箱庭のエデン

だいきち

文字の大きさ
上 下
28 / 42

体温

しおりを挟む
 震える手が、顔を覆った。表情を隠すように俯く由比都の姿が、いつになく小さく見えた。
 逃げてはいけない。選択をしなくてはいけない。わかっている。結果を、その先を変えるためには、己の恐怖に手を伸ばさなくてはいけないことも。
 
「由比都、待つのは構わない。あの怪異は膨らんだ方がうまそうだしなあ」
「ホ、オバリ……」
「なんだい由比都」
 
 これは、由比都がずっと目を背けてきたもの。見えないから見てこなかったのではない。気がついていて、気づかないふりをしてきた罪だ。
 いつしか、言い訳にしていたのだ。目が見えないからこそできないことが多い。気が付かないことが多い。だから、仕方がないことなんだ。曖昧な責任の所在に、そう理由をつけて。
 
「よみ……」
 
 ヒック、と喉が震えた。夜見なら、どうするのだろう。由比都のできないことを、やらなかったことに変えてくれた。夜見だったら。
 一人だから、やらないんだ。二人だったら、できるんだ。
 由比都にそう教えてくれた夜見が、いまそばにいてくれたら。
 口からこぼれそうになる嗚咽を、震える手が握り込んだ。ぼたぼたと涙を溢れさせて、背中を揺らして静かに泣く。そんな由比都の姿は、どう映るのだろう。
 
「夜見、……よみ……っ」
 
 一人だと、怖いから。怖いって、思うようになってしまった。
 突き放したのは由比都なのに。いまここに、夜見がいないことがこんなにも苦しい。
 
「っ……る、」
「おや」
「ほおばり……、やるよ」
「おやまあ……」
 
 変わるなら、いまだ。
 きっと、ひどい顔をしていたと思う。静まり返った室内が何よりの証拠だ。
 由比都の背後で、壁を摩擦する音がした。ホオバリの声色に愉悦が滲む。白い巨躯は、守るように由比都の背後へと侍る。
 
「切り離して喰らう。そのためには、式になった怪異の意志で離れてもらわなきゃいけない」
「意思を、操る……? 待てよ、そんな干渉なんてできるわけない」
「できるんだよ、怪異だったものならね。それは普通の式ではない。異能者の能力を担保にした契約じみたものだからねえ」

 藻武の言葉を前に、ホオバリは出来の悪い相手へと諭すように宣った。
 怪異を式にするときに血を流すのは、怪異に祓屋の血の味を覚えさせるため。そして、怪異を式札に封じるのは、存在を縛ることを意思で表明するためだ。怪異は祓屋を、祓屋は式札を破ることで怪異を。いつでも互いの命に干渉できる手札を残して契約を交わす。
 命のやり取りのその瞬間に、実行できる唯一の方法だ。
 つまり、どこまでの行動を起こせるかが鍵となる。本来ならば意味をなさない行動でも、起こすことが重要視されるのなら。由比都が行うべきはたった一つであった。
 
「私には……、一つだけ成功しない術があるんだ」
「おや、光明は見つかったのかい」
「うん……踏み出す勇気が、足りなかっただけだ」
 
 由比都の細い声を、ホオバリだけが聞いていた。言葉の真意を受け取ったと同時に、白い巨躯に現れたのは黒い染みのようなもの。それは、ホオバリの中に宿る由比都の力の具現化だ。
 白が、反転して黒になる。由比都はゆっくりと顔をあげると、怪異に視線を重ねるために目を伏せる。
 ホオバリの体の表面に、じわじわと切れ込みが入っていく。それらは由比都が瞼を開くと同時に、夥しいほどの目玉を体に走らせた。
 吉木に宿る怪異が、どこにいるのかはホオバリが教えてくれる。力が体外へと漏れ出て、男性にしては長めの前髪がふわりと浮かぶ。由比都の光のない藍色の瞳が正確に怪異の位置を捉えると、形のいい唇が言葉を紡ぐ。
 
「魔が差す」

 怪異の視線を己の視線を縛る。怪異の体が、ホオバリの威圧から逃げるように由比都へと動いた瞬間。巨大な鐘が鳴り響くような振動音が、空気を通してその場にいるものの動きを緩慢にさせる。力の波動は、由比都が行使した能力の強さを表している。
 風は吹いていないはずなのに、目も開けられないほどの強風を浴びたかのように体が煽られる。肺が動きを止めたのは一瞬だ。焦げくさい匂いが鼻腔をかすめたその時。けたたましい怪異の断末魔が上がった。張り詰めていた部屋の空気が、ようやく澄んだものに変わった。由比都を喰らおうと狙いを定めた怪異に、ホオバリが食らいついたのだ。
 
「っは……」
 
 水の中にずっといたかのような息苦しさは、いつしか解消されていた。静まり返った部屋で、藻武が恐る恐る由比都へと目を向ける。背後から伸びた、大きな影にも見えるホオバリが、不快な音を立てて何かを食らっていた。それを視認した時、吉木の倒れ込む音がした。
 
「なん……」
「っ由比都……‼︎」
「って、社長⁉︎」
 
 慌ただしい足音と共に駆け込んできたのは、夜見だった。背後にはあやめの姿もいる。その手にはスマートフォンが握られていることから、先ほどの着信音は夜見だったらしい。
 呆気にとられる藻武には目もくれず、夜見は伸びた金髪を汗で額に張り付かせたまま、由比都の姿を前に目を見開いた。
 そこには黒く染まったホオバリを侍らせ、呆然とした表情で立ち尽くしている姿があった。その頬には、幾筋もの涙の跡が見てとれた。着衣を乱し、知らない顔で静かに泣く。今にも消えてしまいそうな由比都を前に、夜見は己の内側からこみ上げてくる焦燥を感じた。
 
「よ、」
「なんだよこれ、なんでこんな……」
「よみ……」
 
 由比都は耳を疑った。己の幻聴かとさえ思った。夜見に会いたかった。それは、嘘ではない。けれど、ホオバリを操っている姿を見られたかったわけではない。
 床の上を、重いものが擦れる音がして、由比都の手のひらにホオバリの頭が当たる。意図的に懐くような仕草を、夜見の前で見せたのだ。
 ホオバリに触れた手のひらから、体温が奪われていく。夜見に何を言われるのかが、今はひたすらに怖かった。
 どう言い訳をすればいいのかがわからなかった。怪異を操って、怪異を喰らわせたことを。
 
「あ、わ、わた、し……」
「っ、やべ、ゆ、由比都‼︎」
「──── っ……‼︎」

 弁解をしなくては。そう思って、口を開こうとしたその時。衝撃と共に由比都の体を包み込んだのは夜見の香りだった。
 
「っ、テメェ何やってんだあああああ‼︎」
「うるせえ‼︎ 死ね‼︎ 俺はお前に価値を殺されたんだ‼︎ てめえばっか、なんで、てめえばっかよおおお‼︎」

 部屋を震わせるような吉木の絶叫から守るように、由比都の背中には夜見の腕が回っていた。身じろぎ一つすることができないほど、きつく。
 藻武の怒声が聞こえて、あやめが糸を操る音がした。夜見の腕の外で、何が起きているのかがわからない。ただ、ホオバリは楽しそうに笑ったあと、ようやく姿を消してくれた。
 
「夜見……く、るしい」
「っ社長」
「黙れ藻武」
 
 ひどく冷たい声が聞こえて、由比都は息を呑んだ。夜見の体が熱い。恐る恐る背中に手を回して、滑りを纏った何かが指先に触れた。それは、夜見の体温と同じ温度に感じられた。

「え……ま、待って」
 
 鉄錆の匂いがして、冷え切っていた由比都の指先が夜見の熱で温められていく。滑りを辿るように、震える指先がたどり着いた背中の中心。そこには、鈍く光るナイフが突き立てられていた。



しおりを挟む
感想 7

あなたにおすすめの小説

【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。 でも、頼れる者は誰もいない。 自分で頑張らなきゃ。 本気なら何でもできるはず。 でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

告白ゲームの攻略対象にされたので面倒くさい奴になって嫌われることにした

雨宮里玖
BL
《あらすじ》 昼休みに乃木は、イケメン三人の話に聞き耳を立てていた。そこで「それぞれが最初にぶつかった奴を口説いて告白する。それで一番早く告白オッケーもらえた奴が勝ち」という告白ゲームをする話を聞いた。 その直後、乃木は三人のうちで一番のモテ男・早坂とぶつかってしまった。 その日の放課後から早坂は乃木にぐいぐい近づいてきて——。 早坂(18)モッテモテのイケメン帰国子女。勉強運動なんでもできる。物静か。 乃木(18)普通の高校三年生。 波田野(17)早坂の友人。 蓑島(17)早坂の友人。 石井(18)乃木の友人。

悪役令息の七日間

リラックス@ピロー
BL
唐突に前世を思い出した俺、ユリシーズ=アディンソンは自分がスマホ配信アプリ"王宮の花〜神子は7色のバラに抱かれる〜"に登場する悪役だと気付く。しかし思い出すのが遅過ぎて、断罪イベントまで7日間しか残っていない。 気づいた時にはもう遅い、それでも足掻く悪役令息の話。【お知らせ:2024年1月18日書籍発売!】

完結・オメガバース・虐げられオメガ側妃が敵国に売られたら激甘ボイスのイケメン王から溺愛されました

美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!

鈍感モブは俺様主人公に溺愛される?

桃栗
BL
地味なモブがカーストトップに溺愛される、ただそれだけの話。 前作がなかなか進まないので、とりあえずリハビリ的に書きました。 ほんの少しの間お付き合い下さい。

王道学園の冷徹生徒会長、裏の顔がバレて総受けルート突入しちゃいました!え?逃げ場無しですか?

名無しのナナ氏
BL
王道学園に入学して1ヶ月でトップに君臨した冷徹生徒会長、有栖川 誠(ありすがわ まこと)。常に冷静で無表情、そして無言の誠を生徒達からは尊敬の眼差しで見られていた。 そんな彼のもう1つの姿は… どの企業にも属さないにも関わらず、VTuber界で人気を博した個人VTuber〈〈 アイリス 〉〉!? 本性は寂しがり屋の泣き虫。色々あって周りから誤解されまくってしまった結果アイリスとして素を出していた。そんなある日、生徒会の仕事を1人で黙々とやっている内に疲れてしまい__________ ※ ・非王道気味 ・固定カプ予定は無い ・悲しい過去🐜のたまにシリアス ・話の流れが遅い

【完結】悪役令息の従者に転職しました

  *  
BL
暗殺者なのに無様な失敗で死にそうになった俺をたすけてくれたのは、BLゲームで、どのルートでも殺されて悲惨な最期を迎える悪役令息でした。 依頼人には死んだことにして、悪役令息の従者に転職しました。 皆でしあわせになるために、あるじと一緒にがんばるよ! 本編完結しました! 『もふもふ獣人転生』に遊びにゆく、舞踏会編、はじめましたー! 他のお話を読まなくても大丈夫なようにお書きするので、気軽に楽しんでくださったら、とてもうれしいです。

いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜

きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員 Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。 そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。 初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。 甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。 第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。 ※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり) ※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り 初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。

処理中です...