。
彼は彼女の表情から、何を考えているかなど、読み取ることもできない。
もしかしたら、彼女は違うのかもしれないが、そんなことを考える物の、鏡もない、自分を移すものが無いこんな場所では、彼自身、自分がどのような表情を浮かべているのか、それを知るすべもない。
良く知った、これまで、そういった事を怠らなかったのであれば、それこそ彼女の振る舞いで、そこから今の自分を読み取ることもできたのかもしれないが。
そんなことを考え始めれば、寝る前に歩いた、その道での出来事と同じように、足元から手が伸びてきて、彼の足を掴む。

さぁ、後悔があるのなら、無くしたものに未練があるのなら、この沼の底に沈めばいい。
そこにはなくしたものが集まっている。
無くしたものは、あちらにはない。無くなったのだから。
それを求めるなら、お前もこちらに来るといい。
この泥は全てそういうものが降り積もった、その結果だ。
腐った水、そのにおいを漂わせるほどに、どうしようもない、無くした物への未練が、思いが、ただただ降り積もる、どうしようもない行き止まり。
ただ、優しい、身をゆだねれば安寧を得られる、心休まる、沼の底なのだ。
ここに落ちれば、もう新しいものは何もない。
積み重なるのは、過去の事ばかり、だからこそ優しい世界だ。
さぁ、この沼の中に、お前も来るといい。

そんな声が、彼の足を掴む手、そこの奥、それこそそこがこの沼の底なのだろう、そこから、彼に語りかける。
ただ、その声を聞いても、彼の口から洩れるのは、ため息でしかない。
後悔はあるが、未練は持てない。
まだ、解決して、その先に進めなければいけない、そんな事柄が残っている。
もう一度ため息をついて、いい加減、慣れた仕草で彼が足を振れば、纏わりついていた手もどこかへと消える。
その姿を見る彼女は、やはりどこか悲し気な表情を浮かべるばかり。
ただ、それから少しすると、彼女が後ろを振り向く。
その視線を追いかけるように、海斗がそちらに意識を向ければ、そこには楽しそうに二人で話している、声は聞こえないがそのように見える、依頼人と、写真でしか見たこともない調査対象の姿がある。
それは、事務所で見たようなおどおどとした雰囲気ではなく、それでもどこか一歩引いているような、そんな印象はあるが、それでも二人で、楽しげに話している。

その姿を、彼も確認したと、そう考えたのか、後ろを振り返っていた彼女が、再び彼と向き合う。
彼も少しずれていた視線を、改めて彼女と視線を合わせ向き合う。
今度は彼にも、彼女の浮かべる表情の意味が分かった。

どうするんですか、あんなに楽しそうにしている子に、ただただつらい、そんな現実を突きつけますか。

音は聞こえなくても、その言葉が、確かに彼に届いた。
そして、その問いかけに彼は即座に頷く。
答えようと、そう口を開けば、今度は抵抗なく、彼の口は開く。

「それが仕事だからな。そうするさ。
 何なら、直ぐに気が付いたんだろう?
 それをすぐに教えてくれれば、こんなわけのわからないことに巻き込まれずに済んだだろうさ。」

気は進まない。
ただ、それはこれまでの仕事の大半がそうだ。
他人が隠していることを暴き立て、火種を作る。
何も気が付かずにいれば、そのまま幸せに、これまでと変わらずに過ごせた人たちは、さてどれだけいたのだろうか。
それでも、疑念があり、それを解決しなければ、前に進めない、そんな人間は多いのだ。
特に、彼に仕事を持ち込む手合いは、ほとんどがそうだ。
仕事を終えて、お礼を言われる、その誰もが、嬉しそうにしない。そんな仕事ではあるのだ。

「だから、今回も同じだよ。
 泣いたとして、受け入れなかったとして。
 仕事だから、終わらせなきゃいけない。そう決めてるんだ。
 それに、それ以外にできる事なんて、無いだろ。」

そう、彼が口にすると、やはり彼女は悲し気な、寂し気な。
それでもほほ笑んでいる、そんな不思議な表情で、ただ彼と目を合わせ続ける。
そう、彼にしても、思うところはある、こうして、あの手に掴まれて、こんなところまで来る、そういった物はあるのだ。
ただ、元の場所へと戻ろうと、それだけは確かに持っている、それだけの事だ。
ここが心休まる、そんな場所だとは、あの声が語るような場所には思えない、それもあるのだが。
彼にとって、ここはただ薄暗く、鼻を突くにおいの漂う、そんな不快な場所でしかない。
一人で、誰とも触れず、自分の心を休めるのなら、あの狭い部屋にぽつんと置かれた、くたびれたソファーで十分だ。

「まぁ、またすぐに会うことになるんだろうな。」

なんとなく、もうそろそろ目が覚める、その感覚を覚えて、彼はそんなことを口に出す。

「その時、まぁ、何となく決着が、このよくわからない事態に終わりが来る。
 そんな気だけはしてるんだよ。
 まぁ、仕事で積んだ経験、そこからくる勘としか言いようがないものだけどな。
 とにかく、さっさと終わらせたい、どんな形にせよ。
 正直、こんなわけのわからないことに巻き込まれるのは、二度とごめんだ。」

そう、愚痴るように呟けば、目が覚める。
なんだ、後ろ向きな感情でも、こうして追い出されるんじゃないか。
悲嘆にくれる、無くしたものを惜しむ、それだけが感情でもないだろうに。
そんなことを考えながら、彼は、使い慣れたソファーを人撫でして、起き上がる。
今日は、これから、依頼人にメッセージを送り、それに返事が返ってきたら、結果を伝えるのだ。
夢の中、それともオカルトの類か。
そんな未だに訳の分からない出来事、その中で彼女に伝えたように、気は進まないが。
ため息をこぼして、その気持ちも洗い流すために、いつものシャワー室に移動する。
どうせ、あの痣も増えていることだろう、正体を見ればと、そう言うほどに解ってはいないが、それでも今更そんなものに、彼はおびえる気にはなれなかった。
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