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由比都の輪郭
しおりを挟むそれは、由比都にとって初めての感覚だった。暗闇の世界に穴が空いて、目の奥が痙攣してしまいそうなほど強い白が侵食をする感覚。
今、目の前にあるものは、お前の怖いものではない。頭の中で広がった安心感が、由比都の瞼の力をゆっくりと抜いていく。服の色の名称すらわからない、腕に触れている、由比都の肌よりも濃い色をした太い腕が、目の前の男の体に繋がっている。
目の奥が渇いて、それでも、瞬きをするのが怖くて。由比都の肺は、驚くほど静かに膨らんだ。誰も、認知できないほどの静かな呼吸だ。
由比都の目が、大きく見開かれる。澄んだ藍色の瞳に映るのは、目の前の男の体へと恐る恐る伸ばされる、生白い手だ。
五本の指が、胸板に触れる。服の隙間から見える、首筋を辿るように指が動き、己の爪先を目で追うように、由比都の視界が移動していく。
「っ……」
恐る恐る、行った瞬き。目を閉じていた時間は、ほんの数秒程度だ。それでも、視界が闇に落ちることはなかった。薄桃色の目の淵からつるりとこぼれた一筋が、由比都の服へと染み込んでいく。震える指先が、厚みのある下唇に触れた。この柔らかさを、由比都はよく知っている。
逆剥け気味の、節張った男の手が由比都の手を優しく握る。そのまま、誘導されるように薄い手のひらは男の頬へと伸ばされた。通った鼻筋に、男にしては長めの睫毛に囲まれた赤茶色の瞳。眠そうな二重の瞼がゆっくりと瞬きをして、その赤茶色の中に由比都を収めた。
手の甲に、痛み気味の金髪が触れる。
暗闇の中、輪郭だけだった夜見が、由比都の目の前で微笑んでいた。
「……見えてる?」
「…………」
「由比都、わかる……?」
奪われていた視界を補うかのように、鋭敏になった嗅覚と聴覚が認識を強めていく。あるはずなかった視覚からの情報は、由比都の全身の細胞を震わせる。
見開かれた藍色に映る夜見は、不安げな表情を浮かべていた。
初めて見るのに、たくさん表情を変えないでくれ。
一つ前の夜見の微笑みだって、しっかり覚えておきたかったのに。そんなにコロコロ表情が変わったら、覚えていられないじゃないか。
由比都は、目玉が溶けてしまうかと思うほど、大粒の涙を浮かべていた。水膜を通した夜見の姿が慌てていて、少しだけ面白い。けれど、声に出すことはなかった。
いや、言葉にできなかったのだ。
「う、く……っ……」
「泣かせるなって由比都に怒られちゃうね、俺」
「ふぐ、っ……ぅ、うぅ……な、なっん、っ」
夜見の手じゃ補えないくらい、由比都の言語化できない気持ちは涙となってぼたぼた落ちていく。
こんな、こんなに忙しない気持ちを、まとめる言葉が思い浮かばない。
ただ、一言言えるのは──── 。
「あ、あいた、かった……っ」
「へ?」
「め、で、……っ……自分の、目で……っ、お、お前をっ」
「……うん、うんそうだね、っぐぇぼっ!!」
初めて、由比都は自らの意志で夜見の腕の中へと飛び込んだ。それも、夜見の咽る声が聞こえるほどの勢いでだ。
己よりもよほど厚い胸板に、顔を押し付けるようにしてわんわん泣いた。声を上げて、夜見には見られたくないと思っていた子供じみた泣き方で。
逞しい腕が背中に回って、苦しいくらいに抱きしめられる。いつもよりも安心する香りが濃くなって、夜見の体温も高い気がした。
ずっと由比都が望んでいた視覚なのに、由比都は空間を認識するよりも早く、夜見だけに目を奪われたのだ。生まれたばかりの雛が、最初に見たものに心を奪われるように。まるで、最初からそう決まっていたかのように夜見を見上げたのだ。刷り込みというものは、本当に恐ろしい。
それでも、いつしか由比都の心の中で、夜見は世界の輪郭になっていた。由比都がずっとともにありたいと願った世界が、何物にも変えられないたった一人が目の前にいるのだ。
由比都の太陽で、世界で、輪郭。
きっと、こんなことを口にすれば調子に乗るだろう。だから言わないが。
「もっと、己の欲を優先させれば良いのにな」
「絮嘉さま、俺の欲は由比都ですよ。だから、これが望みです」
「ああ、それは確かにわかりやすいな。……うん、ならずっと、その欲のために支えてくれ」
「もちろん。俺は、俺のためにあんたを利用します」
土地神様で、高位の存在だというのに。夜見は随分とイタズラっぽく、そして不遜な態度で宣った。だが、絮嘉にはそれでよかったらしい。美しい異形の神様はプスっと噴き出して、「ああ、実に愉快だ!」と高らかに笑った。
瞼を閉じれば、慣れ親しんだ暗闇が守ってくれる。そう思えるようになったのは、光を知ることができたからだろう。
今では、両手のひらで顔を覆わなくては得られない。安心を求めるには、無防備にならなくてはいけない。けれど、
(──── もう、一人が楽だとかは言えなくなってしまったな)
由比都に、贅沢を覚えさせた。何もできないを否定してくれた夜見の隣が、今の由比都の生きる場所だ。
京浜地区、見放された流刑地。落ちこぼれの行き着く先。そこは裏を返せば、無くしたものを見つけることができる場所、なのかもしれない。
「ちょっと、眩しい?」
社から地上に戻った。太陽から降り注ぐ光を遮るように、由比都の額に夜見の手が触れる。ひさし代わりの手には細かな傷がついていた。暗闇では見えなかった夜見の手が、ずっと戦ってきたことを示している。
光の輪郭に縁取られる夜見が、心配そうな顔で覗き込んでいた。薄い体は、夜見の黒い影に飲み込まれるように守られている。
「……眩しい」
目を閉じても忘れることができない夜見の姿が、残像のように目の奥に焼きついている。それが、ずっと内側で存在を示してくるから、眩しくて敵わない。
夜見の手を握る。二人の影が重なるように色を濃くして闇を作る。
由比都の藍色の瞳には、柔らかく微笑む夜見の姿が映っていた。無骨な指が絡まって、そっと手の甲に口付けられる。初めて出会ってから、夜見はいつも由比都の意見を聞かないで好きなようにする。その横暴じみた優しさで慣らされたこの体では、もうまともな判断はできないだろう。これが、もし夜見の策略だとしたら。由比都はもう逃れられない。
「ここまでする、俺が怖い?」
赤茶色の瞳がくらりと光って、すがるように手を握りしめられる。
ああ、これはずるい男の取引だ。たった一度しか叶えてはもらえない。祈りを枷に由比都を縛りつける。それでも、由比都は構わなかった。この男の狭い腕の中で、生きることに決めたのだから。
後頭部から、じわじわと毒が滲んでくる。心臓がドクンと鼓動し、由比都は繋いだ夜見の手を引くようにして背中に腕を回した。
「帰ったら、グラタンを作ってくれ」
「え?」
「私の好きな食べ物だ。まだ言ってなかったろ」
意地悪な笑みを浮かべて、今度はきちんと夜見の目を見て宣った。
赤茶色の瞳が柔らかく光る。夜見は、少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「やっぱ、由比都はいい性格してる」
──── 私は喜んで、お前の世界で生きていく。夜を背負う男の月として。
狭い腕の中が心地良いと教え込んだ夜見の責任は、重い。
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