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ずるい男
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由比都は、夜見の手を離した。
その日の夜は、同じベットで眠ることはなかった。部屋に戻ろうとした由比都を止めて、夜見がリビングで寝たのだ。
体温が離れて気がついた今更な気持ちに、己の不器用さにほとほと呆れた。
好きなんだ、きっと。夜見があんな泣き方をして、縋り方をして。胸が締め付けられるくらいには好意を寄せていたのだ。
由比都の日常は変わらない。想いを伝えるつもりもなかったし、祓屋としての活動を終えるだけである。次の仕事の目処が立つまでは、夜見のところでお世話にはなる。お掃除本舗そわかが嫌いなわけではないし、職場環境だって悪くもない。
あんなに窮屈だった夜見のベッドの上。それが、今はこんなにも広い。夜見の体温がまだ残るシーツに手を添えて。由比都は、初めて一人の寂しさを感じた。
爽やかな風が由比都の前髪をくすぐった。あの公園での一件が起きてから、もう三日がたった。昼時。なんとなく事務所にはいづらくて、ビルの屋上にいた。膝の上にはおにぎりが二個。由比都のために握られたそれは、夜見の住処にまだ身を寄せている証でもあった。
こんなにも心地のいい風なら、きっと空は素敵な色をしているのだろう。もう夜見に気軽に聞くこともできない。突き放したのは由比都で、夜見はそれを受け入れた。
祓屋をやめてほしくない。夜見はそうはっきりと言ってくれた。嬉しかったが、それでも決めた以上は覆らない。
甘えてしまいそうになる心を叱咤して、由比都は礼だけをかえしたのだ。いつまでここにとどまるのか。は聞かれなかった。それが、夜見のずるいところだと少し思った。
「こんなとこで飯食ってんのかよ」
「ぅわ、っ」
「てかなに、味気ねえな。おかずは?」
「藻武さん……、何してんですか」
「俺はタバコ」
鉄の扉が軋む音がしてどきりとしたが、夜見ではないと気がつくと胸を撫で下ろした。
そんな失礼な心地は藻武には伝わっていないようだ。どかりと隣に腰掛けられて、木製のベンチがギシリと鳴く。おにぎりは片手で食べれるから、こぼすことも少ない。以前何を食べたいかと聞かれた時に、適当に答えたのがきっかけだろう。それから知らぬまに、夜見の中でおにぎりが由比都の好物認定をされたのだと思う。
「最近気温ガッタガタだよなあ」
「そうですね」
「うちの会社って喫煙者に優しいかどうか微妙じゃね? 事務所禁煙なくせに喫煙室ねえんだもん」
「そうですか」
「そうそう……」
夜見も、どこかで同じものを食べているのだろうか。口にしたおにぎりは塩気が効いていて、中身はおかかだった。
視覚障害を持っていても、取れる仕事はなんだろう。由比都の最近の思考はそればかりであった。夜見が寝静まる頃を見計らって、布団にくるまってコソコソと調べる。王道なのは指圧師やあんま師。企業によっては事務仕事でも採用されるときいた。
「由比都」
やはり、一応資格はとっておくべきか。一度就労支援に相談してみるのも手かもしれない。二口目を齧る。おかかに紛れて、甘めな梅が顔をのぞかせる。食べ応えのあるサイズだとは思っていたが、今日は具が二種類入っていただなんて。
「おい由比都! 無視すんな!」
「うわっ! は、いはい。はい……」
「ったくよー! で、お前はもう行ったのかよ」
「どこに……?」
「だから、絮嘉様んとこ」
ジョカ、と言われて思わず首を傾げた。なんのことか見当もつかなかったのだ。ポカンと黙りこくる由比都を前に、藻武はしばらく黙りこくっていた。しかし、由比都の間が返答のためのものではないと理解したらしい。藻武は、ああ? と素っ頓狂な声をあげた。
「社長連れてくって言ってたじゃん⁉︎」
「ど、どこに」
「絮嘉様は絮嘉様だよ! お前んとこで言う、ニギハヤノササメ様みてえなもん」
「あ……」
そういえば、祭りの時に夜見が言っていたか。神の社に行ってみるかと。今はもう、その必要もないだろう。由比都の心の内に潜めた諦観が表情に出ていたらしい。自然を振る舞ったつもりが、めざとい藻武の前では普通を演じることはできなかった。
「なんかあった?」
「何もないよ。強いて言うなら、次はどこに行こうかなって」
「は? 移動辞令でたん? 早くね?」
「いや、私がもうダメになってしまったんだ。……そういえば藻武もいたね」
由比都から生まれた怪異を知っているのは、藻武もまた同じだと思い至る。食べかけのおにぎりは、まだ手に持ったままだ。
「もしかして、なーんか社長とギクシャクしてんのってそのせい?」
「そんなにしてるかな」
「してるしてる。今んとこ一緒に暮らしてんのに、よく気まずくなれるよなあ」
「それは、ごめん」
別にいいけどお。気だるげな藻武の声に少しだけ肩の荷が降りた気がした。由比都の膝の上から、おにぎりを一つ奪われる。藻武へと振り向けば、はぐりと喰らいつく音が聞こえた。
「何これ、うま。のり巻いてねえのにうまい」
「昼ごはんなんだが……」
「だって全然喰わねえし。カピカピになるまで大事にしてるつもりかよ。はよ食え」
「……まあ、食欲がなかったから構わないけど」
タバコを吸いながら、よく食べれるなとも思った。残った齧りかけのおにぎりを口元に運ぶ。夜見の作った手料理を食べる回数が一回分減ったのかと思い至ると、少しだけ気分が落ちた。
「由比都、お前仕事終わったら暇?」
「何もすることはないけど……」
「ん、なら家まで送るからさ、俺に付き合ってくんねえ?」
「それはいいけど……多分迷惑をかけるぞ」
「んなの瑣末ごとだろうが。オッケ決まりな」
ワシワシと頭を撫でられる。顔に不服を浮かべて髪を整える由比都の姿が面白かったらしい。煙草の煙を吐き出して、藻武が笑う。マナーを気にするくせに、人に副流煙を浴びせるのはどうなんだ。そんなことを思ったが、口にはしなかった。
その日の夜は、同じベットで眠ることはなかった。部屋に戻ろうとした由比都を止めて、夜見がリビングで寝たのだ。
体温が離れて気がついた今更な気持ちに、己の不器用さにほとほと呆れた。
好きなんだ、きっと。夜見があんな泣き方をして、縋り方をして。胸が締め付けられるくらいには好意を寄せていたのだ。
由比都の日常は変わらない。想いを伝えるつもりもなかったし、祓屋としての活動を終えるだけである。次の仕事の目処が立つまでは、夜見のところでお世話にはなる。お掃除本舗そわかが嫌いなわけではないし、職場環境だって悪くもない。
あんなに窮屈だった夜見のベッドの上。それが、今はこんなにも広い。夜見の体温がまだ残るシーツに手を添えて。由比都は、初めて一人の寂しさを感じた。
爽やかな風が由比都の前髪をくすぐった。あの公園での一件が起きてから、もう三日がたった。昼時。なんとなく事務所にはいづらくて、ビルの屋上にいた。膝の上にはおにぎりが二個。由比都のために握られたそれは、夜見の住処にまだ身を寄せている証でもあった。
こんなにも心地のいい風なら、きっと空は素敵な色をしているのだろう。もう夜見に気軽に聞くこともできない。突き放したのは由比都で、夜見はそれを受け入れた。
祓屋をやめてほしくない。夜見はそうはっきりと言ってくれた。嬉しかったが、それでも決めた以上は覆らない。
甘えてしまいそうになる心を叱咤して、由比都は礼だけをかえしたのだ。いつまでここにとどまるのか。は聞かれなかった。それが、夜見のずるいところだと少し思った。
「こんなとこで飯食ってんのかよ」
「ぅわ、っ」
「てかなに、味気ねえな。おかずは?」
「藻武さん……、何してんですか」
「俺はタバコ」
鉄の扉が軋む音がしてどきりとしたが、夜見ではないと気がつくと胸を撫で下ろした。
そんな失礼な心地は藻武には伝わっていないようだ。どかりと隣に腰掛けられて、木製のベンチがギシリと鳴く。おにぎりは片手で食べれるから、こぼすことも少ない。以前何を食べたいかと聞かれた時に、適当に答えたのがきっかけだろう。それから知らぬまに、夜見の中でおにぎりが由比都の好物認定をされたのだと思う。
「最近気温ガッタガタだよなあ」
「そうですね」
「うちの会社って喫煙者に優しいかどうか微妙じゃね? 事務所禁煙なくせに喫煙室ねえんだもん」
「そうですか」
「そうそう……」
夜見も、どこかで同じものを食べているのだろうか。口にしたおにぎりは塩気が効いていて、中身はおかかだった。
視覚障害を持っていても、取れる仕事はなんだろう。由比都の最近の思考はそればかりであった。夜見が寝静まる頃を見計らって、布団にくるまってコソコソと調べる。王道なのは指圧師やあんま師。企業によっては事務仕事でも採用されるときいた。
「由比都」
やはり、一応資格はとっておくべきか。一度就労支援に相談してみるのも手かもしれない。二口目を齧る。おかかに紛れて、甘めな梅が顔をのぞかせる。食べ応えのあるサイズだとは思っていたが、今日は具が二種類入っていただなんて。
「おい由比都! 無視すんな!」
「うわっ! は、いはい。はい……」
「ったくよー! で、お前はもう行ったのかよ」
「どこに……?」
「だから、絮嘉様んとこ」
ジョカ、と言われて思わず首を傾げた。なんのことか見当もつかなかったのだ。ポカンと黙りこくる由比都を前に、藻武はしばらく黙りこくっていた。しかし、由比都の間が返答のためのものではないと理解したらしい。藻武は、ああ? と素っ頓狂な声をあげた。
「社長連れてくって言ってたじゃん⁉︎」
「ど、どこに」
「絮嘉様は絮嘉様だよ! お前んとこで言う、ニギハヤノササメ様みてえなもん」
「あ……」
そういえば、祭りの時に夜見が言っていたか。神の社に行ってみるかと。今はもう、その必要もないだろう。由比都の心の内に潜めた諦観が表情に出ていたらしい。自然を振る舞ったつもりが、めざとい藻武の前では普通を演じることはできなかった。
「なんかあった?」
「何もないよ。強いて言うなら、次はどこに行こうかなって」
「は? 移動辞令でたん? 早くね?」
「いや、私がもうダメになってしまったんだ。……そういえば藻武もいたね」
由比都から生まれた怪異を知っているのは、藻武もまた同じだと思い至る。食べかけのおにぎりは、まだ手に持ったままだ。
「もしかして、なーんか社長とギクシャクしてんのってそのせい?」
「そんなにしてるかな」
「してるしてる。今んとこ一緒に暮らしてんのに、よく気まずくなれるよなあ」
「それは、ごめん」
別にいいけどお。気だるげな藻武の声に少しだけ肩の荷が降りた気がした。由比都の膝の上から、おにぎりを一つ奪われる。藻武へと振り向けば、はぐりと喰らいつく音が聞こえた。
「何これ、うま。のり巻いてねえのにうまい」
「昼ごはんなんだが……」
「だって全然喰わねえし。カピカピになるまで大事にしてるつもりかよ。はよ食え」
「……まあ、食欲がなかったから構わないけど」
タバコを吸いながら、よく食べれるなとも思った。残った齧りかけのおにぎりを口元に運ぶ。夜見の作った手料理を食べる回数が一回分減ったのかと思い至ると、少しだけ気分が落ちた。
「由比都、お前仕事終わったら暇?」
「何もすることはないけど……」
「ん、なら家まで送るからさ、俺に付き合ってくんねえ?」
「それはいいけど……多分迷惑をかけるぞ」
「んなの瑣末ごとだろうが。オッケ決まりな」
ワシワシと頭を撫でられる。顔に不服を浮かべて髪を整える由比都の姿が面白かったらしい。煙草の煙を吐き出して、藻武が笑う。マナーを気にするくせに、人に副流煙を浴びせるのはどうなんだ。そんなことを思ったが、口にはしなかった。
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