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土地神
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二人分の足音が反響するほどの広い空間。ビルの一室から繋がっていることを忘れさせるほど岩肌は冷たく、そして空気は澄んでいた。冷気がゆっくりと足元に降りてきている。そのせいで体温が低くなったのか、繋いだ夜見の手が熱いのかは計りかねた。
夜見と由比都は今、京浜地区を統べる土地神、絮嘉の領域へと足を踏み入れていた。
一週間の入院生活を強いられていた夜見が、とある夢をみたのだ。それは、大きな蓮の花が綻び開く様子であった。
絮嘉が眠ったその年、かの神は大きな蓮の花に姿を変えて蕾を閉じたという。この夢が転生への一歩なのか、それとも何かの災いの前兆なのかはわからない。
ただ、夜見と由比都の関係性の変化後に訪れた何らかの前触れに、緊張をするなという方が無理な話であった。
「これが偶然か、必然か」
「考えても仕方がないよ。とにかく、夢では蓮は綻んでいた。もしかしたら、絮嘉様の準備が整ったということなのかもしれない」
二人は、地下へと続く石の回廊を進んでいた。窓も何もないのに、空間はそれでも澱みなく進めるくらいには明るかった。
二人の体を照らす光に、澄んだ碧が混じる。清廉な神気が満ち、頭上から落ちた一滴の滴が輝く池の水面を震わせる。耳に残るような美しい音を洞窟の中に響かせると、それを合図にするように夜見の歩みが止まった。
「夜見……?」
「目覚めてる」
「絮嘉様がか……?」
由比都の手を握りしめる夜見の力が、わずかに強くなる。緊張を表しているのかもしれない。それほどまでに、絮嘉の眠りは長かったのだ。
「六十年、眠り続けた神に……俺の代で会えるなんて」
少しだけこわばった声だ。畏怖を感じるのも無理はないだろう。目が見えない由比都でさえ、大きな何かの存在感を肌を通じて感じている。
足が重い。互いに、あと一歩が踏み出せない。鼻腔を掠めるのは、芳醇な花の香りだ。衣擦れの音がして、ゆっくりと顔をあげる。
先に口を開いたのは、夜見だった。
「絮嘉様、おられますか」
大きな鐘が鳴り響くような重い振動が、二人の体を抜けていく。空気はビリビリと反響し、立っているのもやっとの衝撃であった。
由比都の中でざらりとした感触が走り、あ、と思った頃にはホオバリが飛び出していた。長く大きな体が、二人を囲い蜷局を巻く。まるで守るかのような行動に、由比都が戸惑った時だった。
「いるよ」
「っ……今の声、は」
「頭の良い式だね。紗幕がなければ神気で目が焼ける。私の姿は、その式越しに見るがいい」
「ほ、ホオバリ」
女性とも、男性ともつかない不思議な響きを宿した声が、反響音を伴って響く。
ホオバリの体は、夜空の輝きを宿すように黒く、半透明になっていった。淡く光る青が、声の主である絮嘉の姿を映し出す。二人の目の前に現れた絮嘉は、白毛の牡鹿の特徴を持っているようだった。四つ足の下肢を光る池へと浸しながら、頬杖をつくように二人を見つめていた。白く長い髪は花魁のように纏められ、太い木の枝のような立派な角を生やしている。眉のない整った顔はゾッとするほど美しかった。人外の特徴は、上半身のみを人型と取っている半身半獣の姿だろう。真っ赤な着物を肩にかけた中性的な神は、横長の瞳孔に二人を収める。
「なんで、お目覚めになったのですか」
「夜見」
「それは、お前の働きによってと答えるのは違うということだな」
不躾な夜見の言葉に、絮嘉は口元を釣り上げて笑みを浮かべる。白く嫋やかな手のひらは、二人の体を容易く掴めるほどに大きい。その指先が、そっと由比都の胸元へと伸ばされる。ホオバリをすり抜けて、絮嘉の指先は由比都に触れた。
「揃ったからな。お前がきたことで」
「揃った……?」
「他の土地神と私は違う。混ざり物の神だからな」
くつくつと笑う。絮嘉の白い指先は由比都の首筋をなぞるように細い顎を掬う。小動物を愛でるような指先に、敵意は感じられなかった。
絮嘉の横長の瞳が夜見へと向けられる。紅を塗られた唇が笑みを浮かべると、絮嘉は頬杖をついて二人を見下ろした。
「私はね、とある男の式だった」
「え」
「し、式が土地神になるのか……」
「ああ、違うよ。招かれた神が降りた先が、私の体だっただけさ」
絮嘉の言葉を前に、二人の理解は追いつかなかった。祈りによって招かれた神は土地に宿る。しかし、祓屋とともに移動する式ならば、一つの土地に縛ることは不可能に等しい。戸惑いを言葉に変える語彙を見つけられない二人を前に、絮嘉は白髪から生えた鹿の耳を震わせる。
「私の主人は散ったのだ。式に神が宿り、体が耐えられるわけがない。私は主人の命に引きずられて死に、正しく土地神として転生した。それが、京浜地区に神がいないと言われた最初の出来事」
これは偶然であり、必然であったと絮嘉は言った。牡鹿の姿を得た式として、長くともにあった。しかし、絮嘉の体に招かれた神気に当てられ、絮嘉の主人は体の内側から炎で焼かれた。顕現していた絮嘉を土地神から取り戻そうと、その体に収めたせいで。
炎の力を持った神は、幼かった。ものの分別も何もなかったのだ。
絮嘉は内側から、己とともに燃え尽きる主人を見ていることしかできなかったのだ。絮嘉も主人も死に、土地神と混ざり合った絮嘉が次に目を覚ました時には、もう戦争は終わっていた。絮嘉の宿していた元々の異能は、力の増幅と再生の異能であった。しかし、その能力も使うことは叶わなかった。
土地神は、己の欲のために異能を使うことはできない。力が強くなった今、思い通りに操れずに厄災を再び招いて仕舞う可能性の方が大きい。
そして土地神となったいま、絮嘉の能力を貸してやる存在もまたいなかった。力が強すぎて、絮嘉の力を受け入れる器がいなかったのだ。
ただ神気を垂れ流すのみの混ざり神になってしまった。異能を使いこなすことのできない無能な神。しかし、京浜地区で絮嘉の目覚めを待っていた男がいた。
それが、夜見綾人の祖父である男だった。
夜見と由比都は今、京浜地区を統べる土地神、絮嘉の領域へと足を踏み入れていた。
一週間の入院生活を強いられていた夜見が、とある夢をみたのだ。それは、大きな蓮の花が綻び開く様子であった。
絮嘉が眠ったその年、かの神は大きな蓮の花に姿を変えて蕾を閉じたという。この夢が転生への一歩なのか、それとも何かの災いの前兆なのかはわからない。
ただ、夜見と由比都の関係性の変化後に訪れた何らかの前触れに、緊張をするなという方が無理な話であった。
「これが偶然か、必然か」
「考えても仕方がないよ。とにかく、夢では蓮は綻んでいた。もしかしたら、絮嘉様の準備が整ったということなのかもしれない」
二人は、地下へと続く石の回廊を進んでいた。窓も何もないのに、空間はそれでも澱みなく進めるくらいには明るかった。
二人の体を照らす光に、澄んだ碧が混じる。清廉な神気が満ち、頭上から落ちた一滴の滴が輝く池の水面を震わせる。耳に残るような美しい音を洞窟の中に響かせると、それを合図にするように夜見の歩みが止まった。
「夜見……?」
「目覚めてる」
「絮嘉様がか……?」
由比都の手を握りしめる夜見の力が、わずかに強くなる。緊張を表しているのかもしれない。それほどまでに、絮嘉の眠りは長かったのだ。
「六十年、眠り続けた神に……俺の代で会えるなんて」
少しだけこわばった声だ。畏怖を感じるのも無理はないだろう。目が見えない由比都でさえ、大きな何かの存在感を肌を通じて感じている。
足が重い。互いに、あと一歩が踏み出せない。鼻腔を掠めるのは、芳醇な花の香りだ。衣擦れの音がして、ゆっくりと顔をあげる。
先に口を開いたのは、夜見だった。
「絮嘉様、おられますか」
大きな鐘が鳴り響くような重い振動が、二人の体を抜けていく。空気はビリビリと反響し、立っているのもやっとの衝撃であった。
由比都の中でざらりとした感触が走り、あ、と思った頃にはホオバリが飛び出していた。長く大きな体が、二人を囲い蜷局を巻く。まるで守るかのような行動に、由比都が戸惑った時だった。
「いるよ」
「っ……今の声、は」
「頭の良い式だね。紗幕がなければ神気で目が焼ける。私の姿は、その式越しに見るがいい」
「ほ、ホオバリ」
女性とも、男性ともつかない不思議な響きを宿した声が、反響音を伴って響く。
ホオバリの体は、夜空の輝きを宿すように黒く、半透明になっていった。淡く光る青が、声の主である絮嘉の姿を映し出す。二人の目の前に現れた絮嘉は、白毛の牡鹿の特徴を持っているようだった。四つ足の下肢を光る池へと浸しながら、頬杖をつくように二人を見つめていた。白く長い髪は花魁のように纏められ、太い木の枝のような立派な角を生やしている。眉のない整った顔はゾッとするほど美しかった。人外の特徴は、上半身のみを人型と取っている半身半獣の姿だろう。真っ赤な着物を肩にかけた中性的な神は、横長の瞳孔に二人を収める。
「なんで、お目覚めになったのですか」
「夜見」
「それは、お前の働きによってと答えるのは違うということだな」
不躾な夜見の言葉に、絮嘉は口元を釣り上げて笑みを浮かべる。白く嫋やかな手のひらは、二人の体を容易く掴めるほどに大きい。その指先が、そっと由比都の胸元へと伸ばされる。ホオバリをすり抜けて、絮嘉の指先は由比都に触れた。
「揃ったからな。お前がきたことで」
「揃った……?」
「他の土地神と私は違う。混ざり物の神だからな」
くつくつと笑う。絮嘉の白い指先は由比都の首筋をなぞるように細い顎を掬う。小動物を愛でるような指先に、敵意は感じられなかった。
絮嘉の横長の瞳が夜見へと向けられる。紅を塗られた唇が笑みを浮かべると、絮嘉は頬杖をついて二人を見下ろした。
「私はね、とある男の式だった」
「え」
「し、式が土地神になるのか……」
「ああ、違うよ。招かれた神が降りた先が、私の体だっただけさ」
絮嘉の言葉を前に、二人の理解は追いつかなかった。祈りによって招かれた神は土地に宿る。しかし、祓屋とともに移動する式ならば、一つの土地に縛ることは不可能に等しい。戸惑いを言葉に変える語彙を見つけられない二人を前に、絮嘉は白髪から生えた鹿の耳を震わせる。
「私の主人は散ったのだ。式に神が宿り、体が耐えられるわけがない。私は主人の命に引きずられて死に、正しく土地神として転生した。それが、京浜地区に神がいないと言われた最初の出来事」
これは偶然であり、必然であったと絮嘉は言った。牡鹿の姿を得た式として、長くともにあった。しかし、絮嘉の体に招かれた神気に当てられ、絮嘉の主人は体の内側から炎で焼かれた。顕現していた絮嘉を土地神から取り戻そうと、その体に収めたせいで。
炎の力を持った神は、幼かった。ものの分別も何もなかったのだ。
絮嘉は内側から、己とともに燃え尽きる主人を見ていることしかできなかったのだ。絮嘉も主人も死に、土地神と混ざり合った絮嘉が次に目を覚ました時には、もう戦争は終わっていた。絮嘉の宿していた元々の異能は、力の増幅と再生の異能であった。しかし、その能力も使うことは叶わなかった。
土地神は、己の欲のために異能を使うことはできない。力が強くなった今、思い通りに操れずに厄災を再び招いて仕舞う可能性の方が大きい。
そして土地神となったいま、絮嘉の能力を貸してやる存在もまたいなかった。力が強すぎて、絮嘉の力を受け入れる器がいなかったのだ。
ただ神気を垂れ流すのみの混ざり神になってしまった。異能を使いこなすことのできない無能な神。しかし、京浜地区で絮嘉の目覚めを待っていた男がいた。
それが、夜見綾人の祖父である男だった。
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