箱庭のエデン

だいきち

文字の大きさ
上 下
29 / 42

深い青

しおりを挟む
 夜見が刺された。由比都を守ってだ。
 触れた背中を貫く鋼は、怪異を奪われた吉木によるものだったらしい。
 生暖かい夜見の血液の温度を、由比都はきっと忘れることはできないだろう。
 リノリウムの床に反射する白い光が、由比都の足元を照らしていた。灰色とも、緑色とも言えない長椅子に腰掛けたまま、由比都は一言も喋らなかった。
 
 刺された夜見の体に腕を回したまま受け止めたあの時。由比都が思っているよりも夜見の体は重かったのを覚えている。床に広がった血がボトムスを濡らして、シャツの袖までも真っ赤に染めて、着ている服に夜見の体温が侵食した。
 今、由比都の腕の中に夜見の体はいない。残っているのは腕の痺れと、赤く染まった服だけ。着替えもせずに、藻武に引きずられるようにここまできた。由比都は、ただ何もできずについてきただけだ。
   
「着替えれば」
「…………」
「……俺がさ、お前を連れてかなきゃよかったよな」

 藻武の言葉が、行き場なくぽてりと床へ落ちた。由比都にそれを拾うことなんてできない。
 ただわかるのは、このまま夜見に謝ることなく終わりを迎えるかもしれないと言うことだ。
 由比都の額に、じわりと汗が滲む。隣で藻武が、何かを言っているのに。何も聞こえない。
 全身の感覚が奪われたように意思が聞かないのに、体は震えていた。心の空白に冷気が溜まって、それが由比都の体に残る夜見の体温を、少しずつ奪おうとしてくる。
 怖い。まだ夜見に言えてない言葉が、たくさんあった。その機会を潰して行ったのは己自身。夜見といた時間は、たかだか数ヶ月程度だ。それなのに、たった数時間前の出来事が、夜見を由比都の過去にしようとしてくる。怪異なんかよりも、刃物を向けられるよりも、由比都はそれが一番、怖かった。
 
「あ」
「……由比都?」
「あ、わ、私、は」
 
 体は寒いのに、目の奥が熱い。肺に溜まった不可視の圧力が由比都の喉を搾り、まともな言葉すら出すことができない。
 震えを誤魔化すように手を握った。この手のひらが、夜見の手を覚えているために。
 
「まだ、夜見に……ぐ、グラタンが好きだって言ってない」
「は、何……」
「よみに、お弁当の、礼も……っまだ、言えてない、のに……」
 
 今じゃない言葉なら、こんなにも口は動くのに。
 
「っ……わ、わだ…じ、……っは……っ」
「由比都」
「っ……まだ……っ、い、いっぱい、言えて、ない……っ……い、いぇで……っ……ない、よ……っぉ……」
 
 由比都の心から濁流のように溢れた後悔が、行き場を失って暴れている。喉から漏れるのは、聞くに耐えない汚い声と、下手くそな呼吸音。ぼたぼたと目からこぼれ落ちた大粒の涙が、なけなしの体温を吐き出すかのように熱を纏って服に染み込む。
 顔を真っ赤にして、ひっ、ひっと声を漏らして。喘ぐように泣く無様を晒しても構わなかった。だって、夜見はこの場にいない。由比都が強く見せたい相手がいないのだ。だからこそ、取り繕う必要はなかった。
 由比都の肩を黒髪がなでて、花の香がする柔らかい腕に包まれる。顔を上げることができない由比都を慰めたのは、あやめだった。
 
「死なないわ」
「っぐ、ぅ、ぇぐ……っ」
「あの男が未練残して死ぬわけがないでしょ」
 
 落ち着いた声が、由比都の心の波を鎮めようとしていた。わしりと乱すように頭を撫でる手は、藻武だろう。あやめの腕がそっと離れて、今度は顔にタオルを押し付けられる。
 知った柔軟剤の香りがして、由比都はゆっくりと顔を上げた。
 
「これ……」
「社長の。車に置いてあったんだよ」
「自分で返しなさい。あと、グラタンが好きってのも、ちゃんと自分の口で言うの。……ほら、もう終わったから」
「え……」
 
 自動扉の開く音がして、由比都は顔を上げた。手術が終わったのだろう、ストレッチャーが運ばれる音がした。あやめの手に肩を抱かれるように立ち上がる。女性に支えられるほど覚束ない足取りになっていることに、由比都は初めて気がついた。
 
「術後の麻酔は十分程度で切れるってよ。死ぬほどの傷じゃねえってさっきお前に話したのに、聞いてなかったのか?」
「……聞いて、なかった」

 呆れ混じりの藻武の声色も、今の由比都にはどうでもいいものだった。現金にも、無事と聞いて涙はようやく収まった。薄い肩を抱いたあやめに、半ば引きずられるように夜見の運ばれた病室へと連れていかれる。
 術後の説明は、藻武が聞いてくれるらしい。あてがわれた個室は夕闇のせいかうす暗く、当然のように消毒液の匂いがしていた。
 
「やだ、もう目ぇ開けてる」
「へ、……」
「しゃーちょー、この数わかる?何本よ」
「にほん……」
 
 掠れ声は、やけに眠そうな夜見の声だった。病室の入り口で、呆然と立ち尽くす。由比都は再びあやめに手を引かれるように、夜見の横たわるベットの脇へと連れていかれる。
 恐る恐る触れたのは、転落防止だろう。冷たいアルミの柵が、由比都の小さな勇気を阻む。
 なんて声をかけたらいいんだろう。由比都から突き放したのに、今更なんだと笑われてしまうだろうか。緊張で、喉が渇く。柵に触れていた指先は、怯えるように縮こまった。そんな意気地なしの手に、チョン、と乾いた指先が触れた。
 
「……柵越しじゃなくて、ちゃんと触りたいんだけど」
「よみ……」
「あやめちゃん、……悪いんだけどさ」
「はいはい、着替えとかも持って来なきゃいけないから、また明日くるわ」
「うん、ごめん」
「ま、っ……」
 
 由比都の情けない声は、あやめによって頭を撫でられて遮られた。扉の方から藻武の声がした。しかし、それもヒキガエルのような声と共にすぐに消えていった。あやめによって回収されていったのかもしれない。
 夜見の小さな呻き声が聞こえて、由比都が慌てて振り向いた。金属の擦れる音がして、由比都の膝にごつりとした何かが当たる。慌ててそれを受け止めれば、どうやら柵のようだった。
 
「な、……っ」
「悪いんだけど、それ床に置いてくれる」
「ね、寝ていろ! というか、暴れるなって!」
「はは、全然暴れてないでしょ。邪魔だからどかしただけ」
 
 夜見の言葉に、由比都が絶句する。片腕で持ち上げるにしても、結構重たい。今ので傷口が開いたんじゃないかとか、いつもより気だるげな声はそれだけ具合が悪い証拠なんじゃないかとか。由比都はひどく狼狽えた。言われるがままに、柵を床に置く。痛みを逃すように、細長く呼吸をする夜見が気になって、白い手は遠慮がちにベットへと触れた。
 
「……痛い、よな」
「それより、由比都の服がすごいけど」
「これは……、全部お前の血だ」
「なんか、マーキングしたみたいだねえ」
「こんな大胆なマーキング……、あってたまるか」
 
 夜見の手が、由比都の手に触れる。少しだけ眠たそうな声は、もしかしたらまだ麻酔が効いているからかもしれない。先生はすぐに切れると言っていたが。
 どうしていいかわからないまま握り込んでいた手は、夜見の指によって容易く開かれた。少しだけ乾燥気味の手が、由比都の薄い手のひらに絡まった。
 手を引かれていた時よりも、肌が触れ合う面積が多いそれは、冷え切っていた由比都の手をじんわりと温める。
 
 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

大嫌いだったアイツの子なんか絶対に身籠りません!

みづき
BL
国王の妾の子として、宮廷の片隅で母親とひっそりと暮らしていたユズハ。宮廷ではオメガの子だからと『下層の子』と蔑まれ、次期国王の子であるアサギからはしょっちゅういたずらをされていて、ユズハは大嫌いだった。 そんなある日、国王交代のタイミングで宮廷を追い出されたユズハ。娼館のスタッフとして働いていたが、十八歳になり、男娼となる。 初めての夜、客として現れたのは、幼い頃大嫌いだったアサギ、しかも「俺の子を孕め」なんて言ってきて――絶対に嫌! と思うユズハだが…… 架空の近未来世界を舞台にした、再会から始まるオメガバースです。

【BL】こんな恋、したくなかった

のらねことすていぬ
BL
【貴族×貴族。明るい人気者×暗め引っ込み思案。】  人付き合いの苦手なルース(受け)は、貴族学校に居た頃からずっと人気者のギルバート(攻め)に恋をしていた。だけど彼はきらきらと輝く人気者で、この恋心はそっと己の中で葬り去るつもりだった。  ある日、彼が成り上がりの令嬢に恋をしていると聞く。苦しい気持ちを抑えつつ、二人の恋を応援しようとするルースだが……。 ※ご都合主義、ハッピーエンド

【本編完結】オメガだからって甘く見てるから溺愛する羽目になるんだよっ!

天田れおぽん
BL
♡ 番わせました ♡ ❁「第11回BL小説大賞」参加します ❁ 本編の改稿、入れ替えは終了しました。 第11回BL小説大賞」参加しておりますのでよろしくお願い致します。 『オメガだからって溺愛したわけじゃないんだよっ』の第二話が変な位置にありましたので修正しました。       m(_ _)m ☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆  結婚って、こんなもんだっけ?  ご機嫌で風呂から上がってきたオレはドアを開けて驚いた。  素っ裸の知らない男がベッドの上にいたからだ。 「やあ。はじめまして。わたしが今日からキミの夫になるルノワールだ」 「あっ、ああ。オレはミカエルだ」 「さぁミカエル。初夜を始めようか」 「……はぁ? 白い結婚じゃなかったのかよ」 「何を言ってるんだキミは。オメガにヤる以外の価値などない」 「そんなわけあるかぁっ!」  裸の股間を蹴り飛ばして始まる、ふたりの物語 ――――。 ♪ ―――――――――――――― ♪        登場人物 ミカエル・ランバート伯爵家子息(18歳) オメガ男子 魔道具作りの天才 魔力も高い 薄茶の髪と瞳 色気のある小悪魔系 オメガとしては大きい身長178センチ ルノワール・シェリング侯爵(22歳) アルファ男子 剣術が得意 銀髪青い目 女性っぽい美形 アルファとしては小ぶりで細身な身長182センチ 能力は高いが、女っぽい見た目で損している ※ ゆるゆる設定です ・なんちゃってオメガバース ・異世界なんで魔法使える ・オメガが無双する ・アルファは残念カワイイ(予定) ・保険的ゆるゆるR18

五国王伝〜醜男は美神王に転生し愛でられる〜〈完結〉

クリム
BL
 醜い容姿故に、憎まれ、馬鹿にされ、蔑まれ、誰からも相手にされない、世界そのものに拒絶されてもがき生きてきた男達。 生まれも育ちもばらばらの彼らは、不慮の事故で生まれ育った世界から消え、天帝により新たなる世界に美しい神王として『転生』した。  愛され、憧れ、誰からも敬愛される美神王となった彼らの役目は、それぞれの国の男たちと交合し、神と民の融合の証・国の永遠の繁栄の象徴である和合の木に神卵と呼ばれる実をつけること。  五色の色の国、五国に出現した、直樹・明・アルバート・トト・ニュトの王としての魂の和合は果たされるのだろうか。  最後に『転生』した直樹を中心に、物語は展開します。こちらは直樹バージョンに組み替えました。 『なろう』ではマナバージョンです。 えちえちには※マークをつけます。ご注意の上ご高覧を。完結まで、毎日更新予定です。この作品は三人称(通称神様視点)の心情描写となります。様々な人物視点で描かれていきますので、ご注意下さい。 ※誤字脱字報告、ご感想ありがとうございます。励みになりますです!

【祝福の御子】黄金の瞳の王子が望むのは

尾高志咲/しさ
BL
「お前の結婚相手が決まったよ」父王の一言で、ぼくは侍従と守護騎士と共に隣国へと旅立った。 平凡顔王子の総愛され物語。 小国の第4王子イルマは、父王から大国の第2王子と結婚するよう言われる。 ところが、相手は美貌を鼻にかけた節操無しと評判の王子。 到着すれば婚約者は女性とベッドの中!イルマたちは早速、夜逃げをもくろむが…。 宰相の息子、忠誠を捧げる騎士、婚約者の浮気者王子。 3人からの愛情と思惑が入り乱れ!? ふんわりFT設定。 コメディ&シリアス取り交ぜてお送りします。 ◎長編です。R18※は後日談及び番外編に入ります。 2022.1.26 全体の構成を見直しました。本編後の番外編をそれぞれ第二部~第四部に名称変更しています。なお、それにともない、本編に『Ⅵ.番外編 レイとセツ』を追加しました。 🌟第9回BL小説大賞に参加。最終81位、ありがとうございました。 本編完結済み、今後たまに番外編を追加予定。 🌟園瀨もち先生に美麗な表紙を描いていただきました。本当にありがとうございました!

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

この恋は運命

大波小波
BL
 飛鳥 響也(あすか きょうや)は、大富豪の御曹司だ。  申し分のない家柄と財力に加え、頭脳明晰、華やかなルックスと、非の打ち所がない。  第二性はアルファということも手伝って、彼は30歳になるまで恋人に不自由したことがなかった。  しかし、あまたの令嬢と関係を持っても、世継ぎには恵まれない。  合理的な響也は、一年たっても相手が懐妊しなければ、婚約は破棄するのだ。  そんな非情な彼は、社交界で『青髭公』とささやかれていた。  海外の昔話にある、娶る妻を次々に殺害する『青髭公』になぞらえているのだ。  ある日、新しいパートナーを探そうと、響也はマッチング・パーティーを開く。  そこへ天使が舞い降りるように現れたのは、早乙女 麻衣(さおとめ まい)と名乗る18歳の少年だ。  麻衣は父に連れられて、経営難の早乙女家を救うべく、資産家とお近づきになろうとパーティーに参加していた。  響也は麻衣に、一目で惹かれてしまう。  明るく素直な性格も気に入り、プライベートルームに彼を誘ってみた。  第二性がオメガならば、男性でも出産が可能だ。  しかし麻衣は、恋愛経験のないウブな少年だった。  そして、その初めてを捧げる代わりに、響也と正式に婚約したいと望む。  彼は、早乙女家のもとで働く人々を救いたい一心なのだ。  そんな麻衣の熱意に打たれ、響也は自分の屋敷へ彼を婚約者として迎えることに決めた。  喜び勇んで響也の屋敷へと入った麻衣だったが、厳しい現実が待っていた。  一つ屋根の下に住んでいながら、響也に会うことすらままならないのだ。  ワーカホリックの響也は、これまで婚約した令嬢たちとは、妊娠しやすいタイミングでしか会わないような男だった。  子どもを授からなかったら、別れる運命にある響也と麻衣に、波乱万丈な一年間の幕が上がる。  二人の間に果たして、赤ちゃんはやって来るのか……。

【騎士とスイーツ】異世界で菓子作りに励んだらイケメン騎士と仲良くなりました

尾高志咲/しさ
BL
 部活に出かけてケーキを作る予定が、高校に着いた途端に大地震?揺れと共に気がついたら異世界で、いきなり巨大な魔獣に襲われた。助けてくれたのは金髪に碧の瞳のイケメン騎士。王宮に保護された後、騎士が昼食のたびに俺のところにやってくる!  砂糖のない異世界で、得意なスイーツを作ってなんとか自立しようと頑張る高校生、ユウの物語。魔獣退治専門の騎士団に所属するジードとのじれじれ溺愛です。 🌟第10回BL小説大賞、応援していただきありがとうございました。 ◇他サイト掲載中、アルファ版は一部設定変更あり。R18は※回。 🌟素敵な表紙はimoooさんが描いてくださいました。ありがとうございました!

処理中です...