ロマンティックにささやいて

桜木小鳥

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1巻

1-2

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 寛美はわたしの過去を知っている数少ない人間の一人だ。
 わたしが彼女曰く〝修行僧〟みたいな生活をしているのも、未だに誰とも付き合わないのも前の彼のせいだと思っている。まあそれもあながち間違いではないのだけれど……
 でも、それでもやっぱり今の現状はわたし自身の問題だ。わたしにもう少し勇気があれば、主人公のライバルくらいにはなれるんだろうか……
 嫌な夢を見ても、頭が痛くても、仕事はやらなければならない。さっき見た時よりも、うず高く積まれている書類を一つ一つ確認しながら、何もかも頭の隅に押しやって仕事に取りかかった。


 人間やればできるものだ。黙々と仕事をしている間に時間は淡々と過ぎていった。そんな自分に悲しくも満足してしまう。
 今日が金曜日だからか、定時になるとみんな次々と仕事を終えて帰る準備を始めた。

「じゃあ、気が向いたら来てよ」

 そう告げてから、寛美もいそいそと帰り支度をしてロッカールームへと消えた。まったく予定のないわたしは、結局小一時間ほど残業をしてから、誰もいなくなったフロアの電気を消して職場を後にした。
 着替えを終えて玄関ロビーに向かうと、さして広くもないそこに数人が集まっていた。その中に藤崎くんを見つけて一瞬だけドキリとする。彼もこれから飲み会に行くのだろうか。
 わたしはさっと下を向くと、「お疲れさまでした」と小さな声で言いながら集団の横をすり抜けて外へと出た。夜の空気に触れてホッと息を吐き、そのまま駅の方角へ歩き出す。

「三浦さんっ」

 何歩も歩かないうちに突然呼び止められ、振り返るとそこに藤崎くんが立っていた。藤崎くんはいつもの人懐っこい笑顔を浮かべている。
 相変わらずハンサムな子。
 やっぱり夢の中で見るより実物の方が数段格好いい。たとえ可愛い彼女ができたとしても、見るだけなら別に問題ないわよね。
 改めてそう思いながら、わたしよりも頭一つ分背の高い彼を見上げた。

「なあに?」
「あの、今から飲み会があるんですけど、よかったらどうですか?」

 その笑顔は反則よ、藤崎くん。
 思わず、行くって言いそうになっちゃうじゃない。

「ごめんなさい。今日はちょっと」

 そう言うと彼の笑顔がほんの少しだけくもったように見えた。

「……デートですか?」
「まさかっ」

 思いがけない質問に間髪入れずに答えると、また藤崎くんがゆっくりと笑った。それに呼応してわたしの心臓が大きく動く。
 だって素敵な笑顔なんだもん。ドキドキしてしまうのはわたしのせいじゃない。

「飲み会は苦手ですか? ほとんど参加されませんよね?」
「え、ええ。お酒はあんまり飲めないから……」

 とりあえずそれは事実だ。藤崎くんは何かを考えているのか、わたしの顔をしばらくじっと見てからポツリと言った。

「……お酒がなければいいんですか?」
「えっ?」
「……」

 思わず聞き返したわたしに藤崎くんが口を開きかけたその時、可愛らしい声が割って入った。

「藤崎さん、そろそろ行きましょうっ」

 ふわりとした巻き毛が揺れている。微かに香る甘ったるい香水の匂い。有田さんは藤崎くんの袖をそっと引っ張ると、にっこりと笑いながら彼を見上げた。
 可愛いなぁ……。女のわたしから見てもそう思うのだから、きっと彼も同じように思っているのだろう。たとえそれが計算された仕草であったとしても、それは彼女の努力なのだからわたしがどうこう言える問題ではない。
 自分にはできない、それだけのこと。
 藤崎くんはさりげなく腕を引いて彼女の手を外すと、少し困ったような顔をわたしに向けた。

「あの……じゃあ……またの機会に。お疲れさまでした。気をつけて」
「三浦主任、お疲れさまでしたぁ~」
「……お疲れさま」

 有田さんはわたしにぴょこんとお辞儀をすると、藤崎くんと連れ立ってさっきの集団の中に戻っていった。繁華街へと繰り出す集団を背にわたしはまた駅へと向かった。
 満員電車に揺られながら、さっき藤崎くんは何を言いたかったのだろうと考えた。
 優しい人だから、きっと気を使ってくれたのだと思う。社内で会うたびに、気さくに声をかけてくれる人は彼だけだ。でもそれが特別だとは思わない。だって、藤崎くんはそういう人だから。気遣いのできる優しい人。
 そう、わたしだけが特別じゃない。それでも、思った以上に気にしている自分に戸惑ってしまう。どうやっても繁華街へと消えていく二人の姿を頭の中から追い出すことができなかった。


 家に帰りついた時、時計は二十時を少し過ぎたところだった。部屋着に着替えてから、コンビニで買ってきたお弁当を電子レンジに入れて温める。
 今日はお湯を沸かすのすら面倒くさかった。いつもなら温かなコーヒーでも入れるところだけれど、今日はペットボトルのお茶で済ますことにした。部屋の真ん中にある小さなテーブルの上にはコンビニ弁当とペットボトル。それからデザートに買ってきたプリン。
 ……わびしい。週末をこんな風に過ごす人間っていったいどれくらいいるんだろう。みんな今頃楽しく飲んでいるのだろうか。こんな思いをするくらいなら、我慢してでも行くべきだったのだろうか。
 お弁当を食べ終えてテレビをぼんやりと見ていると、ふいに電話が鳴った。本棚の上に置かれた電話の画面を覗き込むと、実家の番号が表示されていた。受話器を上げた途端、ヤケに明るい母親の声が聞こえた。

「……もしもし?」
『倫子ったら相変わらずなのねぇ。金曜日のこんな時間に家にいるなんて』

 からかいと呆れた様子が半分半分な声に思わずムッとなる。

「……ほっといてよ。遊びまわって居場所もわからないよりマシでしょ」
『それもそうだけどさ。たまにはハメを外してもいいのよ』

 もうっ、寛美と同じこと言ってる。

『ちょっとくらい気になってる相手はいないの?』
「……い、いないわよ」

 一瞬、藤崎くんの顔がよぎったけれど、すぐにそれを頭から追い出した。

『じゃあさ、お見合いしてみない?』
「……えっ?」
『前から色々話はあったのよ。そういうのを娘に強要するのはどうかと思ってたから今まで言わなかったけど……。倫子はお父さんに似たのか、奥手だしねぇ』
「……」
『お隣の奥さんの知り合いの方の親戚の息子さんなんだけど。結構いい感じの人らしいの。あなたよりも年上だし。会ってみるだけでもどう? 別に恋愛結婚だけが人生じゃないんだし。あなたにはこの方が向いてるかもよ?』

 そう言った母親の声がやけに優しく聞こえたのは何故だろう。
 いつもならためらいもなく断りの言葉が口にできるのに、今一言も出てこないのは何故? 
 今夜は何故か無性に寂しかった。わたしだって幸せになりたい。
 寄り添える誰かと出会いたい。たとえ作られた出会いだとしても、それでも幸せになれるかもしれない。ほんのちょっと、心がすさんでいたのかもしれない。だから気がつくと、

「……そうね、会ってみようかな」

 そう返事をしていた。



   4


 最低の週末だった。せっかく気分転換に掃除でもしようと思っていたのに、土曜日は朝から生憎あいにくの雨。ちょっと離れたところにあるスーパーに行くのは諦め、近くのコンビニで食料を買い込んだ。ベッドの上にごろんと転がって、雨の音を聞きながらぼんやりとテレビを眺める。
 すでに後悔している。一時の感傷に流されてお見合いを受けたこと。
 承諾した時の嬉しそうな母親の声を思い出すと少し心苦しいけれど、本当にこれでいいのかと一晩真剣に悩んでしまった。
 時々藤崎くんの顔が頭の中をよぎった。彼のことを考えても仕方がないのに、心のどこかで何かを期待している自分もいる。
 馬鹿馬鹿しい。彼との間に一体何があると言うの? 何もない。わたしには何もない。可愛らしく笑いかけることも、一緒に飲み明かすことも。接点なんて何一つない。わたしの前にあるのは、用意された出会いだけよ。
 はぁ、考えても仕方がないわ。お見合いがなんだっていうの。一度会ったからって、それで人生が決まってしまうわけじゃない。会ってみてすごく嫌な人だったら断ればいいのよ。いえ、きっと向こうから断ってくるわよ。こんな二十九にもなって少女小説を読み漁る、色気もそっけもないお堅い女なんて、写真だけで断られるわっ。
 うっ……ああ、イヤだ。自分で言って自分で傷ついたわ、今。
 グサグサ刺さったわよ、自分の言葉なのに。
 ……もしかしてわたしって客観的に考えたら相当酷いんじゃないの? 
 ダメよ、倫子。後ろ向きに考えちゃダメ。
 ロマンティックな恋なんてとっくの昔に諦めた。だけど、そんな恋じゃなくても相手が優しくてこんなわたしでもいいよって言ってくれる人なら、それなりに幸せになれるかもしれないじゃない。ときめくことはなくても、穏やかで静かな生活が送れるわ、きっと。
 なんてとにかく今は考えるだけ無駄よ。まだ相手の顔も名前も知らないんだし、おまけに会うと決まったわけじゃない。
 よし、なんか食べよっ。勢いをつけて起き上がったその時電話が鳴った。ディスプレイも確認せずに反射的に腕を伸ばして受話器を取る。

「はい、もしもし?」
『あ、倫子っ?』
「……う……お、お母さん」

 昨日よりさらにハイテンションな母親の声に一抹いちまつの不安を感じる。

『あのね、今朝早速お隣の奥さんに話をしたら先方に連絡してくれてね。で、来週の土曜日に会うことになったから』
「……は? えっ? 何ですって?」

 あまりに急な展開に思わず受話器を落としそうになった。

『いやぁね、ちゃんと聞いててよ。来週の土曜日の午後二時に第一ホテルの中の喫茶店だからね』
「そ、そんな急に?」
『向こうも忙しいらしくてそこしか時間がないのよ。どうせあなたはずっと暇なんだからいいじゃない。いつか会うんだから早くても一緒よ。それに大丈夫、会う時は二人だけだからねっ』

 能天気な母親の声に何が大丈夫なんだと叫びたくなる。

『それからね、親が付き添わないからって、いつもみたいな地味な服なんて着ていかないでよ。ちゃんと可愛い格好していきなさいね。じゃあ、写真と釣書つりがきは速達で送るわ。あ、もちろんあなたの写真も相手に渡しておくからね。じゃあね~』
「ちょっ、ちょっとっ……」

 一方的に切れた電話に呆然となる。耳に当てたままの受話器からはツーツーと無情な音だけが聞こえていた。
 ……まさかこんなに早く展開するとは……。うちの母親のせっかちな性格を忘れていたわ。やっぱり早まったかしら……。もっとじっくりと考えてから返事をすればよかった。
 さっきまでの決意はどこへやら、お見合いが現実味を帯びてきたと同時に、また後悔の気持ちが頭をもたげた。


 結局、呆然としたまま土曜日が終わり、日曜の夜になった。
 急な展開についていけなくなりそうだけど、それでも明日からまた仕事に行かなければならない現実。明日着ていく服を出そうと備え付けのクローゼットを開けた時、ふと思い出した。
 そうだ。お見合いの服。クローゼットの奥を探して、数年前にイトコの結婚式のために買った淡い色のスーツを取り出した。ジャケットと膝丈のワンピースの組み合わせはあの時以来一度も着ていない。しわにはなっていないけれど、ずっとしまってあったし、もう一度クリーニングに出した方がいいかしら。
 確か近くに朝早くから開いているお店があったはず。明日の朝寄ってみよう。
 わたしの気持ちはどうであれ、きっと相手は真剣に結婚を考えているのだろう。だったら尚更失礼な格好なんてできない。さらにプレッシャーまで加わって頭は爆発寸前だ。
 ちくしょうっ。せめて夢の中でストレス発散してやるっ。
 早々と寝る支度をすると、お気に入りのコレクションの中から一番大好きな本を選んでベッドへ持ち込んだ。
 お願い、わたしの王子様。せめて夢の中でいいからわたしをぎゅっと抱きしめて。その思い出で今週は生きていくから。
 わたしはもう何度も読んでわかりきっているその本を、最初の一ページ目から読み始めた。


 人生上手くいかないものだなぁ……
 玄関の鍵をかけながらぼんやりと思った。わたしの一番大好きなハンサムでゴージャスな彼は夢の中には現れなかった。片鱗へんりんさえなかった。夢の中のわたしは、部長に怒られながら必死で仕事をしていた。
 ……はぁ、肝心な時に見ることができないなんて……。夢をコントロールする方法ってないのかしら。
 駅へ向かう途中にあるクリーニング屋さんに立ち寄ってスーツを出した。仕上がりは木曜日ということなのでちょうどいい。
 改めて駅へと向かいながら、週末とは打って変わって晴れ渡った青空を見上げた。清々すがすがしい朝の空気を吸い込んで、それからはぁーと大きく息をはくと、いつもと同じ時間の電車に乗るために少しだけ早く歩いた。


 頭の中に不安を残したまま仕事に向かう。幸いなことに多少のことでは長年つちかってきた自分のペースは崩れない。それでも朝から何度目かのため息をついた時、隣に座っていた寛美が心配げに声をかけてきた。

「ねえ、倫子。ちょっと休憩しに行かない?」
「……そうね、行こうか」

 ちょうどきりのいいところだったし、忙しい時間帯でもなかったのでわたしは頷いて立ち上がった。財布だけを持って寛美と並んで歩く。

「元気ないじゃない? 何かあったの?」

 いきなりズバッと聞いてくるあたりが彼女らしい。
 幸い通路には誰もいなかったので、わたしは歩きながらまあねと頷いた。

「ついに来たの」
「……何が?」
「お見合いよ」
「あら、もしかして初めて?」
「そう」
「へぇ、倫子ならとっくに経験済みだと思ってたわ」

 ジロッと寛美を睨むと、彼女は悪気のなさそうな顔をして肩をすくめてみせた。

「わたしだって最近親から延々言われてるわよ」
「……実際に会ったことはあるの?」
「さすがにそこまではまだないわよ。話だけ。……会うことになったの?」

 寛美の方からサッと見られて、今度はわたしが肩をすくめた。

「まぁね」
「それで悩んでるの? ……会うのが怖い?」
「……うーん、微妙なところ。まだ相手の顔も名前も知らないし」

 そう言うと寛美が驚いたように眉を上げた。

「……あら、急展開だったのね?」
「まあね」
「……会ってみたらすごくいい人かもよ?」

 慰めるような彼女の声に、思わず微笑が浮かぶ。

「……そうね」
「でも何で急にお見合いする気になったの?」
「……なんだか、無性に寂しくなったのよ……」

 自嘲気味な言葉に自分でもびっくりしてしまう。でも寛美はそれには気づくことなく小さく笑って頷いた。

「幸せになりたいわけね?」
「……それなりに、ね」

 そう、幸せになりたい。ときめくような恋を期待してるわけじゃない。慎ましく、穏やかで安定した生活を望んだっていいじゃない。いつまでも二次元の男の子で妄想したり、見目麗しい男の子を覗き見してても仕方がないんだし。
 ……まあ、妄想くらいはいいか。
 ありもしない期待をして、一人で馬鹿みたいにドキドキするのはもうおしまいにしなきゃ。わたしだって幸せになりたいもの。

「そうよ、わたしだって幸せになりたいんだもんっ」

 言うと同時に休憩室に入るとソファの一つに藤崎くんが一人で座っていて、突然のわたしの登場と大きな声にびっくりして顔を上げた。
 その瞬間、自分の顔がサッと赤らんだのがわかった。
 ハ、ハズカシイ……。わたし、この人にはいつも変なところを見られている気がする。これじゃあ本当に冴えない女の典型だわ。
 ぺこりと頭を下げてから、うつむいたまま急いで自動販売機に向かった。

「あら、君も休憩?」
「ええ、これからまた外回りなんですけど、その前にちょっと」
「そう、まあ頑張って営業してきて」

 背後で交わされる寛美と彼との会話に耳だけを傾けるけれど、恥ずかしすぎて加わる気にもなれない。
「お先に失礼します」と彼の声がしたけれど、自動販売機にお金を入れながら聞こえないフリをした。結局藤崎くんの気配が消えるまで、わたしは後ろを振り返ることができなかった。
 どんなに決意しても、彼の顔をちらりと見るだけで心が揺らいでしまう。
 これがどうすれば治まるのか、今のわたしにはまったくわからなかった。



   5


 火曜日の夜、家に帰ると玄関ドアのポストに少し大きめの封筒が挟まれていた。見た瞬間ピンときた。慎重に引き抜いて裏を返すと、案の定そこには母親の名前。中身はもちろんお見合い相手の写真だろう。
 さすが我が母、やることが早い。
 部屋に入って封筒をテーブルの上に置いた。それを横目にさっさとスーツを脱いで部屋着に着替える。
 コンビニで買ってきたおにぎりをペットボトルのお茶で流し込むように食べてから、そっと封を開けた。中にはさらに小さめの茶封筒と折りたたまれた薄桃色の便箋が入っていた。
 便箋を開くと母親の字で待ち合わせの日時と場所が改めて書いてあった。その下に『頑張って~』という文字とそれを取り囲むようなハートマークを見つけて、思わずがっくりとくる。
 お母さーん。面白がってるの? もしかしなくても。
 次に茶封筒を開けると真白な便箋と一枚の写真が入っていた。写真は正式なものではなく、スナップ写真だ。先に便箋を開いてさっと目を通す。


 佐久間さくまゆう
 三十二歳。
 身長一八八センチ。
 仕事は金融系のシステムエンジニア。


 ふーん、それなら忙しいわね。そう思いながら職場で撮られたらしい写真をジッと見る。
 真面目そうな人。正面を睨むように見ているその顔はとびきりのハンサムというわけでもないけれど、整っていて、でもいかつくて。一八八センチって……藤崎くんよりも高い? 
 しかもこの人、体格がすごくいい。太ってはいないけど大柄な感じ。まるで……そう、熊みたい。こんな大きなからだをしてるのに、一日中パソコンの前に座ってるなんて変なの。
 ガードマンとか警察官とかの方が似合いそう。藤崎くんとはまったく違うタイプだわ……
 ああ、もうわたしったらっ。いちいち藤崎くんを引き合いに出さずにいられないのっ? 
 頭をぶんぶん振って藤崎くんの甘い笑顔を追い払うと、もう一度写真を見つめた。この冷たそうな瞳の奥に、名前と同じ優しさがひそんでいるのだろうか? 


 水曜日。一昨日よりもさらに多くなったため息の数に、寛美ももうお手上げ状態で何も言わなくなった。
 まあ、何か言われたところでどうしようもないのだけど。気分転換に何か飲んでこようと、一人でこっそりと仕事を抜け出した。
 通路を歩きながら、結婚式で自分の隣に立つ目つきの悪い熊さん……もとい佐久間さんを思い浮かべようとしてみるけど、さっぱり上手くいかない。実際まだ彼と結婚するわけじゃないのだからそこまで想像しなくてもいいのだろうけど、何となく想像してみるのが乙女ちっくというものだ。
 ああでも、実際に会ったらどんな話をすればいいんだろうか。ただでさえプライベートな会話を男の人とすることなんてないのに……。途中で読むのをやめてしまった釣書つりがきに、もしかして趣味とかも書いてあるのかもしれない。
 よくテレビで見る、「ご趣味は?」なんて台詞せりふは陳腐なものだと思っていたけれど、会話の糸口を探るための相応ふさわしい言葉なんだと改めて思う。
 そりゃそうだ。初対面なのに次から次に会話が成り立つ方がおかしい。作られた出会いなら簡単だと思っていたけど……
 ああ、幸せへの道はどこも険しいのね。

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