箱庭のエデン

だいきち

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不格好な欲

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 夜見の手が暖かくて、由比都の目からじわりと涙が滲んだ。きっと、一度にいろんなことが起こって涙腺が馬鹿になっているのだ。涙を零したくなくて、唇を引き結ぶ。瞬きをしないように目を開いても何も見えないのに、今確かに、由比都の手の中には夜見がいる。
 
「……よかったよ、本当に」
「ふ……っ……っ」
「遅れてきた上に、ダサいとこ見られたのはいただけないけどさー……」
「ひ、……っ、ぅ……っ」
 
 ダサくなんかない。そう口にしたら、きっと由比都のほうこそダサいところを見せてしまう。
 嗚咽を必死で堪える。俯いてるせいで、喉が熱く、心臓がぎゅうっと絞られる。
 夜見の指先が由比都の手の甲をくすぐるように撫でる。指を絡めた手を握り返して、生きている温もりを再確認して、また涙腺が馬鹿になる。
 堪えきれなかった涙がぼたぼたと夜見の手に落ちて、由比都はヘナヘナと無骨な手に額をくっつけた。
 
「ふ、ぅう、う……ぅ……っ……っ」
「んふふ……っ」
「よ、ょみ、ぃ……っ……い、いき、てた、ぁ……っ」
「ぐふ、っ……ごめん、っ……ごめん泣いてるのに、なんかちょっと、んふふふっアイテテテ……」
 
 無様に泣く由比都を前に、夜見が楽しそうに笑っている。いつもなら、いつもの由比都なら。笑うなと言って脇腹を叩いているところだ。でも、今は違った。今は笑われたことなんて、本当にどうでもよかった。由比都は夜見のフードにゲロを吐いたこともあるし、公衆の面前でお姫様抱っこだってされたこともあるのだ。
 夜見の眼の前で、これ以上はない恥ずかしいことばかりをしてきた。夜見の手を使って、頬に流れた涙を拭った。表情に不機嫌がのってしまったのかもしれない。由比都を前に小さく息を呑む音が聞こえて、ゆっくりと顔をあげる。
 
「……お前に、っ……泣かされた」
「うん、……ごめんね」
「あまり、わ、私を……っ泣かさない方がいい」
「ぐっふ……っ、う、うん……っそんな顔で凄まれても……」
「夜見」
 
 由比都の静かな声色に、もう涙の色は見当たらない。夜見の手が由比都の手の中からするりと抜けて、頬に伸ばされる。
 
「……私は、」
「好きだよ由比都」
 
 謝ろうと口を開いて、由比都のその次の言葉は消えた。
 夜見の、その先を言わせまいと紡がれるたった一言に、由比都の思考が固まってしまったのだ。
 
「好き。だから、俺の前からいなくならないで」
「す、すきってなんだ」
「二人きりの時に口にする好きに、他の意味があると思う?」
「っ……わ、私は、そういう言い回しは好きじゃない」
 
 夜見の言い回しは、意地悪だ。見えないからこそ、はっきりと口にしてほしい由比都への、大人気ない意地悪。
 その好きがたった一つの意味のみを表すなら、由比都は最初からこんなに泣いていないのに。 
 
「……お前の好きは、たくさんの方向へ向けられている。今口にした言葉が、私だけに向くわけが」
「俺の好きは、キスしたいって思う好きだよ」
「……きっ……」
 
 水面に浮かぶ鯉のように、下手くそな呼吸をしてしまった。吸い込んだ空気を、慎重に口から吐き出す。そんなことをしても、顔に集まった熱が引かないことなんて理解している。頰に触れた夜見の指先が、ゆっくりと由比都の唇をなぞる。じくんと胸の奥が痛んで、己がどんな表情を向けているかがわからない。
 夜見の指先が離れて、熱だけが残る。手が離れていくことが名残惜しく感じてしまったから、きっと由比都の負けなのだ。
 好きを口にする勇気を、差し出すことができるのだろうか。夜見のように、由比都は素直になれるのだろうか。
 こんな、甘い胸の痛みを覚えさせたのは夜見の責任だ。
 由比都の手が、寝具にシワを作る。しかし、小さな勇気を遮ったのは夜見の言葉であった。
 
「……俺、ずっとズルかった」
「ズルイ……って、なんだ」
「ん? ……由比都が目が見えないってわかってから、ずっとだよ」
 
 夜見の声は、ひどく穏やかだった。
 
「俺の能力さ、気持ち悪いじゃん。だから割と敬遠されててさ」
「再生能力……のことか?」
「うん。だから、由比都を知った時。ああ、この子だったら、見えないからいいかって、そんな酷いこと思ってた」
 
 人間の体が目の前で潰れても再生するなんて、どっちが怪異かわからない。そんなことを、夜見は言われたことがあった。その日から、ずっと異能を行使するのは控えていた。
 あの日、由比都の目の前で夜見は異能を使って戦った。由比都なら目が見えないから。夜見が目の前で力を行使して戦っても、きっと怖がられることはないだろう。大きなホオバリを前にしての戦闘だったとはいえ、夜見は戸惑いもせずに己を曝け出したのだ。
 見られても、きっと大丈夫。そんな打算の芽生えは、由比都と出会った時から働いていたのだと気がついた。独りよがりな安堵を、由比都を前にして得てしまった。
 目が見えないことを悔やんでいる姿を知っているくせに。夜見は自覚を持った瞬間から。その狡さを由比都に隠さなくてはいけないと逃げた。
  
「由比都がその目のことを気にしているのを知って、自分の都合のいいように利用してた」
「……そ、れは」
「優しくしたのは、由比都が俺に依存してくれたらいいなって思ったからだよ。そしたら、俺は由比都の前だけでは人間でいられるから」
 
 誰かに一心に思われる、依存されることは心地のいいことなのだと、夜見は言った。己の異能の異形さから、人間関係を拗らせてきた。夜見の周りに人がいなかったからこそ、神無し地区と馬鹿にされても構わなかった。行き着く先が夜見の元なら、自然と人が集まってくるだろう。あやめも藻武も、他に行き場がないからきっとここにいる。笑顔の裏に隠された側面が、耳元で嘯く。道化しか演じられない愚か者めと笑うのだ。
 狭い足場を気にしながら、夜見は無様に踊っている。周りの顔色を窺って必死で作ってきた性格は、すべて失った時にはもろく崩れ去るかもしれない。
 だから、誰かを隣においておきたかった。それが、夜見の手でしか守れない存在ならなおのこと。一人の人生に干渉していることを承知の上で、夜見は由比都で利己的な欲を満たそうとした。

 きっと、罪の告白をされているのだと思う。夜見の表情が見えないから、一体どんな顔をしているのかはわからない。
 由比都の柔らかな唇が、堪えるように引き結ばれる。そんな姿を、夜見はただ黙って見つめていた。
 
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