月下美人は甘露に濡れる

禎祥

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1 月来香は満月に

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 クチュ、という水音が耳の奥に響く。
 口の中を何かが蠢いている。
 その感触が気持ち悪い。
 なのに、乾ききった砂漠で水を与えられたように、体が楽になっていくのがわかる。

「ん、……はっ、ぁ……」

 息ができずに顔を背けると、一瞬口の中から異物が消え、すぐにまた入ってくる。
 意識がだんだんとはっきりしてくる。
 目を開けると、誰かと至近距離で目が合った。
 だ、誰?!

 口の中で蠢くそれが虫じゃないと解ってホッとしたけど、何で僕、キスなんてされてるの?!
 咄嗟に相手を押しのけようとしたけれど、体に力が入らない。
 逃げようとしたら顔を掴まれ、さらに深く相手の舌が入ってくる。
 舌を絡め取られ、上顎を撫でられ、舌先を吸われ、唾液を流し込まれる。

「んぅー……っ」

 ふ、と相手が笑った気がした。
 その態度にイラっとして、押しのける腕に力が少し入ったけど、相手はびくともしない。
 それどころか、抵抗すればするほど、口付けが深くなる気がする。

 息ができなくて、クラクラする。
 自分の口の中を、自分の意思とは関係なく動き回るものが気持ち悪い。
 何でこんなことになっているのか、僕は回らない頭で必死に思い出そうとした。




 遡ること数時間前。
 僕はコンビニから会社に戻るところだった。
 夜食の入った袋を片手に、もう片方の手で癒しの動画を探す。
 残業は僕だけだから、スマホを弄っていても怒られる心配はない。

「はぁ、今日もかぁくんは可愛いなぁ」

 最近のお気に入りはSNSで見つけた、「かぁくん」という猫の動画シリーズ。
 本当は嘉一という名前らしいのだが、動画をSNSにあげている人が「かぁくん」と呼んでいるので、ファンもみんなそう呼んでいる。
 かぁくんが無邪気に遊んでいる動画を見ていると、嫌な気分などどこかに飛んで行ってしまうんだ。

 僕は人より鈍くて、要領も悪い。
 だからかな。上司や先輩たちのミスを僕のせいにされて叱られたり、功績が出せそうな段階で担当を代えられたり。ここ最近では春に入社してきた後輩にまで仕事を押し付けられる始末。
 悔しくて悲しくて、つらくて、そんな自分が情けなくて。泣きながら帰ることだってある。
 今日の残業だって、本当は僕の担当業務ではないのに。

 仕事も人間関係も嫌でたまらない。
 そんな仕事、辞めてしまえばいいと思う自分もいる。だけど。
 次の仕事が見つからなかったら? 見つかっても、ここより酷い職場だったら?
 そんな不安から、辞められずにこの会社にしがみついている。
 かぁくんを見ている時だけが、そんな自分を、仕事を、何もかも忘れさせてくれる。

「あ、もう着いちゃった……」

 自分のデスクがある事務所の前。
 溜息を吐きながら動画を止め、夜食と一緒に袋にしまう。
 この扉を開けたら仕事モードに切り替えなきゃ。
 いつものように気合を入れるために目を閉じて深呼吸をしながら扉を開け、一歩を踏み出す。

「………………え?」

 ふに、と足裏から感じる柔らかさ。
 目を開けると、そこは会社ではなかった。
 どこまでも大樹が立ち並び、街灯はなく星空が広がる。
 なんで、外……?

「え? え? えーーーーーー?!」

 慌てて振り返ると、くぐったはずの扉まで消えていた。
 そこにも同じように大樹が立ち並ぶ。
 前に写真集で見た屋久島の風景のような光景。
 大樹の先端を追うように見上げると、スーパームーンと呼ぶにふさわしい綺麗な満月が見えた。
 会社はおろか、人工物は何一つ見当たらない。
 頬を思い切りつねってみる。
 痛い。

「夢じゃ、ない……? はっ! まさか、会社が嫌で仕方ないからって無意識にテレポートを?!」

 来られたなら戻れるはずだ。
 戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。

 あれだけ戻りたくないと思っていたはずの会社を思い浮かべる。
 目をぎゅっと瞑り、職場のデスクを、上司や先輩、同僚、後輩たちの顔を瞼の裏に描く。
 戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。

「よし、戻っ……て、ない……」

 目を開けても、景色は変わっていなかった。


 それから、何とか人里まで辿り着けないかと歩き回った。
 月が明るいから歩くのには困らなかった。
 けれど、どれだけ歩いても見える景色は変わらなくて。
 道どころか、川も見つからなくて。
 とりあえず月が見えている方角へひたすら歩いていた。
 それで……そうだ、僕、倒れたんだ……。

 歩き回るうちにだんだんと具合が悪くなって。
 酷い頭痛と吐き気に、とうとう動けなくなった。
 こんな場所で、誰にも見つけられないまま死んでしまうのかと怖かった。
 けれど、意識を保つこともできなくなって。

 そして今。
 どう考えてもキスをされている。
 そのおかげだとは思いたくはないが、流し込まれる唾液を飲むたびに何故か頭痛が治まっていく。
 身体が楽になっていくのがわかる。でも。
 なんで……?

 ツッコみたい部分がたくさんありすぎて追いつかない。
 猫を彷彿とさせる、金色がかった透き通る翡翠の眼。
 僕の瞼にかかるほど長いまつげは明るい茶色で、日本人ではないとはっきりとわかる。
 こうして目が合っているのだから、僕が起きたことをわかっているだろうに、口を離してはくれない。

「ぅんんんー……っ」

 苦しい、やめて、と声にならない声をあげ、力の入らない手で相手を押す。
 幾度目かのそんなやり取りのあと、名残惜しそうに舌先を吸いながら、ようやく解放された。
 卑猥な水音がまだ耳の奥に残っている気がして、気恥ずかしくて顔が上げられない。
 必死で息を整えていると、下腹部の違和感に気付いた。
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