獣は愛に囚われる

禎祥

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7、嘘だろう? (side:守)

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 強烈な腰の痛みに力が抜けそうになりながらも、何とか着替えて外に出る。
 幸い、家の近くのホテルだったようだ。
 よろめきながら家まで辿り着くことができた。

「よし、休もう」

 こんな調子じゃ仕事にならない。
 よぼよぼ歩いている私など私ではない。

「よし、じゃないですよ」
「な、あ、阿倍野くん?!」

 もう迎えにくる時間だったか、と驚いた私は、再び固まることになった。
 阿倍野くんが大変身していたからだ。
 長かった髪はベリーショートになり、整った顔をより際立たせている。
 普段はスカートなのに今日はパンツスーツで、中性的な美しさがある。

「ちょっと、思うところがありまして。自分で切ったんですが、おかしいですか?」
「……あ、いや、よく似合っているよ」

 口をぽかっと開けて呆けてしまっていたからか、阿倍野くんが頬を染めながら自分の毛先を摘まんだ。
 似合うと言った私の言葉に嬉しそうに微笑んでいる。
 このところ目尻を釣り上げた表情ばかり見ていたからか、まるで別人がそこにいるかのように感じた。

「さぁ、行きましょう。今日も天使のために頑張ってくださいね」
「あ、いや、そのことなんだが……」

 しどろもどろに言いかける私を、問答無用と言わんばかりに車に押し込む阿倍野くん。
 やはり別人ではなく、阿倍野くんは阿倍野くんだった。
 車中で、調子が悪いから休むと言いかけて思いとどまる。

 言ったら、きっとどのように調子が悪いかまで説明しなくてはならなくなる。
 言えるわけがない。誰かに犯されたのだなどと。
 その相手のことすら覚えていない。
 この私をやり捨てにするなど……だんだん腹が立ってきた。

「それで、さっきは何て言いかけたんです?」
「あ、いや、何でもない。それにしても、大変身したね阿倍野くん。既婚者じゃなければ口説いていたところだよ」
「またまた、ご冗談を」

 一言文句を言ってやらねば気が済まない。
 内心では怒り心頭なのを隠しつつ、普段どうりを装う。
 私の軽口に気を良くしたらしい阿倍野くんは、一日中にこにこしていた。
 いつもこうならいいのに、もったいない。……あ、怒らせているのは私か。







「おや、社長、今日は律いませんよ? というか辞めてしまったんです」
「すまない、私のせいだよな。彼を愛するあまり少々強引が過ぎた」

 仕事帰り、連日通っていたバーに足が向いてしまったのはここ1か月ほどの習慣からだろう。
 店に入ってから律くんのことを思い出してしまってバツが悪かったから、いないことに少しほっとした。
 カウンターに座ると、マスターは私を責めるでもなくカルヴァドスを出してくれる。
 リンゴの香りと蒸留酒の甘みが心にまで染みるようだ。

「まぁ、律が嫌がっていたことに気付いていたのに対応させていた私も同罪ですよ」
「う……やはり、嫌がっていたのか……」

 それなのに、私はなんということを……。
 自己嫌悪と罪悪感、失恋の痛みでホロリと涙が出てくる。早くも酒が回っているのだろうか。
 すると、隣に座っていた青年がハンカチを差し出してくれた。

「悪いな、聞こえちまって。マスター、彼にスコッチを」

 すぐにグラスが目の前に出される。

「まぁ、飲めよ。失恋は飲んで忘れるに限る」
「すまない」

 私がグラスを持つと、乾杯のつもりなのか青年は私のグラスに自分のグラスを軽く当てた。
 短く刈り込んだ髪を立てるようにセットした青年は、私の眼を見つめながら薄く笑っている。
 タンクトップにネックレスと、実に若者らしい格好だ。

「二人の失恋に」
「きみも、失恋を?」

 青年はグラスを一息に呷ると、「ああ」と短く答えた。
 失恋したという割には、あまり悲痛な感じがしない。
 そんなことを思っていると、青年は自分でボトルからグラスに酒を注ぎながら言った。

「正直、羨ましいよ。そんな風に泣けるほど人を好きになれるあんたが」
「そんな……私なんて、振られてばかりで……みっともないだけだ」
「みっともなくなんてないさ。本気だったんだろ? 羨ましいよ、あんたに惚れられる奴が」

 そうだろうか、と思いながらグラスを空けると、青年はすぐに酒を注いだ。
 これはブランデーだろうか。
 琥珀色の液体に、少しだけ小さくなった球状の氷が浮き上がる。

「なあ、あんた名前は? 俺は上野文孝ふみたか。ブンタカでいいぜ。みんなそう呼ぶ」
「守だ。神戸守」
「守、俺たち付き合わねぇ?」
「え……?」

 身体をこちらに近づけたと思ったら、そんなことを言い出した。
 いつの間にか手を握られている。
 ゴツゴツした大きな、男の手だ。
 何かスポーツをやっているのか、その腕は筋肉で私の倍くらいの太さになっている。
 男臭くて、とてもじゃないが私の好みではない。

「すまないが、今はそんな気分にはなれそうもない」
「まぁ、そう言わず。失恋には次の恋って言うだろ? お試しでもいいからさ。俺が忘れさせてやるって」

 力ではとても敵いそうにないから穏便に断ろうとしたのだが、ブンタカと名乗る男は聞く耳を持たない。
 抵抗も空しく抱き寄せられると、耳元に音を立てて口をつけられる。
 ぞわり、と背中を嫌悪感が駆け上がった。
 私に迫られていた富永くんや律くんもこんな気持ちだったのだろうか。本当に申し訳ないことをした。

「なあ、ホテル行こうぜ。これでもテクには自信があるんだ」

 ブンタカが耳元で囁きながら私の尾骨の辺りを撫で回す。
 おかしい。
 気持ちが悪いのに、ゾクゾクする。
 身体に力が入らない。
 まだそんなに飲んでないはずなのに。

「おっと、酔っちまったか? 送っていくよ」

 ブンタカが私を抱えたまま立たせようとする。
 まずい。まずいまずいまずい。このままじゃ……。
 誰か、助けてくれ――。

「触るな」

 怒気を孕んだ低い声が聞こえたかと思うと、ぐい、と強い力でブンタカから引き離された。
 声の主は左腕で私の肩を抱き、右手でブンタカの顔を掴んでいる。

「この人は俺のだ。握り潰されたくなかったら、別の相手を探すんだな」
「痛っ、わ、分かった! 分かったから放してくれ!」
「フン、二度とこの人に近づくなよ」

 ブンタカは声の主の手を引き剥がせないのか、焦った声で言った。
 解放されたブンタカの顔には、くっきりと手の痕が朱く浮かんでいる。
 様子を窺っていたらしい他の客がクスクスと笑う中、ブンタカは逃げるように去っていった。

「さて、行きましょうか」
「え? あ、阿倍野くん……?」

 この時になってようやく声の主を見た私は驚いた。
 普段の女性らしさは全くないし、声も低いが、その顔は間違いなく阿倍野くんだった。
 私を支えながら立たせた阿倍野くんは、私の腰を抱きながらニヤリと嗤った。
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