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姦邪Ⅰ -ルィリア編-
第55話 少女の乖離
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拙の名前はシャーロット、18歳。
学生時代は医療関係の勉強をしていたが、段々と“今の医療は致命的に発展していない”という事に気付き、看護師ではなく魔術研究所に就職した。
しかし拙は自分が魔術を使えない体質である事を、就職した後から知った。お陰で、研究所の拙の仕事は主に薬品や研究器具の運搬や伝達係である。
医療魔術の発展を目的に就職したのに、魔術の“ま”の字も関わらない……これでは本末転倒である。
そんな拙にだけ与えられた、特別な仕事がある。
「シオンちゃん」
「…………」
研究室から隔離された閉鎖空間の中に、まるで人形のような……長髪の銀髪に碧い瞳をした少女が一人。
この子の名前はシオン・トレギアス。この子は元々この研究所の近くにある町に住んでいた子だったのだが、ある日突然町が火の海と化してしまい、身寄りが無くなってしまったのだ。
研究所はそんなシオンちゃんを保護する事にしたのだ。そしてその世話役として、同性であり医療の勉強をしていた拙を選んだのだそうだ。魔術が使えない拙としては、大役だった。
「シオンちゃん。今日はどんなお話をしましょうか」
「…………」
「昨日は名前を言ってくれて嬉しかったです。拙、もっとシオンちゃんのこと知りたいです」
「…………」
シオンちゃんは、ただ黙り込むだけだった。
当然だ。突然住む場所や両親を失って、知らない人達に研究所へ連れていかれ、よくわからない部屋に入れられ、知らない女の人に話しかけられているのだから、不安だろう。
「突然町が火の海になってしまって、酷い目に遭いましたね。あれは人の手によって起こされたみたいです、何か心当たりはありませんか? こう、怪しい人がいたとか」
「…………」
「……ごめんなさい。まだ1日しか経ってませんし、混乱してますよね。拙は席を外すので、一人で気持ちを落ち着かせてから色々聞かせてくださいね」
そう言って拙は椅子から立ち上がり、その場から退室しようとシオンちゃんに背を向けた。
「……わたしだよ」
「っ! 何?」
急にシオンちゃんが話し始め、拙は驚きながら勢いよく振り向いた。
「……町を火の海にしたの、わたしだよ」
「え……?」
「やろうと思えば、ここもあの町みたいにする事だって出来るんだよ」
「…………」
シオンちゃんは拙に手を翳しながら、そんな脅迫をする。しかし依然として、その表情に感情は無いように見えた。
「だから……もうわたしに関わらないで」
「……ここを火の海にして、シオンちゃんに何のメリットがあるんですか?」
「えっ……?」
「一人ぼっちで寂しいかもしれませんが、ここにいれば一日三食、好き嫌いは別として栄養豊富な食事が食べられます。シオンちゃん、昨日ちゃんと平らげてましたよね」
「っ……」
「シオンちゃんにとってデメリットしか無いんですよ……自分から遠ざける為の脅しとしては、その言葉じゃ弱いですよ」
「うるさい……! わたしと関わったら……みんな死んじゃう……これ以上、好きな人を増やすのも殺すのも嫌なのっ……!!」
「優しい子なんですね、シオンちゃんは」
「優しくなんか、ない……」
「……明日も来ますね。その時まで、頑張って拙を遠ざけられるような脅し文句でも考えておいてくださいね」
シオンちゃんに向けてそう言うと、拙は退室した。24時間という長い時間の中で、世話というにはあまりにも短過ぎる時間ではあったが、これでも名前を聞いただけで終わった昨日よりかは長いのだ。
~
翌日。今日も拙はシオンちゃんの世話をしに部屋へ出向いた。
「シオンちゃん」
「……!」
「お腹空いたでしょう? ほら、食事を持ってきましたので……一緒に食べましょ!」
「え……」
シオンちゃんは露骨に嫌そうな顔をした。
しかしこれはきっと拙と一緒に食べるのが嫌なんじゃなくて、シオンちゃんにとって唯一の楽しみであろうこの貴重な食事をシェアするのが嫌なのだろう。そうであってほしい。
「安心してください、拙のは別でありますから」
「……!」
拙が自分の食事として少し大きな菓子パンを見せつけると、シオンちゃんは目を輝かせながら拙の菓子パンを見つめてきた。
「あげませんよ! これは拙のですから!」
「……ケチ」
シオンちゃんは不貞腐れて、頬を膨らませながらその場に体育座りした。でもちゃっかり拙の菓子パンをずっと見つめてはいた。
研究所からは決められた食事しか与えてはいけないと言われているのだが、それを理由に相手の欲しい物を与えないというのは何だか可哀想だ。シオンちゃんだって、望んでここにいる訳ではないし。
「あーもう、仕方ないですね。じゃあ拙といっぱいお話すると約束してくれるなら、あげます!」
「ほんと!?」
「ホントです、拙は嘘つきません! ほらどうぞ」
そう言って、拙は目をキラキラさせるシオンちゃんに菓子パンを差し出した。
まぁ菓子パンはいつでも買えるし何度も食べているので別に話をしてくれなくても渡すけども。後で拙が上司に怒られればいいだけだし。
「わーいっ! ありがとうセツさん!」
シオンちゃんは菓子パンを受け取ると、早速開封して口いっぱいに頬張る。
その菓子パンは何度も食べてて味は熟知しているにも関わらず、シオンちゃんがあまりにも美味しそうに食べるものだから、思わず食べたいと思ってしまった。
……と、ここで拙はある事に引っかかる。
「セツさん、って……?」
「だってずっと自分の事“セツ”って呼んでるから」
「ああ……なるほど……」
初対面の時、一応シオンちゃんには“シャーロット”とちゃんと名乗ったのだが……どうやら名前よりもこの拙というちょっと変わった一人称の方が印象に残ってしまったようだ。
自分の事を拙と呼ぶのにそこまで深い理由は無い。学生時代に何かしら個性を作ろうとして一人称を変えただけである。
「ねぇ、セツさん」
「なんです? シオンちゃん」
菓子パンを食べながら、さも当たり前かのようにシオンちゃんが話しかけてきた。あまりにも自然過ぎて思わず普通に耳を傾けてしまったが、何気にすごい事なのでは? 菓子パン、恐るべし。
「実はわたし、人を食べちゃうバケモノなんだよ!」
「……え?」
急に意味のわからない事を言い出すシオンちゃんに、拙は思わず首を傾げてしまった。
「これで、わたしの事を遠ざけるよね!」
シオンちゃんは満面の笑みでそう告げた。
その言葉で、拙は意味のわからない言葉の真意を知った。
“……明日も来ますね。その時まで、頑張って拙を遠ざけられるような脅し文句でも考えておいてくださいね”
そういえば昨日、そう言って退室したんだ。
拙が居なくなって一人になった後、シオンちゃんはずっと拙を遠ざけられるような脅し文句を考えていたようだ。
……それで捻り出したのが“人を食べるバケモノと名乗る”って、可愛過ぎません?
可愛さのあまり悶絶してしまいそうなのをグッと堪え、拙はニヤリと笑った。
「へぇ、シオンちゃんは人を食べちゃうバケモノなんですね」
「そ、そうだよ! だからセツさんの事も、ばくばくーって食べちゃえるんだよ!」
「……あーあ、残念。どうやらシオンちゃんにとって、拙よりも菓子パンの方が魅力的で美味しそうに見えるんですね。ショックです」
「えっ……あっ、あ、違うの! これは……その、冗談で……!」
「なるほど冗談なんですね。安心しました」
「あっ……」
「じゃあ遠慮なく拙を食べてみてくださいよ」
「えっ!?」
「冗談なんですよね、菓子パンの方が魅力的で美味しそうなのが」
「ち、違う! そっちじゃなくてわたしがバケモノっていうのが冗談なのっ!」
「……ふーん? シオンちゃんはバケモノじゃないんですね。じゃあ安心して、一緒に居られますね」
「……あっ!」
シオンちゃんは自分で地雷を踏んだ事にようやく気付いたようで、恥ずかしそうに顔を真っ赤にしてその場に俯いてしまった。
「ふふ、残念でした。拙を遠ざける事は簡単に出来ませんよ」
「うっ……うぅ……一生懸命考えたのに……」
「まぁ次頑張りましょうね。時間はいくらでもあるんですから」
◇
それから、徐々に一緒にいる時間は長くなっていった。シオンちゃんは拙が来る度、自分を遠ざける脅し文句を言うという挑戦をしてくるようになったが、どれも拙に論破されるのがお決まりとなっていた。
これは拙の勝手な思い込みではあるが、着実にシオンちゃんは心を開いていったと思う。しかし未だ両親や町の事、火の海にした犯人の心当たりについてなどシオンちゃん自身のことはあまり聞けていない。
そんな、ある日。
「……セツさん」
「どうしたんですか? シオンちゃん」
「……どうして、わたしに優しくしてくれるの?」
「そんなの決まってるじゃないですか。シオンちゃんが可愛い女の子だからですよ」
「……わたしなんだよ。あの町を火の海にしたの」
「おっ、今日の脅し文句ですか? でも残念、それ一番最初に言ってましたよ」
「違うのっ!! これは……本当なの」
「えっ……?」
一番最初に言っていた、シオンちゃんが町を火の海にした張本人、というのは冗談だと思っていた。だってシオンちゃんはまだ7歳の女の子で、動機だって無い筈だ。流石に、親と喧嘩したからなんて理由でも無いだろうし。
シオンちゃんの表情は、本気だった。でも思い返してみれば、最初に言った時と同じ表情をしていた。
「で、でもねっ! わたし、そんなつもりじゃなかったの……炎魔術の練習をしたら、急に周りが真っ白になって、気がついたら……」
「……」
ここでフォローしてあげるのが、世話役としての役目なのだろうが……拙は黙り込んでしまった。
こういったパターンには2種類存在する。
1つは、間違えて別の魔術を発動してしまった。
普通はありえない事だが、魔術を覚えたての子供ならありえる話だ。
2つは、魔力量が凄まじいあまり、制御が出来ず魔術を暴走させてしまった。
魔術の強さは魔力量に比例する。要は“魔力量が少ないと弱く、多いと強い”という認識で構わない。だが多ければその分、制御も難しくなる。
……おそらく、後者だろう。
魔力量というのは本来、成長と共に増えていくのだが、ごく稀に膨大な魔力量が備わった状態で生まれてくる子がいるらしい。それも突然変異のような確率で。
実はこれにも2パターン存在する。
1つは、奇跡的な確率で生まれてきた純粋種。
2つは、異世界から前世の記憶を引き継いだ状態でこの世界に生まれた異世界転生者。
異世界転生者は生まれつき特殊能力や……それこそ膨大な魔力量を携えて生まれてくるのだ。理由は、不明だ。
ともかく、それがシオンちゃんなのだろう。
「町を一つ無くしたわたしが、優しくしてもらっていいのかなって……よく思うの。でも……セツさんと会えなくなっちゃうかもって、怖くて言えなかったの」
「……勇気を出して、話してくれたんですね」
「……うん」
「安心してください。そんな事で拙は会わなくなったりなんてしませんよ」
「……どう、して?」
「実は拙、魔術が使えないんです」
「えっ……?」
「魔術が生活の要となっているこの社会で、魔術が使えないなんて致命的です。だから拙に出来る事は、シオンちゃんを信じてあげる事だけですから」
「わたしを、信じる……」
「そう。拙はシオンちゃんと話すのが楽しいし嬉しいなって思いますが、シオンちゃんは拙とこうして話すのは嫌ですか?」
「嫌じゃない大好きだよっ! ……でも……やっぱり、怖い」
シオンちゃんは体を震えさせて、まるで恐ろしい物を見るかのような目で自分の手のひらを見つめながらそう言った。
まだシオンちゃんは魔術に対する理解度が高くない。故に魔術が自分の意思とは関係なく発動し、更にそれが暴走してまたあの町のように辺りを火の海にしてしまう事を恐れているのだろう。
「自分の事が怖いですか」
「うん……」
「……っ」
拙は恐怖で染まった表情をするシオンちゃんに優しく微笑みかけると、その小さな身体をそっと抱きしめた。
「っ!?」
「……ほら、なんともないでしょう?」
「ん……」
「シオンちゃんは、ネガティブな事を考え過ぎなんですよ」
「だっ、だって……」
「まぁでもネガティブな事ってついつい考えちゃいますよね。だから今から大人である拙から、シオンちゃんの為にとっても重要なアドバイスを言いますね」
「……うん」
「これから生きていく中で、後悔や反省なんて嫌でも沢山します。なのに嬉しい事はちょこっとしか無いんです。だからもし嬉しい事があったり、何かを成し遂げた時は……何よりもまず思いっきり喜んだ方が良いです」
「思いっきり喜ぶ……」
「そうです。喜べる要素が1%でもあったら真っ先に喜んじゃってください。後悔や反省はいくらでも出来ますけど、喜ぶのは中々出来ませんから」
拙はシオンちゃんにそう告げた。
正直に言うと、拙はまだそんなに長い時間を生きていないし、社会を理解していない。学生時代も特に何も考えず勉強していただけだった。後悔も反省も、更には喜ぶ事もあまり無かった。
……しかしシオンちゃんには、まだ無限の可能性がある。拙のような抑揚の無いつまらない人生を歩んで欲しくなかったのだ。
はっきり言って全て綺麗事だ。でも子供は純粋、言われた言葉を変に勘ぐる事無く真っ直ぐに受け止めてくれる。ましてや今のシオンちゃんの年頃は、親の教育が最も必要な時期でもある。だから例え綺麗事でも、聞こえがいいだけの嘘でも、説得力が皆無でも、伝えたかった。
「……何だかセツさん、お母さんみたい」
「ふふっ、ある意味間違いではありませんね」
「わたしも、セツさんみたいな優しいお母さんになってみたいな」
「なれますよ。シオンちゃんなら」
「うん! もし子供ができたら、セツさんみたいに優しく抱きしめるね!」
「ええ、そうしてあげてください。シオンちゃんの子供は、きっとシオンちゃんに似て可愛いんでしょうね」
「えへへ……そうかな?」
「きっとそうに違いありません! もし子供が出来たら拙にも顔を見せてくださいね、約束ですよ?」
「うん! 約束するね!」
シオンちゃんは満面の笑みを浮かべると、自身と拙の小指を絡み合わせ、約束の契りを交わした。ユビキリゲンマン、というやつだ。
……そんな微笑ましい空気の中、突如として警告のような緊張感と危機感を煽る音が部屋中に響き渡った。
シオンちゃんはその音に驚いて、思わず拙にしがみついた。
『シャーロット、メンタルケアの時間は終了だ。直ちに戻ってこい』
滅多に使われないスピーカーから、威圧感のある声が聞こえた。その声の正体は、この研究所の所長であった。それに“メンタルケアの時間は終了”だなんて、今まで言われた事無いのに。
「どっ、どういう事……?」
何だか嫌な予感がして、拙は無意識に抵抗するかのようにその場から離れず、シオンちゃんを守るように抱きしめ続けた。
「せ、セツさん……何が起こるの?」
「っ……」
シオンちゃんも何か異変を感じたようで、不安に染まった表情で拙の顔を見上げていた。
その瞬間、部屋の扉が開かれ、武装した集団がぞろぞろと侵入してきた。その中には、先ほどスピーカーから聞こえてきたあの声の張本人……研究所長の姿もあった。
「……先ほどの命令が聞こえなかったのか、シャーロット。もうメンタルケアの必要はない、戻れ」
「なっ……何故です!? シオンちゃんはまだ子供ですよ!? まだ拙の世話が必要なはずです!」
「私がグリモワール・レヴォル賞を受賞する為には、その娘の成長なんぞ待ってはいられんよ」
「何を、言ってるんです……!?」
「ようやく捕えた貴重な研究材料なのだよ……その娘は」
「研究材料って……まさか……!」
拙はこの研究所がシオンちゃんを保護した理由をわかってしまった。
恐らく研究所側は、シオンちゃんがあの事故を引き起こしたものだと最初からわかっていたんだ。そしてそれはつまりシオンちゃんの魔力量が凄まじい事を意味する。純粋種であろうと異世界転生者であろうと、貴重な研究材料だから。
……そして、拙は貴重な研究材料の緊張を解く為のカウンセラーに過ぎなかったのだ。
「さぁ大人しく娘を差し出せ。そうすれば手荒なマネはしない」
「研究って……何をするんですか」
「その娘の体を調べ、普通の人間との身体構造や脳の構造の違いを調べるのだ。まぁ、要は解剖だな」
「なっ……そんな事したら、シオンちゃんは……!」
「……グリモワール・レヴォル賞の為なら、多少の犠牲は仕方のないものなのだよ、シャーロット」
「何がグリモワール・レヴォル賞ですか……自分の栄光の為に、女の子一人を犠牲にするというのですか!」
「この研究が認められれば、魔術業界に大きな革命を起こせるのだ!! その娘の犠牲で、あの町のような事故を防ぐことが出来るかもしれんのだよ!」
「でも、犠牲なんてあっていい訳が……!!」
「……仕方がない。おい」
「やぁやぁ。このボクをお呼びかな?」
研究所長が指をパチンと鳴らした途端、突然目の前に黒い羽根と共に、中性的な顔立ちで羽の生えた不気味な存在が姿を現した。それがどんな存在なのかは、本能ですぐに感じ取った。
「なっ……所長、まさか悪魔と契約を!?」
「ああ。物事には全て、代償が必要なのだよ。時に、悪魔の手を借りなきゃいけない時もある。グラトニー、やってくれたまえ」
「お任せあれ。さぁて、一番ゾクゾクするヤツでいくとしよう。せいぜいボクを楽しませておくれよ……アハハハッ」
グラトニーと呼ばれた悪魔は、狂気的な笑みを浮かべながら歩み寄ってきて、拙の視界を覆うように手を翳してきた。
「うっ……!?」
その瞬間、視界がぐらりと揺らぎ始めた。頭の中が暖かくなるような不思議な感覚が襲い、何も考えられなくなってしまう。
「あっ……はぁっ……んぅ……ぅっ……」
今度はまるで頭の中をぐちゃぐちゃと弄り回されるような感覚に襲われ始める。しかし痛みはないどころか寧ろ心地よく、思わず喘ぐような声を出してしまう。
段々と、自分が何なのかよくわからなくなってきた。いや……それすらどうでも良くなってきた。
何もかもがどうでもよくなったその瞬間、意識が一瞬だけプツリと切れてしまい、拙は頭をかくんと下におろした。
~
暫くして、指をパチンと鳴らす音が聞こえ、拙は意識を取り戻した。
「……シオンちゃんッッ!!!」
目の前では研究員達が手を血で真っ赤に染めながら悲鳴をあげるシオンちゃんの体を解剖していた。
拙はシオンちゃんの名前を叫ぶと、手術台の上で悲鳴をあげるシオンちゃんに向かって駆け寄ろうとする……が、武装した研究員達に立ち塞がれてしまった。
……今まで、拙は何をやっていたんだろうか。
「退いてくださいっっ!! シオンちゃんがっ……シオンちゃんがっ!!」
「何を言っているっ! お前が連れてきたんだろう!」
「なっ、そんな訳無いじゃないですかっ!! 拙はシオンちゃんを……っ!?」
途端、武装した研究員によって首筋に何を押し当てられた。その直後、ビリビリと体に電流が流れ、拙は最も簡単に気を失ってその場に倒れてしまった。
◇
「ん……ぅぁ……」
気がつくも、拙は硬い地面に横たわっていた。起きあがろうと体を起こすと、じゃらりと金属が擦れる音が聞こえた。左手の方に目を向けると、左手首には壊せなそうな太い鎖が繋がった手錠が掛けられていた。
辺りを見渡すと、ここが研究所の内部なのかはわからないが、どうやら独房のようだった。
「目が覚めたようだね」
ふと、そんな声が聞こえてきた。前を向くと、鉄格子の向こう側でニヤニヤと不気味に笑みを浮かべながら、あの悪魔……グラトニーがこちらを見つめていた。
「あ、悪魔……!」
「ふふ……気分はどうだい?」
「シオンちゃんは……シオンちゃんはどうなったんですか……!」
「知らないよ。ボクは人間のする研究になんて興味は無いからね」
「早く助けないと……!」
「助けに? フフッ、魔術使えないんでしょ? 顔が良いから採用されたようなキミに、何が出来るっていうんだい?」
「それは……」
「大体、あれからどれだけの時間が経ったと思っているのかな? どちらにせよもう手遅れさ」
「っ……!」
拙は、ただ目の前の悪魔を睨みつける事しか出来なかった。
「睨まれても困るよ。でもその表情、ゾクゾクする。そんな表情をする人を洗脳して従順にさせたと思うと、興奮でイッてしまいそうだよ……!」
「洗、脳……? 何を言って……うっ?!」
その瞬間、ズキズキと頭痛に襲われる。それと同時に、頭の中に記憶が流れ込んでくる。
“シオンちゃん。大丈夫ですよ……これから、ちょっとシオンちゃんの体を調べるだけですからね”
……何だ、この記憶は。
全く身に覚えがない筈なのに、確かに自分の記憶だと思えてしまう。
「ふふ……身に覚えが無くとも、シオンちゃんはキミに裏切られたって思っているだろうねぇ……」
ニヤニヤと不気味な笑みを浮かべながら、グラトニーは鉄格子をすり抜けて拙に歩み寄ると、髪をギュッと掴んで持ち上げてきた。
「うぐぅっ……!」
「だってあの時のキミは、思考回路以外は何も変わらない、シオンちゃんの知っているセツさんそのものだったからねぇ……!」
「っ!!」
“シオンちゃんの体には、膨大な魔力量が備わっているんです。拙達はそれを研究する為にシオンちゃんを保護して、心をほぐしてきたんです”
……違う。拙はそんな理由でシオンちゃんと関わってきた訳じゃない。
「あぁあ残酷だなあ、シオンちゃんへの優しさが、こんな結果を招いてしまうなんてさ……!」
「嫌……いやっ……やめ……」
“うん。研究すれば、今後シオンちゃんと同じような人を救えるようになるんですよ~……?”
……そんな訳無い。こんな研究をしても、ただシオンちゃんが犠牲になるだけだ。お願い、やめて。
「可哀想なシオンちゃん。一番信じてたセツさんに裏切られちゃったんだからねぇ……今頃、あの世で怒ってるよ?」
「そ、それはお前が……!」
「ボクはただキミの思考回路を弄っただけさ。シオンちゃんを優しく唆したのは、キミ自身だよシャーロット」
“……だから、拙達に協力してもらえますよね? 拙はシオンちゃんの事、信じてますから”
「ぁ…………あぁっ……ぁああああああああああ!!」
拙は頭の中に流れてくる自分の声をかき消すかのように、喉が壊れてしまうほどの声量で叫んだ。
“あッ……ァアアアアアアアアッッ!! 痛い痛い痛いっ!! 痛い痛いっ、痛いよぉおおおおっ!!! たっ……たすけてっ……助けてセツさんっ……!! 痛いっ……嫌ぁっ……ぃ……ぁあああああああああっ!!”
脳内に、解剖されている最中のシオンちゃんの悲鳴が響き渡る。
「うぁあああああああああああああッッッ!!!!」
「あはははははははははっ!! その顔すっごく良いよォ!! あぁ……優しさと信頼が招いた悲劇……ゾクゾクするぅっ……!」
「ああっ……ぁああ……ぁああっ……」
拙の目からは涙が溢れていた。耳を塞いで何も聞こえないようにした。もう何も考えられなかった。
唯一……考えた事があるとするならば。
——ごめんなさい、だろうか。
◇
拙はシオンちゃんと会う事無く、暫くの期間監禁された。やがて見知らぬ胡散臭い男が迎えにきて、拙は抵抗する事なくされるがまま、その男についていくことになった。
その男はいわゆる奴隷商という奴で、拙はオークションに駆り出された。裸体や醜態を晒し、まるでペットのようだった。
噂によると、拙の落札金額は過去最高額だったらしい。
落札された後は、メイドとしてご主人様に仕える事になった。家事はもちろん、夜の相手までさせられた。
拙は約18年間、そんな日々を送った。何の変わり映えもしない、口の中がずっと苦い日々。精液が目にかかって失明しかけたこともあった。料理が不味いと暴力を振るわれることもあった。
でも……これでいいのかもしれない。拙は魔術が使えない。その上、拙の優しさは誰かを傷つけてしまう。裏切ってしまう。ならば……感情なんて捨てて、ご主人様の道具として生きる方が……いいのかもしれない。
拙が“ベテランメイド”と呼ばれて久しくなったある日、ご主人様に仕えていた一人のメイドが癇癪を起こし、ご主人様を殺害する事件が起きた。
他のメイド達は涙を流していた。しかしそれは悲しみの涙ではなく、喜びの涙であった。
当然、暴力を振るわれていたのは拙だけではない。いや寧ろ、拙が家事を完璧にこなす為、他のメイドが拙と比較されて殴られる事が殆どだった。
周りのメイドは各々新しいご主人様を見つけていく中、拙だけは新しいご主人様を見つける事はできなかった。当然だ、拙はこの時既に36歳……あと数ヶ月もすれば37歳だ。世間体で言えば“オバサン”である。
実質的に職を失い、目的も無く歩いていた時、王宮前にて式典が行われているのを目撃した。
「えー、ルィリア・シェミディア殿」
「はいっ!」
「えー、貴女は、治療魔術における革命……完全治療を発明しました。よって、グリモワール・レヴォル賞を授与します」
「ありがとうございます!」
どうやら、グリモワール・レヴォル賞の授与式らしい。その単語を聞くと、18年前のあの出来事……研究所長の顔とグラトニーの狂気的な笑みがチラつく。
……そして未だ夢に出てくる、シオンちゃんの断末魔と言っても過言ではない、脳裏に深く焼き付いているあの悲鳴。
しかしグリモワール・レヴォル賞の授与式というのは、思ったよりも簡易的なものであった。装飾こそ豪華であったが、肝心の観客は驚く程少なかった。研究所長は、こんな式典の前に立つためにシオンちゃんを犠牲にしたのか。
「ではルィリア殿。一言お願いします」
「はい!」
ルィリアと呼ばれた女はマイクを受け取ると、少ない観客に体を向けた。
「……っ!?」
その瞬間、拙は目を疑った。
黒ぶちの眼鏡をしてはいるが、長髪の銀髪に碧い瞳をしたその女は……シオンちゃんと瓜二つだった。いや厳密には大人になったシオンちゃんのような容姿をしていた。
いや……きっと別人だ。だってシオンちゃんは……あの日、この目で直接見た訳ではないが解剖されて死んでしまったはずだ。名前だって違うし。
「えー、皆さんこんにちは! シ……こほん! わた……じゃない、ワタクシはルィリア・シェミディアという者です! 念願のグリモワール・レヴォル賞を受賞出来て、光栄です! 同時に……ワタクシって、天才なんだなって思っちゃいました。てへ」
「…………」
ルィリアの明るい雰囲気とは真逆に、式典の空気はやたら冷めていた。いくら小規模だとしても、なんだか変な違和感を感じてならない。
「賞金の使い方は、まずデッカい家を建てます! その後、家事を何でもこなせるベテランのメイドさんを雇います! それでそれで……」
「…………」
「……皆さん冷めてますねー、まさかあの変なジンクスを信じてるからでしょうか? 全く、そんなもの信じて何の意味があるんです? 人生って長いくせに嬉しい事なんてちょこっとしか無いんです。だからワタクシは今、全力で喜びます! やったー! 嬉しい!」
「…………」
「……あ、後やりたい事がもう一つありまして。ワタクシ、お母さんになってみたいです! ワタクシの子供なんて、絶対可愛いと思いませんか? だからいっぱい抱きしめて、いっぱい優しくして、絶対に幸せにします!」
「…………」
「……まぁ、ジョークはこれくらいにしておきましょう。ワタクシが発明したのは、多くの人を救える唯一無二の魔術。どんな傷も病も一瞬で治せる、それが完全治療です。今ここで実演できないのが癪ですが、既に立証済みです。だからもし難病を患ったりしたら、すぐにワタクシの元に来てください。必ず治療いたします。……以上です」
その言葉を告げると、ルィリアはマイクを返してステージから降りていった。
その後、色々と話があって、授与式は終わった。すぐに片付けが行われ、ルィリアもそれを手伝っていた。
「……」
“人生って長いくせに嬉しい事なんてちょこっとしか無いんです。だからワタクシは今、全力で喜びます!”
“これから生きていく中で、後悔や反省なんて嫌でも沢山します。なのに嬉しい事はちょこっとしか無いんです。だからもし嬉しい事があったり、何かを成し遂げた時は……何よりもまず思いっきり喜んだ方が良いです”
“ワタクシ、お母さんになってみたいです! ワタクシの子供なんて、絶対可愛いと思いませんか? だからいっぱい抱きしめて、いっぱい優しくして、絶対に幸せにします!”
“わたしも、セツさんみたいな優しいお母さんになってみたいな”
“もし子供ができたら、セツさんみたいに優しく抱きしめるね!”
“ええ、そうしてあげてください。シオンちゃんの子供は、きっとシオンちゃんに似て可愛いんでしょうね”
18年前に交わした、シオンちゃんとの会話を思い出す。先程ルィリアが話していた内容と、それは奇しくも一致していた。
ルィリアとシオンちゃん。偶然にしては、あまりにも共通点が多過ぎる。これは神様の悪戯か、あるいは……シオンちゃんが生きていたのか。偽名を使っているのは、もしかして研究所長にバレない為に……?
余計な考察が頭の中で捗る。そして気がつけば、拙は授与式の片付けをするルィリアの元へ歩き始めていた。
「……シオン、ちゃん?」
「えっ……?」
拙に声を掛けられたルィリアは、驚いたような表情でこちらに振り向いて拙を見つめた。
……見れば見るほど、シオンちゃんにそっくりだ。
「シオンちゃん、ですよね」
「……どうしてワタクシの本名を知ってるんです? ワタクシ達、初対面ですよね?」
「えっ……」
ルィリアは拙の顔をまじまじと見つめながらそう言った。その顔に、嘘はない。
やっぱり、別人だったのだ。そうだ。そう、なのに……そう思いたくない、目の前の女性がシオンちゃんであってほしいと願っている自分が居た。
「拙の事……忘れてしまったんですか?」
「セツ、って……随分変わった一人称ですね。そんな人居たら忘れないと思うんですが……」
ルィリアは悩むような表情を浮かべてしまった。
……ああ、やっぱりシオンちゃんによく似ている。
「……そう、ですか。どうやら拙は、まだまだという事ですね」
「え?」
「拙の名前はシャーロット。つい先日までメイドを務めておりました。周りからは、ベテランメイドと崇められていました」
「おお……ベテランメイドですって!?」
「はい。よろしければ、拙をシ……いいえ、ルィリア様のメイドとして仕えさせていただけませんか?」
拙はルィリアに深々と頭を下げてそう告げた。
とりあえず自分の事は巷で有名なベテランメイドという事にした。
ルィリアに関しては……きっと解剖された時のショックで記憶を失ってしまっているのだろう、そう考える事にした。
「もちろんです! いやぁ、ワタクシってばツイてますっ! 勇気出してあんな事言ってよかったー」
「ええ。ではこれからよろしくお願い致します、ルィリア様」
——拙は微笑みながら、ルィリア様に向かってお辞儀をした。
学生時代は医療関係の勉強をしていたが、段々と“今の医療は致命的に発展していない”という事に気付き、看護師ではなく魔術研究所に就職した。
しかし拙は自分が魔術を使えない体質である事を、就職した後から知った。お陰で、研究所の拙の仕事は主に薬品や研究器具の運搬や伝達係である。
医療魔術の発展を目的に就職したのに、魔術の“ま”の字も関わらない……これでは本末転倒である。
そんな拙にだけ与えられた、特別な仕事がある。
「シオンちゃん」
「…………」
研究室から隔離された閉鎖空間の中に、まるで人形のような……長髪の銀髪に碧い瞳をした少女が一人。
この子の名前はシオン・トレギアス。この子は元々この研究所の近くにある町に住んでいた子だったのだが、ある日突然町が火の海と化してしまい、身寄りが無くなってしまったのだ。
研究所はそんなシオンちゃんを保護する事にしたのだ。そしてその世話役として、同性であり医療の勉強をしていた拙を選んだのだそうだ。魔術が使えない拙としては、大役だった。
「シオンちゃん。今日はどんなお話をしましょうか」
「…………」
「昨日は名前を言ってくれて嬉しかったです。拙、もっとシオンちゃんのこと知りたいです」
「…………」
シオンちゃんは、ただ黙り込むだけだった。
当然だ。突然住む場所や両親を失って、知らない人達に研究所へ連れていかれ、よくわからない部屋に入れられ、知らない女の人に話しかけられているのだから、不安だろう。
「突然町が火の海になってしまって、酷い目に遭いましたね。あれは人の手によって起こされたみたいです、何か心当たりはありませんか? こう、怪しい人がいたとか」
「…………」
「……ごめんなさい。まだ1日しか経ってませんし、混乱してますよね。拙は席を外すので、一人で気持ちを落ち着かせてから色々聞かせてくださいね」
そう言って拙は椅子から立ち上がり、その場から退室しようとシオンちゃんに背を向けた。
「……わたしだよ」
「っ! 何?」
急にシオンちゃんが話し始め、拙は驚きながら勢いよく振り向いた。
「……町を火の海にしたの、わたしだよ」
「え……?」
「やろうと思えば、ここもあの町みたいにする事だって出来るんだよ」
「…………」
シオンちゃんは拙に手を翳しながら、そんな脅迫をする。しかし依然として、その表情に感情は無いように見えた。
「だから……もうわたしに関わらないで」
「……ここを火の海にして、シオンちゃんに何のメリットがあるんですか?」
「えっ……?」
「一人ぼっちで寂しいかもしれませんが、ここにいれば一日三食、好き嫌いは別として栄養豊富な食事が食べられます。シオンちゃん、昨日ちゃんと平らげてましたよね」
「っ……」
「シオンちゃんにとってデメリットしか無いんですよ……自分から遠ざける為の脅しとしては、その言葉じゃ弱いですよ」
「うるさい……! わたしと関わったら……みんな死んじゃう……これ以上、好きな人を増やすのも殺すのも嫌なのっ……!!」
「優しい子なんですね、シオンちゃんは」
「優しくなんか、ない……」
「……明日も来ますね。その時まで、頑張って拙を遠ざけられるような脅し文句でも考えておいてくださいね」
シオンちゃんに向けてそう言うと、拙は退室した。24時間という長い時間の中で、世話というにはあまりにも短過ぎる時間ではあったが、これでも名前を聞いただけで終わった昨日よりかは長いのだ。
~
翌日。今日も拙はシオンちゃんの世話をしに部屋へ出向いた。
「シオンちゃん」
「……!」
「お腹空いたでしょう? ほら、食事を持ってきましたので……一緒に食べましょ!」
「え……」
シオンちゃんは露骨に嫌そうな顔をした。
しかしこれはきっと拙と一緒に食べるのが嫌なんじゃなくて、シオンちゃんにとって唯一の楽しみであろうこの貴重な食事をシェアするのが嫌なのだろう。そうであってほしい。
「安心してください、拙のは別でありますから」
「……!」
拙が自分の食事として少し大きな菓子パンを見せつけると、シオンちゃんは目を輝かせながら拙の菓子パンを見つめてきた。
「あげませんよ! これは拙のですから!」
「……ケチ」
シオンちゃんは不貞腐れて、頬を膨らませながらその場に体育座りした。でもちゃっかり拙の菓子パンをずっと見つめてはいた。
研究所からは決められた食事しか与えてはいけないと言われているのだが、それを理由に相手の欲しい物を与えないというのは何だか可哀想だ。シオンちゃんだって、望んでここにいる訳ではないし。
「あーもう、仕方ないですね。じゃあ拙といっぱいお話すると約束してくれるなら、あげます!」
「ほんと!?」
「ホントです、拙は嘘つきません! ほらどうぞ」
そう言って、拙は目をキラキラさせるシオンちゃんに菓子パンを差し出した。
まぁ菓子パンはいつでも買えるし何度も食べているので別に話をしてくれなくても渡すけども。後で拙が上司に怒られればいいだけだし。
「わーいっ! ありがとうセツさん!」
シオンちゃんは菓子パンを受け取ると、早速開封して口いっぱいに頬張る。
その菓子パンは何度も食べてて味は熟知しているにも関わらず、シオンちゃんがあまりにも美味しそうに食べるものだから、思わず食べたいと思ってしまった。
……と、ここで拙はある事に引っかかる。
「セツさん、って……?」
「だってずっと自分の事“セツ”って呼んでるから」
「ああ……なるほど……」
初対面の時、一応シオンちゃんには“シャーロット”とちゃんと名乗ったのだが……どうやら名前よりもこの拙というちょっと変わった一人称の方が印象に残ってしまったようだ。
自分の事を拙と呼ぶのにそこまで深い理由は無い。学生時代に何かしら個性を作ろうとして一人称を変えただけである。
「ねぇ、セツさん」
「なんです? シオンちゃん」
菓子パンを食べながら、さも当たり前かのようにシオンちゃんが話しかけてきた。あまりにも自然過ぎて思わず普通に耳を傾けてしまったが、何気にすごい事なのでは? 菓子パン、恐るべし。
「実はわたし、人を食べちゃうバケモノなんだよ!」
「……え?」
急に意味のわからない事を言い出すシオンちゃんに、拙は思わず首を傾げてしまった。
「これで、わたしの事を遠ざけるよね!」
シオンちゃんは満面の笑みでそう告げた。
その言葉で、拙は意味のわからない言葉の真意を知った。
“……明日も来ますね。その時まで、頑張って拙を遠ざけられるような脅し文句でも考えておいてくださいね”
そういえば昨日、そう言って退室したんだ。
拙が居なくなって一人になった後、シオンちゃんはずっと拙を遠ざけられるような脅し文句を考えていたようだ。
……それで捻り出したのが“人を食べるバケモノと名乗る”って、可愛過ぎません?
可愛さのあまり悶絶してしまいそうなのをグッと堪え、拙はニヤリと笑った。
「へぇ、シオンちゃんは人を食べちゃうバケモノなんですね」
「そ、そうだよ! だからセツさんの事も、ばくばくーって食べちゃえるんだよ!」
「……あーあ、残念。どうやらシオンちゃんにとって、拙よりも菓子パンの方が魅力的で美味しそうに見えるんですね。ショックです」
「えっ……あっ、あ、違うの! これは……その、冗談で……!」
「なるほど冗談なんですね。安心しました」
「あっ……」
「じゃあ遠慮なく拙を食べてみてくださいよ」
「えっ!?」
「冗談なんですよね、菓子パンの方が魅力的で美味しそうなのが」
「ち、違う! そっちじゃなくてわたしがバケモノっていうのが冗談なのっ!」
「……ふーん? シオンちゃんはバケモノじゃないんですね。じゃあ安心して、一緒に居られますね」
「……あっ!」
シオンちゃんは自分で地雷を踏んだ事にようやく気付いたようで、恥ずかしそうに顔を真っ赤にしてその場に俯いてしまった。
「ふふ、残念でした。拙を遠ざける事は簡単に出来ませんよ」
「うっ……うぅ……一生懸命考えたのに……」
「まぁ次頑張りましょうね。時間はいくらでもあるんですから」
◇
それから、徐々に一緒にいる時間は長くなっていった。シオンちゃんは拙が来る度、自分を遠ざける脅し文句を言うという挑戦をしてくるようになったが、どれも拙に論破されるのがお決まりとなっていた。
これは拙の勝手な思い込みではあるが、着実にシオンちゃんは心を開いていったと思う。しかし未だ両親や町の事、火の海にした犯人の心当たりについてなどシオンちゃん自身のことはあまり聞けていない。
そんな、ある日。
「……セツさん」
「どうしたんですか? シオンちゃん」
「……どうして、わたしに優しくしてくれるの?」
「そんなの決まってるじゃないですか。シオンちゃんが可愛い女の子だからですよ」
「……わたしなんだよ。あの町を火の海にしたの」
「おっ、今日の脅し文句ですか? でも残念、それ一番最初に言ってましたよ」
「違うのっ!! これは……本当なの」
「えっ……?」
一番最初に言っていた、シオンちゃんが町を火の海にした張本人、というのは冗談だと思っていた。だってシオンちゃんはまだ7歳の女の子で、動機だって無い筈だ。流石に、親と喧嘩したからなんて理由でも無いだろうし。
シオンちゃんの表情は、本気だった。でも思い返してみれば、最初に言った時と同じ表情をしていた。
「で、でもねっ! わたし、そんなつもりじゃなかったの……炎魔術の練習をしたら、急に周りが真っ白になって、気がついたら……」
「……」
ここでフォローしてあげるのが、世話役としての役目なのだろうが……拙は黙り込んでしまった。
こういったパターンには2種類存在する。
1つは、間違えて別の魔術を発動してしまった。
普通はありえない事だが、魔術を覚えたての子供ならありえる話だ。
2つは、魔力量が凄まじいあまり、制御が出来ず魔術を暴走させてしまった。
魔術の強さは魔力量に比例する。要は“魔力量が少ないと弱く、多いと強い”という認識で構わない。だが多ければその分、制御も難しくなる。
……おそらく、後者だろう。
魔力量というのは本来、成長と共に増えていくのだが、ごく稀に膨大な魔力量が備わった状態で生まれてくる子がいるらしい。それも突然変異のような確率で。
実はこれにも2パターン存在する。
1つは、奇跡的な確率で生まれてきた純粋種。
2つは、異世界から前世の記憶を引き継いだ状態でこの世界に生まれた異世界転生者。
異世界転生者は生まれつき特殊能力や……それこそ膨大な魔力量を携えて生まれてくるのだ。理由は、不明だ。
ともかく、それがシオンちゃんなのだろう。
「町を一つ無くしたわたしが、優しくしてもらっていいのかなって……よく思うの。でも……セツさんと会えなくなっちゃうかもって、怖くて言えなかったの」
「……勇気を出して、話してくれたんですね」
「……うん」
「安心してください。そんな事で拙は会わなくなったりなんてしませんよ」
「……どう、して?」
「実は拙、魔術が使えないんです」
「えっ……?」
「魔術が生活の要となっているこの社会で、魔術が使えないなんて致命的です。だから拙に出来る事は、シオンちゃんを信じてあげる事だけですから」
「わたしを、信じる……」
「そう。拙はシオンちゃんと話すのが楽しいし嬉しいなって思いますが、シオンちゃんは拙とこうして話すのは嫌ですか?」
「嫌じゃない大好きだよっ! ……でも……やっぱり、怖い」
シオンちゃんは体を震えさせて、まるで恐ろしい物を見るかのような目で自分の手のひらを見つめながらそう言った。
まだシオンちゃんは魔術に対する理解度が高くない。故に魔術が自分の意思とは関係なく発動し、更にそれが暴走してまたあの町のように辺りを火の海にしてしまう事を恐れているのだろう。
「自分の事が怖いですか」
「うん……」
「……っ」
拙は恐怖で染まった表情をするシオンちゃんに優しく微笑みかけると、その小さな身体をそっと抱きしめた。
「っ!?」
「……ほら、なんともないでしょう?」
「ん……」
「シオンちゃんは、ネガティブな事を考え過ぎなんですよ」
「だっ、だって……」
「まぁでもネガティブな事ってついつい考えちゃいますよね。だから今から大人である拙から、シオンちゃんの為にとっても重要なアドバイスを言いますね」
「……うん」
「これから生きていく中で、後悔や反省なんて嫌でも沢山します。なのに嬉しい事はちょこっとしか無いんです。だからもし嬉しい事があったり、何かを成し遂げた時は……何よりもまず思いっきり喜んだ方が良いです」
「思いっきり喜ぶ……」
「そうです。喜べる要素が1%でもあったら真っ先に喜んじゃってください。後悔や反省はいくらでも出来ますけど、喜ぶのは中々出来ませんから」
拙はシオンちゃんにそう告げた。
正直に言うと、拙はまだそんなに長い時間を生きていないし、社会を理解していない。学生時代も特に何も考えず勉強していただけだった。後悔も反省も、更には喜ぶ事もあまり無かった。
……しかしシオンちゃんには、まだ無限の可能性がある。拙のような抑揚の無いつまらない人生を歩んで欲しくなかったのだ。
はっきり言って全て綺麗事だ。でも子供は純粋、言われた言葉を変に勘ぐる事無く真っ直ぐに受け止めてくれる。ましてや今のシオンちゃんの年頃は、親の教育が最も必要な時期でもある。だから例え綺麗事でも、聞こえがいいだけの嘘でも、説得力が皆無でも、伝えたかった。
「……何だかセツさん、お母さんみたい」
「ふふっ、ある意味間違いではありませんね」
「わたしも、セツさんみたいな優しいお母さんになってみたいな」
「なれますよ。シオンちゃんなら」
「うん! もし子供ができたら、セツさんみたいに優しく抱きしめるね!」
「ええ、そうしてあげてください。シオンちゃんの子供は、きっとシオンちゃんに似て可愛いんでしょうね」
「えへへ……そうかな?」
「きっとそうに違いありません! もし子供が出来たら拙にも顔を見せてくださいね、約束ですよ?」
「うん! 約束するね!」
シオンちゃんは満面の笑みを浮かべると、自身と拙の小指を絡み合わせ、約束の契りを交わした。ユビキリゲンマン、というやつだ。
……そんな微笑ましい空気の中、突如として警告のような緊張感と危機感を煽る音が部屋中に響き渡った。
シオンちゃんはその音に驚いて、思わず拙にしがみついた。
『シャーロット、メンタルケアの時間は終了だ。直ちに戻ってこい』
滅多に使われないスピーカーから、威圧感のある声が聞こえた。その声の正体は、この研究所の所長であった。それに“メンタルケアの時間は終了”だなんて、今まで言われた事無いのに。
「どっ、どういう事……?」
何だか嫌な予感がして、拙は無意識に抵抗するかのようにその場から離れず、シオンちゃんを守るように抱きしめ続けた。
「せ、セツさん……何が起こるの?」
「っ……」
シオンちゃんも何か異変を感じたようで、不安に染まった表情で拙の顔を見上げていた。
その瞬間、部屋の扉が開かれ、武装した集団がぞろぞろと侵入してきた。その中には、先ほどスピーカーから聞こえてきたあの声の張本人……研究所長の姿もあった。
「……先ほどの命令が聞こえなかったのか、シャーロット。もうメンタルケアの必要はない、戻れ」
「なっ……何故です!? シオンちゃんはまだ子供ですよ!? まだ拙の世話が必要なはずです!」
「私がグリモワール・レヴォル賞を受賞する為には、その娘の成長なんぞ待ってはいられんよ」
「何を、言ってるんです……!?」
「ようやく捕えた貴重な研究材料なのだよ……その娘は」
「研究材料って……まさか……!」
拙はこの研究所がシオンちゃんを保護した理由をわかってしまった。
恐らく研究所側は、シオンちゃんがあの事故を引き起こしたものだと最初からわかっていたんだ。そしてそれはつまりシオンちゃんの魔力量が凄まじい事を意味する。純粋種であろうと異世界転生者であろうと、貴重な研究材料だから。
……そして、拙は貴重な研究材料の緊張を解く為のカウンセラーに過ぎなかったのだ。
「さぁ大人しく娘を差し出せ。そうすれば手荒なマネはしない」
「研究って……何をするんですか」
「その娘の体を調べ、普通の人間との身体構造や脳の構造の違いを調べるのだ。まぁ、要は解剖だな」
「なっ……そんな事したら、シオンちゃんは……!」
「……グリモワール・レヴォル賞の為なら、多少の犠牲は仕方のないものなのだよ、シャーロット」
「何がグリモワール・レヴォル賞ですか……自分の栄光の為に、女の子一人を犠牲にするというのですか!」
「この研究が認められれば、魔術業界に大きな革命を起こせるのだ!! その娘の犠牲で、あの町のような事故を防ぐことが出来るかもしれんのだよ!」
「でも、犠牲なんてあっていい訳が……!!」
「……仕方がない。おい」
「やぁやぁ。このボクをお呼びかな?」
研究所長が指をパチンと鳴らした途端、突然目の前に黒い羽根と共に、中性的な顔立ちで羽の生えた不気味な存在が姿を現した。それがどんな存在なのかは、本能ですぐに感じ取った。
「なっ……所長、まさか悪魔と契約を!?」
「ああ。物事には全て、代償が必要なのだよ。時に、悪魔の手を借りなきゃいけない時もある。グラトニー、やってくれたまえ」
「お任せあれ。さぁて、一番ゾクゾクするヤツでいくとしよう。せいぜいボクを楽しませておくれよ……アハハハッ」
グラトニーと呼ばれた悪魔は、狂気的な笑みを浮かべながら歩み寄ってきて、拙の視界を覆うように手を翳してきた。
「うっ……!?」
その瞬間、視界がぐらりと揺らぎ始めた。頭の中が暖かくなるような不思議な感覚が襲い、何も考えられなくなってしまう。
「あっ……はぁっ……んぅ……ぅっ……」
今度はまるで頭の中をぐちゃぐちゃと弄り回されるような感覚に襲われ始める。しかし痛みはないどころか寧ろ心地よく、思わず喘ぐような声を出してしまう。
段々と、自分が何なのかよくわからなくなってきた。いや……それすらどうでも良くなってきた。
何もかもがどうでもよくなったその瞬間、意識が一瞬だけプツリと切れてしまい、拙は頭をかくんと下におろした。
~
暫くして、指をパチンと鳴らす音が聞こえ、拙は意識を取り戻した。
「……シオンちゃんッッ!!!」
目の前では研究員達が手を血で真っ赤に染めながら悲鳴をあげるシオンちゃんの体を解剖していた。
拙はシオンちゃんの名前を叫ぶと、手術台の上で悲鳴をあげるシオンちゃんに向かって駆け寄ろうとする……が、武装した研究員達に立ち塞がれてしまった。
……今まで、拙は何をやっていたんだろうか。
「退いてくださいっっ!! シオンちゃんがっ……シオンちゃんがっ!!」
「何を言っているっ! お前が連れてきたんだろう!」
「なっ、そんな訳無いじゃないですかっ!! 拙はシオンちゃんを……っ!?」
途端、武装した研究員によって首筋に何を押し当てられた。その直後、ビリビリと体に電流が流れ、拙は最も簡単に気を失ってその場に倒れてしまった。
◇
「ん……ぅぁ……」
気がつくも、拙は硬い地面に横たわっていた。起きあがろうと体を起こすと、じゃらりと金属が擦れる音が聞こえた。左手の方に目を向けると、左手首には壊せなそうな太い鎖が繋がった手錠が掛けられていた。
辺りを見渡すと、ここが研究所の内部なのかはわからないが、どうやら独房のようだった。
「目が覚めたようだね」
ふと、そんな声が聞こえてきた。前を向くと、鉄格子の向こう側でニヤニヤと不気味に笑みを浮かべながら、あの悪魔……グラトニーがこちらを見つめていた。
「あ、悪魔……!」
「ふふ……気分はどうだい?」
「シオンちゃんは……シオンちゃんはどうなったんですか……!」
「知らないよ。ボクは人間のする研究になんて興味は無いからね」
「早く助けないと……!」
「助けに? フフッ、魔術使えないんでしょ? 顔が良いから採用されたようなキミに、何が出来るっていうんだい?」
「それは……」
「大体、あれからどれだけの時間が経ったと思っているのかな? どちらにせよもう手遅れさ」
「っ……!」
拙は、ただ目の前の悪魔を睨みつける事しか出来なかった。
「睨まれても困るよ。でもその表情、ゾクゾクする。そんな表情をする人を洗脳して従順にさせたと思うと、興奮でイッてしまいそうだよ……!」
「洗、脳……? 何を言って……うっ?!」
その瞬間、ズキズキと頭痛に襲われる。それと同時に、頭の中に記憶が流れ込んでくる。
“シオンちゃん。大丈夫ですよ……これから、ちょっとシオンちゃんの体を調べるだけですからね”
……何だ、この記憶は。
全く身に覚えがない筈なのに、確かに自分の記憶だと思えてしまう。
「ふふ……身に覚えが無くとも、シオンちゃんはキミに裏切られたって思っているだろうねぇ……」
ニヤニヤと不気味な笑みを浮かべながら、グラトニーは鉄格子をすり抜けて拙に歩み寄ると、髪をギュッと掴んで持ち上げてきた。
「うぐぅっ……!」
「だってあの時のキミは、思考回路以外は何も変わらない、シオンちゃんの知っているセツさんそのものだったからねぇ……!」
「っ!!」
“シオンちゃんの体には、膨大な魔力量が備わっているんです。拙達はそれを研究する為にシオンちゃんを保護して、心をほぐしてきたんです”
……違う。拙はそんな理由でシオンちゃんと関わってきた訳じゃない。
「あぁあ残酷だなあ、シオンちゃんへの優しさが、こんな結果を招いてしまうなんてさ……!」
「嫌……いやっ……やめ……」
“うん。研究すれば、今後シオンちゃんと同じような人を救えるようになるんですよ~……?”
……そんな訳無い。こんな研究をしても、ただシオンちゃんが犠牲になるだけだ。お願い、やめて。
「可哀想なシオンちゃん。一番信じてたセツさんに裏切られちゃったんだからねぇ……今頃、あの世で怒ってるよ?」
「そ、それはお前が……!」
「ボクはただキミの思考回路を弄っただけさ。シオンちゃんを優しく唆したのは、キミ自身だよシャーロット」
“……だから、拙達に協力してもらえますよね? 拙はシオンちゃんの事、信じてますから”
「ぁ…………あぁっ……ぁああああああああああ!!」
拙は頭の中に流れてくる自分の声をかき消すかのように、喉が壊れてしまうほどの声量で叫んだ。
“あッ……ァアアアアアアアアッッ!! 痛い痛い痛いっ!! 痛い痛いっ、痛いよぉおおおおっ!!! たっ……たすけてっ……助けてセツさんっ……!! 痛いっ……嫌ぁっ……ぃ……ぁあああああああああっ!!”
脳内に、解剖されている最中のシオンちゃんの悲鳴が響き渡る。
「うぁあああああああああああああッッッ!!!!」
「あはははははははははっ!! その顔すっごく良いよォ!! あぁ……優しさと信頼が招いた悲劇……ゾクゾクするぅっ……!」
「ああっ……ぁああ……ぁああっ……」
拙の目からは涙が溢れていた。耳を塞いで何も聞こえないようにした。もう何も考えられなかった。
唯一……考えた事があるとするならば。
——ごめんなさい、だろうか。
◇
拙はシオンちゃんと会う事無く、暫くの期間監禁された。やがて見知らぬ胡散臭い男が迎えにきて、拙は抵抗する事なくされるがまま、その男についていくことになった。
その男はいわゆる奴隷商という奴で、拙はオークションに駆り出された。裸体や醜態を晒し、まるでペットのようだった。
噂によると、拙の落札金額は過去最高額だったらしい。
落札された後は、メイドとしてご主人様に仕える事になった。家事はもちろん、夜の相手までさせられた。
拙は約18年間、そんな日々を送った。何の変わり映えもしない、口の中がずっと苦い日々。精液が目にかかって失明しかけたこともあった。料理が不味いと暴力を振るわれることもあった。
でも……これでいいのかもしれない。拙は魔術が使えない。その上、拙の優しさは誰かを傷つけてしまう。裏切ってしまう。ならば……感情なんて捨てて、ご主人様の道具として生きる方が……いいのかもしれない。
拙が“ベテランメイド”と呼ばれて久しくなったある日、ご主人様に仕えていた一人のメイドが癇癪を起こし、ご主人様を殺害する事件が起きた。
他のメイド達は涙を流していた。しかしそれは悲しみの涙ではなく、喜びの涙であった。
当然、暴力を振るわれていたのは拙だけではない。いや寧ろ、拙が家事を完璧にこなす為、他のメイドが拙と比較されて殴られる事が殆どだった。
周りのメイドは各々新しいご主人様を見つけていく中、拙だけは新しいご主人様を見つける事はできなかった。当然だ、拙はこの時既に36歳……あと数ヶ月もすれば37歳だ。世間体で言えば“オバサン”である。
実質的に職を失い、目的も無く歩いていた時、王宮前にて式典が行われているのを目撃した。
「えー、ルィリア・シェミディア殿」
「はいっ!」
「えー、貴女は、治療魔術における革命……完全治療を発明しました。よって、グリモワール・レヴォル賞を授与します」
「ありがとうございます!」
どうやら、グリモワール・レヴォル賞の授与式らしい。その単語を聞くと、18年前のあの出来事……研究所長の顔とグラトニーの狂気的な笑みがチラつく。
……そして未だ夢に出てくる、シオンちゃんの断末魔と言っても過言ではない、脳裏に深く焼き付いているあの悲鳴。
しかしグリモワール・レヴォル賞の授与式というのは、思ったよりも簡易的なものであった。装飾こそ豪華であったが、肝心の観客は驚く程少なかった。研究所長は、こんな式典の前に立つためにシオンちゃんを犠牲にしたのか。
「ではルィリア殿。一言お願いします」
「はい!」
ルィリアと呼ばれた女はマイクを受け取ると、少ない観客に体を向けた。
「……っ!?」
その瞬間、拙は目を疑った。
黒ぶちの眼鏡をしてはいるが、長髪の銀髪に碧い瞳をしたその女は……シオンちゃんと瓜二つだった。いや厳密には大人になったシオンちゃんのような容姿をしていた。
いや……きっと別人だ。だってシオンちゃんは……あの日、この目で直接見た訳ではないが解剖されて死んでしまったはずだ。名前だって違うし。
「えー、皆さんこんにちは! シ……こほん! わた……じゃない、ワタクシはルィリア・シェミディアという者です! 念願のグリモワール・レヴォル賞を受賞出来て、光栄です! 同時に……ワタクシって、天才なんだなって思っちゃいました。てへ」
「…………」
ルィリアの明るい雰囲気とは真逆に、式典の空気はやたら冷めていた。いくら小規模だとしても、なんだか変な違和感を感じてならない。
「賞金の使い方は、まずデッカい家を建てます! その後、家事を何でもこなせるベテランのメイドさんを雇います! それでそれで……」
「…………」
「……皆さん冷めてますねー、まさかあの変なジンクスを信じてるからでしょうか? 全く、そんなもの信じて何の意味があるんです? 人生って長いくせに嬉しい事なんてちょこっとしか無いんです。だからワタクシは今、全力で喜びます! やったー! 嬉しい!」
「…………」
「……あ、後やりたい事がもう一つありまして。ワタクシ、お母さんになってみたいです! ワタクシの子供なんて、絶対可愛いと思いませんか? だからいっぱい抱きしめて、いっぱい優しくして、絶対に幸せにします!」
「…………」
「……まぁ、ジョークはこれくらいにしておきましょう。ワタクシが発明したのは、多くの人を救える唯一無二の魔術。どんな傷も病も一瞬で治せる、それが完全治療です。今ここで実演できないのが癪ですが、既に立証済みです。だからもし難病を患ったりしたら、すぐにワタクシの元に来てください。必ず治療いたします。……以上です」
その言葉を告げると、ルィリアはマイクを返してステージから降りていった。
その後、色々と話があって、授与式は終わった。すぐに片付けが行われ、ルィリアもそれを手伝っていた。
「……」
“人生って長いくせに嬉しい事なんてちょこっとしか無いんです。だからワタクシは今、全力で喜びます!”
“これから生きていく中で、後悔や反省なんて嫌でも沢山します。なのに嬉しい事はちょこっとしか無いんです。だからもし嬉しい事があったり、何かを成し遂げた時は……何よりもまず思いっきり喜んだ方が良いです”
“ワタクシ、お母さんになってみたいです! ワタクシの子供なんて、絶対可愛いと思いませんか? だからいっぱい抱きしめて、いっぱい優しくして、絶対に幸せにします!”
“わたしも、セツさんみたいな優しいお母さんになってみたいな”
“もし子供ができたら、セツさんみたいに優しく抱きしめるね!”
“ええ、そうしてあげてください。シオンちゃんの子供は、きっとシオンちゃんに似て可愛いんでしょうね”
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ルィリアとシオンちゃん。偶然にしては、あまりにも共通点が多過ぎる。これは神様の悪戯か、あるいは……シオンちゃんが生きていたのか。偽名を使っているのは、もしかして研究所長にバレない為に……?
余計な考察が頭の中で捗る。そして気がつけば、拙は授与式の片付けをするルィリアの元へ歩き始めていた。
「……シオン、ちゃん?」
「えっ……?」
拙に声を掛けられたルィリアは、驚いたような表情でこちらに振り向いて拙を見つめた。
……見れば見るほど、シオンちゃんにそっくりだ。
「シオンちゃん、ですよね」
「……どうしてワタクシの本名を知ってるんです? ワタクシ達、初対面ですよね?」
「えっ……」
ルィリアは拙の顔をまじまじと見つめながらそう言った。その顔に、嘘はない。
やっぱり、別人だったのだ。そうだ。そう、なのに……そう思いたくない、目の前の女性がシオンちゃんであってほしいと願っている自分が居た。
「拙の事……忘れてしまったんですか?」
「セツ、って……随分変わった一人称ですね。そんな人居たら忘れないと思うんですが……」
ルィリアは悩むような表情を浮かべてしまった。
……ああ、やっぱりシオンちゃんによく似ている。
「……そう、ですか。どうやら拙は、まだまだという事ですね」
「え?」
「拙の名前はシャーロット。つい先日までメイドを務めておりました。周りからは、ベテランメイドと崇められていました」
「おお……ベテランメイドですって!?」
「はい。よろしければ、拙をシ……いいえ、ルィリア様のメイドとして仕えさせていただけませんか?」
拙はルィリアに深々と頭を下げてそう告げた。
とりあえず自分の事は巷で有名なベテランメイドという事にした。
ルィリアに関しては……きっと解剖された時のショックで記憶を失ってしまっているのだろう、そう考える事にした。
「もちろんです! いやぁ、ワタクシってばツイてますっ! 勇気出してあんな事言ってよかったー」
「ええ。ではこれからよろしくお願い致します、ルィリア様」
——拙は微笑みながら、ルィリア様に向かってお辞儀をした。
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あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
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