手が招く

五味

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三章 

沼の底 10

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楠林は、新しい煙草を取り出し、それに火をつける。
それに合わせるよう、彼がこれからどんな話をするのか、それを受け止める準備をするように、今一度グラスの中身を流し込み、煙草に火をつけ、何度か大きく吸い込む。
お互いに、しばらく何も話すことなく、咥えていた煙草を灰皿でもみつぶす。
そして、次の煙草を咥えた楠林が、少し覗き込む様に、海斗に顔を寄せながら話を始める。

「正直、思い出して、記録を探したが、その記録が残っていなかった。
 同じ事件にあたった連中に聞けば、話は一致して、その記録がない。
 そのことに、今、署内はてんやわんやだよ。そのついでだ、さっき言った連絡やメモなんてのは。」

そういうと、楠林は海斗に顔を寄せながらも、視線を逸らす。
話す口調は重く、疲れを感じさせる。

「まぁ、良くはないが、酔っ払いの喧嘩だとか、軽い事故による器物破損だったり、まぁ軽いものなら、見過ごすこともできたかもしれない。」

そういうと、煙草を咥え、また、一度大きく吸い込む。
そして吐き出される煙は、相も変わらず、こんな狭い空間、匂いは残しても、眼で見ることはすぐにできなくなる。

「殺人だ。殺人事件、その記録が紛失している。
 なぁ、おい。信じられるか?書類もなければ、保管してる証拠も消えている。
 保管室の出入りは全部記録されているし、その全員が順番に呼び出されて、問い詰められたよ。
 俺にしたって、何故気が付いたのか、俺以外が、何故忘れていたのか、そりゃもう蜂の巣をつついたような、そんな騒ぎだ。」

海斗にしても、伊澄が消えた、その事実を見て事務所の書類をすべてひっくり返すような、そんな調べ方をしたのだ。
それが個人ではなく、それも民間企業とは比べ物にならないほどの記録を持つ、そんな組織であれば、その調査はどれほどのものだろうか。

「正直、この件、お前から持ち込まれたこともあって、呼び出す一歩手前だ。
 お前に話を持ち込んだ、依頼人も含めてな。」

そういうと、楠林は大きくため息をついた後に、グラスの中身、半分ほど残っていたそれを一息に飲み干し、乱暴に机に戻す。

「まぁ、そうだろうな。こっちだって訳が割らない。
 正直、自分の身に起きてなければ、与太話とそう笑っただろうさ。」

海斗にしても、それについては、言葉もない。呼ばれたところで、話せることなどことの経緯、それで終わりだ。

「ああ、そうだろうな。それこそ拝み屋にでも聞くほうが、まだ建設的かもしれない。」

そして、空いたグラスに次を注ぎながら、楠林はため息とともに、話を続ける。

「だがな、そんな事を言ってられない。
 さっきも言ったな、殺人だ、これからまだ裁判もある。
 なのに、その証拠や記録が消えている、こればかりは冗談じゃすまない。
 無くしました、何処かに忽然と消えました。それで済ませる事じゃないんだ。」
「まぁ、な。それで、どこまで確認はすんだんだ。」
「一通り終わったさ。それで、ここ数日は本当に忙しかった。
 本当に気味が悪かったさ。時間もないからそれぞれ分担して聞き取り、記録の参照を行ったが。」

そのどれからも、消えている事柄がある。
そう、楠林は呟く。
それは、先週から海斗も経験していることだ。
忘れられた人間、その人間い関わる全ての記録、それがそんな人間元からいませんでした、そのように消えていく。

「だが、その口ぶりと、全員が気が付いたと、そういうという事は、何かつじつまが合わない部分でも残っていたか?」
「ああ。それで、誰も彼もそれを正しいと、問題ないとしていた。
 だが、探して、見つけて、指摘をすれば、疑問に持って、話を進めると思い出す。」
「で、口をそろえて言うんだろう、なんで忘れていたのか。」

海斗が、言葉を引き継げば、楠林はただそれに頷き、手に持っていただけの煙草を、そのまま灰皿でもみ消す。

「なお悪い。確かにその記録は取った、そうでなければこの結論にならない。
 そこまでがワンセットだ。
 なぁ、おい。殺人、人を殺した相手だぞ。それも三人。それが二人だけだと、そうなっていいわけがあるかよ。」

三人、伊澄も関係のある、そんな事件。
海斗の頭には、あの時何度か顔を合わせた、夫婦、その姿と、伊澄、彼女の姿が浮かぶ。
そう、それでちょうど三人だ。

「お前にも関係がある、いや、やっぱり大きいのはあの嬢ちゃんだが。」

そういって、楠林は声をひそめながら、話を続ける。

「まぁ、今は残っちゃいない、俺もその時の事件を担当したから、何とか覚えてる、それぐらいの話なんだがな。
 花家夫妻が、殺された事件、これだけならここらの過去の新聞の生地もまだ残っていた。
 だが、その記事も被害者は二人と、そう書いていたが、そうじゃない、被害者は三人だ。」

海斗は、喉がひきつるような、やけに熱を持ったような、そんな感覚を覚える。

「元は、その娘、お前の助手、あの嬢ちゃんだな、それに恨みを持ってる男の犯行だった。
 その男が、花家夫妻宅に押し入り、そのまま二人を殺害。
 ただ、当時その娘は、離れた場所で職を得ていたため、家にはいなかった。
 それで、その男はそのまま外に出て、下校中だった学生を襲った。
 その際、持っていた防犯ブザーを鳴らし、それに気が付いた近隣住民が通報。
 現場に到着した、警官が現行犯逮捕。
 不幸にも、襲われた学生は二人、一人が死亡。もう一人は、重傷だが一命は取り留めた。」

話を聞き、何処か安心してしまった海斗は、ため息をつく。
だが、その話では、伊澄が恨まれていることになる。
誰が何処で、他人の恨みを買うかなどはわからないが、一体、彼女が何故そこまでの恨みを買っていたというのか。

「それで、だな。」

伊澄のことで考え込む海斗に、楠林は話を続ける。
これから話すことが、最も重要だと、そういうかのように言葉を荒げるでもないが、そこには無視できないだけの何かが込められていた。

「それで、出た被害者なんだが。
 死亡したのが、中村菜緒。
 重傷だが、一命をとりとめたのが、上沼美夜。」

その言葉を聞いた時、海斗の意識は一気に醒め、楠林の言葉に引き込まれる。
だが、驚き、目を見張る海斗に関係なく、楠林は話を続ける。

「なぁ、お前の依頼人、上沼美夜じゃないのか。」

やけに醒めた頭は、それでも酒ではない何かに酔ったかのように、まったく働かない。
依頼人は、死人を探している。
そんな人間は、存在するわけがない、学校に入学もできない。
記録がないのも当然だろう。死んだあとは、一枚の紙きれを最後に、そこから先の記録など残りはしないのだから。
だが、そうして消えるのが、死人であるというのならば、やはり。
そこまで考えたところで、彼はそれを止め、楠林の質問に答える。

「ああ。そうだ。上沼美夜、彼女が依頼人だ。
 友人を探してほしい、誰も覚えていない友人を探してほしいと、そう依頼を受けた。」

そういうと、楠林は納得したような、怪訝そうな、そんな表情を浮かべて、新しい煙草に火をつける。
海斗もそれに倣って、お互いに少しの間、煙草を吸うだけで、何も話さない時間が流れる。

「前にも話したと思うが。」

そう、今度は海斗から切り出した。

「調査でな、話を聞けば、思い出すんだ、そんな人間がいたとな。
 担任、学校の教師までも、そういった生徒がいたと、そういっている。
 死んだ、その時に確かにそうだったのなら、なんでそんなことが起こる。」
「わかるかよ、そんな事。こっちだって教えてほしいくらいだ。
 俺は上沼美夜に関しては、聴取を担当してないが、精神的に証人喚問には呼べそうにないと、そうは聞いている。
 まぁ、そうだよな、あの年ごろ、自分を助けようとして、友達が死んだ。
 そんな事、そう簡単にまっすぐは受け止められないだろうさ。」
「まぁ、そうだな。それで、こんなわけのわからない事態が無ければ、それだけで納得はできたんだろうがな。」

仲のいい友人、あの様子では、他に友人がいるかも怪しい。
そんな相手が、自分を守って、誰かの手にかかった。
それを受け入れ切れず、まだ死んでいない、ただそう言い張っているだけ、そうであるならば、話は簡単だった。
今思えば、話を聞きに行った中村夫妻、そちらでも、今は、と、そういっていたではないか。
これからかもしれないが、それまでは、過去のどこかでは、二人ではなかったのだろう。
そう、そちらについては、一つ納得をして、調査の結果として、伝えるべきことも、もう決まった、ならば依頼人、その話はもう終わりだ。

「それで、なんでまた、伊澄が狙われた。一度狙って、阻まれて。
 それで捕まったなら、更生しないと出てこられないはずだろ。」
「まぁ、雇用主としては気になるか。
 調べれば、それも出て来る気はするが、いいだろう。」

そういうと楠林は、疲れたように、ただぽつぽつと話す。

「再犯なんだよ。昔、一目ぼれした彼女を、薬の勢いで襲って、その時はたまたま通りかかった学生が庇って、被害はその学生の重症だけ、いや、だけというのも不謹慎だな、死者も口にできないような被害も出ずに済んだ。」

海斗は、良く知っている話を聞かされる。

「それで、出所したその男は、逆恨みで事に及んだんだよ。
 当時やっていた、薬もまた初めてな。
 上沼に狙いをつけたのは、昔の彼女に似ていたからと、そういう事らしい。」

海斗は気が付かないついに、机を殴りつけていた。
かなり大きな音が鳴ったのか、店内が急に静まる。
それに気が付き、一度大きく息を吐き出し、酔いが回り始めたみたいで、力言を間違えたと、そういって周囲に向けて頭を下げる。

「おい、どうした。」

周囲の喧騒が戻る中、楠林は目の前にいたこともあるだろう、そんなことに誤魔化されず、海斗に尋ねてくる。

「ああ、それ、俺だよ。」

そう告げれば、楠林は、ただ驚いたように目を開くと、何も言わずに互いのグラスに次を入れる。
最初に飲んでいた物よりも、度数が強いそれを、海斗は何も言わずに、一息にあける。
そして、しばらく言葉も出せずに、ただ空いたグラスを睨みつける。

「なぁ。なんでそんな人間が、再び出てこられるんだよ。」

海斗は自分が、何故そんな事を口にしたのか、よくわからなかった。
だが、ただただ、それ以外の言葉が出てこなかった。

「ああ。なんでだろうな。俺たちも分からないさ。」

楠林は、それに対して、透き通った表情でそう答える。
そして、そのあとは、互いに口数も少なく、酒を飲み、また、何かわかればと、お決まりの言葉を交わして、別れることになった。
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